桜田門外ノ変の検証 Feed

2017年6月26日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (2/20)

 安政の大獄 業務改革

 「桜田門外の変」(1860年)を招いたのは、「安政の大獄」(1859年)が引き金となっている。その発端はペリーの黒船来日(1853年)である。そこから幕末の争乱につながっていった。その初期の騒動の「安政の大獄」は当時の業務改革であった。それもかなり荒っぽい血みどろな改革であった。業務改革に反対する抵抗勢力を権力と血で粛清した事件である。その抵抗勢力が尊皇攘夷派であった。尊皇攘夷派も開国派とも、国を憂い、熱く思うがゆえに、行動が過激となった。阿片戦争(1840~1842年)での清朝の大敗、植民地化の情報、ペリーの開国強要等の外圧で、国際情勢に精通した良識在るリーダーは、国内の危機意識に沸騰寸前であった。国際情勢状況を把握しない理想論に燃えた尊皇攘夷派が国論を乱していた。

  この大獄で明治維新の創造の原動力となった精神面と行動面の2人の偉人が連座した。精神面の指導者の吉田松陰が死罪となり、行動面で頭角を表した西郷隆盛が遠島に処せきられる。

 幕吏に追われて、二人を守りきれなくなった薩摩藩は僧の月照と西郷の二人を追い詰め、西郷は月照と一緒に入水自殺を図り、月照は死亡したが西郷は命を取りとめた。幕府に遠慮した薩摩藩が、彼を死亡したとして届け、彼の名前を偽って遠島に処した。遠島での自己への内観と読書が彼を明治維新へのエネルギーに変えた。

 

平成の大獄と業務改革

 トヨタ自動車の奥田碩社長(当時)がその立場なら、「せめて改革の足を引っ張らないで、何もしないでくれ...」と訴えたであろう。それを思うと現代の業務改革は直接的に命までは取らないので幸せかもしれない。埋木舎で15年間も修行に励んだ井伊直弼公とマニラで6年半も間、冷や飯を食わされた奥田碩氏は、なにか人物的に重なるものがあり、前職では注目していた親会社の社長である。私は当時、室長として全社プロジェクトの一環として、自分の室内の業務改革に取り組んでいた。

 1995年8月、28年ぶりに豊田家出身以外で奥田碩氏が代表取締役社長に就任した。奥田社長は、それまで保守的のイメージアがあったトヨタを改革した。世界に先駆けてハイブリッド車「プリウス」をトップダウン判断で発売した。また東富士研究所に直接訪れ、それまでトヨタが敬遠していたF1への参戦を指示した。社長就任直後にダイハツ工業の連結子会社化を断行した。就任翌年の1996年には常務以上の役員19名のうち17名を総入れ替えした(斬首)。1997年には社長直轄組織のVVC(ヴァーチャル・ベンチャー・カンパニー)を設立、稟議書の決裁速度の速さも有名だった。奥田社長時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年で40%代まで回復させた。奥田社長時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、彼の改革を手本にする企業まで出てきた。前職の会社もその影響で、業務改革にまい進した。奥田社長は1997年には、米「ビジネスウィーク」誌で、世界最優秀経営者の1人に選出された。

 

 しかし、その陰で、業務改革、自己改革に遅れた会社や個人が、市場競争に破れて、リストラ、倒産に至り、家族が路頭に迷う事態に陥っている。トヨタの躍進の陰で、家族経営の鏡といわれた松下電器が、1万人を超えるリストラをする展開となった。その背景には、役員同士の醜い派閥抗争があった。まるで幕末の尊王攘夷派と開国派の戦いのようである。

 そして日本社会全体では年間、約34,000人(1999年)が自ら命を絶っている。そのうち経営者・管理者は毎年14,000名を数える。その傾向はバルブがはじけて、高度成長期かちデフレ下の低成長時代の移行で、さらに顕著になった。米国からのグローバル経済企業を通しての米国から規制緩和要求、関税撤廃の要求、中国や東南アジアからの低価格高品質の製品の流入は、正に幕末の開国の圧力に相当する。

 グローバル経済主義企業が、現地の弱小企業を飲み込み、形を変えた植民地政策を始めた。外国資本の現地合弁企業の利益は、海外の株主に流失してしまう。現地人の給与は安ければ安いだけ、外国資本が儲かるシステムなので、現地国民の暮らしは良くならない。

 その間接的な影響で日本国内では年間1万人の自殺者の増加となっている。特に自営業者・管理者の自殺が増えている。安政の大獄の犠牲者は79名であったが、現代の自殺者数からいくと、デフレ下で業務改革と政治の改革をなおざりにした結果の犠牲者はケタ違いである。

