« 磨墨智 73. 勉強とは種まき | メイン | 410a. 時間を観る目を養え »

2017年8月 8日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (8/25)最新技術

(6)最新技術、情報の収集

 最初のたった一発の銃弾が井伊直弼の腰を貫き、致命傷に近い傷を与えた。そのため、彼はなんの抵抗もできず、駕籠から引きずり出され首を落とされる。彼は埋木舎で、世に出る前の期間、武芸に励み居合術で免許皆伝である。彼は並の大名とは違い、文武兼備の才人である。いざとなれば、彼自身も防戦に戦えば、護衛の数や彦根藩士の護衛の精鋭ぶりから言っても、簡単には暗殺は成功するはずが無い。そんな安易な考えがあったのであろう。

 当日は大雪であった。そのため、刀の錆防止で、護衛側の藩士の刀は刀袋で封印されていた。それも防御側の反撃に、時間遅れが出た原因の一つである。直接の襲撃の警告がなくても、その備えをするのが、危機管理である。襲撃の危険は十分に分かっていた。

 

「武田家の赤備え」から「井伊家の赤備え」へ

 最初に日本で鉄砲を使って戦いをしたのは、織田軍と武田軍の長篠の戦い(天正3年、1575年)である。勇猛で鳴る武田軍団は、織田軍のハイテクの鉄砲隊の前に惨敗する。井伊藩の初代井伊長政は、関ヶ原の戦いで多大の軍功を上げる。徳川家康は、井伊長政に武田家の軍色である赤の使用を許し、甲冑、指し物、倉に至るまで全部赤い色を使用した。井伊藩は「井伊家の赤備え」として恐れられた。ハイテクの鉄砲に破れた武田軍団の軍カラーの赤が、歴史の皮肉でもある。赤備えの井伊家は、鉄砲の前では、武田軍と同じ運命をたどった。

 せめて、駕籠に防弾の備えがあれば、状況は大きく変わったであろうが、人の手で担ぐ籠では、物理的に無理である。長篠の戦いで織田信長が鉄砲を使ったのは、桜田門外の変の286年前の話である。敵にハイテクで攻めて来るなら、防ぐ方も当然その備えが必要である。しかし公人である幕府のトップで、武道の達人として、臆病な姿勢も見せられず、そこに運命の皮肉を感じる。精神論的な戦いに対する姿勢が、この事件の根本にある。それは徳川幕府の開祖の徳川家康が戦乱の世の再来を嫌い、前例の無いことは認めないという幕府基本方針からして、物事の進歩を禁ずる方針が根底にある以上は、いたしかたないのかもしれない。いわば組織の疲労破壊である。幕府は倒れるべくして倒れた。それは自己会改革を怠ったためである。それを家康が暗黙に禁止をした。

 

己の敵は己

 しかし、どんなに固く守って、外からも内からも危機は忍び寄る。守りの天才の徳川家康もそこまでは思い至らなかった。昨日の勝者は今日の敗者になる。守るためには変わらなければならない。トヨタ自動車の奥田碩会長(1995~1999年社長、1999~2006年会長)は業界トップの座に安住せず、「トヨタの敵はトヨタである。打倒トヨタをスローガンに社内に檄を飛ばしている。現在好調のトヨタは、「たまたま今がよいだけで、10年後は分からない」として、危機感をもって業務改革を進めていた。

 

会社の業務改革

 トヨタの方針に影響されて、前職の会社でも業務改革が進められた。私も担当責任者として、業務のIT化がなかなか進まない現状に悩み、役員会に「IT業務改革点検」を提案して認められた。事務局として事業部全部署の点検を事務局として回る機会を得た。私は事務局として各部を点検に回って、現状を変えることへの抵抗は、非常に大きいのを再確認した。敵は外ではなく、身内である。総論賛成、各論賛成で悩まされた。「敵」の部長曰く「その改革案は素晴らしい、まず他の部署からやって欲しい」である。(2003年頃)

 

私の業務改革

 当時の私の最大の悩みは、図面の三次元化推進であった。技術管理部門の課長として、その推進を任されたが、技術部門やその後工程は、従来の二次元図面に固執して三次元化がなかなか進まなかった。親会社の方針で、三次元化を進めないと仕事がなくなるとの「脅迫」でなんとか進めていた。17年が経った目で検証すると、当時の技術レベルでは、自動車会社での三次元化と、部品メーカの三次元化には、個別に対応するの正しいと思う。部品メーカとして全部一律に、図面を三次元化していては儲からない。その工程ごとに最適な図面のあり方がある。強引に三次元化を進めて儲かるのは、自動車メーカとCADメーカである。

 技術部の部長は、「二次元図面から三次元形状が頭の中に描けられないのでは、設計者ではない」との持論があり、設計部門での展開が障害となっていた。それは20年間、図面を引いてきた設計者として、私も思っている持論であった。立場上、三次元化を推進させねばならぬ立場で、それも言えず苦しかった。そんな悩みの中、山本周五郎著『ながい坂』の言葉が励みとなった。

 「人はときによって」と宗厳寺の老師が穏やかに云った、「――いつも自分の好むようには生きられない、ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなければならないことがあるもんだ」(1-p130)

 

17年後の姿

 現在は、CADの性能も上がり、操作性も向上し、後工程にも三次元化の認識が広り、生産準備工程のツールとして一般化してきたようだ。当時の伝教者としての三次元化推進隊長としての当時の苦労が夢の様である。当時の部下から「当時の小田課長さんの頑張りがあったからこそ、今の三次元化の展開ができた」と言ってもらえて嬉しかった。一般的に伝教者の運命は悲惨である。当時も同業他社のIT部門の責任者が、心労で倒れていた。自分がそうでなかっただけ、幸せと思わねばなるまい。

 

井伊直弼公の先見性

 私の悩みは些細なものであったが、日本の政治のトップとして幕府業務改革に取り組んだ井伊直弼大老の悩みは、そんなレベルではなかったはずだ。ご心労を御察し申し上げます。時に、外交面(条約締結、開国)、内政(後任将軍選定、安政の大獄)で大筋の仕事も終わり、桜田門外の変での井伊直弼公の対応を見ると、直弼公は死に場所を求めていたのかもしれない。井伊直弼公の命をかけた伝教者としてのお役目を全うしたがために、今の日本の繁栄がある。頑強に鎖国を続けた隣国が、国の滅亡の憂き目にあったのは、歴史の冷酷さの証しである。国の改革を避けた清国は、桜田門外の変の34年後、日本に日清戦争(1894)で負けた。そして欧米列強による半植民地化が進み、清王朝は1912年に滅んだ。そして動乱の時代を迎えた。

 

2017-08-08

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

コメント

コメントを投稿