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2020年12月24日 (木)

人生深山の峠、義子先生の深山の峠

 

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 

人生の峠

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で10名余にも及ぶ。還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 還暦後に出会った音楽の師の河村義子先生にもドラマがあった。私が還暦を迎えた直前に義子先生は癌にかかられた。それが治癒した後の5年後に癌が再発され、余命5年と宣告されたようだ。手術をするとピアニストとして生きていけないと分かると、ピアニストとして最期まで生きたいと決断されたため、手術を拒否され、音楽道の深山に進まれた。その当時に、私とご縁ができたのは、仏様の差配だろう。

 

人生の深山

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 義子先生も癌を患ってから、弟子に真の病気状を知らせたのは、限られた人だけであった。義子先生は、黙々と人生の音楽深山の石段を一歩一歩登って深山に分け入り、後進を育て、後世に残る仕事をされた。しかし義子先生はその深山の峠で、越えねばならぬ峠を越えられず、帰らぬ人となった。享年61歳。若すぎる死である。明日の12月25日は命日である。ご冥福をお祈りします。

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 出羽三山の一つ 羽黒山 ニの坂   20191024日撮影

  合計2,446の石段が続く

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  馬場恵峰書 『おくのほそ道』上巻 最終頁  日中文化資料館蔵

 

2020-12-24 久志能幾研究所通信 1872  小田泰仙

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