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2019年2月27日 (水)

磨墨智2. 過ぎ去る時間は命の刻み

 「時は金なり」は間違い。失ったお金は稼げば取り戻せるが、失った時間は、いくら金を積んでも取り戻せない。

 命とは、その生き物が一生の間に使える総時間量なのだ。その使える残り時間を知った時、その人の生きざまの差が顕著に表れる。

 人によっては、医者に「金はいくらでも出すから、助けてくれ」と泣きつき、ダメだと知ると「このヤブ医者メ」と泣き崩れる醜態を見せる人もいる。自暴自棄になる人もいる。逍遥と事後の準備をする人、とさまざまである。

 河村義子先生は、余命5年と宣告されて、最期の時間を最大に輝かせた。それが私にとって、生きざまを教えてくれた最高で最後のレッスンとなった。感謝。

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河村義子先生の人生最後の公式演奏会

 ドレスデントリオとのニューイヤーコンサート、クインテッサホテル大垣で。 

 2018年1月13日

  このコンサートでは、私が協賛金を出し、先生とこのプロジェクトを遂行できたことを、今にして嬉しく思う。仲間がチケットを売ってくれて180名の観客を集めることが出来た。これが最後の演奏会になるとは、夢にも思わずであった。

 

2019-02-27  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月23日 (土)

河村義子先生の中陰を供養する(4/4)

「河村義子先生の中陰を供養する」(1/4)~(3/4)中の写真を更新しました。

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43日 常に人を拝む心得大切に。拝まれる人になる心得大切。

44日 亡き人に日々家庭円満な暮らしを見てもらおう。

45日 寂しい時には手を合わそう。亡き人の命にふれることが出来る。亡き人の分まで、日々大切に生きよう。

46日 日頃真心の供養をささげれば、己の一日一日で心が清められるもの。一日清閑一日福の道を歩もう。

47日 うれしい時はまず亡き人へのご報告

48日 人生四苦八苦新たに日々共に喜びともに悲しむ

49日 日々振り返って、ほほえめるような悔いのない人生を創生して生活るべし。幸不幸苦楽皆自から体験して人間として生活る道。「明日あると思う心のあだ桜今日の訪れなんとときくらん。」人生二度なし。

 上記は吉田松陰の辞世の句である。志半ばで倒れた吉田松陰の志を受け継いだ志士達が、日本の夜明けを創った。我々は河村義子先生の志を受け継ぎ、大垣の音楽文化を育成していくのが勤めである。

 

平成2997日 91歳翁三寶齋恵峰考書

4 馬場恵峰書「中陰を生きる活かす」(部分)

河村義子先生の想い出写真。良き想い出と教えをありがとう。

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ピアノ発表会 2017723日、大垣フォーラムホテルにて

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子供を見る目が温かい

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「子と音」が出演中、観客の後ろで心配そうに見守る義子先生

201745日 大垣市民病院のふれあいコンサートで(義子先生は後列右から3人目)

47 勉強会の前の準備体操

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 ピアノの先生たちの勉強会で、2017‎‎6‎‎19‎日、大垣音楽堂

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2019-02-22  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月22日 (金)

「自分ノーベル賞 久志部門賞」を創設

私の夢はノーベル賞を受賞すること。しかしそれは叶わぬ夢の夢だ。しかし、自分で「自分ノーベル賞財団」を創設して、世に貢献している団体に基金を贈呈することは簡単だ。毎年なら大変だが、それも一生で一回、一団体だけに贈呈なら簡単である。私が死んだときに遺産を贈ればよいのだ。そうすれば今のノーベル賞の賞金額ぐらいは贈れるだろう。これは誰でもできること。現在、日本で家・土地・貯金と預金の遺産相続の平均金額は約4,700万円という。その額は、優にノーベル賞の金額に相当する。

 

子孫に美田を残さず

子孫に美田を残さず、功あるある団体に遺すべし。私の親戚でも、親の遺産があり過ぎて身を滅ぼした輩がいる。他山の石としたい。子供は汗水たらさず、棚ぼたで手にした金で堕落する。

 

