桜田門外ノ変の検証 Feed

2017年8月16日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (10/25)種まき

後世への種蒔き

 1860年1月1日、開国後の長期的視野に基づき、井伊直弼大老はオランダで建造した日本初の洋式軍艦「咸臨丸」を使って、日米修好通商条約の批准使節団を米国へ派遣をした。その使節団には勝海舟や福沢諭吉を随行させた。これは初の日本人だけでの太平洋単独横断でもあった。井伊直弼大老は、日本に開国のDNAを植えつけて天命を全うした。その後、批准使節団の帰国を見ずして、その2ケ月後の3月3日、桜田門外で散る。まるで交尾を終えたカマキリが自らメスに頭から食われて子孫の栄養になるのを助けるがごとくに。後世に託した種は、渡米した福沢諭吉らが、明治時代になって花開かせることになる。米国を視察した勝海舟が、江戸幕府の幕引きに貢献する。井伊直弼大老が残した痕跡が彦根市の天寧寺にある石黒太郎の墓に残されていた。詳細は次回(11/25)で掲載予定。

 全ての生命は子孫にDNAを植えつけて死んでいく。例えば受精した生命体の成長で、手の創成は指と指の間の組織が死ぬことで、新しい手の指が創成される。死は新しい命の芽生えのための一つのプロセスである。死がないと新しい命は生まれない。

 

私の種まき

 定年退職して会社の後進に託したその種まきが、無残な姿を見せつけられるのは悲しいことだ。その姿に、合併後の新会社に受け継がれたDNAが明らかになった。後進の担当者に技術者教育を託したが、もともと教育には熱意がなく頼りない人であった。講師を依頼しても、やる気のない手抜き講義しかしなかった。それは吸収側の会社の教育を重視しないDNAに起因していた。なにせ金にならない事項は、大事なことでも教えないという文化がある前会社である。結果として本来、その部署で担当すべき技術者教育を他部署に押し付けて教育の仕事を放棄してしまい、技術者教育の空白期間が2年程続いた。さすがに新社長の教育重視の指示で復活して、技術者教育が復活した。

 巨大になった組織では、官僚的な縦割り組織となり、その教育が本来もつ意味を考えず、形式的な教育に転落した。教育内容も細部に分割され、この部分は全社組織で、専門分野のこの教育は担当事業部でと、たらい回しとなり、会社として伝えるべきグループ企業としてのDNA教育が消えてしまった。

 

技術者教育の経緯

 私は技術管理部署で2000年から技術者教育を担当して、教育講座を構築して本格的に展開した。2003年から仕入れ先の工場見学会を取り入れ、実際に当社の製品の前工程での生産工程を見学させた。事前準備、事前の会社訪問、事前調査、見学依頼、バスの手配、引率と大変手間のかかる業務であるが、その評価はあまりされない。成果主義第一主義の企業では、やりたくない業務である。2004年からトヨタ産業技術記念館への見学を技術者教育に取り入れた。バスを仕立て、引率者として見学ツアーを継続した。豊田佐吉の生い立ちのビデオ、実物、前職の会社の本社事務所の姿や会社理念の実物の見学である。これらの技術者教育を6年間継続して、新会社になっても続けた。その教育体制が、私が退職したら、崩れてしまっていた。「会社診断◇会社社是」で述べたように、DNA教育の継承を怠った企業の末裔は悲惨である。大企業として全社に展開するため、教育講義がテレビ会議システムの講義形式になった。講義の内容は伝わるが、講師のパッションは伝わらない。私は技術教育講座の運営責任者として、講師の講義を教室の後ろで必ず監視した。熱意のない不真面目な講師は、翌年の講義講師から外した。そこまで私はこだわった。私自身も講座講師として6コマを持って、受講者のレポートは全て添削した。2週間の期間中に、受講生とのメールのやり取りが優に1,000通を超えた。今にして思うと情熱をかけて良くやったと自負したい。

 

伝わったDNA

 幸いなことに、私が残したDNAは、科学工業英語教育(テクニカルライティング)と三次元CADとして残った。私の意図が当時の部下に伝承されて三次元CADが展開されている。それが救いである。担当者として一番手間がかかり、成果主義では評価されない関連仕入先の工場見学講座が消えた。大事な豊田佐吉のDNAを伝えるトヨタ産業技術記念館への見学講座が消えた。技術者に重要な講座であるのに。前職の会社が吸収合併されるのは悲しい。それで大事なDNAの伝承が途絶える。教育を怠った咎が表れるのは、20年後であろう。日産や三菱自動車のようにDNAに復讐される。

 経営者は決断したことだけではなく、決断をしなかったことにも責任を取らねばならない。経営者がするべき決断をしなかったので、前職の会社は時代に乗り遅れ、会社は消滅した。

 命を捧げて開国の決断をした井伊直弼大老は、日本の大事なDNAを後進に託して桜田門外に散った。それが欧米に植民地にされるのを防いだ。それで今の日本の繁栄がある。アジアではタイ以外の諸国が列強の植民地にされた。タイが植民地にされなかったのは、地理的な要因で列強がお互い手を出さなったからで、タイが頑張ったためではない。

 

図1 トヨタ産業技術記念館で豊田佐吉が作った機織り機での実演を見つめる受講生。トヨタ産業技術記念館は、世界最大の動態博物館である。全ての機械が動く状態で展示されている。初回の見学講座である。

図2 トヨタ産業技術記念館に展示されている豊田綱領

図3 当時の織機のライン(実際に稼働している状態を実演)

図4 鍛造工程の実演風景

図5 トヨタ最初のAA型乗用車の開発風景

図6 パートナーロボットのトランペット演奏を見つめる受講生 

 

2017-08-16

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2017年8月 9日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (9/25)前後裁断

(7)危機管理の基本遵守  

 当日の朝、途中で襲撃があることを知らせる投げ文が井伊直弼の元に届けられた。しかし、彼は護衛を増やせとも、側近にもそのことさえ伝えなかった。なぜ、警護の人間に伝えなかったのかの疑問がある。幕府のきまりで護衛の数が決まっていた。幕府のトップがそのきまりを破るわけにはいかなかった。また彼は武芸に自信があり、まさか首を取られるとは思わなかったのだろう。

 しかし大名が理由はともあれ、首を取られるという失態をすると、御家とり潰しとなる決まりがある。そうなれば家臣たちが路頭に迷うこととなる。そんな危険を考えなかったのは、トップとして危機管理意識が希薄であった。

