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2020年6月11日 (木)

ブルーエンジェルズの初来日、天使の激怒

 1971年10月、国際航空宇宙ショー(会期1週間)に、米海軍のブルーエンジェルズが曲技飛行を披露するため、名古屋空港(小牧)にやってきた。私は当時大学生で、大学の授業を1週間まるまる欠席して、カメラを担いで名古屋空港に毎日通った。

 1971年10月28日、国際航空宇宙ショーの前日、ブルーエンジェルズが練習飛行を小牧の空で繰り広げた。私は一眼レフに200mm望遠レンズを装着して構えて、写真を撮りまくった。私は、その曲技飛行を目の前で見られて幸せであった。

 

終活

 添付の写真は、当時のフィルムネガからデジタル化をしたばかりである。終活として家中を整理整頓していたら、当時のフィルムが100本ほど出てきて、それを、デジタル化した。それにブルーエンジェルズが写っていた。50年前のことですっかり忘れていた。

 

苦情殺到

 ブルーエンジェルズは「国際航空宇宙ショー」での展示飛行を行うため、前日、その練習飛行をした。しかしF-4はジェットエンジンが双発で、出力が大きく、それが4機で編隊を組み、超低空を舞い、エンジン出力を最大にしてアクロバット飛行すると、轟音と振動で近隣住民から「窓ガラスが割れた」「屋根瓦がずれた」などの苦情が同基地に殺到した。そのため、翌日の曲技飛行は中止となり、大人しい展示飛行が1回のみとなった。

 

鬼の怒り

 「日本になんかもう二度と来ねぇよ!」とブルーエンジェルズのクルーらはこう言い残して、日本を去ったと伝えられている。

 私も当時のB747ジャンボ機のビジネスクラスで、酒を飲み、寝ながら太平洋を横断した(仕事で、1985年)が、それでも、12時間の太平洋横断飛行では疲労困憊になる。それをブルーエンジェルズのクルーらは、狭いファントムのコックピット内で過ごし、太平洋を横断してきた。それが日本の観客のため喜んでもらおうとした演技飛行が、前日に拒否された。「国際航空宇宙ショー」事務局に、そんな対応をされたクルー達の怒りと失望の心境が、よく理解できる。

 

仕事の鬼

 ブルーエンジェルズのクルーらは、曲技飛行を「仕事の鬼」として、「天命」として命を賭けて演技をしている。それも米国の威信と名誉をかけての曲技飛行である。日米の友好の絆としての曲技飛行である。事実としては、この一件以来49年間二度と来日していない。

 時の「国際航空宇宙ショー」事務局が、飛行中止とさせた対応は、最悪であった。役人の事務員は、住民の声に恐れを抱き、曲技飛行を中止とした。もっと大きな観点での判断ができなかったのか。役人どもは、保身に汲々として、ドタバタの対応をした。彼らは、世界の冷酷な現実が何もわかっちゃいない。50年前は、まだまだ自衛隊も日陰者扱いである。駐留する米軍の存在も、当時活動が盛んな学園紛争の攻撃材料であった。今にして振り返ると、あの学園紛争は何だったんだ。

 もし、米軍が日本に駐留していなかったら、中国の侵略を受けていて、今頃、沖縄は中国領となっていたかもしれない。今でも竹島は韓国に占領されたままである。北方四島は帰ってこない。国連憲章では、いまだ日本とドイツは敵国扱いである。

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  1971年10月28日撮影、Canon PELLIX   FL200mmF3.5

2020-06-08 久志能幾研究所通信 1629 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

コメント

小学生の頃「ブルーエンジェルスが来るぞ!」と少し興奮気味の父に連れられて、小牧空港で観ました。
あれが最初で最後(今のところ)だったのですね…小牧空港の屋上から超低空飛行を観た時の驚きは今でも目に焼き付いています。

当時16歳でした.休日に出掛けた私はマトモな写真が撮れませんでした.
小牧空港屋上を眺めてシマッターと思いました.
撮影を諦めて,小牧城や川の土手から堪能すべきでした.

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