遺産処理の条件

終活の一環の作業として、遺産処理をどうするかに悩んでいた。国に遺産を取られるの避けたい。それでは役人の無駄遣いされるのがオチ。両親と私が苦労して貯めた資産が、クズ役人に貪り食われるは、両親に申し訳がない。私も我慢が出来ない。公式の役所の団体に贈っても、そのトップが変われば、どうなるか分かったものではない。

 

創造的な活用

 援助として遺産を贈るとして、それが未来のためになる組織を対象にすべきである。日本赤十字社に義援金を贈ってもその総額の2割が経費としてピンハネされる。寄付金全体の会計報告の詳細は公表されない。大災害が起きると日本赤十字社本社のある飲み屋街が賑わるという巷の噂であう。大垣市では寄付金の一部は、寄付集めに駆り出された団体に、その額の7%がキャッシュバックされるという。本来、寄付した人の趣旨を踏みにじる行為が横行している。

今困っている人を助けるため寄付しても、一時的な対処療法である。助けても助けてもきりがない。助けなければならない状況にならないような施策の未来投資が必要だ。アフリカの病気に罹った子共達のためにカネを使うのは未来に対して創造的でない。火事になったら火を消すのは対処療法である。真の対策は、火事の起きない体制を作ることなのだ。病気で悲惨な状況にならない社会体制を構築するために金を使うのが根本対策なのだ。そういう方面に私の遺産を使って欲しい。

 

「久志」部門賞

 自分は、世に貢献できる分野で、志を久しく継続して貢献している団体に、この賞を贈りたい。今後の自分の生き方で、より多く稼いで多く残せば、より多く「自分ノーベル賞財団」の資金に充てられる。それはこれからの生きる励みとなる。そのためには、皆さんのために長生きせねばならぬ。これこそ終活の極意である。これも河村義子先生が亡くなられて、気が付いたご縁である。合掌。

 

2019-02-22  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

河村義子先生の中陰を供養する(3/4)

29日 今生きているのは何の為、温故創新一路前進。 天は己を生き永らせるために生かしているのではない。その命を世の為人のために使え。故人の遺徳・教えを温(たずね)て、世のために新しい価値を創れ。それが故人への供養である。

30日 仕事の中に亡き人の願いを生かすべし。 河村義子先生の願いを思い出すべし。

31日 したい事をするのではなく、仕なければならない事を生涯かけてもやりとげるべし。心如鉄石という。 それを河村義子先生は体を張ってみせてくれた。それをまねするのが供養。

32日 どうせ井戸を掘るなら、水の出るところまで掘って見よ。

33日 出来ないのではない。やって見ようとしないだけ。 河村義子先生はそれをやって見せてくれた。

34日 二度とない人生、今そこからいまの自分を大切に。 河村義子先生の死で、忘れていた、死を再認識した。頂いた命を大切に、悔いのない人生を送る決意を新たにした。

35日 そのうちそのうちでなさずじまい。今そこから気付く時から。 今やらなけらば、一生できない。河村義子先生は身を呈して教えてくれた。

36日 亡き人の遺産は誰でもない。世の為、人の為に残せ。 河村義子先生が遺した遺産は、音楽を通して子供たちの育成である。その志を受けつぐのが、供養である。

37日 耳すませて亡き人の呼び声を聞く心を大切に。 天地自然は仏の経を唱えている。それに気が付くのが供養である。

38日 人の子も自分の子も皆仏の子。皆ちがってみんないい。

39日 実るほど頭のさがる稲穂かな。

40日 亡き人へ、笑顔でおはよう、感謝でおやすみ。 いつまでも悲しんでいても、義子先生は喜ぶまい。

41日 拝む喜びが働く喜びを生む。 拝む相手がいることを喜ぼう。それが師なら幸せだ。拝む相手がいない人は、極悪非道の人。

42日 亡き人を呼ぶ口で、他人をそしるな、ののしるな。

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馬場恵峰書「中陰を生きる活かす」(部分)

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Timm

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3 ありし日の河村義子先生。チェリストTIMMを招いての音楽会。「あしながチケット」で120名の子供たちを招待した。「世界で一流の音楽を楽しむ会」では、世界一流の音楽家を招待して子供たちに一流の音楽に生で接する機会を提供している。  2017929日、大垣市音楽堂