 敢えて、水戸藩の関係者に自分を襲撃させれば、水戸藩をつぶせる口実ができると思ったのかもしれない。自分の身を危険に晒せても、お国のためになるならそれも良いとの考えがよぎったかもしれない。あるいは、米国との通商条約を結び、反対勢力をある程度押さえたので、自分の役割は終わったとの達観があったのか。彼は死に場所を求めていたのかもしれない。彼は、人殺しの嫌いな人間である。この時代、お殿様が家臣を手打ちにする事件はざらにある。しかし、井伊直弼は家臣を手打ちにしたことはない。これは当時の風習からいくと希有なことである。その井伊直弼公が、安政の大獄では鬼となった。私憤では人を殺さなかったが、公憤では赤鬼となった。安政の大獄での処刑者数、処分者数は、徳川幕府始まって以来の規模である。それへの自虐があったのか。

 

前後裁断

 雨の予報があれば、傘の準備をするものだ。経営の神様の松下幸之助は、経営の極意として、「雨が降ったら傘をさす」と言っている。つまり当り前のことを当り前にしろと言っている。危機管理上、経営の基本として、井伊大老は危機管理の基本を、古い慣習や制度に囚われて遵守できなかった。そこに彼の保守派としての限界があった。もしくは、彼は死に場死を求めたのかもしれない。明治維新となり、西南戦争を終えた久保利通卿も、全く無防備な状況で襲撃され暗殺されている。暗殺の恐れは十分に予見されていたが、彼も特別な護衛をつけなかった。これも自ら死に場所を求めたとしか解釈のしようがない。両巨頭とも、独裁的な権力で国を思うが故に、騒動元を断固たる決意で押さえて幾多の血を流した。その後冷たさが、無意識に働いたのかもしれない。彼は禅の修行を積んで、悟りの境地として、全てを天命として行動をしていたようだ。襲撃を受け死ぬのも天命、業務改革を推進するのも天命だと悟っていたのでないかと思う。

 彼は「ただまさに今なすことをなせ」との禅の思想で行動していた。組織として自分を護衛する藩士達がいる。自分の使命は幕府の業務改革遂行で、自分の身を守ることではない。それは部下を信用して任せるべきである。彦根藩の赤備えの勇猛さは、武田軍団の血を受け継いでいる。そんな優秀な藩士達に余計な情報を与えなくても、対処してくれるはず。そうでなかったら、自分の指導が悪かった。それで自分が死ぬなら、それも天命だと。自分の死が、日本の将来への礎となるなら、それもよい。そんな考えがあったに違いない。彼は生死を超越した位置で、日本の未来を考えていたはずである。

 

2017-08-09

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2017年8月 8日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (8/25)最新技術

(6)最新技術、情報の収集

 最初のたった一発の銃弾が井伊直弼の腰を貫き、致命傷に近い傷を与えた。そのため、彼はなんの抵抗もできず、駕籠から引きずり出され首を落とされる。彼は埋木舎で、世に出る前の期間、武芸に励み居合術で免許皆伝である。彼は並の大名とは違い、文武兼備の才人である。いざとなれば、彼自身も防戦に戦えば、護衛の数や彦根藩士の護衛の精鋭ぶりから言っても、簡単には暗殺は成功するはずが無い。そんな安易な考えがあったのであろう。

 当日は大雪であった。そのため、刀の錆防止で、護衛側の藩士の刀は刀袋で封印されていた。それも防御側の反撃に、時間遅れが出た原因の一つである。直接の襲撃の警告がなくても、その備えをするのが、危機管理である。襲撃の危険は十分に分かっていた。

 

「武田家の赤備え」から「井伊家の赤備え」へ

 最初に日本で鉄砲を使って戦いをしたのは、織田軍と武田軍の長篠の戦い(天正3年、1575年)である。勇猛で鳴る武田軍団は、織田軍のハイテクの鉄砲隊の前に惨敗する。井伊藩の初代井伊長政は、関ヶ原の戦いで多大の軍功を上げる。徳川家康は、井伊長政に武田家の軍色である赤の使用を許し、甲冑、指し物、倉に至るまで全部赤い色を使用した。井伊藩は「井伊家の赤備え」として恐れられた。ハイテクの鉄砲に破れた武田軍団の軍カラーの赤が、歴史の皮肉でもある。赤備えの井伊家は、鉄砲の前では、武田軍と同じ運命をたどった。

 せめて、駕籠に防弾の備えがあれば、状況は大きく変わったであろうが、人の手で担ぐ籠では、物理的に無理である。長篠の戦いで織田信長が鉄砲を使ったのは、桜田門外の変の286年前の話である。敵にハイテクで攻めて来るなら、防ぐ方も当然その備えが必要である。しかし公人である幕府のトップで、武道の達人として、臆病な姿勢も見せられず、そこに運命の皮肉を感じる。精神論的な戦いに対する姿勢が、この事件の根本にある。それは徳川幕府の開祖の徳川家康が戦乱の世の再来を嫌い、前例の無いことは認めないという幕府基本方針からして、物事の進歩を禁ずる方針が根底にある以上は、いたしかたないのかもしれない。いわば組織の疲労破壊である。幕府は倒れるべくして倒れた。それは自己会改革を怠ったためである。それを家康が暗黙に禁止をした。

 

己の敵は己

 しかし、どんなに固く守って、外からも内からも危機は忍び寄る。守りの天才の徳川家康もそこまでは思い至らなかった。昨日の勝者は今日の敗者になる。守るためには変わらなければならない。トヨタ自動車の奥田碩会長(1995~1999年社長、1999~2006年会長)は業界トップの座に安住せず、「トヨタの敵はトヨタである。打倒トヨタをスローガンに社内に檄を飛ばしている。現在好調のトヨタは、「たまたま今がよいだけで、10年後は分からない」として、危機感をもって業務改革を進めていた。

 

会社の業務改革

 トヨタの方針に影響されて、前職の会社でも業務改革が進められた。私も担当責任者として、業務のIT化がなかなか進まない現状に悩み、役員会に「IT業務改革点検」を提案して認められた。事務局として事業部全部署の点検を事務局として回る機会を得た。私は事務局として各部を点検に回って、現状を変えることへの抵抗は、非常に大きいのを再確認した。敵は外ではなく、身内である。総論賛成、各論賛成で悩まされた。「敵」の部長曰く「その改革案は素晴らしい、まず他の部署からやって欲しい」である。(2003年頃)

 

私の業務改革

 当時の私の最大の悩みは、図面の三次元化推進であった。技術管理部門の課長として、その推進を任されたが、技術部門やその後工程は、従来の二次元図面に固執して三次元化がなかなか進まなかった。親会社の方針で、三次元化を進めないと仕事がなくなるとの「脅迫」でなんとか進めていた。17年が経った目で検証すると、当時の技術レベルでは、自動車会社での三次元化と、部品メーカの三次元化には、個別に対応するの正しいと思う。部品メーカとして全部一律に、図面を三次元化していては儲からない。その工程ごとに最適な図面のあり方がある。強引に三次元化を進めて儲かるのは、自動車メーカとCADメーカである。

