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2019年2月 8日 (金)

50m巻物「静楽養愚詩文録」編集後記

 河村義子先生の逝去に出会って、延び延びになっていた馬場恵峰先生の巻物の出版の準備が完了して、201928日、印刷会社に試し刷りの原稿を送った。下記はその編集後記である。

 本巻物では、馬場恵峰先生の生き様と歴史、およびその時に心情が50mの巻物に書かれている。3月初旬に出版予定です。

 

編集後記

20181225日、突然にピアニスト河村義子先生の訃報に接した。享年61歳で若すぎる死である。河村先生は、5年前の検査で病巣が見つかったが、手術をすると多くの生活の機能が失われるとのことで、最後までピアニストとして生きたいとして、その手術を止めて対処療法の選択をされ、病魔と闘いながら、この5年を全力で生きられた。私は5年前からのお付き合いであるが、それに気が付かなかったが、結果として先生の最後の仕事のお手伝いをするご縁を頂けたことを嬉しく思う。寿命は運命に多く影響されている。河村先生が、その運命を受け入れて、人間としての尊厳を保って、最期まで全力で生きられた後姿を、先生の最後のレッスンとして学んだ。

今の私の生あるは、時と場所と親を選ばず生まれたが、多くの因縁で多くご先祖と多くの出会うべき師との縁があり、今の私がある。決して偶然ではないと感じている。

河村先生の生きざまに感動しながら、それを馬場恵峰先生の生きざまにダブらせている。現在、馬場恵峰先生が、92歳でありながら全力で生きておられる姿に感動する。これは佛様のご加護以外にないと思う。

 この巻物の書の中で、恵峰先生の歴史と生きざまが記述されていている。私は多くの示唆を得た。特に人は時と場と親を選ばず生まれるが、必ず多くの因縁で必然のような人生となっている。それを受け入れ最善の努力をすると天が助けてくれる。そんな巻物を撮影するご縁を頂いたことの感謝である。

 この巻物の撮影は半年前にすんでいたが、写真の編集する過程で、撮影ミスに気が付き、また同時に多くの雑事の囚われ、再撮影と編集が延び延びになっていた。河村先生の突然の逝去に接し、人生の歳月のスピードの速さに目覚め、大慌てで本書の編集を急ぎ、出版にこぎつけた。河村先生が背中を押してくれたと思う。感謝です。

 

 

2019-02-08    久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

浜松国際ピアノコンクール(11)ピアノ選定はロシアンルーレット

 2019年2月3日、第10回浜松国際ピアノコンクール(以下、浜コン)の裏話を語る梅田智也さんのトークセッションと梅田さんのピアノコンサートが、名古屋ヤマハホールであった。そこで梅田さんが語ったピアノ選定の舞台裏のお話です。

 梅田さんは先の浜コンで、セミファイナリストに残り、日本人作品最優秀演奏賞を受賞した。

 

ピアノ選定

 浜コンで、挑戦者に与えられたピアノ選定の時間は10分間である。ヤマハ、スタンウェイ、カワイの3台のピアノの弾き比べであるから、実質的に9分間で、3台のピアノを各3分間弾いて、どれを選ぶか決める。そのピアノは舞台上に3台置かれている。問題は、舞台の中央に置かれたピアノの響きが一番良いのだが、自分が弾きたいと予め想定しているピアノが何処に置かれているかは、その時にならないと分からないことだ。その3台のピアノは公平を期すため、ある順番ごとに、舞台の上で回して入れ替えられる。各ピアノもメーカーのトップ調律師が命を掛けて調律したのだから、最高レベルに仕上がっている。その差は分からない。どのピアノの響きが一番番いいかは、置かれた場所で全く異なって聞こえるので、益々わからないという。まさにロシアンルーレットである。

 梅田さんも、限られて時間内で3台を弾き比べしても、全くわからなかったという。舞台を支援するスタッフも、挑戦者のほぼ全員が、ピアノの差は全く分からないというと言っていた。

 

手がかり

 唯一、その手掛かりは、ピアノ選びの挑戦者に、前の順番の挑戦者がピアノ選定で試弾している時間を、そのピアノの響きを観客席で聴くことができること。中央で弾かれているピアノの響きや両端に置かれたピアノの響きで、その鳴り方を推定するしかない。またそれも聴く場所で、違って聞こえるから厄介だ。浜松の中ホールでは、審査員席がある二階席が、音響的に一番良いようだ。

 

決め手

 だから挑戦者がピアノを選ぶのは、今まで数多く弾き込んで、素性の分かったピアノを選ぶのが順当のようだ。梅田さんの場合、CFXの高音の澄んだ響きに惚れてヤマハCFX を選定したという。

 たしかに、私も浜コンで、今までにない澄んだピアニシモの音を聞いて、すごいなとヤマハCFXを見直した。調律師の花岡さんの力である。挑戦者もヤマハの指名が一番多かった。

 

己の「ピアノ選定」の基準

 我々も、人生で数人の候補者の中から、人生を戦うための相棒一人を選ばねばならぬ状況に直面することがある。それは結婚相手やリストラ対象者、昇格対象者、後継者の選定、その場合の判断基準は、その時の特別の振る舞い(プレゼン)ではなく、日頃に接した行動から判断するのが一番、自然である。その場だけや、お見合いの席の時だけ一番格よく見せても、ダメなのだ。己の「ピアノ選び」の基準は何かを、振りかえろう。