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2019-02-22  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月21日 (木)

河村義子先生の中陰を供養する(2/4)

16日 もっとつくしてあげたかった悔いは、人への親切で。 人生は輪廻転生。悔いるよりも、己の至らぬ点が発見できたと喜ぼう。再発防止をすればよいのだ。師から受けた恩を後進に伝えよう。

17日 過去を悔いず、未来を夢見ず、ただ今を力強く。 過去の悔いは、未来のための修行。それを活かして今だけを考えよう。

18日 花びらは散っても花は散らない。 義子先生という花びらは散ったが、義子先生の志は散らない。それを受け継ぐ責任が門下生にある。それが供養である

19日 人を敬えば、自分も敬われる。「禮尚往来」 人を敬うとは、己を敬うこと。師の偉さを認めることができる目利きの己を、尊敬しよう。世には河村義子先生の偉さを理解出来ない人もいる。

20日 哀しい時は目をつむろう。まぶたの裏には広い世界がある。自分を見うしなわないように。 生きているから哀しいという感情が起きる。死んでしまえば、その感情も起きない。自分を見失うとは、自分が自分で無くなること。それで故人が喜びますか。

21日 人に頼るより、頼られる人に。 河村義子先生は子供たちへの愛に身を義して生きた。そいう生き方を目指して生きよう。

22日 何ごとも打て。それが己を強くする。

23日 自分には忠実 人には誠実 物には確実に。

24日 人の幸せを喜べる人が、自分も幸せになる。

25日 一人で生きているのではない。生かされていきているのだ。 支えられて生かされている事の気付くのが、故人への供養である。

26日 やがて死ぬ気色も見えず蝉の声。 まさかの突然の河村義子先生の訃報。それまでの活動的な音楽活動が真夏の蝉の声のようであった。一期一会。

27日 心変われば見方も変わる。逆境は展開のチャンス。 義子先生は死んだのではない、姿を変えて見守っているだけだ。独り立ちしなさいとの励ましなのだ。

28日 人生列車はいつも満員。楽になったら終点。 人生列車はビジネス快速列車である。自分の「志終着駅」を目指して、席の取り合いである。霊柩車はガラスキである。どちらに乗りますか? 人生列車から、途中下車させられた義子先生の無念を晴らすのが、供養となる。

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馬場恵峰書「中陰を生きる活かす」(部分)

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ドレスデントリオを招いてのニューイヤーコンサート。これが公式の最後の演奏会となった。2018113日、クインテッサホテル大垣で。

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2019-02-21  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月19日 (火)

河村義子先生の中陰を供養する(1/4)

2019210日が河村義子先生の49日の法要であった。馬場恵峰先生の書画の写真を整理していたら、1年前に撮影した写真で軸「中陰を生きる活かす」を見つけて、河村義子先生の49日の法要に想いを馳せ、供養とした。

 

供養

供養とは、故人へのお供えではない。供養の「供」は、人が共に、「養」は養う、育てる、教える、である。故人の遺徳に思いを馳せ、その個人の教えを思い出し、改めて我々を養うのだ。それは祈る人へのお供えでもある、祈る相手は、故人と自分自身である。自分に手を合わせて供養するのだ。

201797日、馬場恵峰師は、葬儀での49日の意味を皆さんが知らないし、親も教えないので、中陰(49日)の意味を掛け軸に書かれて、お弟子さんたちに講義をされた。

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馬場恵峰書「中陰を生きる活かす」

201797日揮毫

中陰

中陰とは、人の死後49日間の名称である。人は49日を一期として、また生を受けるという。極悪・極善のものは、すぐ次の生を受けるが、それ以外の者は、もし7日の終わりにまだ生縁を得なければ、さらに7日、第二7日の終わりに生を受ける。このようにして最も長い者は、第7期も終りには、必ず生を受けるという。

今まで、私もこの歳まで、49日の意味も知らず、お勤めをしたのが悔やまれる。これは僧侶でなく、親が子に教えるべきことだ。法要の意味も知らず対抗するから、仏教離れが起きるのだ。

 

