「桜田門外ノ変」の検証 (13/25)戒名
死に装束
彼は藩主の兄の死によって、彦根藩の領主になり、自分の意志とは関係なしに政治の表舞台に引き出される。それは「桜田門外の変」の5年前である。正に国難来る時である。その時の悩みや不安の心境を、故郷の親しい家臣宛に書状を送っている。その書面と一緒に彼の戒名を自筆で記した紙が同封された。
戒名 宗観院殿柳暁覚翁大居士
彼は老中になってから登城の際は、白装束の上に袴、紋付きを羽織っていた。そこに彼の決意が現れていた。死の覚悟はできているという死に装束の決意表明でもあった。彼は死の2ヶ月前の正月に正装した自分の肖像画を狩野永岳に描かせて、自詠の「あふみの海」とともに清涼寺に納めている。
あふみ(近江)の海
磯うつ浪のいくたびか
御世にこころをくだきぬるか那
その意味は「琵琶湖の磯もいくたびも、激しい浪が襲ってきている。それは正に日本の置かれている姿そのものである。そんな世の中で、私は日本国のため心をくだいている。そして心身ともに砕け散る覚悟がある」である。この歌には井伊直弼公は辞世の歌として詠んだ匂いがする。
近江の海とは琵琶湖を意味し、井伊直弼公の居城彦根城は琵琶湖のほとりに位置し、近海ににらみをきかす位置にある。その前は豊臣秀吉が長浜を交通の要所として、長浜城にその役目をさせたが、その長浜城を発展的に整理統合して、その建材も流用して使い、彦根城を建城した経緯がある。
戒名
井伊直弼公は大老の就任が決まって江戸の上るときに、覚悟を決めて清凉寺の住職から戒名を授けてもらった。戒名は「宗観院柳暁覚翁」。「宗」は「宀」+「示」で構成され、「宀」は家屋、「示」は神事の意味である。「宗」は神事の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて祖先や祖先を祭る一族の長の意味を表す。観るとは観音様の眼である。院とは、死後、その方のためにあの世で建てるお寺である。つまりご先祖が見守るお寺の住職との意味である。「柳暁覚」とは、日本の夜明けの暁を夢うつつに悟り、柳のごとく時世に逆らわず身を処する翁との意味である。
覚悟を決めた人の行動はすさまじい。その2年後の1860年節句の日、桜田門外に白い雪が降る中、自身で人生劇場の幕を下ろしたかのように赤い雪が舞った。日本の開国という大仕事を成し遂げた後での閉幕である。その行列に同行した私のご先祖はどんな思いで、この惨劇を観たのか。
人生劇場の演題が戒名
親は子供にこんな人になって欲しいと名前を付ける。その子供はその名を背負って人生を歩き、死後での修行のため、その人にふさわしい院号と戒名をお寺さんから授かり、来世の仏道での修行に励むことになる。
テクニカルライティングの修辞上で、文書の大事な要素は結論である。その文書の冒頭の核文(トピックセンテンス)で文書全体の要点を総括する。その文書全体のまとめが表題で、表題はtopic(話題)とpurpose(目的)の入った言葉で表現をする。
人生も同じである。その人の歩んだ履歴を院号と戒名の1つの名前で表現をされて墓誌に刻まれる。自分はどんな人生を歩むのか、自分の戒名を想定して人生の最終仕上げをするために歩みたい。自分の人生は、自分が創作する作品なのだ。その作品名である戒名(タイトル)にはこだわりを持ちたい。それは人生の生き様のこだわりである。
人生の旅
人生とは師を求め、道を求め、縁を求め、死ぬ場所を探すための旅なのだ。その折々で詩(俳句)を詠い、仕事の足跡を残す。現世では、放浪院の住職として俳句を詠みながら、魂の浄化を求めて佛道を行じて歩く。その現世の仮の戒名が「報労院俳諧虎児」である。それが放浪院徘徊孤爺では寂しい。
虎児は親から崖下に突き落とされても、自力で崖を這い上る。やっとの思いで崖を這い上がっても、崖の上に生み育ててくれた親の姿はない。虎児は一人で道を探し、一人で歩む。死ぬ時も一人である。後には戒名という痕跡だけが残る。やったことが報われなくとも、名前が残れば生きた証が残る。人生劇場の幕が下りて、その演題が墓誌に刻まれる。
戒名とは、引導する僧侶の弟子として仏道を歩むために背負う名前である。葬式の時に戒名を付けるのは、緊急的な応急処置である。それではカンバン方式で、必要なときに必要な戒名を手配するせわしい生産方式になってしまう。本来は生前に戒名を授けて頂くのが正しい手順である。何事も飛び込み仕事はせわしない。だから私は余裕のあるうちに、戒名を授けて頂こうと思っている。一生に一度のことだから、準備をしすぎることはない。人生は覚悟を決めて歩みたい。
天命の道
下記の論語は馬場恵峰師が好んで揮毫する書である。人生を覚悟すると、自然に天命に即した人生を歩むことができる。戒名の添え歌の言葉として論語のこの言葉を大事にしたい。
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず
[口語訳]
「私は十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。
六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、
人の道を踏みはずすことがなくなった」と。
2017-08-22
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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