 

経営の場での「ピアノ選定」

 その選定の失敗事例では、シェイクスピアの戯曲「リア王」が思い浮かぶ。この戯曲は、虚言を言う姉妹に騙された愚かな王の物語である。最近頻繁に目にする不祥事を起こした会社のトップは、間違った「ピアノ選定」で選ばれたのだろう。大企業の社長といえども、「リア王」を笑えまい。

 今にして何故、ソニーのストリンガーが社長に選定されたのだ。グローバル経済主義、短期成果主義を掲げた彼が、ソニーを没落させた。彼を選んだ前社長の責任は重い。成果主義で一時的な成果を誇っても、永続性はないのだ。企業の最大の役目は永続性である。

 己の使命も、ご先祖から預かった命を長らえさせねば、達成できない。刹那的な快楽に身を任せて、命を削ってはならぬ。

 

2019-02-08   久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月 2日 (土)

河村義子先生の航跡、ピアノが奏でる人生

ピアノの原理

 ピアノはハンマーでピアノ線の弦を叩くことで音を創る。大きく叩けば大きな音が生まれ、小さく叩けば小さく鳴る。弦が叩かれて共鳴板に響いた大きな音も、何時かは闇夜のしじまに消える。大きなエネルギーを持って生まれた音も、何時かは無の空間に引き戻される。音楽として連続した音を出すには、ハンマーで弦を叩き続けなければ、音は静寂の中に消えてゆく。叩いて音を出し続けてこそ、ピアノは音楽を奏でることができる。

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   ヤマハCFX

人が奏でる音楽

 人として生を受けても、いつかは死の世界に引き戻される。生まれた以上は、世を響かせる音を出すことだ。人間として世の中に問いを発し続けてこそ、生きている証である。その問いが消えたとき、静寂な死の世界が広がる。

 世の中に響かない活動は、死の演奏である。動いて、話して、書いて、モノを生み出してこそ、世に問う音が響く。世の中という共鳴板に共鳴してこそ価値がある。己の力で鳴らない隣の弦を共鳴させてこそ生きている証である。ベーゼンドルファーのピアノにあるプラス9本の弦は、弾かれず鳴りはしないが共鳴して音に芳穠さを与える。自分の弦を鳴らしても、単弦が鳴るだけでは、音は死の闇に吸い込まれる。デッドの劇場では成果が闇に吸い込まれる。場と付き合う人を変えて、ライブの世界に身を転じてこそ仕事をする価値が生まれる。出した音に共鳴してくれる聴衆があっての人生である。

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 サマランカホール(岐阜市)

音を作る

 ハンマーは自分、弦は仕事、社会である。ピアノのフレームは自分の体である。まず自分の体がしっかりしていないと良い音は出せない。

 同じ鍵盤を弾いても、ハンマーが叩いて出す音は同じではない。叩く速度や加速度が違えば音も変わる。だから何千回、何万回と弾き込まないと納得できる音は完成しない。練習の励むのは技量を身につけるためだけではない。人間としての変容を目指すのだ。人間が変容してこそ、出す音が変わる。自分の修行(練習)量によって出る音に差があることが分かるには、鍛錬という修行をつんだ後である。職人として同じ製品を作るにしても、名人と呼ばれる人は、日々向上を目指しており、その作品に違いが生まれる。同じ鍵盤を叩いても、回りの状況や指に込める思いの差により、出てくる音は輝きもするし、悲しみを漂わせる音色ともなる。音は回りで自分を支える聴衆とのハーモニーなのだ。

 

 私はいくら指が動いても音に輝きがなかったらピアノ本来の持っている良さは出ないと思うんです。確かに指が動くことも大事ですが、良い音色を出せるか否かは、自分の耳が納得するまでその音を何千回、何万回と繰り返すことでしょうか。(ピアニスト 川上ミネ)  『致知 2014-2 p76』

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  河村先生の弾く手  2015年1月23日

人生交響曲

 人生のご縁が並ぶ鍵盤の前で、どのキーを弾くかは自由である。自分と言うハンマーで、ご縁を叩いた結果が自分の命の響きなのだ。「命」とは、「人」を棒(「―」)で「叩」くと書く。人の人格では、ご縁(仕事・人・事件)の叩き方が問われる。一音一音を叮嚀に慎重に心を込めて叩きたいと思う。

 自分が生きた証を音の余韻として、どれだけ永く世に残せるかが、生き様として問われる。人生舞台の幕が開き、自分の仕事(演奏)が人生ホールに響き渡る。幕が開く前の血の滲む訓練が、問われる瞬間である。自分が鍵盤を叩いた練習量に比例して、その音は遠くにまで響いていく。そのエンディングで、どんな曲を奏でるのかを考えたい。死に様まで考えた編曲・演奏をして、人生劇場を飾りたいと思う。幕は下りても演奏の余韻は残る。心地よい余韻を残して人生舞台を去りたいと思う。

 

航跡

 「かすみの会」を運営し、「カナデノワ コンクール」や多くの演奏会を主催し、多くの後進を育てた河村義子先生は、何時までも多くに人の心の中に残る美しい航跡を残してくれた。航跡(wake(behind a sailing ship)とは、船が残す波の跡である。船が行ってしまっても、その航跡が長く続くほど、その方の偉大さがわかる。感謝。

 『師天王が詠う老計・死計』p198より

2019-02-02 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月31日 (木)

河村義子先生の命、人生の大事を急げ

磨墨知14.