1日 死んだのではない。ただお迎えが来ただけなのだ。死は還浄と言って元の場所に還ったのだ。生あるものは必ず死ぬ。その早い遅いがあるだけだ。どうせ、人は120年も生きられない。我々は、土から生まれ、土から生まれたものを食い、土に還る。我々は全宇宙の循環の一環として生かされている。全宇宙に流れる時間に比べれば、80年程の人生の長短は誤差範囲である。

2019年2月10日、河村義子先生の49日の法要が無事に終わってほっとしたとご主人からお話しを聞いて、安堵した。「今頃、故郷のドイツの空を舞っているよ」といわれる。ご家族は義子先生の霊は、ドイツと日本人のハーフだと信じている(?)(注:義子先生は純粋な日本人)。知人の霊感の強い二人が、そろって、義子先生の前身はドイツのガラス職人の娘だという。

2日 泣きたいときは涙の枯れるまで泣くとよい。それが亡き人への供養である。それだけ子供たちは義子先生に慕ったのだ。「子と音」の皆さんは、泣き顔で歌って踊って義子先生の出棺を見送った。

3日 逆境にあって初めて知る真の友情。辛いことに出会って、友情の真贋が露見する。それは天が与えるリトマス紙。その人に価値観が明らかになる。壊れるべき縁が切れ、あるべきご縁が生じる。逆境のとき、助けてくれなければ、この世では敵なのだ。我々の逆境とは、国が戦争をしていると同じ。国でも戦争中に助けてくれなければ、敵である。

4日 人の命は陽に対する霜の如し。たった一つの病気で簡単に人消える。80年間の時間はあっと言う間のこと。「私みたいに死なないで」が後進への義子先生の願いである。自分の命をお大事に。それが己と先生への供養。

5日 一度死んだ者は二度と死なない。人生二度なし。人の一生は、その命を何に使うかが問われた人生なのだ。河村義子先生は人に音楽と愛を教えた。人の死は人生の生きざまを教えてくれる。

6日 人の真価は棺を覆うてからわかる。愚かな私は、義子先生の偉大さが、生前は見えなかった。先日に亡くなられた堺屋太一氏の告別式1,000人であった。堺屋太一氏の場合は元官僚なので義理で来る人が大半であろう。それに対して、地方都市のピアニスト河村義子先生のお通夜350人、告別式650人の参列者は、その偉大さが現われている。

7日 目にしみる位牌の白さ日々改めて生命の尊さを知る。あの活動的で温かかった義子先生が白い位牌になった姿を見て、改めて義子先生の死の実感をする。

8日 出逢いが別れの始めなれば、ご縁大切に。64歳でピアノを始めようと猫足のグランドピアノを購入した。その前に、ピアノを置く部屋を改築した。そのご縁で、ヤマハのО販売課長さんから河村義子先生を紹介された。下手でうるさい生徒を扱うのは、包容力のある先生である必要があったようだ。住む場所との関係もあり、ビッグな義子先生に指導を受けることができるご縁を頂いた。今後、その指導内容を活かさねば義子先生に申し訳ない。それが供養となる。これも良きご縁の賜物である。

9日 誰でもがいつかは死ななければならぬ人生。5年後の死を前提に全力で生きて活動された義子先生の教えを受け止めて、己の生き方に反映するのが、供養である。

10日 死なれて始めて知る親の恩。死なれて、河村先生に変わる人がいない現実に戸惑い、先生の偉大さを再確認する。

11日 亡き親は俺に似るなと子を想い。

12日 亡き人が喜ぶ事をするのが最大の供養。義子先生が取り組んできた事業(志)を継続するのが、残された者の最大の供養だと思う。それは大垣の芸術文化の高揚、子供たちの教育である。大垣市がその面に怠慢だから、大垣が衰退している。痴呆的堕落的な水饅頭共食い記録に血道をあげ、小川敏市長を先頭にして痴呆道を疾走している。私にはそれを阻止する責務がある。

13日 お経は亡き人へかよう心の便り。お経は佛様にあげるのではない。自分自身の魂に聞かせるのだ。それこそが供養である。

14日 人を責めず、自らを省みる。15日 手のシワを合わせて合掌すれば幸せになり、手のふしを振り上げれば不幸せになれる。


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馬場恵峰書「中陰を生きる活かす」(部分)