 技術部の部長は、「二次元図面から三次元形状が頭の中に描けられないのでは、設計者ではない」との持論があり、設計部門での展開が障害となっていた。それは20年間、図面を引いてきた設計者として、私も思っている持論であった。立場上、三次元化を推進させねばならぬ立場で、それも言えず苦しかった。そんな悩みの中、山本周五郎著『ながい坂』の言葉が励みとなった。

 「人はときによって」と宗厳寺の老師が穏やかに云った、「――いつも自分の好むようには生きられない、ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなければならないことがあるもんだ」(1-p130)

 

17年後の姿

 現在は、CADの性能も上がり、操作性も向上し、後工程にも三次元化の認識が広り、生産準備工程のツールとして一般化してきたようだ。当時の伝教者としての三次元化推進隊長としての当時の苦労が夢の様である。当時の部下から「当時の小田課長さんの頑張りがあったからこそ、今の三次元化の展開ができた」と言ってもらえて嬉しかった。一般的に伝教者の運命は悲惨である。当時も同業他社のIT部門の責任者が、心労で倒れていた。自分がそうでなかっただけ、幸せと思わねばなるまい。

 

井伊直弼公の先見性

 私の悩みは些細なものであったが、日本の政治のトップとして幕府業務改革に取り組んだ井伊直弼大老の悩みは、そんなレベルではなかったはずだ。ご心労を御察し申し上げます。時に、外交面(条約締結、開国)、内政(後任将軍選定、安政の大獄)で大筋の仕事も終わり、桜田門外の変での井伊直弼公の対応を見ると、直弼公は死に場所を求めていたのかもしれない。井伊直弼公の命をかけた伝教者としてのお役目を全うしたがために、今の日本の繁栄がある。頑強に鎖国を続けた隣国が、国の滅亡の憂き目にあったのは、歴史の冷酷さの証しである。国の改革を避けた清国は、桜田門外の変の34年後、日本に日清戦争(1894)で負けた。そして欧米列強による半植民地化が進み、清王朝は1912年に滅んだ。そして動乱の時代を迎えた。

 

2017-08-08

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2017年8月 7日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (7/25)護衛

(5)護衛のリーダーの位置 ――

 襲撃隊が計画どおり、単筒の発砲を合図に列の先頭に切り込むと列は乱れ、予想通り井伊直弼の駕籠の周りに大多数の護衛はいなくなった。これは護衛隊のリーダーに、危機管理意識が薄かったことを示している。この場合の護衛のリーダーの役目は、常に全体に目をやって、どこが問題かを観察しなければならない。

 これは示唆に富んだリーダーのノウハウである。戦闘機の編隊の隊長(リーダー)は組織の全員の状態が、常に見渡せる状態に位置する。戦闘機での編成でも、最初に先頭を切って敵に突っ込んでいくのはリーダーの役目ではない。それは単なる突撃隊の軍曹の役目である。戦闘編隊での真のリーダーは、全機が見渡せる編隊の斜め上に位置して、全機の状態を見ている。それでこそ何かあれば、自らが助けに突っ込んでいける。

 

私の失敗

 昔は私も勘違いをしていて、先頭に立つことがリーダーの役目だと思っていた。あるプロジェクトで、信念をもって先頭に立って突き進んでいくのだが、ふと後を振り返ると、部下達は誰もついて来ていないことを発見して愕然とすることが多々あった。それでは組織はうまく統率できない。リーダーの役目は常に冷静に全体を見渡し、状況の変化に合わせて的確な指示、対応をすることにある。そういう意味で、課長職は難しい立場だ。実務者であり、統率者でもある。

 トヨタ系の某会社の管理職から弁理士事務所として独立した人から聞いた話である。「元の職場(その某会社)では、課長職は実務は全くしない。じっと部下の観察をして、その悪いところを指導する」という。「だから貴方の会社(私の前職)は発展しないのだ」と言われた。一理はある指摘であった。リーダーの位置づけは、会社の規模と考え方で変わるが、リーダーの位置づけの認識が異なっていた。当時の課長職の私は、実務者としても走り回っていた。50年前は、その会社は私の前職の会社よりも格下と見なされていたが、現在ははるか格上の会社に変貌している。その会社を格下と見なしていた己の会社は消滅した。

 

大雪への備え

 また当日は、数十年ぶりの大雪であった。そのため、護衛の武士たちは刀に雪がかかるの防ぐ束袋を付けいた。その束袋を取りはずす一瞬の間に、護衛の武士たちは切られてしまった。接近戦での刀での勝負は一瞬で決まる。大老への種劇など今だかってなかったので、危機意識が希薄になっていた。それを襲撃側は突いてきた。

 季節外れの突然の大雪で、極寒の中、護衛の武士たちは、襲撃にあっても体がすぐには動かなかった。それに対して、大雪でも予め体を温めて、待ち伏せをしていた襲撃側には、万全の体制で襲い掛かることができた。護衛のリーダーが、その役目を全うしても、井伊直弼公の死は避けられなかった。仏さまがそう仕組んだとしか思えない状況である。

 図1 「桜田門外の変」時の供揃図 『彦根市市史』より

 

2017-08-07

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2017年8月 6日 (日)

「桜田門外ノ変」の検証 (6/25)

(4)危機管理マニュアルの整備

 ― 暗殺計画シナリオ 

暗殺計画は、シナリオ通りにはなかなかうまくいかない。しかし、防御の方はシナリオがなかった。だから、緻密なシナリオがあるほうが勝ちである。この場合、水戸藩の志士達の襲撃隊には詳細な計画書があった。護衛する側には、何ごともなくて当たり前の世界である。いかに無事に済ませるかが問われる。 襲撃側はわずかな隙を狙ってせめてくる。そこに防御の難しさがある。

 

女子寮の警備

 父はオーミケンシの警備の仕事をしていた。当時のオーミケンシの工場の従業員は大部分が若い女子である。工場内には女子寮があり、工場の塀には上側が鉄条網になっていた。それでも変態者が、よく乗り越えて侵入してきたという。変態者は、警備員の巡回時間を知っていて、それを避けて塀を乗り越えてやってくるという。数人の警備態勢で、深夜、広大な敷地全部には監視の目が行き届かない。

 

