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2017年9月 5日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (19/28)大垣本陣

大垣でご懐妊 ---- 井伊直弼公と大垣

  弘化3年(1846年)1月、世子井伊直元公が逝去され、直弼公の身の回りが激変する。重臣の衆議の結果、井伊直亮公の世子として井伊直弼公が内定したので、即刻、江戸に上るようにとの藩主の直筆が早飛脚で彦根に伝達された。「仰山な行列は避け、なるべく軽装で、供廻りも少人数で」との指示である。

 

ご懐妊

 同年2月、井伊直弼公は藩主の指示で彦根を出発して江戸に向った。彦根から江戸の上る最初の宿が大垣宿本陣である。ここには明治天皇も宿泊されたことがある由緒ある本陣である。埋木舎で井伊直弼公の身の回りを世話していた里和が、彦根から大垣に派遣された。ここで直弼公に初めて夜の伽を勤めることになり、お世継ぎを宿すこととなる。後日、江戸屋敷に行き直弼公のお世話をする予定であったが、懐妊が分かったので彦根に留まることになった。生まれた子は愛麿と名付けられた。後年、直弼公の跡目を嗣いで、37代井伊直憲となる。里和は側室としての地位を得ることになる。

 

文化人たちの交流施設

 大垣本陣は、大垣の文化人たちの交流施設としても利用された。「桜田門外の変」の5年前の安政2年(1855年)には、大垣本陣に160名を超える俳人が集い、美濃派道統14世引継ぎ式が行われた。また、本陣役飯沼長矩の子の長侃は、京都で狂言を野村万造に師事して、大垣に帰ってから竹島狂連を結成して、大垣本陣で稽古や公演を行った。長矩の子の長温は、彫刻職人を屋敷内に住まわせ、植物学の開拓者の飯沼慾斎の『草木図説』の出版準備もここで行った。『草木図説』は日本で最初の近代的な植物図鑑である。大垣本陣は、従来の大名や公家、幕府の役人だけの施設ではなく、文化人が交流する施設の役割も担っていた。

 

明治天皇行在所跡

 明治11年(1878年)10月22日、明治天皇は東海・北陸御巡幸のため、竹島町の飯沼武右衛門邸(大垣本陣)に泊まられた。当時の飯沼邸は嘉永3年(1850年)に改築されていた。右大臣大倉具視、参議大隈重信、工部卿井上馨らを共にしての行幸である。付き添う役人は700名余とある。

 

復元された大垣本陣

 大垣本陣は、昭和20年の大垣空襲で燃えなかったので、修復され、現在の姿がある。当時のままの造りと姿が見学できる。何処で調べたのか、遠くの地からの見学者が絶えない。恥ずかしながら、私は本所を知らなくて9月3日に初めて見学して感激した。土日のみ開館で、無料です。町内の方が交代で説明をされている。

 

図1 大垣本陣

図2 大垣本陣模型

図3 昭和初期の大垣宿本陣の姿(大垣本陣の展示パネルより)

図4 明治天皇の玉座

図5 その隣の部屋 当時のままで再現。天井が高い

 

2017-09-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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