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義子先生は、一番弟子の朱音さんに、「我が娘よ」と実の娘扱いで接した。朱音さんへの厳しい指導をする義子先生。後から心配そうに朱音さんの演奏を見守る義子先生。

2017年クリスマスコンサートのリハーサル。大垣フォーラムホテルで

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 ページターナー役の朱音さん。義子先生の厚い信頼がないと、ページターナーは任せてもらえない。TIMMコンサートで。2017929日、大垣市音楽堂

 

2019-02-19  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年2月11日 (月)

河村義子先生が教える人生評価

 人は棺を覆ってその評価が定まる。評価する以上は、その評価基準が明確でないと、評価ができない。

私が信ずる評価法は、一生に間にどれだけ稼いだか、集めたかではない。どれだけ人に与えたかである。人生はお金ではないのだ。お金は人生で価値を生み出すための手段に過ぎない。それを間違えるから、人生道を誤り、社会に害毒を流すことになる。長い目で見て、その誤謬の実例が今の欧州の混乱だと思う。この世では、最高のことしか起きない。因果応報である。

 

欧州の混乱の真因

欧州人の過去の覇権主義思想が、現代欧州社会に混乱を起こすという、最高の結果をもたらしたのだ。欧州の現代人は、ご先祖がしでかした罪の尻ぬぐいをしているにすぎない。その真因を探らず、対処療法で、手当をしているから、混乱が収まらない。欧州のご先祖は、アフリカから現地人を奴隷として拉致して、金儲けをしてきたのだ。アジアを植民地にして、アジア人を見せしめで虐殺してきた。それが植民地政策であった。今更、人権重視だ、差別反対だと、ほざいても、現実の欧州社会は、有色人種に明確な差別がある。アメリカを発見したコロンブスは、奴隷商人であった。

 

ホリエモン語録

 「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。」、「人間を動かすのはお金です。世の中にカネで買えないものなんて、あるわけないじゃないですか。」、「お金が最も公平な価値基準です。」

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 以上の言葉の真偽は、ホリエモンが棺に入らないと、分からないだろう。少なくともグローバル経済主義的には、正しい考え方だろう。それを実践することで1%の富者は、99%の富を独占することができた。それで99%の人が不幸になる社会が正しいのだろうか。戦前は、植民地政策、侵略戦争で、覇権国が富を独占できた論法である。私の個人的見解では、間違っていると信じている。

 

河村義子先生の評価

 義子先生は音楽と後継者育成に命を掛けたが、お金は貯まらなかった。わずか(?)100万円程の演奏会主催費用の捻出に苦労をされた。コンサートは、金儲けでやるなら、やらない方がましなのだ。大垣の子供たちの音楽教育のため、命を掛けて音楽活動をされた。あしながチケットを子供たちに贈って、音楽の素晴らしさを体験させた。大垣の音楽文化を向上させるために、教育と音楽活動に命を捧げた。だから、葬儀の弔問客が1000人にもなった。私は良き師と巡り合って幸せだと思う。河村義子先生は、人生の価値評価とは何かを、体で教えてくれた。感謝。合掌。

 

2019-02-11   久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月10日 (日)

人生という飛行プロジェクト

 生あるものは必ず死ぬ。春夏秋冬、始まりがあれば終わりがある。飛行機も飛び立てば、必ずいつかは着陸せねばならぬ。飛行機の離着陸に人生を感じる。

 

飛行はプロジェクト

 旅客機がある飛行場から飛びたち、目的地の飛行場に着陸する飛行は一つのプロジェクト(以下PJ)である。操縦士だけでなく、機関士、クルー、キャビネットアテンダントを含め、10数名のクルーによって遂行される目的を持ったPJである。地上の整備員、管制官等の多くのサポータ全員の協力があって、このPJは完遂する。一つでも、一人でも欠けても完遂ができない。

 多くの支援を受けて、飛行機が全出力を出して飛び立っていく。引力を振り切っての離陸である。その姿は健気である。巡航飛行に入り、高度10,000mを飛ぶ飛行機は、コンパスを使い、目的地を目指す。コンパスが無ければ、何処に行くか分からない。目的地の上空に差し掛かれば、高度を下げ、速度を下げ、フラップ、ギアを降ろして、優雅に静々と大空から降りてくる。