 

1)トップの判断  ―― 国の舵取りとしての選択 ――

井伊直弼公は、朝廷に意見を伺うのだか、朝廷の側近の反対派による裏工作のため開国の朝許がでない。この国家存亡の危機の時、井伊大老は国の最高責任者として、朝裁もへず、彼は独断でアメリカ総領事タンゼント・ハリスと通商条約を決済した(1858年)。彼は行政の最高責任者として、これは朝廷の裁断事項でないとして、彼の責任で米国と調印する。この時点で、彼は国家のために命を捧げる決断をした。国を思う苦渋に満ちた決断であった。座禅を通して修行を積んだ直弼は、今ここを生きるという選択をした。自身の身を捨てたリーダーは、一段高い位置から状況を把握できる。まさに直弼は「千古を洞観し、古今を一視する」して自身の天命を悟った心境で政治にとりくんだと言える。

 

図1 安政の大獄の対象者

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年6月25日 (日)

「桜田門外ノ変」の検証 (1/20)

 歴史の事件である「桜田門外の変」を調べるほどに、業務改革の進め方や危機管理でのリーダーの取るべき行動に、多くの示唆を得た。歴史を学ぶことは、人生を学ぶことだ。私は、この歴史の事件から下記のことを学んだ。

 

①トップの判断能力(舵取りに誤りがないか)

②リーダー自己訓練 (自己の性格分析と訓練はしたか)

③監査組織の機能 (側近は歯止めをかけたか)

④危機管理マニュアルの整備 (用意周到な対策を行ったか)

⑤護衛のリーダー訓練 (護衛のリーダーは機能したか)

⑥最新技術、情報の収集 (ハイテクに対応できたか)

⑦危機管理の基本遵守 (当たり前のことをしたか)

⑧代役のリーダー育成 

 

 井伊直弼公(1815~1860)は、毀誉褒貶の激しい政治家である。当時は独裁者の赤鬼として恐れられた。特に長州では、吉田松陰先生を殺した極悪非道の独裁者扱いである。歴史は常に勝者側(明治政府)の立場で書かれている。特に敗者側には残っている資料も少なく、どうしても不当な扱いをうける。

 

何が真実か

 安岡正篤師は「過去の出来事を正確に伝えることは至難の業である。真実というのはわかりにくい。歴史は容易には信じられないものです」と三島由紀夫氏に語っている。同じ事実を見ても、100人の観察者に100人の見解がある。全て解釈の違いである。ニーチェも「There is no fact, only interpretation .(この世に事実はない。あるのは解釈の違いだけ)」と真言を述べている。

 

 現在でも、井伊家の女直虎を巡って論争が絶えない。論を唱える人は、あくまで己の利権(名誉や自分の自己満足も含む)で話をしているに過ぎない。それが白黒どちらでもあまり関係がない、が私の意見である。価値観は時代で変わり、見る人により、評価が180度変わる。人生時間が残り少ない(あと42年?)私には、そんな些細なことに付き合ってなどいられない。その解釈が、現代社会に与える付加価値だけの問題である。それで彦根が有名になり、観光客が増えて経済が活性化すれば結構なことだ。後日、実は直虎はやはり男でしたとして、また金儲けをすればよい話である。人でも、会社でも、政府でも、報道機関でさえ、異論奇論の間違いをしまくっているのに、昔の事件の解釈など、百家万論が乱れ飛んで当たり前である。それで、皆さんが歴史に興味を持ち、日本経済が活性化して、皆さんが幸せになれば、直虎が男であろうと女であろう知ったことではない。所詮、NHKの大河ドラマは、史実を勝手に解釈して、万人受けするお話に脚色しているおとぎ話に過ぎない。直虎が男では全く受けないので、脚本家が失業してしまう。それでは、NHKの経営がなりゆかない。つまり大河ドラマは日曜日夜の(NHKの経営を助けるための)助け合い番組である。年末の助け合い運動の変形と見れば、いちいち目くじらを立てるのは、大人げない。時の報道の権力者(NHK)が、「上意である」として、商売として直虎女性論を掲げているに過ぎない。昔はそれで通ったが、今はそれを脅かす情報源が林立している。我々は冷静に、その背後にある利権を見極めて対応すればよい。

 

