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2017年9月22日 (金)

「桜田門外ノ変」の検証 (26)文書道神様

テクニカルライティングの神様との出会い

 早稲田大学篠田義明教授のテクニカルライティング(科学工業英語)のセミナーを社内受講して、まるでダイナマイトを食らったような衝撃を受けた。それは今まで学んできた日本語の書き方とは、一線を画する文書作成の論理構成を教える講義であった。先生の講義に出合えたおかげで、会社創立50周年記念論文募集で最優秀賞を受賞でき、ご褒美で欧州に行かせていただいた(稟議費用100万円)。それをご縁に、1994年にミシガン大学夏季テクニカルライティングセミナーに自費参加し、3回目の挑戦で科学工業英語試験1級(TEP1級)に合格し、作っていただいた会社の制度で1997年に再度、ミシガン大学の夏季セミナーに出張参加ができた。

 

企業内の教育現場の姿

 篠田先生はいつも、研修担当が講義に顔を出さないことに怒っておられた。一流企業だと必ず、役員や部長が先生の講義ぶりと生徒の受講状況を視察に来るとか。多くの企業を観察をするとそういう企業は成長している。それに反して、教育に無関心なトップの企業は、衰退や消滅している例を私は身近で多く見てきた。

 それを教訓に、私が運営した新人・中堅技術講座では、必ず講師の講義振りを評価するために顔を出して、翌年度の講師依頼の可否のデータとしていた。講義姿をみれば、その人の仕事のレベルと人格は分かる。今はそんなことまで配慮する事務局がないことが哀しい現実である。またそんなことを教えてくれる先生もいないのが現実である。そんなことまでを、体で教えていただいた篠田先生とのご縁に感謝です。先生とは20年来のお付き合いをさせていただいている。先生から学んだテクニカルライティングの手法がどれだけ仕事の役に立ったか計り知れない。文書は仕事とコミュニケーションの基本である。

 この学びでの浮かび上がる問題は、文書での言い方がきつくなることである。特にメールでのやり取りでは、けんか寸前になることがよくあった。欧米の単刀直入の言い方、書き方は、日本文化にそぐわない場合が多々あり、使い分けが必要であることを、何回もの痛い経験から学んだ。言葉とはその国の文化なのである。日本語ではあまりダイレクトに言わなくても分かってくれるはずとの前提で文書が構成される。日本語では「私」という主語がない方が、当たり前の文法で、「私」を前面に出すと押しつけがましいとの印象が持たれる。ビジネス文書と私的文書のバランスの取り方が難しいと今でも感じている。

 

人財育成を推進

 技術部門の担当部署でその長のときは、部下の文書の書き方について、こだわりを持って部下を指導してきた。企画部門に異動してからは、部品事業部全体を考える立場になったので、その事業部に配属になった新人、中堅技術者に対して、技術教育講座を開設し、日本語のテクニカルライティングの講義・添削指導を8年間することになった。人に教えることは、自分への良い勉強の機会である。その時に痛感したことの一つが、そういう教育の場に社長はおろか、直属の長さえ顔をださないことで、自分の会社の行く末を案じた。その危惧は悲しいが当たった。多くの研修講師と話をしたが、その研修会場に顔をだすトップはごく少ないとのこと。一流の会社ほど、トップがそういう教育現場に顔を出すようだ。多くの経営者は教育は大事だと、口先で言うが、それを後ろ姿で実際に示す経営者は少ないのが現実である。これも成果主義の弊害であろう。教育の成果は10年後なので、目先の成果に囚われる経営者は見向きもしない。

 

図1 名古屋キャッスルホテルにて(2000年8月24日)

   前列左から二人目が篠田先生、一人置いて後藤悦夫先生、著者は左端

 

2017-09-22

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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