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2017年8月27日 (日)

桜田門外ノ変」の検証 (17/28)菩提寺

「桜田門外の変」との関わり

  長松院は彦根を開いた井伊直政公に由緒ある寺であり、観光名所の一つとしても存在する。徳川家の四天王の一人と言われた井伊直政が関ヶ原の戦いの傷がもとで亡くなった時、この地で荼毘に付し、その跡地にお寺を建立したことで長松院が建立された。井伊家の菩提寺としては彦根の古沢町に清凉寺がある。長松院、清凉寺ともに「格地」としての格式あるお寺である。(お寺は格地、法地、準法地、法類で分類される)

 

長松院

 長松院には元彦根藩士の家系のお墓がある。両親の墓と父の母方の祖先のお墓がここにある。また古沢町には母が生まれ育った家がある。父の母方の祖先である北尾道仙のお墓が、4つある北尾家の墓の一つとして、井伊直政公の供養塔の左側から10mほど離れた場所に、単独のお墓として立っている。お墓に刻まれた文字は風雪にさらされて、書いてある文字は読みにくい。2014年当時、私の小田家の墓はその斜め後の1つ通路を隔てた場所にあった。ご縁があり2015年末に新しいお墓に改建した。

 古沢町には、両親が残してくれた借家がある。これは古沢町の清凉寺が土地を市に分譲して、そこに両親が家を建てた経緯がある。いわば井伊家から御恩(禄)を頂いているようなものかもしれない。

 

清凉寺

 清凉寺は禅の曹洞宗のお寺である。観光寺ではなく、禅の修行道場として名高い。清涼寺の名の由来は、井伊直政公の戒名(祥壽院殿清凉泰安大居士)から来ている。佐和山城時代には、境内地には石田三成公の奥方、家老島左近の屋敷があった。

 歴代住職は、井伊家が徳川幕府の重臣としての権勢で全国から高僧を請じたので、悉くその時代における第一流の和尚ばかりであったから、修行道場として名声が高かった。井伊直弼公は、13歳より清凉寺で参禅され、21世道鳴和尚に禅と学問の手ほどきを受けた。そののち17歳から27歳まで、後任の住職師虔和尚に鍛えられ、高僧23世仙英和尚の元で参禅が仕上げられた。井伊直弼公は自分の住居の埋木舎にも座禅の間を設けて修行に励んだ。安政の大獄のさなか、住職と相談して戒名を受け、位牌を生前に作り、桜田門外の変の年の正月には自分の肖像画に歌を書き、清凉寺に納めた。井伊直弼公はここに参拝してから、江戸に発った。井伊直弼大老は、その年の3月3日に桜田門外の雪に散った。

 

恵峰師が清凉寺を訪問

 清凉寺住職の奥様に、松居石材商店の松居保行さん経由で馬場恵峰先生の訪問をお願いした。2015年11月28日、中部国際空港に着いた恵峰先生を米原経由の新幹線で彦根にお連れして、清凉寺を訪問した。馬場家のご先祖が武田家で、井伊家の赤備えとご縁があるからである。ご挨拶だけの予定であったが、客殿で応接を受け、本堂の奥まで案内をされた。私は初めてみる内部の荘厳さに驚嘆をした。将軍家の最側近である最高権力者の菩提寺である。華美ではないが厳かで壮大な造りである。この御本蔵の釈迦牟尼佛は運慶作と伝聞されている。観光寺ではないので、そのお姿は遠くからしか拝顔できなかった。

 井伊家歴代当主が祀られている奥の祭壇に案内をされて、しばしその荘厳さに圧倒された後、井伊直弼公や歴代の井伊家の菩提が祀られている御所の横にある武田家家臣の100以上の位牌が祀られてる部屋に案内された。突然の元武田家家臣の位牌の列を目前に見て、恵峰先生がただならぬ雰囲気で合掌された。私もあわてて合掌させていただいた。これは完全に虚をつかれたご縁の出現であった。佛縁により招かれたご縁であったと思う。

 武田家が滅んでから1582年の今川協定で、武田家の家臣120名を井伊直政公が井伊家に受けいれたという。井伊直政が進言して、勇猛な武田家の家臣をそのまま野に放つと戦国の乱の種になり不満分子を世に作ることを防いだという。知恵ある危機管理方策である。そこから、井伊家が武田家の赤備えをすることを家康公から授けられたという。

 

天童寺とのご縁

 奥の本堂に至る回廊に、中国の絵佛師・王峰が描いた佛画が掲示されていて、いつも長崎に先生宅で見ている作者と同じだと直ぐに気がついた。奥様に聞くと、清凉寺の行寛さんが中国に行ったとき、3枚買ってきて、その内の1枚を1階に飾ってあるという。素晴らしいご縁であった。恵峰先生は、中国の天童寺に6回も参拝されておられる。清凉寺の住職さんも天童寺に行かれたことがあるという。また清凉寺の住職が横浜の総持寺も勤められたこともあるとのこと。先生ともそのご縁に驚かれた。

 天童寺は、遣唐使の着いた港として日本に結ぶつきの深い古都・寧波にある中国の中でも有数の禅宗寺院である。唐の僧方璇が開元20年(732年)に建立された。北宋代以後、高僧が輩出。臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖である道元もここで修行をつんだ。

 2014年6月、恵峰先生は空海が修行をされた清龍寺で、お弟子さん達をつれて写経会をされたのも仏縁である。恵峰先生は清龍寺を13回ほど訪問されておられるとか。寛旭和上管主とも親密である。当時、私も写経ツアーに誘われたが、目の手術の関係で断念した経緯がある。書家で、恵峰先生ほど写経をされた方もおられまい。2015年、私は先生の写経の軸56枚を撮影して製本にしてまとめた。

 

 

図1 清涼寺全景

図2 書は井伊直愛氏

図3 説明看板

図4 客殿

図5 本堂

図6 修行道場

図7 井伊直政公のお墓

図8:馬場恵峰先生宅  2014年11月13日

   頭上に掲げられた王峰作佛画 敦煌57密菩薩

図9 清龍寺 寛旭和上管主に写経を4巻奉納

    2014年6月26日  福田琢磨氏撮影

 

2017-08-27

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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