« 人生を支える心の杖 | メイン | 自分が自分でなくなっていく「死」の恐怖 »

2017年8月23日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (14/25)

井伊家の存在と彦根藩の位置

 同じ徳川家の四天王と称された4人の大名の中でも、井伊家は特別扱いである。京都の喉ぼとけに突き刺すように位置した彦根藩は、35万石を有し京都の朝廷に睨みを効かせている。当時、琵琶湖に面した彦根は東海道、北陸道につながる要所であった。他の四天王の大名の所領が、10万石程度なのに、彦根藩の35万石とは特別である。そんな深慮遠謀の布石を家康は、天下太平のために徳川創成期に布石をデザインして、結果として260年間の太平の世を創出したのだから、立派な危機管理体制のプランニングである。

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、京都が攘夷対開国派との争いで危機状態になったとき、彦根城を仮の御所にして天皇を移って頂こうと画策した。そんな位置づけの彦根城と彦根藩である。

 

彦根城の歴史

 天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。1992年に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。現在、彦根市は世界遺産登録課を新設して、登録に向けて力を入れている。

 徳川四天王の一人・井伊直政公は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。その佐和山城を、直政は、中世的な古い縄張りや石田三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画した。直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。直政公の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。計3期にわたる工事を経て1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その建設には長浜城や佐和山城を壊して出た材料が使われた。現在、佐和山城は影も形もない。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

 

 私も多くの城を見学しているが、こんなに階段が急なお城は経験がない。当時のままの階段形状である。彦根は第二次世界大戦で空襲に遭わなかったので、彦根城は残った。大垣城も国宝であったが、空襲で焼失した。残念なこと。

図1 彦根城 

図2 彦根城看板 松居石材商店作  文は彦根市市史編纂室作成

図3 城内の階段

 

2017-08-23

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

Photo_6

Photo_7

Photo_8

コメント

コメントを投稿