 

着陸の美

着陸には離陸とは違った美しさがある。離陸から巡航、そして着陸に到る過程はまるで一つの人生のようである。人生の旅立ちでは人間としての育成が必要で、どこに志すかが必要で、壮年期は、北極星に相当する己の戒め、使命、志を見つめて歩かないと、人生行路で墜落・沈没する。いくら盛大な人生を送っても、晩年を見据えて行動しないと、惨めな末路が待っている。

 

お墓という飛行場

お墓とは一つの人生を終えて、次世の大空に旅立つための基地である。戒名という来世飛行コードをもらい、佛弟子として佛道を行じるという修行航路を向かう。墓地はその離陸する飛行場なのだ。

 一人で生きてきたつもりでも、多くに人のご縁・支援があって全うできた人生である。飛行機事故の80%は着陸時に起きている。それは人生の終着点で、道を誤る人が多いのに似ている。その事故例は私の家系図にも見受けられる。人生の着陸が近づいてきたのに、速度を落とさず、地面に激突する人もある。荷物(遺産)や燃料を積みすぎて、離着陸での失敗をする人も多い。多すぎるお金が、人生を不幸にする事例に事欠かない。遺産相続争いで、家族の間で炎上するのは、醜態である。それは感謝を忘れ、利己だけを考えた人生の結末である。人は裸で生まれ、裸で死んでいくことを忘れた咎である。

残すのが金だけの人生は哀しい。何のために生まれたのか。それでは授かった天命を知らずに生きたのと同じで、屍の人生である。人生で残るのは、集めたものではなく、与えたものなのだ。人と生まれた以上、稼ぐ人生よりも、与える人生でありたい。

 

河村義子先生の49

 201929日、河村先生のご主人に明日の所要の件で、連絡を取ったら、たまたま明日の210日は義子先生の49日だという。その日の私の所用と触れ合って、その偶然に驚いた。偶然とはいえ、義子先生の霊が私にさよならを言ったような気がした。義子先生を思い浮かべ、頂いた多くの教えに感謝して、手を合わせた。

 河村義子先生の人生飛行は、昨年の聖なる日の1225日に無事着陸して、その後、整備を終えて、新しい飛行コード(聖観院教音義愛大姉)で浄土に向けて離陸した。それも多くの人に送られてである。

 

天の差配

死んだのではない、ただ、お迎えが来ただけなのだ。飛行場の管制官は、必然の業務として、お迎えの離陸の管制をしているだけだ。此の世の運命は必然である。天の差配は人知を超える。私は地上整備員の一人として、義子先生の人生飛行、着陸、離陸の仕事関係で、多くのお手伝いができたことをありがたいと思う。合掌。

 いつか私も人生飛行を終えて着陸して、西に向かって飛び立たねばならぬ。それまでに、やるべきことは多い。やることが多いとは有り難いこと。

1  雨の中でも手荷物の積み込みはある 長崎空港

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地上クルーの打ち合わせ

Photo_2 地上クルーのチーム活動 セントレア  

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赤道上のシンガポールから夜を徹して飛行してセントレアに着陸  20151111

6離陸 20151111日  セントレア

2019-02-10   久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年2月 9日 (土)

浜松国際ピアノコンクール(12)舞台の裏話

 201923日、第10回浜松国際ピアノコンクール(浜コン)の裏話を語る梅田智也さんのトークセッションとピアノコンサートが、名古屋ヤマハホールであった。そこで梅田さんが語った舞台裏のお話である。梅田さんは先の浜コンで、セミファイナリストに残り、日本人作品最優秀演奏賞を受賞した。

 

審査

 まず郵送によるDVD審査で、380人の応募者があり、そこから61日に一次予選の合格者が発表される。一次予選では、95人の合格者である。実際は辞退者があり、88名で一次予選のコンクールを闘った。

 一次審査前の約3.5か月前に課題曲の連絡が事務局から来た。

9月末、本番で何を演奏するかのプログラムを事務局に提出する。

 自分の力量を見せるため、いろんな面を各ステージで見せるため、曲の選定が重要である。

 