最高権力者の暗殺

 井伊直弼公の籠の行列に、直訴状を掲げて飛び込んできた男を、護衛の武士も直ぐには排除できなかった。その男が直訴状を掲げながら平伏して、隠し持った単筒で、至近距離から井伊直弼公の籠に向けて弾を撃った。それが致命傷となった。その単筒の音を合図に、水戸藩士が井伊直弼公の籠に襲いかっかった。現時点で考えても、これを防ぐ手段は思い至らない。そういう運命であったと考えるしかない。あの警備万全であったはずのケネディ大統領の車パレード中の暗殺劇も、当時としては防ぎようがなかった。確信犯に対しての防御は、不可能に近い。ましてや、相手は死を覚悟しての犯行である。それも、方向が違うが、国を憂い殿様に忠義を誓い、命を投げ出した志士達である。

 

体制の疲労破壊

 また300年続いた幕藩体制で、時の最高権力者の大老を襲撃するという行為が、想定されなかった。時代が音もなく変わりつつある中、その体制を守る側は無力である。その防御態勢のしきたり(幕府の規則で警備の人数まで規定される)を破れば、幕藩体制を自ら壊すこととなる。幕府のしきたりが、自らの首を絞める結果となっていた。体制の疲労破壊である。井伊直弼公は改革者であるが、幕府のしきたりは破らない。彼も改革をそこまでは手を付けられなかった。

 

2017-08-06

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2017年8月 5日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (17/25)冬夜

大垣藩と安政の大獄

「冬夜」の碑

大垣市立図書館前の公園内にあるこの碑文「冬夜」は、勉学に励む当時の大垣藩の藩医江馬家の家庭の雰囲気を伝えている。文面の書もなかなかに名筆である。大垣藩は多くの学者や文人を輩出した「文教のまち・大垣」として全国に知られている。下記の詩は、当時、人生50年の時代にもかかわらず、80歳の父が時代の最先端情報である欧・蘭書を精読している横で、灯火を分け合って、娘(40歳)が中国の古典を読んで勉学に励んでいる様を格調高く漢詩にしている。毎朝の散歩でここを通る時、当時の大垣藩の教育と文化に思いを馳せる。

 

冬夜                             江馬細香

爺は欧蘭書の原書を精読し

児は唐宗の漢詩を読む

一灯の光を分かち合い

物事の根本や時代を遡る

児は飽きて甘物を思う

一心に蘭書に向かう爺の姿に、

爺の精神力に及ばぬ己を恥じる

齢80爺の眼に曇りなし      (訳 著者) 

 

 作者の江馬細香(多保)は、大垣藩主の信任厚い藩医、江場蘭斎の長女として生まれ、この時代には珍しく高度な教育を受け、芸術面で才能を発揮した。蘭斎は細香が18歳になった頃、婿養子を迎えて家を継がせようとした。そのとき細香が「結婚しないで芸術の道に精進したい」とその気持ちを父に伝えると、蘭斎はあっさりとその願いを聞き入れ、妹の柘植子に婿養子を迎えてしまった。分かりのよい親である。現代でも難しいのに封建時代の話である。

 文化10年(1813)10月、頼山陽は大垣藩の江馬蘭斎を訪ねて大いに歓待された。頼山陽は、江戸後期の儒者・詩人で『日本外史』の著者として広く知られている。明治維新の際に、勤王方の若い青年たちに広く読まれ、彼らの士気を鼓舞したといわれる。このとき細香と出会い、お互い好意を寄せる感情を抱いた。彼女は彼を尊敬し、門人になり「細香」という号をもらった。時に彼女は27歳の才色兼備の佳人であった。その後、頼山陽は多保(細香)に、求婚をしたが、江馬蘭斎が結婚には反対し実現しなかった。しかし、彼の才能を認めて娘の入門は許している。結局、頼山陽は別の女性(梨影(りえ)17歳)と結婚した。彼女は父が縁談を断ったことを知り、塞ぎこむ日々を送ったが、気を取り直し、話を戻してもらおうと翌春に上京して頼山陽の元を訪ねたが、彼は結婚した後であった。落胆した彼女ではあったが、その現実を受け入れ、その後、頼山陽が亡くなるまで20年間に7度、従学し、漢詩を師事し続けた。また頼山陽の母に対しても、子のように接した。頼山陽の死後も、彼の妻と姉妹のような交際が続き、ついに一生を独身で終った。頼山陽のような、才能豊かで人格も高く、当代きっての人物に知遇を得ると、他の男性が見劣りするのであろう。

 頼山陽の影響もあってか、細香女史は、早くから勤皇の大義に目覚めて、慷慨国家を憂へた女丈夫でもあったようである。安政の大獄では、頼山陽の妻も牢に入れられ、子息も幕府から追われ、捕縛され斬首されている。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていた。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在せず、「冬夜」の漢詩も存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

【江馬 細香】(1787~1861)

 江馬 細香(天明7年4月4日(1787年5月20日)- 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の恋人であった。

 江馬 蘭斎】(1747~1838)

 伝馬町で版木彫を職業としていた鶴見壮蔵の長男として生まれる。大垣藩侍医江馬元澄の養子となり、医学の道に進む。大垣藩主氏教の侍医を勤める。養父を師として漢方医として活躍したが、46歳で蘭学を志し、江戸で前野良沢や杉田玄白に学び、大阪・京都よりも早く美濃に西洋医学をもたらした。患者には慈悲深く接し、自らは倹約を第一義として、硯の水さえ井戸水を用いず、雨水を受けて用いた。優れた才知を持って学門に励むとともに、蘭学塾「好蘭堂」を創設し、多くの門人を世に送り出した。

 この時代にあって92歳までの驚異的な長寿を全うした。「冬夜」の書かれた当時、80歳でまだ現役として、西洋医学の研究に励み、若人の指導にあたり、最期まで現役として活躍された。理想とする人生の歩き方である。人生50年といわれた時代、また侍医として誰よりも保障された身分にもかかわらず、46歳から全く新しい蘭学の志ざした。だからこそ、92歳まで活躍されたのだろう。そんな名声を聞いて、頼山陽が江馬 蘭斎のもとを訪ねてきて、細香とのめぐり合いの縁が生じたのである。

 

図1 「冬夜」の碑(公園内) 2011年1月17日撮影

 

 

2017-08-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年7月12日 (水)

「桜田門外ノ変」の時代背景と世界情勢

江戸末期、昭和初期、何を恐れてご先祖は戦ったのか?