 あなたの人生の目的は何?

 人生で何に命を捧げるか?

 されば一生のうち、むねをあらましきから事の中に、いずれかまさるともよく思い比べて、第一の事を案じ定めて、其の外は思いすてて一事にはげむべし。(徒然草188段-3)

 歌やゴルフ、麻雀が下手で負けてもいいではないか。そんなことに強くなるために時間をかけて時間を無駄にするよりも、自分の人生目的の達成に力を入れよ。

 

釣りの趣味は、人間の驕り

 その人生で大事な時間を、釣りやゲームにうつつを抜かしていいのか。天が与えた自然界の大事な命を己の痴呆的な遊びの道具に使って良いのか。その命も、生きたいという生存本能がある。それを己の遊びのために、いのちを持てあそび、命を殺すのは、霊長類の頂点の人として生まれて、恥ずかしい趣味だと思う。私は、釣りの趣味の人を軽蔑する。釣りバカ、である。私はそんな人とは付き合わない。

 いくらゲームとは言えは、人を殺す戦争ゲームや、格闘のゲームに興じていいのか。ゲームの後で何が残るのか。ゲームに負けてリセットすればすむ世界に狂ずれば、凄惨な人殺しも平気な人間が出来上がる。ゲームに興じている人の顔は、弛緩している。

 

河村義子先生の命

 河村義子先生の棺に横たわった死に顔は美しかったが、決して安らかではなかった。もっと生きたい、もっと音楽で皆さんに貢献したいという無念さが出ていた。

 「美しい死に顔ではあったが、安からなお顔ではなかった。もっと生きたい、という思いがお顔に現れていた」と義子先生の死に顔を見られた40年来の付き合いの知人のピアノの先生は涙ぐんでおられた。その方は悲しみで体調を崩して1週間ほど入院をされたとか。河村先生が亡くなられて1か月も経つのに、今日、偶然、通りすがりに出会ったら、そう言って涙ぐまれた。

 河村義子先生は生前、きっと「何故私だけが? 人生は理不尽だ」という思いがあったはず。先生は、さぞ無念であったと思う。それでも誰にもそれを告げず、5年間を音楽活動と後進の育成に命をかけて全力をつくされた。だから2018年8月に病状が悪化して、愛知県がんセンターに入院された時は、落ち込んで、誰も見舞いに来てほしくなかったという。私にも「珍しい病気ですが、がんでありません。名古屋の病院に入ります」とメールが来て、どの病院かは教えてくれなかった。推測はついたが、あえて聞けなかった。また男性の私が女性の病室は見舞いに行きづらい。2018年12月16日に緩和病院に入院されてから、最後の最期になって、さすがにそれではまずいと思われて、関係者だけにお別れをされたという。私も「近くを通ったら寄ってください」と誘われたが、愚かな私は、その緊迫度に気が付かなかった。

 人の死は必然である。なおかつ人生は理不尽なのだ。河村義子先生は、最後の5年の命を、人の何倍も活動して命を輝かせた。自分も何時かは死ぬ前提で、理不尽な人生を乗り越えて、人生の大事を急ぎたい。

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2019-01-31 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月28日 (月)

河村義子先生宅へタイムスリップ

 2019年1月26日、河村義子先生の親友のAさんからお誘いがあり、河村先生宅の仏前にお参りに行ってきた。当日はドイツ滞在中の知人が、来日してAさんと同行される予定であったが、その方のご主人が来日直前に病気で倒れられて、来られなくなってしまった。その方は、告別式に出られなかったので、今回のお参りを予定されていたが、残念であった。それでAさんと一緒に霊前にお参りして、ご子息と3人で生前のお話しに花を咲かせた。

 ドイツからでもお参りに来ようとする友人がおられるのは、河村先生の人徳であろう。在りし日の義子先生の話をして過ごすのも先生への供養である。

 

人の死

 人は3度死ぬ。一度目は、その人の肉体的な死。2度目は、その人を知っている人が亡くなる時。3度目は、その人の記憶が此の世から無くなる時。義子先生はまだ友人、門下生の間では思い出として生きている。

 人は死を避けることはできないが、死に方は選択できる。義子先生は、見習うべき死に方を教えてくれた。

 

義子先生関係のビデオ

 その時、撮りためた河村義子先生関係の演奏会のビデオ記録を、25GのBRディスク8枚にまとめて、ご子息に進呈した。今、遺族の方にビデオデータを渡しておかないと、データが散逸してしまう恐れがあるからだ。私も明日が分からない。そのダビング中に、私自身が忘れていた義子先生のピアノ演奏のための指の体操の模様、レッスン室でピアノを弾く手だけを録画したデータを再発見した。よき記録を取っておいたと想い出を新たにした。公式の演奏会時の録画記録以外に、リハーサル中のビデオも撮影してあり、そのため25GのBRディスク8枚という膨大のデータとなった。

Photo   義子先生の指の運動(ビデオのワンシーン) 

