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2017年8月 5日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (17/25)冬夜

大垣藩と安政の大獄

「冬夜」の碑

大垣市立図書館前の公園内にあるこの碑文「冬夜」は、勉学に励む当時の大垣藩の藩医江馬家の家庭の雰囲気を伝えている。文面の書もなかなかに名筆である。大垣藩は多くの学者や文人を輩出した「文教のまち・大垣」として全国に知られている。下記の詩は、当時、人生50年の時代にもかかわらず、80歳の父が時代の最先端情報である欧・蘭書を精読している横で、灯火を分け合って、娘(40歳)が中国の古典を読んで勉学に励んでいる様を格調高く漢詩にしている。毎朝の散歩でここを通る時、当時の大垣藩の教育と文化に思いを馳せる。

 

冬夜                             江馬細香

爺は欧蘭書の原書を精読し

児は唐宗の漢詩を読む

一灯の光を分かち合い

物事の根本や時代を遡る

児は飽きて甘物を思う

一心に蘭書に向かう爺の姿に、

爺の精神力に及ばぬ己を恥じる

齢80爺の眼に曇りなし      (訳 著者) 

 

 作者の江馬細香(多保)は、大垣藩主の信任厚い藩医、江場蘭斎の長女として生まれ、この時代には珍しく高度な教育を受け、芸術面で才能を発揮した。蘭斎は細香が18歳になった頃、婿養子を迎えて家を継がせようとした。そのとき細香が「結婚しないで芸術の道に精進したい」とその気持ちを父に伝えると、蘭斎はあっさりとその願いを聞き入れ、妹の柘植子に婿養子を迎えてしまった。分かりのよい親である。現代でも難しいのに封建時代の話である。

 文化10年(1813)10月、頼山陽は大垣藩の江馬蘭斎を訪ねて大いに歓待された。頼山陽は、江戸後期の儒者・詩人で『日本外史』の著者として広く知られている。明治維新の際に、勤王方の若い青年たちに広く読まれ、彼らの士気を鼓舞したといわれる。このとき細香と出会い、お互い好意を寄せる感情を抱いた。彼女は彼を尊敬し、門人になり「細香」という号をもらった。時に彼女は27歳の才色兼備の佳人であった。その後、頼山陽は多保(細香)に、求婚をしたが、江馬蘭斎が結婚には反対し実現しなかった。しかし、彼の才能を認めて娘の入門は許している。結局、頼山陽は別の女性(梨影(りえ)17歳)と結婚した。彼女は父が縁談を断ったことを知り、塞ぎこむ日々を送ったが、気を取り直し、話を戻してもらおうと翌春に上京して頼山陽の元を訪ねたが、彼は結婚した後であった。落胆した彼女ではあったが、その現実を受け入れ、その後、頼山陽が亡くなるまで20年間に7度、従学し、漢詩を師事し続けた。また頼山陽の母に対しても、子のように接した。頼山陽の死後も、彼の妻と姉妹のような交際が続き、ついに一生を独身で終った。頼山陽のような、才能豊かで人格も高く、当代きっての人物に知遇を得ると、他の男性が見劣りするのであろう。

 頼山陽の影響もあってか、細香女史は、早くから勤皇の大義に目覚めて、慷慨国家を憂へた女丈夫でもあったようである。安政の大獄では、頼山陽の妻も牢に入れられ、子息も幕府から追われ、捕縛され斬首されている。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていた。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在せず、「冬夜」の漢詩も存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

【江馬 細香】(1787~1861)

 江馬 細香(天明7年4月4日(1787年5月20日)- 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の恋人であった。

 江馬 蘭斎】(1747~1838)

 伝馬町で版木彫を職業としていた鶴見壮蔵の長男として生まれる。大垣藩侍医江馬元澄の養子となり、医学の道に進む。大垣藩主氏教の侍医を勤める。養父を師として漢方医として活躍したが、46歳で蘭学を志し、江戸で前野良沢や杉田玄白に学び、大阪・京都よりも早く美濃に西洋医学をもたらした。患者には慈悲深く接し、自らは倹約を第一義として、硯の水さえ井戸水を用いず、雨水を受けて用いた。優れた才知を持って学門に励むとともに、蘭学塾「好蘭堂」を創設し、多くの門人を世に送り出した。

 この時代にあって92歳までの驚異的な長寿を全うした。「冬夜」の書かれた当時、80歳でまだ現役として、西洋医学の研究に励み、若人の指導にあたり、最期まで現役として活躍された。理想とする人生の歩き方である。人生50年といわれた時代、また侍医として誰よりも保障された身分にもかかわらず、46歳から全く新しい蘭学の志ざした。だからこそ、92歳まで活躍されたのだろう。そんな名声を聞いて、頼山陽が江馬 蘭斎のもとを訪ねてきて、細香とのめぐり合いの縁が生じたのである。

 

図1 「冬夜」の碑(公園内) 2011年1月17日撮影

 

 

2017-08-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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