生きとし生けるものの教え
縁なき衆生
私がお地蔵さんの姿を記録として撮影していたら、「うちの家が写真に入るのでやめろ」とけんか腰に喰ってかかってきた老人があった。地蔵尊のお祝いの席で、喧嘩腰の暴言を吐く愚かさに、老人の劣化と過剰な権利意識の発情が情けない。その老人には私が1年間、会うたびに朝の挨拶をするのだが、全く挨拶を返さない変人であった。縁なき衆生度し難し、と悟って、私はその老人を見たら避けることにした。君子危うきに近寄らず、である。親の劣化が子孫に影響を及ぼす。社会と共に生きるのが人間である。老人は、昔は社会を支えていても、いつかは老い、老人は社会から支えられる身となる。自分の位置づけを考えて、老いの道を歩みたい。縁なき衆生でも、己には生きざまの鏡である。反面教師として。地蔵尊は黙ってそれを見つめている。
異狂徒
以前、ある班長さんが、ある西洋の宗派の家に、地蔵盆祭のお下がりを持って行ったら、ペスト菌の付いた汚らわしい品物かのように、それを投げつけられたと悲嘆にくれていた。たとえ宗派が違っても、班長として好意かつ責任感で届けたのに、である。当然、その家は町内の地蔵盆関係のお手伝いは一切拒否である。こういう排他性はカルト集団の教義のようだ。カルト集団の特徴の一つが排他性である。他は認めないのだ。子供は親の背中を見て育つ。その親ありて、子あり。子を見れば親が分かる。現在のその家の子の躾や非常識な行動を垣間見ても、それが分かる。その親は町内の付き合いを避け、町内の班長になっても義務としての公園草取り行事にも来ず、班長として満足にその勤めを果たさなかった。
日本全国の経営者仲間の聞いても、今時、キリスト教徒でも地域の地蔵盆などの行事で協力するのは常識という。町内のキリスト教徒の役員さんでも地蔵盆の準備のお手伝いはしてくれる。旧約聖書では、キリスト教徒以外は福音が許されなかったが、新約聖書では「汝の敵を愛せよ」と寛容になり、キリスト教は世界的な宗教に変貌することになった。己の宗教的な都合を口実に、利己的に町内の行事に参加しないのは、異狂徒である。カルト集団と見なされてもおかしくない。
欧州で移民問題、テロ問題が起こるのも、地域に溶け込まず自分達の宗教の教義に固執して、周りの社会に壁を作るから問題が起こるのだ。人殺しが起こる原因は己の利己心である。
非自分
町内には自治会費さえ払わない家が存在し、町内公園の草取り等の行事にも出てこない。それでいてゴミ出しだけは堂々としている。ゴミ置き場の維持管理も町内自治会の皆さんの尽力があって成立している。子供はその情けない親の後ろ姿を見て育つ。情けない日本になった。
非人間
地域で暮らしは、近隣の「人」との支えあいの生活である。「人間」とは人と人の間を生きること。それができない人は人間ではない。町内会活動は人の縁を結ぶ機会である。それをないがしろにするのは、地域社会の破壊行為で人間関係の砂漠化である。その親の後姿を子供は見て育ち、非常識で利己的な人に育つ。子供の教育は学校ではなく、家庭が真の教育の場である。
宗教の意味
宗教とは人間の「宗(もとなる)」の教えである。生きとし生けるものが人間として守るべき戒律である。たかがお地蔵さんの背景に家の姿が入り込む程度のことで、また善意のお下がりのお菓子ぐらいのことでケンカ腰になる大人気ない姿に日本人の精神の劣化を感じた。価値観を受け容れない視野狭窄症の考え方は大人の幼児化である。自分の頭で考えられない。相手の価値観を認めず利己的に自分の価値観を押し付けるから、争いや戦争がなくならない。その結果が欧州のテロ頻発・難民問題である。
日本人は正月を神道で祝い、バレンタインでチョコレートを餌に愛を語り、お盆を仏式で祭り、キリスト教のクリスマスを大騒ぎし、除夜の鐘を聞いてその一年の反省を神妙にする。平和な国である。すべてを受け容れて良いコト取りをした日本宗教である。外国では考えられない不節操な宗教ではある。そのために世界で一番宗教戦争の禍の少ない国である。
宗教は茶筒のようなもの。切り方次第で形が違う。横に切れば真円、縦に切れば長方形、斜めに切れば楕円形である。宗教はどのように切っても、見える形は違うが、その本質は同じである。どの宗教も、人間としての禁則事項、やるべき推奨事項を教えている。それを特定の宗派の教義を掲げて、末梢的なことでの争いに終始している。仏教の教えは、生きとし生けるものの命を尊び、相手を受け容れ、足るを知ることから始まる。
2017-08-09
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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