Photo_2   義子先生の指運びの模範演奏(ビデオのワンシーン)  2015年06月26日

レッスンの録音データ

 そのほかに、私のピアノレッスン中の録音も、未整理で残っている。録音には河村先生の叱咤激励、褒め殺しの声もあり、懐かしさで一杯である。ぼちぼち整理して河村先生の指導を思い出す予定ある。その河村先生の指導内容を文書の形で残したいと思う。

 

残すべきもの

 先にご遺族にお渡しした写真データは、25GのBRディスク3枚で、約8000枚の写真データである。ご子息の仕事が音楽関係でないので少し残念である。将来、ご子息のお子さんがこのビデオや写真を見てくれるだろうと思う。そういう記録がビデオや写真データのBRディスクで残せる時代は素晴らしいと思う。

 ご子息は英語の先生なので、私がミシガン大学で学んだテクニカルライティングの講義記録の著書3冊(総頁で約400頁の製本版)を進呈した。以前から私のミシガン大学の記録を誰かに渡したいと思っていた。私もいつまでも生きているわけではない。河村義子先生のご父君は、私の中学時代の英語の先生であった。父君の内藤信吾先生にご恩返しができたようだ。

 馬場恵峰先生もこの4月で93歳である。その記録についても後に残すべきデータに関して、河村先生の訃報を啓示として関係者と協議をした。私が保管するデータは膨大である。恵峰先生のお孫さんが後日、その資料をひも解くようにしようと段取り中である。人間の明日の運命は分からない。

 

ピアノレッスン室

 その後、懐かしいピアノレッスン室の写真を撮らせてもらった。半年ぶりである。愛犬のグレースもそこに付いてきて、ピアノの横に鎮座して私を眺めていた。グレースは、レッスン中には、ピアノの横の檻の中でカーテンを下ろしていつも静かにしていた。よく躾がされていておとなしく賢い犬である。最近は私が行くと、寄ってきて歓迎してくれる。

 半年ぶりのピアノ室で、当時のままに置かれている。懐かしさいっぱいでタイムスリプしたような気持であった。

P1060881 ピアノレッスン室(当時のまま)

P1060882    義子先生の愛犬 グレース

 その後、昼食として河村先生とAさんが行きつけであった寿し処「あおきや」(安八町 電話0584-64-7277)に3人で行って、穴子丼を賞味した。穴子丼は河村先生が好物のメニューだったとか。3人でしばし河村先生の想い出話しに花がさいた。よき供養が出来たと感謝である。

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2019-01-28 久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年1月26日 (土)

義子先生の懐に抱かれて雨やどり

自然の中で、雨が降るように

人生の中でも雨が降る

その時に、君を頼ってきた人に

雨やどりをさせてあげられる

強さを育てていってほしい

   外松太恵子詩  (義子書)

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  河村義子先生の自宅玄関に掲示されている

 

 2018年12月27日、河村義子先生の告別式の最後の挨拶で、ご主人がこの書の話をされた。この書は、5年前から、ずっと義子先生の自宅の玄関に掲示されていた。義子先生を訪ねてくる人の全ての人に、人生の雨宿りさせてあげたいという義子先生の優しい心の表れなのだ。それは義子先生が不治の病に侵されて、人の痛みが分かったからだと思われる。私は、それを告別式で説明されるまで気が付かなかった。その書が玄関に掲示されていても、あれども見えず、であった。つくづくと己の愚かさを痛感した。

 人は棺を覆って初めてその人生の偉大さが分かる。この書は、義子先生が5年前にがん告知されて、手術をせず最期までピアニストとして生きようと決心した時、思いを込めて、この書を書かれたようだ。そして子供から大人まで、人生の雨やどりをさせてあげようと、命ある限り、全力を注いで音楽活動をされた。それと同じ時期に、私がグランドピアノを買い、個人レッスンで義子先生に師事し、写真撮影のお手伝い始めたのもご縁である。

 義子先生は10年前から大垣市民病院で「院内ふれあいコンサート」をされていたが、私は知り合ったときと同じころ、余命5年を宣告されていた。

 義子先生は内臓の病気の為、その当時から下向くと辛いようで、風呂掃除等には家政婦さんをお願いしたという。それ以外はけなげに家事をされていたという。2018年11月、最後の最期になって、食事の家事ができなくなり、家族に迷惑をかけてはならぬと、緩和病院に入院されたという。死の一か月前である。

 

院内ふれあいコンサート

 義子先生は、そんな状況で慈善の大垣市民病院の「院内ふれあいコンサート」に精力的に取り組まれていた。その姿をみて、病気を知っている大垣市民病院医師はその精神力の強さに驚嘆していた。私はそんな状況とは露知らず、撮影を頼まれ、そのお役に没頭していて、先生の病状には気が付かなかった。これも人生のお役目であったと思う。見事に義子先生に騙されていた。結果として義子先生の慈愛の懐に抱かれていた。命を門下生や皆さんのために捧げた義子先生の行動は美しい。だから「聖観院教音義愛大姉」の戒名を授かった。

 義子先生は、生前にお寺で慈善コンサートをされたり、お寺にピアノを寄付されたりと多くの貢献をされている。だからお寺さんが、この立派な戒名を無償で授与された。普通はお金を出してももらえない価値ある戒名である。

