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2017年9月28日 (木)

日下部鳴鶴とのご縁

 2015年7月、松居石材商店の松居さんと話をしていたら、彦根出身の有名な書家がみえて、その特集の小冊子(図2)を見せて頂いた。見れば日本の三大書家の一人とある。彼の義父は、桜田門外の変で闘死をした日下部三郎右衛門である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。日下部は護衛武士の組頭である。桜田門外の変の後、他の彦根藩士と同じく日下部鳴鶴は俸禄が激減し、生活に困窮したという。それでも義父は闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。(図1)

 今までご先祖の「黄鶴」を探していたご縁で、松居さんが「鳴鶴」という名の書家を教えてくれた。これも縁でしょう。

 

日下部鳴鶴と恵峰師とのご縁

 2015年8月24日、自家の墓石の揮毫をして頂くため先生宅を訪問した時、恵峰先生に鳴鶴の小冊子を進呈した。そうしたら日下部鳴鶴は恵峰先生の師である原田観峰師がお手本とされた方だと恵峰先生はいう。その冊子をお贈りできたご縁のめぐり合わせに驚いた。父の長兄の小田礼一は原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは恵峰先生が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、恵峰先生と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は恵峰先生に師事している。不思議なご縁である。

 

お盆の萬燈供養

 2015年8月15日、長松院でお盆の萬燈供養の法要があり、初めて参加をした。お盆には、8月13日にお墓にお参りをして、ご先祖の霊を自宅にお連れする。お盆の間、自宅で過ごしていただき15日にお墓に帰る。その時の道案内として古い瓦を使った燈篭でお送りする。それが萬燈供養会である。この歳になって初めて知った作法である。

 萬燈供養会の後の小宴で、隣に座った真下良祐氏(千葉県)が書家で、日下部鳴鶴の話題で話が盛り上がった。そこで長松院の床の間に掛けてある井伊直政公の軸に書かれた書が日下部鳴鶴書であることを教えてもらい驚きである。この20数年、何回も見ているが、そんな意識が無いので全く気がつかなかった。もっとも新任の住職様も知らなかった事実ではある。書のサインである「日下東作」は日下部鳴鶴の若いときの雅号である。

 

図1 「桜田門外の変」時の供揃図 『彦根市市史』より

図2 『日下部鳴鶴コレクション』国宝・彦根城築城400年祭実行委員会発行

2007年3月21日発行 全61頁

図3 長松院 正門

図4 長松院 境内

図5 長松院 萬燈供養 

図6 長松院 萬燈供養 古い瓦を使った燈籠

図7 長松院 座敷 井伊直政公の騎乗姿の書画

図8 井伊直政公の軸の日下部鳴鶴(日下東作)署名

 

2017-09-28

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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