「桜田門外ノ変」の検証 (4/25)
(3)監査組織の機能 ―― 側近の問題 ――
「安政の大獄」の実質的なリーダーは、京都の大老と呼ばれた長野主膳であった。井伊直弼公と長野主膳は長く不遇の時を持ち、共に同じような鬱積した考えを持っていた。二人が光を浴びて表舞台で活躍を始めたが、主従の関係が同じ思想で、部下に対する過剰な権限委譲が、「安政の大獄」に突き走らせた要因と言える。歴史の是非は問えないが、ブレーキとなる側近がいないと、どうしても組織として暴走しがちなのは東西の歴史の教えである。あまりに二人とも純粋であったのが、結果として「安政の大獄」を生み出した。志が同じなのは良い。しかしリーダーの暴走を止める側近の存在が必要であった。
現代名門企業の経営補佐役
ホンダを創業した本田宗一郎氏も経営者としてはチャランポランタンであったが、後ろで藤沢武夫がしっかり手綱を握っていた。本田宗一郎は、自分を知っていたため、会社の印を藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。本田は社印も実印も押したことがなく、技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べている。藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べて、互いに補完の関係の経営をしていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えで、身内を入社させなかった。本田が引退した時、藤沢も同時に引退した。きれいな引き際である。
松下電器は、その反対に身内が会社の使命を放棄して会社をかき乱し、それが役員間で派閥抗争になり、経営の迷走を生んだ。それが松下電器と他の会社の命運を分けた原因である。最大の被害者はそれにより1万人のリストラをされた従業員である。
トヨタ自動車も血縁経営であるが、創業者と歴代の大番頭の存在があり、両輪の経営をして、現在の姿がある。
井伊直弼公は、15年間に及ぶ世捨て人のような扱いに埋木舎で悶々としていた。無能なら何も悩まないだろうが、直弼公はあまりに才能があり過ぎた。その心境の井伊直弼公を尋ねてきた長野主膳に、井伊直弼公は3日3晩互いに語り明かして、心を許した。
私も前職で、正義を通したため理不尽な不遇の時代を経験した。その時、心情を理解してくれる仲間に出会うと、砂漠でオアシスにたどり着いたような心情となる。
「何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ」
私はこの言葉は、自分がスランプや不遇の時に思い出して励ましの言葉としてきた。語源は三洋電機の後藤清一氏との説もあるが、私は道元禅師の言葉として聞いたことがある。禅の言葉として私の20代後半のころから大事にしてきた。図2は、当時、名古屋の毎日文化センターで、週末の1時間、加藤梅香先生から、習字を習っていた時、お手本として揮毫して頂いた書です(1980年頃)。女子マラソンの高橋尚子さんもこの言葉で2004年に金メダルを取ったという。
彦根藩の幕末の激変
改革者への歴史の波は過酷である。人生の絶頂期を迎えて藩の要職にあった長野主膳は、「桜田門外の変」の後、藩の政治の激変で、政治の反対派から捕らえられて、藩を存亡の危機に陥れた張本人として、首を切られる。首を切られた場所が史跡として、彦根観光地図に記載されている。そのお墓が天寧寺(彦根)にある。
図1 埋木舎で語り合う井伊直弼公と長野主膳 (彦根 埋木舎)
図2 何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ(加藤梅香書)
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。
書の著作権は加藤梅香師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。
コメント