公式練習

会場での一次審査の公式練習時間は、4時間である。二次審査の練習時間は12時間が与えられる。ヤマハ、スタンウェイ、カワイの各社は、計30台のピアノを挑戦者のために会場のホテルに持ち込んだ。

場所が、浜松という日本の中央であるし、一次予選は5日間の長丁場であるので、一度、自宅に帰ってそこで練習をしてくる仲間が多かったそうだ。浜松で宿泊した仲間は、皆で食事に行ったりしたという。海外でのコンクールに比べて、リラックスしてコンクールに臨めるので良いという。一次予選の1日目と5日目の参加では、準備の仕方が違う。それはコントロールできず、運命である。

 

ピアノ選定

ピアノ選定の裏話は先のブログに記載したので、そちらを参照ください。

 「浜松国際ピアノコンクール(11)ピアノ選びはロシアンルーレット」

 

調律

参加ピアノメーカは朝6時から9時までが調律に充てられる。各社1時間の時間である。夜は2124時が調律の時間である。調律師は演奏中も自分が調律したピアノの様子を見ていなければならず、仕事は早朝、深夜になり大変である。各ステージの間の僅か20分間の合間でも、調律は行われる。

 

調律師の心遣い

多くのスタッフが出演前に声をかけてくれるが、その多くは「頑張ってね」である。梅田さんは、それは逆にプレッシャーを感じることがあるという。相手は悪気があって言う訳ではないので、気にしてはいないという。

今回、三次予選の前に、調律師(ヤマハの花岡さんと推定)から「楽しんでね」と言われたという。調律師も、他社を蹴落とすために調律をしたのではない。あくまで、自社のピアノを音楽的に最高レベルに調律したのだ。調律師はそれに命を掛ける。可愛い我が子が晴れ舞台でその技を披露するのだ。多くの研鑽を積んできたコンクール挑戦者が、他社を差し置いて我が子を選んでくれて、聴衆にその持てる実力をお披露目してくれるのだ。それは楽しい出来事なのだ。だから、調律師は、「(我が子と音楽演奏を)楽しんでね」と言ったのだ。それで梅田さんは気が楽になり、コンクールという場を忘れて、存分に演奏をできたという。音楽は魂の舞いなのだ。評価する人ごとに、その評価が変わる。それに振り回されたら、音楽に本質から外れてしまう。

梅田さんは、同時期、もっと格下のコンクールに応募したが、予備審査で落ちたという。だからコンクールで実力判定が正しいかどうかは、神のみぞ知るである。それは時代の流れや流行もある。100年後に評価される芸術家はごまんといる。

 

音楽のかかわり方

 下記は梅田智之さんの考えである。

梅田さんは、聴衆とどれだけ良い関係を築けるかに心を砕いて演奏しているという。技を競うのが音楽演奏ではない。コンサートは、音楽の良さを聴衆に伝える場なのだ。演奏家はそれの伝教者なのだ。演奏家の技の見せびらかしではないのだ。

 良いピアノとは、体の一部である。ピアノは音楽を伝えるフィルターであり、楽器ではないのだ。ピアノを己の体の一部になるまで、弾き込む必要があるのだ。それには長い年月と血のにじむ練習が必要だ。

 

2019-02-09   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

自分の遺影を撮影

 終活の一環として、私の遺影用の撮影を20192月6日に行った。やはり5年毎くらいに、スタジオで撮影をするのが良いようだ。その前は、定年後の還暦時に、パスポート用を兼ねて写真館で撮影をした。

それ以降、毎年、私は受験票に貼る証明用の写真で撮影をしていたが、写真館で正式に撮るのは、9年ぶりである。やはり証明用写真と、正式のスタジオで撮る写真ではレベルが違う。

 

両親の遺影

28年前の母の葬儀では、母のまともな写真が無くて、大騒ぎをした苦い経験がある。昔の人は写真を撮られるのが嫌いのようで、母の写真はほとんど無かった。結局、従妹の結婚式の披露宴の時に写した小さな写真を引き伸ばして使った。鮮明な写真でないが致し方なかった。