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   河村義子先生と天野千恵先生

  2017年6月5日 院内ふれあいコンサート(大垣市民病院)

 人がその慈愛に満ちた行動に気が付くとき、往々にしてその観音様は世を去っている。それは無償の母の愛に似ている。母は無償の愛を子供に授けるが、子供は往々にしてそれを干渉しすぎだとうるさがるもの。その愛に気が付いた時は、母はこの世にいない。私の場合もそうだった。

 私は義子先生の門下生として、その後ろ姿から多くを学ばせていただいた。その志を受け継ぎ、私も皆さんが人生の雨やどりできるような貢献をしたいと頑張っている。

 

2019-01-26 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月20日 (日)

高い精神文化で世界をリードせよ

芸術は心の豊かさ、徳人の教養

 芸術の世界は儲からない。芸術は金がかかる。金を稼ぐなら、芸術の世界に入らないことだ。芸術につぎ込む情熱を、起業、経営、宗教狂祖の技につぎ込めば、誰でも成功する。ピアニストでも、毎日、8時間、10年間練習を続けないとモノにはならない。それだけの精力を別の面につぎ込めば、何でも成功できる。ところが芸術は、努力だけでは何ともならない面がある。好きでないとやれない世界である。

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河村義子先生も、音楽活動で、お金に苦労をされた。音楽活動は、音楽家の情熱以外に、スポンサーがなければ成り立たない。演奏会活動で、大垣市内の企業の多くに協賛金をお願いして、やっと音楽の活動を回していた。最近の企業経営の厳しさから、文化関係の寄付などの経費は、真っ先に削減の対象である。協賛してくれる金額面でも厳しいものがある。女性ピアニストなど女性の演奏家は、衣装にもお金がかかる。演奏会では、同じ服装はできないのです。

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コンサートで一人3000円のチケットでも、300人のホールに満席で、やっと売上90万円である。ドイツから3人の演奏家を呼べば、交通費・宿泊・日当で、軽く100万円はかかる。ホールの使用料、ピアノの利用料、練習の部屋の料金、通訳料、宣伝費、販売経費等を計算すると、演奏会ビジネスは赤字である。有志のボランティア活動で成り立っている。それを補うのは、企業のスポンサーや個人の寄付である。

 

芸術はスポンサーが必要

 その昔、私がヤマハジャズクラブでスタッフとして動いた時、ジャズコンサートがいかに儲からないかを実感した。ジャズコンサートで東京からジャズ演奏家4人を呼んでも、観客はせいぜい150名。チケット価格2500円で、総収入はせいぜい40万円程度。その中で、交通費、宿泊費、ホール使用料、打ち上げ費用等を賄わねばならぬ。4人のジャズ演奏家は2日間拘束されて、一回に10万円の金にもならない。これではジャズ演奏家の生活が大変だ。好きでないとやれない。ヤマハジャズクラブが運営できたのは、岡崎の内田病院の内田修先生のバックアップがあってできたこと。内田先生は、内田病院の病室を宿泊宿として提供、食事の提供もされてジャズメンバーをもてなした。だから内田先生は日本のジャズの父と呼ばれた。

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ルネッサンスの時代でも、メディチ家のように有力なスポンサーがいて、芸術家が活躍できた。それは現代でも変わらない。だから行政や企業が芸術を支援しないと、その都市の文化は育たない。

大垣市は、その点で、その支援が皆無に近い。芸術に理解ある市長に変わらないと、大垣市に文化は育たない。今の大垣市長ほど、芸術に理解のない市長もめずらしい。それでいてあさましい水饅頭の共食いのような下劣な行事には熱を上げる。

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子供たちに芸術を触れさせないと、拝金主義、成果主義に染まった人間が出来上がる。それでは日本の精神文化が崩壊する。それでは日本が未来に韓国中国の門下に下ることだ。日本は次の世代には、世界の精神文化のリーダーとして、世界に貢献せねばならない。それが日本の使命である。私はそれに貢献するための一灯になればと頑張っている。今のままでは死んでも死にきれない。

 

2019-01-20     久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月19日 (土)

河村義子先生の葬儀

 気持ちの整理が少しできたので、河村義子先生の葬儀の模様を報告する。2018年12月26日、河村先生のお通夜の日、開始の2時間前に、何かお手伝いをしようと会場に到着した。しかし葬儀社が全て対応しいて、やることがなかった。それで関係者が来るまでのおよそ1時間弱を、義子先生の眠る棺の近くで、静かに先生と過ごした。それは結果として良かったと思う。棺の蓋が開けられていて、お顔を拝ませていただいた。やつれはされていたが、穏やかな美しいお顔であった。

 

病状

 その会場に掲示されたご子息の挨拶文で、先生が5年前にガンが見つかり、手術をするとピアニストとして活動できなくなるので、最後までピアニストとして生きる決意をされ、手術を拒否されたことを初めて知った。だからほとんどの人がそれを知らず、突然の訃報に呆然とした。

 河村先生の場合、体力的に抗がん剤も使えなかったという。河村先生は菜食主義で、ご子息へのおやつも手作りをされていて、健康には人一倍気を使ってみえたのに、残念でならない。

 

最後のメール

 私は、11月17日の先生からの「退院しました。30分のレッスンを再開しました」のメールを受けて「体調が戻られたら退院お祝いで一席を」と返信したら、12月16日になって

