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2017年9月21日 (木)

法界定印と佛の心

 この世の所業を色づけして見るのは、自分の欲である。「欲」とは「谷」に落ちても「欠」けないものと書いて「欲」である。「慾」は、死ぬまで消えない人間の業である。慾は大事である。生きる慾まで無くしたら、生きる屍である。生きる為、魂の浄化を忘れて、刹那的に欲望のまま60年も娑婆で生きてこれば、人間は、餓鬼にも幽霊にもゾンビにも認知症にも落ちぶれる。

 

法界定印

 法界定印とは、座禅を組むとき、右手を下にして左手を上にして組む印相である。印を組むとは、心の状態を印のごとくにして、魂の姿を象徴する形である。法とはサンズイの水が去ると書く。何時でもどこでも誰にでも通用する世界で、心の平安、悟りを得たことを示す印相である。

 法界定印とは、右手(right、正しい、浄、陽)で、我儘な左手(left、誤、不浄、陰)を支え包み込んで現す座禅の印である。仏教発祥の地インドでは、左手は不浄の手であるが、左右の手に善も悪もない。己の持つ善悪の心がそれを勝手に決める。それを全て包含した形が法界定印である。なぜ右手が下か、それは開祖様がそう決めたに過ぎない。

 

真面目に殺し合いを防ぐ

 いくら佛に帰依しても、矛盾に満ちた世の中は正しいことばかりでは、生きて行けない。世には強欲に他国を侵略しようと企んでいる国がある。平和の時は友好でよいが、戦争の時は真面目に敵と殺し合いをしないと銃後の肉親が皆殺しになる。時代と状況と価値観の差で善悪の評価が180度変わる。平和時に1人を殺せば極悪非道の殺人者だが、戦争時に原爆で10万人を殺せば英雄である。1945年3月10日の米軍による東京大空襲で、10万人の女、子供の非戦闘員が米軍に焼き殺された。アウシュビッツのホロコースト以上の犯罪である。この無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲がされた。スミソニアン博物館でエノラ・ゲイ展を企画した館長は、在米軍人会から袋叩きの目に遇って博物館を去った(1997年)。火事場泥棒のロシアは、シベリア抑留で日本人を10万人殺した。私の父が極寒の地に抑留された。私の叔父が殺された。これが矛盾に満ちた人間社会である。

 やるべきことは、そうならない状況に陥らないように対処すること。非道の国に、聖人の論理は通用しない。ウィーン国際条約を破ったり、不可侵条約さえ破棄して攻めてくる国が近隣周辺に存在する。それをご先祖やチベットの僧侶が命を犠牲にして教えてくれた。チベットに平和憲法がなかったから侵略されたのではない。自国を守る軍隊がなかったのだ。プロレスラーに喧嘩を売るバカはいない。守るべき武力を持っていれば、強盗もおいそれとは侵略してこない。非武装中立とは、自宅の戸締りをせず、就寝したり外出するのと同じである。鍵を掛けないのはバカである。サヨクが外出時に施錠しないとは聞いたことがない。狩猟民族の欧米がアジア諸国を植民地にしたのは、江戸時代から昭和の時代である。アジア諸国に列強欧米の侵略を防ぐ戦力がなかったためである。アジアで日本とタイ以外は、欧米の植民地にされた。その歴史を学ばない民族は亡ぶ。

 

佛の教え

 禅では人間が持つこだわりを捨てよと諭す。捨てたらそのこだわりを捨てたことも忘れろという。こだわるとは、己の心に壁を作ること。心を閉ざし、色眼鏡でモノを見ることである。

 佛像を真摯に見つめていると、自分が悲しいときは、佛像も一緒に悲しんでくれ、嬉しいときは共に喜んでくれるのを感じる。落ち込んでいると叱ってくれる。佛像に語りかけると、応えてくれる。佛像は自分の心を写す鏡である。佛像は自分の心に相応して表情を変える。自分の心の格が上がれば、佛像の心の声が聴こえる。

 釈迦如来の佛像が示す法界定印の形は、左手が下で右手が上であり、人間が座禅でする法界定印とは、鏡で写すが如く左右逆である。佛像は人間の心を鏡として表す姿の象徴として作られた。そのため、鏡に映るがごとくに左右逆に彫られたようだ。法界定印を調べたがよく分からず、本稿は私の解釈です。

 

運転における法界定印

 座禅と佛像の法界定印を調べていて、車の運転姿勢に考えが及び、ハンドルの握る形が車界定印であると思い至った。自動車メーカのテストドライバー資格の訓練では、ハンドルの操作方法が厳しく指導される。娑婆の自動車学校で指導する方法とは違うことを、この運転資格を取得するため訓練を受けたとき教えられた。

 この訓練では、ハンドルは2時と10時の位置に手を置き、ハンドルを軽く押さえつけるだけで、握り締めてはダメと教えられる。握り締めると、それに拘束されてスムースなハンドルさばきがしづらくなり、試験車評価試験で必要なスピーディなハンドル操作が出来ないからである。曲がる時は、ハンドルを送る感覚で、ハンドルに手を添えて曲がる操作をする。真っ直ぐな道では、ハンドルをそっと押さえて振れないようにするだけである。実に理にかなった説明である。

 

人生運転の操舵

 人生で、緊急事態の遭遇したとき、あるべきものを握り締めて放さないと、適切な行動が取れない。くだらないしがらみに囚われて、多大な損失を蒙ることもある。人生の曲がり角で、前の履歴を握り締めて、滑らかな方向転換に失敗した人は多い。人生の曲がり角を曲がり、新しい世界に方向展開する場合は、前の世界は捨てなければならない。それをきつく握り締めているから禍となる。ものに執着して手に入れても手放すことをしない人生とは、餓鬼道の人生。食べても食べても満足感がない。それでは人生を快走できない。

 座禅で印を崩すと痛い警策が肩に飛んでくる。車の運転で横着をすると痛い目の交通事故に遇う。人生道の王道は、法界定印を行じて走れ。平常心で人生道を歩め。法界定印を行じると、人生という自分の乗り物のコンプライアンス値が高まる。

 

図1 座禅の法界定印

図2 仏像の法界定印

図3 正しいハンドルの抑え方

図4 ハンドルを握り締めてはダメ

図5 間違ったハンドルの握り方

図5 恵峰先生の揮毫

 恵峰先生が岐阜で講演をされた時200名の聴衆の前で揮毫をされた。正に平常心での揮毫である。この書を翌日、贈って頂いた。感謝。岐阜にて。2013年3月27日

図6 恵峰先生書

 

2017-09-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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