 18年前の父の葬儀の時は、母の例に懲りて、父が胃がん手術で入院直前に、写真館に行って家族写真を撮り、それが霊前を飾った。その写真が間に合って良かったと思う。

 

時間の危機管理

 遺影は後に残った人のためである。自分のためではない。後に残った人に苦労を掛けては申し訳ないと思い、今回、9年ぶりに自身の姿を撮影した。後の残った人が、遺影用の写真を探し回る時間が、勿体にない。遺影用の写真がないと、それを探す時間(命)を奪うことになる。それは人生の罪である。何事も準備をしてあれば鬼に金棒である。それが無駄になることが、最大の効果である。保険も同じである。それが危機管理である。どうせ近い将来、必ず必要となることは、事前にやっておくべきだ。

 

自分は盆栽の木

 自分の全身像と上半身像を撮影して、その映像画面をモニターでみて盆栽を連想した。盆栽も、育てた人の丹精込めた労苦がその姿に表れている。同じように、己の体は、己が人生で費やした汗水の結果が全身の姿と顔相に表れていた。

 酒に溺れ、飽食で過ごせば、肥満、ビール腹になるだろう。それで肝臓を傷めれば、黒い顔や目の下に黒い膜も出るだろう。

日頃、しかめっ面で過ごせば、カメラの前で「笑って」と言われても、ぎこちない顔つきでしか写らない。笑わないので、法令が鍛えられず、法令線が薄くなり、ノッペラボウの顔となる。眉間にしわがあるかもしれない。

日頃、テレビばかり見て過ごせば、痴呆的な顔つきになるだろう。日頃、運動もせず、歩きもしないと、姿勢も悪い姿でしか写らない。

 今回、その自分の写真を見て、そういう姿でなかったので安心した。加齢の為、少々、頭の毛が薄く、白いのは致し方あるまい。己の体は、己の人生の作品なのだ。

若作りの遺影

 その写真も、老いぼれた姿よりも、まだ体力があり若い姿の時がよい。だから早めの遺影撮影は、おすすめなのだ。老いぼれてからは、写真撮影をする気にもなれまい。私も多くの葬儀に参列したが、若い時の遺影の方が、好ましいと思う。

 

スタジオの差

 パスポート用の写真を2010年に、街の馴染みの写真館で撮影した。今回、大手カメラチェーン店の系列のスタジオで撮影したが、その設備のレベル差に驚いた。まずカメラ機材が違う。スタジオの環境が違う。撮影場所も広く、照明設備も金がかかっており、撮影補助機材が違う。街のスタジオでは普通の三脚で撮影である。今回のスタジオでは医療器械の設備のようにカメラスタンドの下に車輪が付いており前後左右がスピーディに動き、上下、回転がスライド式でスピーディに行えるカメラスタンドがある。お店もお客が多く来て、儲かるから益々良い設備を導入できる。

 自分の全身像を撮影して、その場で映像画面をモニターで見ることができた。以前の街のカメラ屋では、カメラ屋が数枚写真と撮り、そこからカメラ屋が選別して仕上げである。

衰退している街(大垣市のように)のスタジオでは、お客があまり来ないので、設備投資ができず、悪魔の下降スパイラルで、益々儲からず、設備投資ができない。これはお店だけの責任ではない。

 

河村義子先生の遺影

河村先生の葬儀で祭壇を飾った遺影は、日頃、先生がパンフレット、HP等で使っている写真であった。現在も「かすみの会」のHPにその写真が掲載されている。そのお顔は美しい写真で、その写真が先生のレッスン室に貼られた演奏会のポスターに使われていた。こちらから聞いたわけではないのに、河村先生は「この写真が気に入っている」と言われた。5年前の当時、「この写真は、私の葬儀の遺影にも使うの」と説明されたので、私は冗談だと思い呆れた。今にして思うのは、そのころ、がん告知をされ、手術をせず、最期までピアニストとして生きる決意をされたころである。鈍感な私はそんなことには思いもよらなかった。後で聞けば、名古屋のスタジオで撮影されたとか。並みの決意では、名古屋まで行って写真を撮るまいと思う。その点でも偉い方であった。

 

2019-02-09   久志能幾研究所 小田泰仙

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