 狩猟民族のDNAは動物的である。狩猟民族と言われる欧米民族と農耕民族と言われる日本民族とはもつDNAが違う。狩猟民族は盗るのが当たり前で、盗られるのが愚鈍であるとの説である。キリスト教徒でないものは、人間ではないので殺してもよいという思想である。盗れるものは全て奪う、彼らにとって仏教の利他少欲は戯言である。欧米人は、戦争になって勝てば、相手を皆殺しにするか、奴隷にするか、植民地にして生産物の全てを奪うのが正しいやり方である。さすがに戦後は世界の目が厳しいので、自制はすぐが、狩猟民族の本質は変わらない。現代は欧米と同質のチャイナが領土強奪・民族虐殺や海外旅行での蛮行でその本領を発揮している。

日本の外の世界は、価値観が違うことを認識して行動しないと国が亡ぶ。今までは、自然の国境の海があったから防げたが、科学技術の進歩がその国境をなくしつつある。危機感をもって各人の意識を高めるしかない。

アメリカ合衆国の虐殺の歴史

 米国は独立戦争直後から、戦争や武力外交交渉によって領土を自己増殖的に拡大していった。もともと先住民のインディアンが1,000万人住んでいたアメリカ大陸であるが、白人がインディアンを950万人も虐殺して土地を強奪した。現在、インディアンは50万人しか生存せず、米国史からも抹殺されている。入植当時の白人は、インディアンからトウモロコシやジャガイモの栽培方法を教えてもらい、飢えをしのぎ開拓時代を生き延びた。当時のアメリカ入植者は、豊かな英仏等から逃げてきた落ちこぼれ達や犯罪者達である。彼らは恩を仇でインディアンに返した。

 1783年、アメリカ合衆国は、北大陸北米に一角に、大英帝国が創設した13州の植民地として誕生した。

 1803年、独立後間もないアメリカは、フランス革命直後で金のなかったフランスからフランス領北アメリカの大部分を安く買い叩いて手に入れた。

1821年、スペインのナポレオン王家から旧王家への体制転換のどさくさに乗じて、現フロリダ州も買い取った。

1845年、メキシコ領テキサスの独立運動を支援すると称して、事実上テキサスを乗っ取った。

1848年、これに怒ったメキシコと戦争が起こり、それに勝って現カリフォルニア州、ユタ、ネバタ、コロランド、ニューメキシコの南西山岳部4州を強奪

1846年、オレゴン州に対するイギリスの領有権を否認して領土として強奪

1853年、ニューメキシコの南部をメキシコから購入した。

 1867年、クリミア戦争後の財政難で困窮していたロシアの足元見て、アラスカを格安(720万ドル(1km²あたり5$))に購入した。

1887年、アメリカ大陸の西海岸に達したアメリカは、太平洋を西に進み、ハワイに入植者を投入し続け、裏で糸を引いてハワイ王国でクーデターを起こした。ハワイの国王を殺して、結果として1898年、米国に併合した。

1898年、米国はフィリピンに達して、フィリピンを植民地(1898年-1946年)とした。植民地としてフィリピン語を禁じ、英語を強要し、自立する術をなくして文盲の植民地住民にした。そのため現在も英語が公用語に入っている。

 植民地強奪戦略で米国の進出が太平洋の西端に達して、それを遮る目障りな障害が日本列島であった。日本の存在自体が日米戦争の導火線であった。西に向かって侵略戦争を進めた米国は、中国にも植民地を求めた。そこは英仏蘭独の先発の侵略軍がいた。そこに割り込もうと日本との軋轢が生じた。

1941年、中国で植民地強奪競争に後れを取った米国は、日本には受け入れ不能のハルノートを突き付けた。それを拒否するとエネルギーの自給ができない日本に対して、米国は経済封鎖をする挙にでた。ことは実質的に戦争の宣戦布告である。そのまま座していれば、日本中の会社が倒産して、失業者が社会に溢れる。日本は数か月で干上がる。自衛のために立ち上がったのが日米太平洋戦争である。米国は、日本が先に手を出さざるを得ないような狡猾な罠を仕掛けた。「日米戦争は日本の自衛戦争であった」とマッカーサーが戦後議会で証言している。そのことは日本のマスコミは黙殺して、真実を報道しない。そして紙上で日本自虐論が花盛りとなった。何が真実なのか、自分の頭で考えるべきだ。日米太平洋戦争があって、アジアの多くの国が欧米の植民地政策の毒牙から逃れられて独立できた。その事実を見逃しては、米国の洗脳教育から脱却できない。勝者の歴史は偏った偽りの歴史である。

日米太平洋戦争

 太平洋戦争での激闘で、日本の高性能な戦闘機、戦艦、航空母艦での戦い、玉砕、特攻等で、死に物狂いになった時の日本の恐ろしさに震え上がった米国は、戦後は日本を骨抜きにする策に熱中した。その成果が70年後の今、「毒花が咲いた」としか言いようがない情けない日本が今ある。自衛戦争もできない憲法、粗製作りで拙い日本語の憲法、家制度をなくし先祖を敬わない教育体制、日本を愛さない日本人の増加、日本の産業が二度と立ち上がらないような経済政策で、初の日の丸ジェット旅客機MRJも初飛行に戦後70年間を要した。

 唯一の救いは、ご先祖が命を懸けて死闘(玉砕、特攻)をしていただいたおかげで、米国もあまり過激には占領政策を進められなかった。そうでないと日本を米国の植民地にして、日本語禁止や日本の米国編入があったかもしれない。先例でフィリピンは植民地にされハワイでは王様が殺され、国が滅んで米国に吸収された。先住民のインディアンが弱かったのではない。国を守るという体制がなかったためだ。チベットに平和憲法がなかったから、人口の20%もチャイナに虐殺されたのではない。チャイナの侵略を防ぐ軍隊が無く戦えなかったためである。

我が家の戦い

 ご先祖は、父の弟の四男がシベリア、五男がビルマで戦死である。父はなんとかシベリア抑留から生還できた。ご先祖の日本のために命を懸けた戦いがあるから、今の日本がある。無抵抗であれば、日本はフィリピンのように植民地にされたはず。ご先祖の死闘に感謝しなくてはならない。歴史を振り返ると、戦争当時、日本政府は戦争相手を鬼畜米英と言っていたが、米国や英国の血に染まった建国歴史から見ると意外と巧い表現だと思う。

 明治維新も桜田門外の変も、アヘン戦争で英国が香港を割譲したニュースを日本の知識層が知って、危機感から起こった政変である。日本民族のDNAには、民族皆殺し、略奪やり放題という汚れた血は流れていない。聖徳太子の「17条の憲法」にある和を尊ぶ精神が1300年間も続く。しかし海外の民族はそうではない現実を肝に銘じたい。

 

図1 価値観の比較

 

2017-07-12

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「桜田門外ノ変」の検証 (5/25)(改定)