「それが、、Uターンです。またお近く通られましたらのぞいてください。クリコン、撮影などありがとうございました。病院でもみれるようにポータブルのものを買いました! やはりまだまだブルーレイは広まってないようです。^^大垣のもの、お待ちしてます。私の自宅へおくってくださる?」

とメールがあり、その病院が先生宅の近所で、文面からそんな緊急事態とは夢想だにしていなかった。それが最後のメールとなった。12月25日に突然の訃報で茫然自失である。

 先生が入院されても、相手が女性なので、男性の私が病室を見舞うはやはり抵抗がある。いまにして、やつれた死期を悟った先生も、そんな姿を知人に見せたくなかったはず。今まで一期一会で5年間をお付き合いできてよかったと納得している。大病をされた女性の方によると、お見舞いは男女を問わず嬉しかったという。今回はご縁がなかったと納得している。

 

先生の遺言

 「湿っぽいお葬式はイヤ、明るく音楽で送って欲しい」が先生の遺言であったそうで、結果として先生に相応しい立派な葬儀となった。参列者もお通夜で350名、告別式で650名の芸能人並みの多さで、会場が大混雑で大変であった。

 祭壇も遺族の方と相談して♪のデザインの素晴らしい形となった。私はこんなデザインは初めてみて先生に相応しいと感心した。

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 お通夜では、親友の天野千恵さんのバイオリンと内藤先生の電子ピアノで、G線のアリアを、河村先生のお顔をみながら語り掛けるように弾かれた。思わず目頭が熱くなった。

 どういう因果か、私は空いている来賓席に座らされて、その模様を至近距離で撮影するご縁を頂いた。20年後にその写真を見ると、仏縁に感謝だと思う。 

先生を偲ぶ部屋

 感心したのは、別室で「先生を偲ぶ部屋」が設営されていたこと。そこで先生の生前の活動記録が展示されていた。私の知らないことが多くあり、先生の活動の多方面ぶりを初めて知った。ビデオも放映されていた。

 その展示物を見ていて、先生の活動ぶりの写真集を展示することを思いつき、お通夜から帰宅して、大慌てで撮りためた8000枚余の写真の中から、40枚ほどの写真を抜粋して、A4判カラーでプリントして、クリアファイルに納めて「先生の想い出写真集」を作成した。それを翌日の告別式開始までに「先生を偲ぶ部屋」に展示をした。同時に、河村先生の活動に関する私のブログ記事30通を印刷して、同じくクリアファイルに収めて、並べて展示をして弔問客に見てもらった。作業は深夜までかかったが、先生の供養としてよかったと思う。この二つの資料を基に、近い将来、関係者のために出版予定である。海外にも友人が多いので、英文併記の予定である。

 仏教では、葬儀で「友引」は根拠のない迷信である。私の菩提寺の住職さんから教えられた。火葬場が休日を取るための俗信だともいう。先生が亡くなられて、翌日がお通夜では、準備が大変であった。

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告別式

 告別式では、在りし日の姿をビデオで放映しながらの告別式であった。「明るく送って欲しい」との遺言で、サザエさんの替え歌を流しながらの葬儀であった。その替え歌は、門下生が先生の還暦祝いで、サプライズとしてサザエさん替え歌と贈ったという。その替え歌を流して先生のお別れの葬儀である。この歌は、微笑ましい歌詞で先生の人間味ある人柄を思い起こさせてくれた。「演奏に出かけたヨシコさん、♪ 眼鏡を忘れて慌てるヨシコさん、♪….. 愉快なヨシコさん♪」(文言は少しうろ覚えで正確ではありません)

 また葬儀社が、亡くなられて3日後が「友引」であるため、葬儀の日程が緊迫して、先生の写真関係の準備ができず困っているとの話を聞き、急遽、私のブロブを紹介した。それで葬儀社の方が、そのブログの中から、2018年1月13日のドレスデントリオ演奏会の写真をプリントして、2階の第二会場の壁に掲示して頂けたのも、よき功徳になったと納得した。

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2階の第二会場。側面の写真は2018年1月13日のドレスデントリオの演奏会の写真(著者撮影)

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サザエさんの替え歌を流して。スライドは先生の還暦お祝い時の写真。

出棺

 先生の出棺では、最愛の教え子達「子と音」の皆さんが、歌って踊りながら、明るく送り出した。でも子供たちは泣き顔である。私はお勤めとして、撮影を担当した。暗い会場であったが、演奏会撮影用のカメラsonyα9を所有していて幸いであった。想い出として良き写真が撮れて、CDに収めて皆さんに贈呈できた。今は悲しい記録であるが、10年後は良き想い出となるはずだ。泣きながら送り出したことが、先生への最大の供養である。ブログでは事情により、画質を落として掲載します。

 私は火葬場まで同行させていただいた。私は火葬場で、関係者の一人として最期のお別れをさせていただいてよかったと思う。灰葬は親族だけというので遠慮をさせていただいた。

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2019-01-19 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月15日 (火)

人生のCTスキャン

(コンピュータ断層撮影 Computed Tomography)

