« 人生の貸借対照表 | メイン | インプラント 35(名刺) »

2017年8月25日 (金)

「桜田門外ノ変」の検証 (16/28)

(8)代役の指導者を育成  

 彦根藩では藩主の子供は、世継ぎを除いて、養子に出るか、中級武士待遇以下の捨扶持300石で、一生、嫁も貰えぬ部屋住の身でしか生きる道が無い。これは2代目の井伊直孝の遺制である。井伊直孝は庶子であったが、嫡出の兄が病弱であったため、初代の井伊直政の遺領を受け継いだ。2代目の井伊直孝は井伊家の基礎を固めた名君であった。直孝がこのような制度を定めたのは、自分の経歴から、藩主に万一のことがあった場合、彦根藩を背負っていける能力の人材に後を継がせたい。そのために部屋住みの公子として厳しい環境に耐えて、藩を率いて行ける人材に育つことを期待したためである。人間は厳しい試練を受けないと育たないことを直孝は実体験で感じていたのであろう。

 

埋木舎(うもれぎのや) 

 直弼公が直孝の意図をどれだけ理解して生きたかは不明である。直弼公の言動からは、はっきりと認識はしていないようである。同じ肉親ながら、兄は藩主として、目の前の城の中にいる。京都御所の代行も可能な巨大な威厳に満ちた城砦の彦根城が目の前に在る。それに比較して自分は城堀を挟んで、数人の家臣と共に彦根城に比較すると米粒のような小さな屋敷の中で、幽閉のごとく悶々と日々を過ごさなければならない。井伊直弼公はこの部屋住の身を嘆いて、自分の住居を「埋木舎」と名付けた。大名の子でありながら、その持て余る才能を活用できないもどかしさが、ここで土に埋もれてしまった木のようだとの意味で「埋木舎」の命名になった。これは潜在意識に悪い影響を与えたようだ。その今までの鬱積した気持ちが、最高権力者となった時、純粋で過激な業務改革に向かわせたのかもしれない。やり過ぎは、やり足らないより悪い。小さな組織ならそれでもよかったが、日本という組織は大きすぎた。その思いを井伊直弼公は『埋木舎の記』に記す。

 

「これ世を厭うにもあらず。はた世を貪るごききかよわき心しおかざせれば、望み願うこともあらず。ただ埋もれ木の籠もり居て、なすべき業をなさましとおもいて設けしを、名こそといらへしままを埋木舎のこと葉とぞ」(『埋木舎の記』

 

 彼はここで32歳迄、15年間の青春を送った。しかし、直弼公が凡人ではない証に、「なすべき業をなさましとおもいて設けしを」と記述しているように、いまなすべきことを全力で修行として、自己に対し一日4時間の睡眠で足るとして、厳しい自己鍛練を続けた。そして武芸の居合術「新心新流」を創設した。その流義は、「勝ちを保つためには滅多に刀を抜いてはならぬ」といった「保刀」を基本とした。また槍術、柔術、馬術、弓術にも長けていた。禅の道でも、清涼寺へも参禅し、仙英禅師に帰依した袈裟血脈さえも授与された。茶道、和歌、能の世界では達人の域で、国学、書、湖東焼なども修行で身につけた。

 

文化人としての指導者

 井伊直弼公は一見、文武兼備の超人ではあったが、人間的には「茶・歌・ポン」とあだ名があったごとく文化人であり、苦労人で人情に厚い人であった。この文武兼備の能力を得るための人格形成の鍛練が、国難の時の国の舵取りという大役を全うさせたといえる。私の好きな言葉に「なにも咲かない冬の日は、下へ下へと根を伸ばせ」があり、まさに井伊直弼公は、約束もされない明日のために大木を支える根を下へ下へと伸ばして、大きな大木に成長したと言える。

 近年の指導者達を俯瞰すると、私利私欲に走るトップには、自然を愛でたり、精神文化に親しんだ形跡が少ない。指導者には人間としての素養を養う期間が必要である。

 

世の中をよそに見つつも埋木の

    埋もれておらむ心なき身は

                             直弼

 

図1 彦根城に渡る橋より見た埋木舎

図2 埋木舎の門より彦根城の城壁を見る

井伊直弼公は32歳までの15年間、毎日この景色を見ていた。どんな思いで兄の城を見ていたのだろう

 

2017-08-24

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

1

2

コメント

コメントを投稿