 井伊直弼公の墓所

 五百羅漢で有名な天寧寺に、井伊直弼公の供養塔が建つ。彦根藩は「桜田門外ノ変」の時の血染めの土や衣装類を、四斗樽に納めて急ぎ裏街道を通って彦根に持ち帰り、この天寧寺に埋葬した。翌年1861年、彦根藩はこの井伊直弼公供養塔を建立した。当時は、井伊直弼公の死は病死としてしか公表できず、そのため井伊直弼公の私的なお寺として存在したこの天寧寺に埋葬せざるを得なかったようだ。井伊直弼公は、埋木舎の不遇の時代、父直中公のお寺として頻繁にお参りをしていた。

 天寧寺には、「桜田門外ノ変」の時、籠内に置かれた座布団が寺の寺宝として保管されている。その座布団に井伊直弼公の血の跡が染み込んでいる。その座布団があまりに畏れ多いので、埋葬せず寺宝として保管されたという。この座布団と井伊直中公と井伊直弼公の肖像画が、毎年3月28日、このお寺で特別公開される。3月28日は、彦根藩が幕府に病死として届けた日で、毎年、この日に供養祭が天寧寺で行われる。

 井伊直弼公の正式のお墓は、豪徳寺(東京)と清凉寺(彦根)に建てられている。その昔、公的機関が豪徳寺の井伊直弼公のお墓の歴史調査を行ったが、何も入っていなかったという。当時の激しい世相から、盗掘を恐れて、別の秘密の場所に埋葬されたようだ。井伊直弼公の位牌は、彦根の殆どのお寺で祭壇に飾られている。井伊直弼公は彦根の名君であり今でも慕われている。

長野主膳の墓所が、井伊直弼公供養塔の横に(南側)平伏するがごとくに立っている。その横の後ろで、彦根城を眼下に見る形で「たか女」の墓が立つ。

天寧寺の由来

 五百羅漢の天寧寺は、井伊直弼公の父である井伊直中公が自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため、禅宗界屈指の名僧寂室堅光禅師の勤めで発願建立した。文政2年(1819年)の春、男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で大椿事が持ち上がった。奥勤めの腰元若竹がお子を宿しているらしいとの風評が広まり、それが藩主の耳にも届いたのである。大奥の取り締まりのためにも相手の名を詰問したが、口を固く閉じて相手を明かさない。遂には、不義はお家の法度であるという掟によりお手打ちとなった。後になって若竹の相手が長男直清であったことが明らかになり、直中公も不知とはいえ若竹と腹の子(初孫)を葬ったことに心を痛め追善供養のため、京都の大仏師駒井朝運に命じて五百羅漢を彫らしめ安置されたのである。(天寧寺パンフレットより 2017年7月3日)

 お殿様の長男直清に手籠めにされ、子をなしても口を割らなかった若竹に仏の姿を見る。畏れながらと、真実を告白すれば命は助かるし、子は大名の血筋の子として大事に育てられる。それを不義として受け入れ、黙って手打ちにされた。当時の日本の腰元としても信じられない行動である。本来手籠めにされて、不本意ではあるが、自分を愛してくれたお殿様をかばった姿である。そこに日本人として神仏からの不遇を黙った受け入れる日本人を見る。私は仏の姿をその中に見る。その遠因があり、本来、直弼公には絶対に回ってくるはずのない直中公の跡継ぎの座が舞い込んでくる。当時、直弼公は直中公の14男であったので、その前には13人もの跡継ぎ候補がいた。腰元若竹に、日本の将来を見越した仏の采配の姿を見る。

 佛はいつも我々を試している。試された我々は、どう行動したのか。長男直清は、自分が手籠めにした女と腹の中の子を見殺しにした。彼は病弱として文化3年(1806年)に廃嫡にされており、1825年に35歳で没する。次男の直亮が文化3年(1806年)に庶子とされ、文化9年(1812年)2月5日の父の隠居により、家督を継いで第14代藩主となる。父直中公の隠居は、前年1811年の若竹をお手打ちにした慙愧の念が影響していたかもしれない。直亮には実子がなく、弟(直中の11男)の直元を養嗣子にした。直亮は、直元が弘化3年(1846年)に早世したため、その弟(直中の14男)で国元にいた直弼を養嗣子とした。それで直弼が第15代藩主となる縁起が生じた。これこそが、佛が織りなすカラクリである。「天之機緘不測」(菜根譚)、天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできない。

 直中公は追善供養としてお寺をこの山に建て、五百羅漢を彫らせた。単純計算で1体300万円とすると15億円である。本堂や他の施設を含めると10億円か100億円単位のお金がかかっている。その分、直中公の慙愧の念が強かったと言える。その功徳があったから、その後の井伊家の存続がある。

井伊家の歴史

以上を下記に年号順に並べると、齟齬がみつかり、思案に暮れている。詳細を現在調査中です。

1791年 直清が直中公の長男として出生

1806年 直清が廃嫡、直亮が庶子になる。

1811年 若竹の供養のため、宗徳寺を移築して本堂を建立

1812年 直中公が隠居、家督を次男直亮が継ぐ

1815年 直弼が直中公50歳の子の14男として出生。長野主膳、ビスマルクが同年の誕生。    

1819年 腰元若竹の懐妊、直中公がお手打ち (年号は1811年の間違い?)

1825年 直清死去。35歳

1846年 直弼が直亮の養嗣子となる。

1850年 直亮の死去により直弼が第15代藩主となる。

1958年 直弼が大老に就任

1860年 桜田門外の変で直弼暗殺される。享年46歳

豪徳寺の墓所

 豪徳寺は、井伊家の菩提寺として歴代の井伊家のお殿様のお墓が祭られている。豪徳寺にある井伊直弼公のお墓の後ろに、日下部三郎右衛門を筆頭とした殉死八人碑が建つ。まるで井伊直弼公のお墓を見守るようである。その井伊家御廟のすぐ外に、日下部鳴鶴のお墓が建つ。豪徳寺の門を入ってすぐの場所に、井伊家を顕彰した日下部鳴鶴書の碑文がそびえ立つ。鳴鶴の書は素晴らしい書体である。日下部鳴鶴の碑文の字体を見ると、確かに恵峰師とそっくりである。

日本一の布袋尊

 この天寧寺の布袋尊は、背が1.2m、重さ300kgという木造日本一の大きさで、御利益も超大型・・・・とか。そのおへその触ればヘソクリができ、扇に触れば福来る。袋に触れば病気を封じるとされる神様として崇められている。井伊家が幕末の激動の中を生き延びられたのは、ご縁の陰徳というヘソクリのご利益かもしれない。