 年末の鬼酒とのご縁で倒れ、救急車を呼ばれてしまった。そのため循環器系の精密検査をする羽目になり、2014年12月25日のクリスマスプレゼントとして大垣市民病院で心臓のCTを受けた。その待合室に、CTスキャン説明ビデオが流れていた。これを見て、人生で遭遇する事件とCTの構成が良く似ていることに思い至った。思い起こせば、河村先生が逝去された日の正に4年前の出来事である。河村先生からレッスンを受け始めて半年後の事である。

 CTは放射線の放射銃が体の中心の周りを回転しながら対象の臓器に向けて撮影用の放射線を発射する。ドーナツ状のガントリ内に配置された検出器でその映像を撮影して、その情報をコンピュータで合成して三次元画像を作成する。

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CT適塾  http://www.ct-tekijyuku.net/basic/equipment/equipment001 より

 

佛のCTスキャン(師弟スキャン)

 人生で遭遇する事象(天災、病気、怪我、悪魔の誘い、試験、トラブル等)が、己の心の揺れる状態を行動に投影する。多くの事象が違った角度で、人生の節目毎に振るかかり、己の心が佛の光に照らされて明かになる。己の反応の様が心の円熟未熟度を露見させて投影される。それを己が真摯に診断して、今後の生き方の軌道修正ができるかどうかを、佛様が試している。それを「何で私だけが」と反論しては、人生ゲームで失格、退場である。

 自分は遭遇した試練にどう反応したのか、前と同じような事件の時とは対処状況が成長できたのか? 自分の対応は佛様から合格通知をもらえたのか? 事前に分かっていた試練に対する準備に覚悟があったのか? 自分の心の動きを分析すると自分の成長度合いが自明となる。

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人生のPDCA

 魂の成長のために、計画・実行・分析・改善(PDCA)を回さない限り人間としての成長はない。師は弟子の修行状況を全方角から診断して、弟子のために敢えてキツイ試練を与える。これが師弟スキャンである。そこに裸にされた己の心が現れる。

 今回の河村義子先生の最後の行動で多くの学びがあり、自分の心に投影されて、自分の課題と使命が浮かび上がった。また先生の真の姿が見えて良かったと思う。

 

話題閑休=師弟スキャン

 河村先生のご主人から伺った話では、義子先生の前世は、ドイツのガラス職人だという。知人の2人の霊感に強い人から、同じことを言われたという。これは1月11日に、河村家を訪れて義子先生の霊前のお参りした時、ご主人から聞いた。「いまごろ義子さんは、ドイツの空を舞っているよ」と言われて思わず納得してしまった。義子先生のガラス細工のような繊細な音楽を奏でる姿は、ガラス職人に合っているかもしれない。

 大垣の片田舎で活躍した一ピアニストとして、世界で著名なドイツの音楽家の多くの知人を持って活躍されたことは、奇跡みたいである。私は、ドレスデンやシュッツガルドのメンバーが、「ヨシコと演奏をしたいと言ってくれる」と河村先生が嬉しそうに言われたのを思い出した。生前の義子先生の活躍を「師弟スキャン」にかけると、その裏に潜む前世の妖精たちが垣間見える。これを信じるかどうかは、お任せです。

 

刺偵スキャン

 大垣行政の状況を「刺偵スキャン」かけると、大垣市行政の裏の姿、市の職員の本音、大垣行政のがん組織が明らかになった。

 組織が行う行事、政策、計画を色んな角度で投射すると、その組織の本音が浮かび上がる。小川敏市長が精力的に推進している市制100周年記念行事を多方面から照らして検証すると、市長は大垣市を衰退に導くがん細胞であることが浮かび上がる。がん組織は早期に摘出しなければ、大垣市の命が危ない。

 大垣行政の健康診断をしようにも、小川敏市長は、その会計報告をマル秘扱いにして平然としている。大垣市の外部組織もそれに便乗して、会計報告を市民に公開しないので、その外部団体予算に不正の匂いがプンプンである。小川敏大垣市長は、まるで人間ドックを前にして、便検査、尿検査、レントゲン検査、血液検査、内視鏡検査をかたくなに拒否している様である。重病で、推定有罪で、クロとしか断定できないのは自然の成り行きである。このままでは大垣市は病気発見の手遅れで、ご臨終である。私は何とかしなければと焦燥感で一杯である。

 

2019-01-14 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年1月14日 (月)

河村義子先生の告別式で怒り心頭

 河村義子先生の告別式に参列して、大垣市職員の人間として礼を失した振る舞いに怒りが出た。告別式の最前列の来賓席に、市の関係者席として教育長、大垣市文化関係の長、市会議員席が設けられていたが、告別式の途中で4名が揃って退席して、真ん前のど真ん中の席が4つも空席のままになった。お通夜では350人、告別式では650人ほどの参列者で、2階の別室でモニターを見ながら、告別式に参列した人も多かったが、立って告別式に参列した方が大部分であった。

 そのポッかり空いた4つの空席が、大垣市関係者の恥さらしを象徴していて、私は怒り心頭である。「義理だけで来るなら、来るな」である。故人に不敬である。告別式の途中退席するなら、義理で出るなら、何も義子先生の亡骸の真ん前のど真ん中席に座らなくてもよい。義理で来るなら、代理が焼香のときに、皆と同じく並んで焼香だけして、退席すればよい。N県会議員は、いつも葬儀の最後まで滞在しておられる。それが人の道である。組織は頭から腐るというが、現在の大垣行政の痴走をみると、それが顕在化した事象である。

