河村義子先生宅へタイムスリップ
2019年1月26日、河村義子先生の親友のAさんからお誘いがあり、河村先生宅の仏前にお参りに行ってきた。当日はドイツ滞在中の知人が、来日してAさんと同行される予定であったが、その方のご主人が来日直前に病気で倒れられて、来られなくなってしまった。その方は、告別式に出られなかったので、今回のお参りを予定されていたが、残念であった。それでAさんと一緒に霊前にお参りして、ご子息と3人で生前のお話しに花を咲かせた。
ドイツからでもお参りに来ようとする友人がおられるのは、河村先生の人徳であろう。在りし日の義子先生の話をして過ごすのも先生への供養である。
人の死
人は3度死ぬ。一度目は、その人の肉体的な死。2度目は、その人を知っている人が亡くなる時。3度目は、その人の記憶が此の世から無くなる時。義子先生はまだ友人、門下生の間では思い出として生きている。
人は死を避けることはできないが、死に方は選択できる。義子先生は、見習うべき死に方を教えてくれた。
義子先生関係のビデオ
その時、撮りためた河村義子先生関係の演奏会のビデオ記録を、25GのBRディスク8枚にまとめて、ご子息に進呈した。今、遺族の方にビデオデータを渡しておかないと、データが散逸してしまう恐れがあるからだ。私も明日が分からない。そのダビング中に、私自身が忘れていた義子先生のピアノ演奏のための指の体操の模様、レッスン室でピアノを弾く手だけを録画したデータを再発見した。よき記録を取っておいたと想い出を新たにした。公式の演奏会時の録画記録以外に、リハーサル中のビデオも撮影してあり、そのため25GのBRディスク8枚という膨大のデータとなった。
義子先生の指運びの模範演奏(ビデオのワンシーン) 2015年06月26日
レッスンの録音データ
そのほかに、私のピアノレッスン中の録音も、未整理で残っている。録音には河村先生の叱咤激励、褒め殺しの声もあり、懐かしさで一杯である。ぼちぼち整理して河村先生の指導を思い出す予定ある。その河村先生の指導内容を文書の形で残したいと思う。
残すべきもの
先にご遺族にお渡しした写真データは、25GのBRディスク3枚で、約8000枚の写真データである。ご子息の仕事が音楽関係でないので少し残念である。将来、ご子息のお子さんがこのビデオや写真を見てくれるだろうと思う。そういう記録がビデオや写真データのBRディスクで残せる時代は素晴らしいと思う。
ご子息は英語の先生なので、私がミシガン大学で学んだテクニカルライティングの講義記録の著書3冊(総頁で約400頁の製本版)を進呈した。以前から私のミシガン大学の記録を誰かに渡したいと思っていた。私もいつまでも生きているわけではない。河村義子先生のご父君は、私の中学時代の英語の先生であった。父君の内藤信吾先生にご恩返しができたようだ。
馬場恵峰先生もこの4月で93歳である。その記録についても後に残すべきデータに関して、河村先生の訃報を啓示として関係者と協議をした。私が保管するデータは膨大である。恵峰先生のお孫さんが後日、その資料をひも解くようにしようと段取り中である。人間の明日の運命は分からない。
ピアノレッスン室
その後、懐かしいピアノレッスン室の写真を撮らせてもらった。半年ぶりである。愛犬のグレースもそこに付いてきて、ピアノの横に鎮座して私を眺めていた。グレースは、レッスン中には、ピアノの横の檻の中でカーテンを下ろしていつも静かにしていた。よく躾がされていておとなしく賢い犬である。最近は私が行くと、寄ってきて歓迎してくれる。
半年ぶりのピアノ室で、当時のままに置かれている。懐かしさいっぱいでタイムスリプしたような気持であった。
その後、昼食として河村先生とAさんが行きつけであった寿し処「あおきや」(安八町 電話0584-64-7277)に3人で行って、穴子丼を賞味した。穴子丼は河村先生が好物のメニューだったとか。3人でしばし河村先生の想い出話しに花がさいた。よき供養が出来たと感謝である。
2019-01-28 久志能幾研究所 小田泰仙
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