死の床で会いたい人
死の床に呼んでもらえますか?
その昔、大病を経験し死を覚悟したことがある。その時、病院の死の床で会いたいと思った人(肉親等は除く)を思い浮かべると、60年間も生きてきて、数人しかいないことに気が付いて、愕然とした覚えがある。
同じ質問を知人にすると、一番の親友はゼロだという。他の知人の数人に聞いても、やはりその数は数人止りのようだ。
死の床に呼びたい人の条件
会っていて毒気や嫌味を感じない人。
毒気のある人は変なオーラが出ている。
素直な人、明るい人
会っていて、こちらが楽しくなる人。
こちらが相手の毒気の影響を受けて、陰鬱になる人は除外である。
会っていてこちらが元気をもらえる人。
いつも温かく見守ってくれた人
魂のきれいな人、純粋な人
恩義を感じてくれる人、義理堅い人
飯を食わせたり世話をしたのに礼状一つよこさない人はお断り。
師には会いたくない。
なにか畏れ多くて、自分が死にそうなとき、気が重く負担になる。
人が良くても、何もない人は駄目。
生きている付加価値を感じる人でないとダメ。
自分は「あの人」の死の床に呼ばれる資格があるか?
自分の言動、性格を俯瞰して、そういう死の床に呼んでもらえる人かどうか自省したい。そうなるように精進をするのも、魂を昇華させる一手段であろう。
河村義子先生の場合
河村義子先生は、2018年12月25日に逝去された。その死の10日前の12月16日に、「体調が戻られたら、退院お祝いで一席でも」との返信で、
「それが、、Uターンです。岐阜清流病院の緩和病棟601にいます。17.18.19はいません。またお近く通られましたらのぞいてください。 クリコン、撮影などありがとうございました。病院でもみれるようにポータブルのものを買いました!やはりまだまだブルーレイは広まってないようです。^^大垣のもの、お待ちしてます。私の自宅へおくってくださる? 河村義子」
というメールが来た。これが義子先生の最後のメールとなったが、鈍感な私は、義子先生が死の床のあるとは夢想だにせず、退院されたらお祝いをしようと思っていた。「緩和病棟」という文字を見落とした。悔いである。またやつれた女性の方の病院見舞いは男性として躊躇があり、華やかさのある先生もそんな姿を見せたくないはず。義子先生のご夫君の意見としても、会わなかったのが良かったようだ。この世では、義子先生の「死の床」のご縁がなかったと思う。私としては、何時までも元気な義子先生の面影を心に抱くことができてよかったと思う。
義子先生が、死の床で、私を会いたい人の一人に選定してくれたことを嬉しく思う。自分の体験と照らし合わせて、それを実感した。
死の床での出会い
死の床で会いたい人とは、仏様のような人だ。もし幸いにして死の床から復帰できたら、その後の人生で、大事にしていくべき人なのだ。その人を手本として生きていくべきだ。
死の床に来てくれた人、来なかった人、そこから多くの学びがある。
転衣
転衣とは仏教の学びの結論である。転衣とは、生まれ変わる、あるいはよりどころが変わる、価値観が変わるという意味である。死の床を経験することで、「転衣」して良き友をよりどころにして生きていくと、新しい人生が開けてくる。
2019-03-14 久志能幾研究所 小田泰仙
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