1dsc02958  河村義子先生の告別式 2018年12月27日

河村義子先生の貢献

 河村義子先生が企画した2017年10月のTIMM演奏会、2018年1月のドレスデントリオの演奏会、2018年9月のサラ・ディビスコンサートは、本来、大垣市制100周年記念行事でやるべき事業であった。この演奏会では、大垣の未来を背負う120名の子供たちを無料の「あしながチケット」で招待して、演奏会を開催にこぎつけた。子供たちは、その感想文で、感激の言葉をしたためた。それは「世界で一流の音楽を楽しむ会」の田中重勝さんと仲間達が走り回って実現した演奏会であった。

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 TIMMとリハーサル中

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 TIMM演奏会では、あしながチケットで120人の子供達を招待した。冒頭でベーゼンドルファーのピアノの説明を子供達の為にされる河村義子先生。2017年9月29日。大垣市音楽堂で。

大垣市行政の浅ましさ

 しかし、大垣市は、市制100年記念行事で、3億4千万円の金を業者にばらまくことで頭に血が上り、この大垣の文化を育成する音楽文化事業等には目も向けなかった。やったのは、あさましい水饅頭食い合いで、わずか2週間の命のギネス記録に有頂天になっている。そのわずか2週間後、市民税は一銭もかけずに、日大三島高校が大垣市の記録を更新した。大垣市は、市民税を使いまくり、市の職員や外部組織や、部長級職員まで総動員して数を辻褄合わせした。もう記録ではなくなったのに、いまだに未練がましく、その祝賀垂れ幕を市庁舎に飾っている。正気の沙汰ではない。恥さらしである。

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2018年6月3日 水饅頭の浅ましい食わせ合い

5p1120012 今だ2018年12月5日でも祝賀垂れ幕がかかっている。大垣市庁舎

  多分今日も掲示されたままのはず。

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大垣市はデズニーパレードで狂気の沙汰

 2018年10月7日のデズニーのパレードでは懇意の警備会社に600万円もばらまいている。デズニーのパレードには大垣市人口の2倍の30万人が集まったが、どう計算してもその多くは大垣市外の人間である。なんで僅か30分のパレードに、大垣市民以外の人のために大垣の市民税600万円を使うのか。TDL35周年と大垣市制100周年とどういう関係があるのか。それが、どういう付加価値を大垣の未来に与えたのか。

 

ドレスデントリオ演奏会

 この河村先生が企画した3つの演奏会開催で、大垣市の協賛が全く得られないので、仲間が力を合わせて、大垣市内の企業に協賛のお願いに回り、3つの音楽会を開催にこぎつけた。やってよかったと思う。

 ドレスデントリオの演奏会「ニューイヤーコンサート」は、TIMM演奏会を3か月前に開催したばかりで、市内の企業の協賛にお願いに行けないので、私が資金面で全面的に援助した。それでよかったと思う。

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ドレスデントリオ「ニューイヤーコンサート」

2018年1月13日 クインテッサホテル大垣にて

サラ・ディビス大垣公演

 2018年9月17 日のサラ・ディビスのピアノコンサート大垣公演では、河村先生の最後の企画となった。その演奏会後、招待された子供たちは、サラ・ディビスからサインをもらい、一緒の写真が撮れて喜んでくれた。そのサイン会は、当初予定されていなく、事務局がサラさんに今回の公演の趣旨を話したら、急遽、子供が好きなサラさんが子供たちにサインをすると言い出し、事務局はその会場準備で大慌てであった。それでも私は、カメラマンとして、サラさんと子供たちの交流風景を撮影できて、よかったと思う。この子たちが、大垣の未来を背負ってくれる。今にして、あれだけ河村先生が喜んでくれたワケが分かった。それが河村義子先生への餞となった。見苦しくもあさましい水饅頭共食いのギネスや大垣市の為に何も残らないTDLパレードよりよほど、大垣の子供達の未来のためになった。

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サラさんのサイン会に並ぶ子供達

 

大垣の未来

 今の大垣市体制では、大垣の経済や文化はご臨終である。なんとかしようと思う。それには皆さんの力がいる。私は一燈を掲げて、大垣を良くするため歩いている。それが万燈になれば、大垣市は変わる。このブログ記事を仲間に広めてください。

 

最期のレッスン

 私は以上を報告しなければ、大垣の子供達の未来の為に命をかけた河村義子先生に申し訳ないと思い記述した。

 河村義子先生は2018年9月16日に、余命1週間と宣告された。義子先生は、その後、少し持ち直して体の無理を押して後進のために12月9日までレッスンを続けられた。その最後のピアノレッスンに同席されたお母さんは、義子先生が辛そうではあったが、それでもプロとしてレッスン中はしっかりされていたという。レッスンは演奏会よりも、多くの気力と体力を消耗するのです。

 私は11月17日に、メールで退院とレッスン再会のお誘いを受けて、先生が回復されたと安心していた。当時の先生の状況を全く知らず、幸か不幸かそのレッスンを遠慮して正解であった。老いた私より、前途有望な若手に最後のレッスン時間を譲ったことになり、結果として幸いであった。12月25日、寂滅。河村義子先生のご冥福をお祈りします。

 

2019-01-14 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。