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2017年9月20日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (24)長松院

 恵峰先生を案内して彦根の各所の碑文を見て回ったため、すっかり遅くなって2015年11月29日16時過ぎに、長松院に辿りついた。当初の予定の彦根城博物館と彦根城は見学の時間がなくなってしまったのが心残りである。清涼寺での参拝の時間が想定外であった。しかしよきご縁出合ったのが救いである。長松院では、最初に恵峰先生を改建したお墓に案内をした。やっと今回のお役目が半分かたづいたようだ。

 

日下部鳴鶴書の軸

 長松院の奥座敷にある直政公の騎馬武者姿「井伊直政公出陣之繪圖」に日下部鳴鶴の署名が記されている。その軸のところに先生を案内したら、恵峰先生が数分間じっと眺めておられた事態に驚きである。日下部鳴鶴は恵峰師の宗師にあたる。日下部東作と署名があり、それは日下部鳴鶴の若い時の雅号である。私も2年前(2013年)のお盆のとき、東京の書家からそれを教えてもらって知った。実にこの書を法事の度に見ていたが、日下部鳴鶴の書であることを知ったのは、その時である。お宝は足元に埋まっていた。

 

「井伊直政公出陣之繪圖」

 この軸は井伊直政公没後300回忌(明治34年、1901年)に合わせて描かれた。井伊直政の赤備えの凛々しい騎馬姿を描いた縦2.7×横1.65mの大きな掛け軸である。赤備えは武田家の由来で、恵峰先生のご先祖の馬場春信公にご縁がある。長松院は、井伊直政公の幼名、虎松の一文字を取って長松院となった。井伊直政公没後、300回忌には火葬した場所に供養塔が有志の手で修繕整備された。そのおり、この絵が長松院に寄贈されたという。左下に彦根藩士で明治時代の書家日下部東作(日下部鳴鶴)が記した漢詩が揮毫されている。絵は日本画家の青柳琴僊(1867~1962)の作である。

 

奥山に紅葉踏みわけ

 その後、住職さんとしばし歓談をした後、私の運転で大垣のホテルに向った。 その夜のホテルの食事会で、お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫された。私がいつも写経をしている筆ペンで、色紙の絵柄に沿った和歌をさっさと揮毫された。弘法筆を選ばず、である。

 

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」

           猿丸太夫(5番) 『古今集』秋上・215

(現代語訳:人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)

 

図1 改建したお墓の前で

図2 日下部鳴鶴書の軸の前で恵峰先生

図3 「井伊直政公出陣之繪圖」長松院

図4 長松院の喫茶室で恵峰先生の歓談 2015年11月28日17:00

    頭上の「和敬静寂」は恵峰先生書(寄進)

図5 井伊直政公の供養塔 長松院

図6 お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫される恵峰先生

   11月28日19:00 ロワジールホテル大垣 「あじさい」にて

図7 揮毫された色紙

 

2017-09-20

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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