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2019年1月19日 (土)

河村義子先生の葬儀

 気持ちの整理が少しできたので、河村義子先生の葬儀の模様を報告する。2018年12月26日、河村先生のお通夜の日、開始の2時間前に、何かお手伝いをしようと会場に到着した。しかし葬儀社が全て対応しいて、やることがなかった。それで関係者が来るまでのおよそ1時間弱を、義子先生の眠る棺の近くで、静かに先生と過ごした。それは結果として良かったと思う。棺の蓋が開けられていて、お顔を拝ませていただいた。やつれはされていたが、穏やかな美しいお顔であった。

 

病状

 その会場に掲示されたご子息の挨拶文で、先生が5年前にガンが見つかり、手術をするとピアニストとして活動できなくなるので、最後までピアニストとして生きる決意をされ、手術を拒否されたことを初めて知った。だからほとんどの人がそれを知らず、突然の訃報に呆然とした。

 河村先生の場合、体力的に抗がん剤も使えなかったという。河村先生は菜食主義で、ご子息へのおやつも手作りをされていて、健康には人一倍気を使ってみえたのに、残念でならない。

 

最後のメール

 私は、11月17日の先生からの「退院しました。30分のレッスンを再開しました」のメールを受けて「体調が戻られたら退院お祝いで一席を」と返信したら、12月16日になって

「それが、、Uターンです。またお近く通られましたらのぞいてください。クリコン、撮影などありがとうございました。病院でもみれるようにポータブルのものを買いました! やはりまだまだブルーレイは広まってないようです。^^大垣のもの、お待ちしてます。私の自宅へおくってくださる?」

とメールがあり、その病院が先生宅の近所で、文面からそんな緊急事態とは夢想だにしていなかった。それが最後のメールとなった。12月25日に突然の訃報で茫然自失である。

 先生が入院されても、相手が女性なので、男性の私が病室を見舞うはやはり抵抗がある。いまにして、やつれた死期を悟った先生も、そんな姿を知人に見せたくなかったはず。今まで一期一会で5年間をお付き合いできてよかったと納得している。大病をされた女性の方によると、お見舞いは男女を問わず嬉しかったという。今回はご縁がなかったと納得している。

 

先生の遺言

 「湿っぽいお葬式はイヤ、明るく音楽で送って欲しい」が先生の遺言であったそうで、結果として先生に相応しい立派な葬儀となった。参列者もお通夜で350名、告別式で650名の芸能人並みの多さで、会場が大混雑で大変であった。

 祭壇も遺族の方と相談して♪のデザインの素晴らしい形となった。私はこんなデザインは初めてみて先生に相応しいと感心した。

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 お通夜では、親友の天野千恵さんのバイオリンと内藤先生の電子ピアノで、G線のアリアを、河村先生のお顔をみながら語り掛けるように弾かれた。思わず目頭が熱くなった。

 どういう因果か、私は空いている来賓席に座らされて、その模様を至近距離で撮影するご縁を頂いた。20年後にその写真を見ると、仏縁に感謝だと思う。 

先生を偲ぶ部屋

 感心したのは、別室で「先生を偲ぶ部屋」が設営されていたこと。そこで先生の生前の活動記録が展示されていた。私の知らないことが多くあり、先生の活動の多方面ぶりを初めて知った。ビデオも放映されていた。

 その展示物を見ていて、先生の活動ぶりの写真集を展示することを思いつき、お通夜から帰宅して、大慌てで撮りためた8000枚余の写真の中から、40枚ほどの写真を抜粋して、A4判カラーでプリントして、クリアファイルに納めて「先生の想い出写真集」を作成した。それを翌日の告別式開始までに「先生を偲ぶ部屋」に展示をした。同時に、河村先生の活動に関する私のブログ記事30通を印刷して、同じくクリアファイルに収めて、並べて展示をして弔問客に見てもらった。作業は深夜までかかったが、先生の供養としてよかったと思う。この二つの資料を基に、近い将来、関係者のために出版予定である。海外にも友人が多いので、英文併記の予定である。

 仏教では、葬儀で「友引」は根拠のない迷信である。私の菩提寺の住職さんから教えられた。火葬場が休日を取るための俗信だともいう。先生が亡くなられて、翌日がお通夜では、準備が大変であった。

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告別式

 告別式では、在りし日の姿をビデオで放映しながらの告別式であった。「明るく送って欲しい」との遺言で、サザエさんの替え歌を流しながらの葬儀であった。その替え歌は、門下生が先生の還暦祝いで、サプライズとしてサザエさん替え歌と贈ったという。その替え歌を流して先生のお別れの葬儀である。この歌は、微笑ましい歌詞で先生の人間味ある人柄を思い起こさせてくれた。「演奏に出かけたヨシコさん、♪ 眼鏡を忘れて慌てるヨシコさん、♪….. 愉快なヨシコさん♪」(文言は少しうろ覚えで正確ではありません)

 また葬儀社が、亡くなられて3日後が「友引」であるため、葬儀の日程が緊迫して、先生の写真関係の準備ができず困っているとの話を聞き、急遽、私のブロブを紹介した。それで葬儀社の方が、そのブログの中から、2018年1月13日のドレスデントリオ演奏会の写真をプリントして、2階の第二会場の壁に掲示して頂けたのも、よき功徳になったと納得した。

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2階の第二会場。側面の写真は2018年1月13日のドレスデントリオの演奏会の写真(著者撮影)

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サザエさんの替え歌を流して。スライドは先生の還暦お祝い時の写真。

出棺

 先生の出棺では、最愛の教え子達「子と音」の皆さんが、歌って踊りながら、明るく送り出した。でも子供たちは泣き顔である。私はお勤めとして、撮影を担当した。暗い会場であったが、演奏会撮影用のカメラsonyα9を所有していて幸いであった。想い出として良き写真が撮れて、CDに収めて皆さんに贈呈できた。今は悲しい記録であるが、10年後は良き想い出となるはずだ。泣きながら送り出したことが、先生への最大の供養である。ブログでは事情により、画質を落として掲載します。

 私は火葬場まで同行させていただいた。私は火葬場で、関係者の一人として最期のお別れをさせていただいてよかったと思う。灰葬は親族だけというので遠慮をさせていただいた。

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2019-01-19 久志能幾研究所 小田泰仙

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