羅漢石庭

 この天寧寺の「この石庭は、お釈迦様の御教えを羅漢様とともに静かに心の刻む拠り所として作られました。中央の大きな石はお釈迦様の身近にあったインド仏蹟の石です。周りの16の石は16羅漢様をあらわしています。白砂にはインドの仏蹟「尼連禅河」のお砂が入っています。お釈迦様への敬慕の念を込めてつくられた石庭を拝し見ますと、インド仏蹟聖地巡拝の功徳があります。(作庭は斯界随一の中根金作氏)」と掲示パネルに記載がある。その向こうの眼下に彦根城と琵琶湖の借景がある。井伊直中公は、自分の居城が眼下に小さく映る様を、己の小ささとして感じたのかもしれない。

五百羅漢と対話

 2017年7月3日、天寧寺に参拝して仏殿内の釈迦と十大弟子・十六羅漢・五百羅漢が祭られている本堂でしばしの時間を過ごした。探し求めれば必ず出会えると言われる五百羅漢が見つめる中である。その佛の1054の眼が黙って己を見つめる。その誰もいない静寂な空間で、桜田門外の変の意味と己の役割を考えた。井伊直中公は、どんな思いでこのお寺を建立し、お参りをしていたのか。13人も子供がいながら孫が生まれず、その初孫を己の手で殺めざるを得なかった業に、何を感じたのか。頻繁にこの寺にお参りをした井伊直弼公は、安政の大獄で多くの処罰者を出すが、今まで彼は家臣を一人もお手打ちをしたことはない。井伊直弼公は、結果として、旧日本国(徳川幕府)を殺めて、新日本国(明治政府)を生むご縁を創った。

 

図1 井伊直弼公の供養塔(天寧寺・彦根)

図2 長野主膳のお墓(天寧寺・彦根)

図3 たか女のお墓(天寧寺・彦根)

図4 井伊家の墓所 (豪徳寺・東京)

図5 井伊直弼公のお墓 (豪徳寺・東京)

図6 井伊直弼公のお墓を守るように日下部三郎右衛門筆頭の殉死八人碑が後ろに建つ

図7 殉死八人碑 (豪徳寺・東京)

図8 羅漢石庭

図9~11 仏殿 五百羅漢

 

2017-07-12

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2017年7月 1日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (4/25)

(3)監査組織の機能  ―― 側近の問題 ――

   「安政の大獄」の実質的なリーダーは、京都の大老と呼ばれた長野主膳であった。井伊直弼公と長野主膳は長く不遇の時を持ち、共に同じような鬱積した考えを持っていた。二人が光を浴びて表舞台で活躍を始めたが、主従の関係が同じ思想で、部下に対する過剰な権限委譲が、「安政の大獄」に突き走らせた要因と言える。歴史の是非は問えないが、ブレーキとなる側近がいないと、どうしても組織として暴走しがちなのは東西の歴史の教えである。あまりに二人とも純粋であったのが、結果として「安政の大獄」を生み出した。志が同じなのは良い。しかしリーダーの暴走を止める側近の存在が必要であった。

 

現代名門企業の経営補佐役

 ホンダを創業した本田宗一郎氏も経営者としてはチャランポランタンであったが、後ろで藤沢武夫がしっかり手綱を握っていた。本田宗一郎は、自分を知っていたため、会社の印を藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。本田は社印も実印も押したことがなく、技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べている。藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べて、互いに補完の関係の経営をしていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えで、身内を入社させなかった。本田が引退した時、藤沢も同時に引退した。きれいな引き際である。

 松下電器は、その反対に身内が会社の使命を放棄して会社をかき乱し、それが役員間で派閥抗争になり、経営の迷走を生んだ。それが松下電器と他の会社の命運を分けた原因である。最大の被害者はそれにより1万人のリストラをされた従業員である。

 トヨタ自動車も血縁経営であるが、創業者と歴代の大番頭の存在があり、両輪の経営をして、現在の姿がある。

 

 井伊直弼公は、15年間に及ぶ世捨て人のような扱いに埋木舎で悶々としていた。無能なら何も悩まないだろうが、直弼公はあまりに才能があり過ぎた。その心境の井伊直弼公を尋ねてきた長野主膳に、井伊直弼公は3日3晩互いに語り明かして、心を許した。

 私も前職で、正義を通したため理不尽な不遇の時代を経験した。その時、心情を理解してくれる仲間に出会うと、砂漠でオアシスにたどり着いたような心情となる。

 

「何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ」

 私はこの言葉は、自分がスランプや不遇の時に思い出して励ましの言葉としてきた。語源は三洋電機の後藤清一氏との説もあるが、私は道元禅師の言葉として聞いたことがある。禅の言葉として私の20代後半のころから大事にしてきた。図2は、当時、名古屋の毎日文化センターで、週末の1時間、加藤梅香先生から、習字を習っていた時、お手本として揮毫して頂いた書です(1980年頃)。女子マラソンの高橋尚子さんもこの言葉で2004年に金メダルを取ったという。

 

彦根藩の幕末の激変

 改革者への歴史の波は過酷である。人生の絶頂期を迎えて藩の要職にあった長野主膳は、「桜田門外の変」の後、藩の政治の激変で、政治の反対派から捕らえられて、藩を存亡の危機に陥れた張本人として、首を切られる。首を切られた場所が史跡として、彦根観光地図に記載されている。そのお墓が天寧寺(彦根)にある。

 

図1 埋木舎で語り合う井伊直弼公と長野主膳 (彦根 埋木舎)

図2 何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ(加藤梅香書)

 

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書の著作権は加藤梅香師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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2017年6月27日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (3/20)

(2)リーダー自己鍛錬  ―― リーダーとしての性格と生い立ち ――

  彼は井伊家の側室の子で14男である。本来なら井伊家の当主には、どう間違ってもなれるはずがなかった。それが運命のいたずらで、なおかつ最も国難の非常時に藩主になり、また井伊家が名門故と、幕府内の権力争いの偶然から、国難時の舵取りの大老にまで任命される。大老職は非常時の時だけ設けられる職位である。当然、側室の傍流故の過剰な意識から、また非常時故の過剰な責任感から、過剰なリーダーシップの取り方にならざるを得ない状況に追い込まれたといえる。

 また彼は不遇の時期である埋木舎の15年間、1日4時間で睡眠は足るとして自己鍛練を続けて、文武両面でその道を究めている。当然、自己に対して厳しい姿勢、強い責任感、組織やルールの規律への厳しさ、厳格さを自然と身につけたといえる。

 

