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2017年6月27日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (3/20)

(2)リーダー自己鍛錬  ―― リーダーとしての性格と生い立ち ――

  彼は井伊家の側室の子で14男である。本来なら井伊家の当主には、どう間違ってもなれるはずがなかった。それが運命のいたずらで、なおかつ最も国難の非常時に藩主になり、また井伊家が名門故と、幕府内の権力争いの偶然から、国難時の舵取りの大老にまで任命される。大老職は非常時の時だけ設けられる職位である。当然、側室の傍流故の過剰な意識から、また非常時故の過剰な責任感から、過剰なリーダーシップの取り方にならざるを得ない状況に追い込まれたといえる。

 また彼は不遇の時期である埋木舎の15年間、1日4時間で睡眠は足るとして自己鍛練を続けて、文武両面でその道を究めている。当然、自己に対して厳しい姿勢、強い責任感、組織やルールの規律への厳しさ、厳格さを自然と身につけたといえる。

 

井伊直弼公の性格診断

 1950年に米国の心理学者エリック・バーン博士が開発したTA(対人交流 Transactional  Analysis)の理論から言えば、CP(Critical Patent、厳しい親)の要素がかなり大きな数値を示す人物であったと言える。このCPは組織のリーダーには欠く事のできない性格である。このタイプは自己に厳しいのは当然だか、組織の全員に規律を厳しく求める。そこで当然、反発や軋轢が生じる。彼の性格から、組織の秩序やしきたり無視する輩には、極端な嫌悪感を抱き、それが組織の崩壊に繋がるとして危機管理としてその者を排除しようとする。理想に燃えて危機感を持つリーダーであればあるほど、その組織を乱す行為をする人を反逆者と捉えがちである。外国からの開国の圧力や清国の植民地化の情報の状況で、勝手に朝廷との交渉をはじめ、幕府に無断で攘夷の朝勅を頂く段取りをして、勝手に江戸城の掟を破って、意見を述べに来る水戸藩主の徳川斉昭らの横暴さを彼は許せなかった。その厳格な性格が、彼に組織の存亡への過剰な危機感を抱かせ、安政の大獄に向かっていった。

 

  私もCP値はかなり高い方である。現在は自己分析・訓練をしてかなり押さえてはいる。それでも本来の性格が影響を残している。そんな同じ性格の身から井伊直弼を見る時、限りなく彼の心情が理解できる。目の前に氷山がある。そのまま進むと氷山に激突して日本丸は沈没する。船長として思いっきり取り舵を指示しているが、公然とそれに反対して、面舵を画策する主君筋の名門軍団がいる。権力を持ち、理想に燃えた彼が選択した「安政の大獄」は自然の成り行きであった。大きな組織であればあるほど、慣性が大きく、おいそれとは方向が変わらない。そんな現実を踏まえて、江戸幕府という大船の船長である井伊直弼公は、大船の舵を取る難しさに悩んだはず。私ならどうしたであろうか。

 世の中では、最高のことしか起こらない。それが安政の大獄であり、桜田門外の変であり、その結果が明治維新であったと、歴史は語る。

 

私の業務改革 IT業務改革

 2004年、私は役員会にIT業務改革を提案して認められ、その推進の事務局を任された。当時の事業部は、まだまだITを使った業務改革に疎く、私も担当業務である三次元CADの推進で頭を抱えていた。それには全事業部を巻き込んで推進すれば良いと思っての提案であった。将を射るにはまず馬を攻めよ、である。提案したら、時の事業本部長が乗り気になり、すぐGOがかかった。事務局として、事業部の全職場を事業本部長のお供で点検して回れる機会に恵まれた。このお陰で、全職場の業務内容を、その部長から事業本部長の横で聞くことができて、現在の事業部の問題点と課題が見えて経営の勉強に大変役立った。

