« 経営診断♠インプラント その1 | メイン | インプラント 2  歯科医の立場から »

2017年7月12日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (5/25)(改定)

 井伊直弼公の墓所

 五百羅漢で有名な天寧寺に、井伊直弼公の供養塔が建つ。彦根藩は「桜田門外ノ変」の時の血染めの土や衣装類を、四斗樽に納めて急ぎ裏街道を通って彦根に持ち帰り、この天寧寺に埋葬した。翌年1861年、彦根藩はこの井伊直弼公供養塔を建立した。当時は、井伊直弼公の死は病死としてしか公表できず、そのため井伊直弼公の私的なお寺として存在したこの天寧寺に埋葬せざるを得なかったようだ。井伊直弼公は、埋木舎の不遇の時代、父直中公のお寺として頻繁にお参りをしていた。

 天寧寺には、「桜田門外ノ変」の時、籠内に置かれた座布団が寺の寺宝として保管されている。その座布団に井伊直弼公の血の跡が染み込んでいる。その座布団があまりに畏れ多いので、埋葬せず寺宝として保管されたという。この座布団と井伊直中公と井伊直弼公の肖像画が、毎年3月28日、このお寺で特別公開される。3月28日は、彦根藩が幕府に病死として届けた日で、毎年、この日に供養祭が天寧寺で行われる。

 井伊直弼公の正式のお墓は、豪徳寺(東京)と清凉寺(彦根)に建てられている。その昔、公的機関が豪徳寺の井伊直弼公のお墓の歴史調査を行ったが、何も入っていなかったという。当時の激しい世相から、盗掘を恐れて、別の秘密の場所に埋葬されたようだ。井伊直弼公の位牌は、彦根の殆どのお寺で祭壇に飾られている。井伊直弼公は彦根の名君であり今でも慕われている。

長野主膳の墓所が、井伊直弼公供養塔の横に(南側)平伏するがごとくに立っている。その横の後ろで、彦根城を眼下に見る形で「たか女」の墓が立つ。

天寧寺の由来

 五百羅漢の天寧寺は、井伊直弼公の父である井伊直中公が自分の過失で手打ちにした腰元と初孫の菩提を弔うため、禅宗界屈指の名僧寂室堅光禅師の勤めで発願建立した。文政2年(1819年)の春、男子禁制の槻御殿(現在の楽々園)で大椿事が持ち上がった。奥勤めの腰元若竹がお子を宿しているらしいとの風評が広まり、それが藩主の耳にも届いたのである。大奥の取り締まりのためにも相手の名を詰問したが、口を固く閉じて相手を明かさない。遂には、不義はお家の法度であるという掟によりお手打ちとなった。後になって若竹の相手が長男直清であったことが明らかになり、直中公も不知とはいえ若竹と腹の子(初孫)を葬ったことに心を痛め追善供養のため、京都の大仏師駒井朝運に命じて五百羅漢を彫らしめ安置されたのである。(天寧寺パンフレットより 2017年7月3日)

 お殿様の長男直清に手籠めにされ、子をなしても口を割らなかった若竹に仏の姿を見る。畏れながらと、真実を告白すれば命は助かるし、子は大名の血筋の子として大事に育てられる。それを不義として受け入れ、黙って手打ちにされた。当時の日本の腰元としても信じられない行動である。本来手籠めにされて、不本意ではあるが、自分を愛してくれたお殿様をかばった姿である。そこに日本人として神仏からの不遇を黙った受け入れる日本人を見る。私は仏の姿をその中に見る。その遠因があり、本来、直弼公には絶対に回ってくるはずのない直中公の跡継ぎの座が舞い込んでくる。当時、直弼公は直中公の14男であったので、その前には13人もの跡継ぎ候補がいた。腰元若竹に、日本の将来を見越した仏の采配の姿を見る。

 佛はいつも我々を試している。試された我々は、どう行動したのか。長男直清は、自分が手籠めにした女と腹の中の子を見殺しにした。彼は病弱として文化3年(1806年)に廃嫡にされており、1825年に35歳で没する。次男の直亮が文化3年(1806年)に庶子とされ、文化9年(1812年)2月5日の父の隠居により、家督を継いで第14代藩主となる。父直中公の隠居は、前年1811年の若竹をお手打ちにした慙愧の念が影響していたかもしれない。直亮には実子がなく、弟(直中の11男)の直元を養嗣子にした。直亮は、直元が弘化3年(1846年)に早世したため、その弟(直中の14男)で国元にいた直弼を養嗣子とした。それで直弼が第15代藩主となる縁起が生じた。これこそが、佛が織りなすカラクリである。「天之機緘不測」(菜根譚)、天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできない。