井伊直弼公の性格診断

 1950年に米国の心理学者エリック・バーン博士が開発したTA(対人交流 Transactional  Analysis)の理論から言えば、CP(Critical Patent、厳しい親)の要素がかなり大きな数値を示す人物であったと言える。このCPは組織のリーダーには欠く事のできない性格である。このタイプは自己に厳しいのは当然だか、組織の全員に規律を厳しく求める。そこで当然、反発や軋轢が生じる。彼の性格から、組織の秩序やしきたり無視する輩には、極端な嫌悪感を抱き、それが組織の崩壊に繋がるとして危機管理としてその者を排除しようとする。理想に燃えて危機感を持つリーダーであればあるほど、その組織を乱す行為をする人を反逆者と捉えがちである。外国からの開国の圧力や清国の植民地化の情報の状況で、勝手に朝廷との交渉をはじめ、幕府に無断で攘夷の朝勅を頂く段取りをして、勝手に江戸城の掟を破って、意見を述べに来る水戸藩主の徳川斉昭らの横暴さを彼は許せなかった。その厳格な性格が、彼に組織の存亡への過剰な危機感を抱かせ、安政の大獄に向かっていった。

 

  私もCP値はかなり高い方である。現在は自己分析・訓練をしてかなり押さえてはいる。それでも本来の性格が影響を残している。そんな同じ性格の身から井伊直弼を見る時、限りなく彼の心情が理解できる。目の前に氷山がある。そのまま進むと氷山に激突して日本丸は沈没する。船長として思いっきり取り舵を指示しているが、公然とそれに反対して、面舵を画策する主君筋の名門軍団がいる。権力を持ち、理想に燃えた彼が選択した「安政の大獄」は自然の成り行きであった。大きな組織であればあるほど、慣性が大きく、おいそれとは方向が変わらない。そんな現実を踏まえて、江戸幕府という大船の船長である井伊直弼公は、大船の舵を取る難しさに悩んだはず。私ならどうしたであろうか。

 世の中では、最高のことしか起こらない。それが安政の大獄であり、桜田門外の変であり、その結果が明治維新であったと、歴史は語る。

 

私の業務改革 IT業務改革

 2004年、私は役員会にIT業務改革を提案して認められ、その推進の事務局を任された。当時の事業部は、まだまだITを使った業務改革に疎く、私も担当業務である三次元CADの推進で頭を抱えていた。それには全事業部を巻き込んで推進すれば良いと思っての提案であった。将を射るにはまず馬を攻めよ、である。提案したら、時の事業本部長が乗り気になり、すぐGOがかかった。事務局として、事業部の全職場を事業本部長のお供で点検して回れる機会に恵まれた。このお陰で、全職場の業務内容を、その部長から事業本部長の横で聞くことができて、現在の事業部の問題点と課題が見えて経営の勉強に大変役立った。

 事務局として見ると、いい加減な部長や、それを邪魔する部長もおり、井伊直弼公の開国への反対する輩への怒りと同じ心境となった。当時は、ITに疎いおじさん達軍団の部長達が跋扈しており、ITは敬遠される事項であった。当時の森首相にいたっては、ITを「それってなに?」という低落であった。まるで鎖国を続けて太平の世に浸かっていた江戸末期に、過激な開国を唱えるようなものである。尊王攘夷として、従来の紙の図面が天皇様で、新参のデジタル化図面などとんでもないである。世界は三次元CAD化の推進で嵐が吹き、大手自動車メーカーが競ってIT業務推進をしていた。私は、担当業務の三次元CAD化の推進で悩み、グループ会社の連絡会で他社の進んだ状況を見せつけられていた。だから当社の状況に危機感を持って上記のIT業務改革を提案したのが経緯である。

 

和敬静寂

 私が大老なら、当時の部長達を大獄に送ってやりたかった。でも今思い出すと、己も若く考えが未熟だね、である。当時のITベンダーは金儲けのため、過剰宣伝でやり過ぎていた。少し実務とは乖離したITツールを売り込んでいたのが現実であった。大きき組織は、小魚の料理の様にはいかず、大魚の料理方法がある。時間をかけて料理しないと、煮崩れを起こし「桜田門外の変」を招く。後世の人間は、なんとでも批判できるが、あの時点では、井伊直弼公の選択は最高の解決方法であったと信じたい。諸外国の植民地化の魔の手という火事が迫っているときは、まず火事を防ぐのが最優先である。

 アジアで植民地化の魔の手を逃れられたのは、日本とタイしかない。タイは地理的な状況で、幸運にも列強諸国が手を出しそびれていたに過ぎない。日本が植民地化の魔の手を逃れれられたのは、強力な軍隊(各藩の武士軍団)が存在したためである。武士道で死ぬことを恐れない。、腰の刀を差した武士の存在が大きかった。貴族、丸腰の商人、町民、農民、だけなら日本は間違いなく植民地にされていた。非武装中立はたわごとで、永世中立国のスイスは軍隊があり徴兵制がある。

 

  彼は好んで「和敬静寂」という禅の言葉を書にしている。彼は清涼寺で禅の修行を積み一角の境地に達していた。この言葉は、相手を敬えば、その結果が居心地のよい清々して関係ができることである。彼は和を大事にしていた。相手を無視して、組織の和を乱す人間や行為は許せなかったのだ。国難の非常時に全社(全藩)一丸となって国を守らねばならないのに、それを妨害する人間が許せない。そういうCP的な性格が前面に出た行動を取らざるを得なかった。それが「安政の大獄」である。

 

井伊直政公の生まれ変わり

  井伊家の創業者は井伊直政公である。彼の性格と井伊直弼公の性格がよく似ている。それは徳川家の再興を期待された最後の将軍徳川慶喜が、徳川家康公の生まれ変わりと言われたのとよく似ている。井伊直政公は平時には温厚な人であるが、一旦戦時や筋が通らない場面になる、井伊家の赤鬼と呼ばれたような激しい性格を表す。戦いでは全身赤い装具を身につけ、真っ先に飛び出し暴れ回り、井伊家の赤備え、赤鬼として恐れられた。戦いすんで家康の元を出奔して秀吉に使えた石川数正が同席しているのを見ると、「祖先より仕えた主君に背いて、殿下(秀吉)に従う臆病者と肩を並べるのは御免こうむりたい」と一括して席を立った。彼は冷静な判断力と炎のような気概をもっていた。

 

その点で、井伊直弼公も直政公の血を色濃く受け継いでいる。井伊直弼公は当初、彦根の赤牛と呼ばれ寡黙な老中であったが、大老になって井伊家の赤鬼として辣腕を振るった。その点で井伊長政公とよく似ている。

 

 

図1 和敬清寂  馬場恵峰書

 明徳塾でこの書をみつけて、井伊直弼公の好んだ言葉だと気づいて入手をした。

 

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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書の著作権は馬場恵峰師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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