 事務局として見ると、いい加減な部長や、それを邪魔する部長もおり、井伊直弼公の開国への反対する輩への怒りと同じ心境となった。当時は、ITに疎いおじさん達軍団の部長達が跋扈しており、ITは敬遠される事項であった。当時の森首相にいたっては、ITを「それってなに?」という低落であった。まるで鎖国を続けて太平の世に浸かっていた江戸末期に、過激な開国を唱えるようなものである。尊王攘夷として、従来の紙の図面が天皇様で、新参のデジタル化図面などとんでもないである。世界は三次元CAD化の推進で嵐が吹き、大手自動車メーカーが競ってIT業務推進をしていた。私は、担当業務の三次元CAD化の推進で悩み、グループ会社の連絡会で他社の進んだ状況を見せつけられていた。だから当社の状況に危機感を持って上記のIT業務改革を提案したのが経緯である。

 

和敬静寂

 私が大老なら、当時の部長達を大獄に送ってやりたかった。でも今思い出すと、己も若く考えが未熟だね、である。当時のITベンダーは金儲けのため、過剰宣伝でやり過ぎていた。少し実務とは乖離したITツールを売り込んでいたのが現実であった。大きき組織は、小魚の料理の様にはいかず、大魚の料理方法がある。時間をかけて料理しないと、煮崩れを起こし「桜田門外の変」を招く。後世の人間は、なんとでも批判できるが、あの時点では、井伊直弼公の選択は最高の解決方法であったと信じたい。諸外国の植民地化の魔の手という火事が迫っているときは、まず火事を防ぐのが最優先である。

 アジアで植民地化の魔の手を逃れられたのは、日本とタイしかない。タイは地理的な状況で、幸運にも列強諸国が手を出しそびれていたに過ぎない。日本が植民地化の魔の手を逃れれられたのは、強力な軍隊(各藩の武士軍団)が存在したためである。武士道で死ぬことを恐れない。、腰の刀を差した武士の存在が大きかった。貴族、丸腰の商人、町民、農民、だけなら日本は間違いなく植民地にされていた。非武装中立はたわごとで、永世中立国のスイスは軍隊があり徴兵制がある。

 

  彼は好んで「和敬静寂」という禅の言葉を書にしている。彼は清涼寺で禅の修行を積み一角の境地に達していた。この言葉は、相手を敬えば、その結果が居心地のよい清々して関係ができることである。彼は和を大事にしていた。相手を無視して、組織の和を乱す人間や行為は許せなかったのだ。国難の非常時に全社(全藩)一丸となって国を守らねばならないのに、それを妨害する人間が許せない。そういうCP的な性格が前面に出た行動を取らざるを得なかった。それが「安政の大獄」である。

 

井伊直政公の生まれ変わり

  井伊家の創業者は井伊直政公である。彼の性格と井伊直弼公の性格がよく似ている。それは徳川家の再興を期待された最後の将軍徳川慶喜が、徳川家康公の生まれ変わりと言われたのとよく似ている。井伊直政公は平時には温厚な人であるが、一旦戦時や筋が通らない場面になる、井伊家の赤鬼と呼ばれたような激しい性格を表す。戦いでは全身赤い装具を身につけ、真っ先に飛び出し暴れ回り、井伊家の赤備え、赤鬼として恐れられた。戦いすんで家康の元を出奔して秀吉に使えた石川数正が同席しているのを見ると、「祖先より仕えた主君に背いて、殿下(秀吉)に従う臆病者と肩を並べるのは御免こうむりたい」と一括して席を立った。彼は冷静な判断力と炎のような気概をもっていた。

 

その点で、井伊直弼公も直政公の血を色濃く受け継いでいる。井伊直弼公は当初、彦根の赤牛と呼ばれ寡黙な老中であったが、大老になって井伊家の赤鬼として辣腕を振るった。その点で井伊長政公とよく似ている。

 

 

図1 和敬清寂  馬場恵峰書

 明徳塾でこの書をみつけて、井伊直弼公の好んだ言葉だと気づいて入手をした。

 

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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書の著作権は馬場恵峰師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

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