 直中公は追善供養としてお寺をこの山に建て、五百羅漢を彫らせた。単純計算で1体300万円とすると15億円である。本堂や他の施設を含めると10億円か100億円単位のお金がかかっている。その分、直中公の慙愧の念が強かったと言える。その功徳があったから、その後の井伊家の存続がある。

井伊家の歴史

以上を下記に年号順に並べると、齟齬がみつかり、思案に暮れている。詳細を現在調査中です。

1791年 直清が直中公の長男として出生

1806年 直清が廃嫡、直亮が庶子になる。

1811年 若竹の供養のため、宗徳寺を移築して本堂を建立

1812年 直中公が隠居、家督を次男直亮が継ぐ

1815年 直弼が直中公50歳の子の14男として出生。長野主膳、ビスマルクが同年の誕生。    

1819年 腰元若竹の懐妊、直中公がお手打ち (年号は1811年の間違い?)

1825年 直清死去。35歳

1846年 直弼が直亮の養嗣子となる。

1850年 直亮の死去により直弼が第15代藩主となる。

1958年 直弼が大老に就任

1860年 桜田門外の変で直弼暗殺される。享年46歳

豪徳寺の墓所

 豪徳寺は、井伊家の菩提寺として歴代の井伊家のお殿様のお墓が祭られている。豪徳寺にある井伊直弼公のお墓の後ろに、日下部三郎右衛門を筆頭とした殉死八人碑が建つ。まるで井伊直弼公のお墓を見守るようである。その井伊家御廟のすぐ外に、日下部鳴鶴のお墓が建つ。豪徳寺の門を入ってすぐの場所に、井伊家を顕彰した日下部鳴鶴書の碑文がそびえ立つ。鳴鶴の書は素晴らしい書体である。日下部鳴鶴の碑文の字体を見ると、確かに恵峰師とそっくりである。

日本一の布袋尊

 この天寧寺の布袋尊は、背が1.2m、重さ300kgという木造日本一の大きさで、御利益も超大型・・・・とか。そのおへその触ればヘソクリができ、扇に触れば福来る。袋に触れば病気を封じるとされる神様として崇められている。井伊家が幕末の激動の中を生き延びられたのは、ご縁の陰徳というヘソクリのご利益かもしれない。

羅漢石庭

 この天寧寺の「この石庭は、お釈迦様の御教えを羅漢様とともに静かに心の刻む拠り所として作られました。中央の大きな石はお釈迦様の身近にあったインド仏蹟の石です。周りの16の石は16羅漢様をあらわしています。白砂にはインドの仏蹟「尼連禅河」のお砂が入っています。お釈迦様への敬慕の念を込めてつくられた石庭を拝し見ますと、インド仏蹟聖地巡拝の功徳があります。(作庭は斯界随一の中根金作氏)」と掲示パネルに記載がある。その向こうの眼下に彦根城と琵琶湖の借景がある。井伊直中公は、自分の居城が眼下に小さく映る様を、己の小ささとして感じたのかもしれない。

五百羅漢と対話

 2017年7月3日、天寧寺に参拝して仏殿内の釈迦と十大弟子・十六羅漢・五百羅漢が祭られている本堂でしばしの時間を過ごした。探し求めれば必ず出会えると言われる五百羅漢が見つめる中である。その佛の1054の眼が黙って己を見つめる。その誰もいない静寂な空間で、桜田門外の変の意味と己の役割を考えた。井伊直中公は、どんな思いでこのお寺を建立し、お参りをしていたのか。13人も子供がいながら孫が生まれず、その初孫を己の手で殺めざるを得なかった業に、何を感じたのか。頻繁にこの寺にお参りをした井伊直弼公は、安政の大獄で多くの処罰者を出すが、今まで彼は家臣を一人もお手打ちをしたことはない。井伊直弼公は、結果として、旧日本国(徳川幕府)を殺めて、新日本国(明治政府)を生むご縁を創った。

 

図1 井伊直弼公の供養塔(天寧寺・彦根)

図2 長野主膳のお墓(天寧寺・彦根)

図3 たか女のお墓(天寧寺・彦根)

図4 井伊家の墓所 (豪徳寺・東京)

図5 井伊直弼公のお墓 (豪徳寺・東京)

図6 井伊直弼公のお墓を守るように日下部三郎右衛門筆頭の殉死八人碑が後ろに建つ

図7 殉死八人碑 (豪徳寺・東京)

図8 羅漢石庭

図9~11 仏殿 五百羅漢

 

2017-07-12

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

Photo_2

2p1080955

3p1080956

5

69l4a8380

7

Photo_4

Photo_5

11

10_2

コメント

コメントを投稿