 いくら直近の祐筆が書いた文書でも、直近であるがゆえに、お殿様の本当のことは書けないかもしれない。真実は神仏のみ知るである。石田三成に至っては、徳川政権時代に、徹底的に悪者扱いをされ、その居城の佐和山城は徹底的に破壊され、歴史の中に埋葬された。そうすることが、徳川政権にとって価値(付加価値)があったに過ぎない。石田三成は、名君であったし、徳川家康以上の人徳もあり、徳川家康が恐怖を感じたほど頭が切れ、己の利のために関ヶ原の戦いを仕掛けたわけではない。しかし、徳川政権は己の正当性を高める為、石田三成は悪者でなければ困るのである。それが分かっていたので、石田三成本人を公開処刑にはしたが、徳川家康はその子供までは追究せず、関ヶ原の戦い後に東北の弘前藩に逃げた石田三成の次男(後日、弘前藩の家老)、を捕らえはしなかった。長男の助命もしている。

 

 現代社会の報道でさえ、誤報だらけである。戦後、日本政府が発刊した戦前の教科書の歴史事項に間違いがあったとして、生徒に墨で黒く塗りつぶさせた。朝日新聞は、慰安婦事件や南京事件でうその報道をしまくて来た。日本社会党は、北朝鮮による日本人拉致はありませんと広報しまくってきた。時の民主党政権は、福島原発事故の直後の報道で、己の都合の悪い報道はしなかった。 

 現代でも、目を凝らし、耳を澄ませ、報道する相手を見極めないと、何が真実かなど分かりはしない。まして200年前の歴史事件などは、である。

 

井伊直弼公は革命家

 井伊直弼公は一応保守派であると言われているが、私は革命家であったと思う。それも体制側の革命家である。体制側には権力を握った既成勢力が存在し、既得権を手離すのを嫌い、現状を変えることに徹底した抵抗を示す。それ故、体制側からの自律的改革はなかなかに進まない。新たに改革を断行、革命を起こすのが革命者ではない。現状の当たり前のことがなされなくなって制度疲労をおこした組織を建て直す業務も、改革である。

 

 「国家の事業として、創業と守成でどちらが難しいか」を唐の大宗(598~649)が重臣たちに問うて、議論が紛糾した故事がある。創業は外からの改革者や反乱者が過去のしがらみに囚われず、旧体制を破壊して新組織を打ち立てて創業が成立する。歴史をひもとく時、国や組織が改革を進めるのは常に外からの圧力で、その外圧を利用して反体制側が現政府を倒す形で革命が成立する。また完成した組織を守るのも、組織の疲弊を補修・維持する困難さは歴史に例を多く見る。体制側が現体制を維持しながら革命をなし遂げた例は稀有である。

 組織内にあって、疲労破壊に向かって進む組織を自ら改革をなし遂げて建て直すのは、一番困難で、歴史上でも成功した例は数少ない。その組織内にあって、その困難な事業に着手して、志半ばで倒れたのが井伊直弼公である。志は道半ばであったが、その意志は近代国家誕生の道火となった。

 

桜田門外の変

 「桜田門外の変」とは、安政7年(1860年)3月3日の大雪が降った午前9時ごろ、節句の祝賀を将軍に捧上するため江戸城桜田門に向けて出発した大老井伊直弼の60人の行列に、潜んでいた18名の刺客が襲いかかり、井伊大老を暗殺した事件である。時の幕府最高権力者が、たった18名のテロリストによって江戸城下のお膝元で簡単に首を取られた事件は、幕府の威信が失墜したことを世間に知らしめ、幕末争乱の幕が切って落とされ、江戸幕府崩壊、明治維新につながっていく。

 そのドラマは刺客の囮の一人の武士が訴状を持って行列の先頭に迫り、突然供の者を切り付けたことから幕開けする。このため、井伊直弼の駕籠の近くにいた護衛の武士の多くが先頭に集結して、応戦して駕籠の近くには誰も居なくなった。襲撃側の直訴状を掲げて、籠の近くに平伏していた一人が、駕籠に銃を至近距離から発射した。その一発が井伊直弼の腰を打ち抜き、彼は致命傷に近い傷を受け身動きができなくなった。そこを多くの水戸浪人の襲撃隊が井伊大老に襲いかかり、大老は首を取られて非業の死を遂げる。

 護衛側の彦根藩士の被害者は、即死4名、後日死亡4名、重軽傷者の被害16名で傷の後遺症で体の自由を失った者が多い。

 水戸浪人を中心とした襲撃側の18名のたどった道は、討ち死が1名で、襲撃後、傷のため自殺3名、自首8名(自首後傷のため死亡3名、後に死刑5名)である。脱走者は5名(脱走後、捕縛され死刑になった者2名、最後まで逃亡して生存した者3名)である。

 

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