「桜田門外ノ変」の検証 (21)松陰神社
松陰神社に参拝
2015年11月24日、PHP主催の山本七平賞受賞式と祝賀パーティが帝国ホテルで開催されたので、上京した折、そのパーティに出席する前に松陰神社と豪徳寺に参拝した。このパーティでは、生前に渡部昇一先生の姿を見る最後の機会となった。会話を交わす機会を逸して、今にして残念に思う。
松陰神社は豪徳寺から500mほど離れた近距離にある。2015年10月5日に豪徳寺に参拝したとき、元彦根藩家臣の末裔の方が参拝に見えており、松陰神社の存在を教えていただいたので、今回、ご縁があり参拝できた。
吉田松陰は安政の大獄で連座してこの地で刑死したが、高杉晋作らが奔走して、その亡骸をこの地に改葬した。その後、松陰神社として祭られた。長州の萩にも松蔭神社があり日本には2つの松陰神社が存在する。
今回、参拝する気になったのは、父の弟の小田五郎氏が、昭和19年、ビルマで戦死された。その戒名「護国院戦訓至誠居士」の「至誠」とは吉田松陰が好んで使った言葉である。また吉田松陰は、大老井伊直弼公により、刑死させられた因縁もあり、今回のご先祖探しのご縁としてお参りをした。
松陰神社と大垣とのご縁
この吉田松陰先生の墓所の中央が吉田松陰先生のお墓で、その右側2つ目が幕末に思想家頼山陽の三男・頼三樹三郎の墓であることを説明看板で知って、大垣とのご縁の繋がりに驚いた。頼三樹三郎は安政6年(1859)に、安政の大獄に連座して、刑死した幕末の志士である。
頼三樹三郎は、梁川星巌がコレラに罹り死亡する時、側にいて看取った縁がある。梁川星巌は、江戸時代後期、学問の大垣といわれた時の漢詩人で、現在の大垣の代表的文人である。
梁川星巌(1789年~1858年)は、美濃国安八郡曽根村の郷士の子に生まれ、文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚した。紅蘭は江馬細香の妹である。星巌は紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
梁川星巌は、梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前)にコレラにより死亡した。星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。
歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていたはずである。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。
梁川星巌の資料や経歴の書画は、「奥の細道むすびの地記念館」(大垣市船町)に展示されている。
図1 松陰神社
図2 松陰神社 奥が本堂
図3 吉田松陰像
図4 吉田松陰像説明パネル
図5 吉田松陰の墓所
図6 吉田松陰の墓所
中央が吉田松陰のお墓、その右2つ隣が頼三樹三郎のお墓
両端の2つの燈篭が、明治になり徳川家から謝罪の意味で奉納された。
図7 松下村熟の再建(オリジナルは萩にある)
図8 「洗心」と命名された手水場
図9 山本七平賞授賞式での渡部昇一先生 2013年11月27日
この時、改めて名刺交換をさせて頂いたのは幸いであった。
図10 山本七平賞授賞式 2015年11月24日
図11 山本七平賞授賞式で乾杯の音頭をとる渡部昇一先生 2015年11月24日
これが生前の先生の姿を見る最後となった。
2017-08-10
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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