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2018年5月

2018年5月19日 (土)

石碑の揮毫

 彦根は書聖・日下部鳴鶴の出身地である。そのご縁ある彦根城博物館の看板石碑の文字が残念である。もっと正しい書体の豊かな感性の文字であってほしい。

 

日下部鳴鶴

 彦根城博物館には、明治の三筆の一人と言われた書聖・日下部鳴鶴の書が時折展示される。彼は、それまでの和様の書体から唐様に日本の書法の基準を作り変え、数多くの弟子を育成した。彼は書聖とも日本近代書道の父とも称される。彦根は日下部鳴鶴の出身地である。

 彼の義父の日下部三郎右衛門は、「桜田門外の変」時の護衛組長である。彼は最期まで大老・井伊直弼の籠の側で戦い、力尽きて闘死した。彼の名は、桜田門外殉死八士の碑の冒頭に名前が刻まれ、豪徳寺の井伊直弼公の菩提の後ろに祀られている。

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029l4a8378 桜田門外殉死八士の碑。向うが井伊直弼公の菩提 豪徳寺(東京)

 

 義父の死後、生活は困窮を極めたが、日下部鳴鶴は明治になって藩命により明治政府に仕え、大久保利通の第一書生として身近に接する。彼は、大久保利通を父のように思い接したという。その大久保利通は、明治11年(1878年)5月14日紀尾井坂で暗殺されるが、その第一発見者が日下部鳴鶴である。まだ温もりのある大久保利通の骸を抱きしめて、彼は天命を悟ったのだろう。義父とは言え、二人の父を政争で失ったのだ。これを機に、彼は誰にもその理由を告げず官を辞して書の道に進む。

 この彦根城博物館は明治以前の資料を展示するのが目的なので、日下部鳴鶴の書の展示が少ないのは致し方ない。しかしその日下部鳴鶴の図書も販売しているのだから、日下部鳴鶴の書を常設しても問題なかろうと思う。

 

彦根城博物館

 2018年4月12日に馬場恵峰先生をこの博物館に案内をしたが、この時は日下部鳴鶴の書の展示はなく、この秋に企画展があるということで、九州から来られた恵峰先生には残念なことであった。

 その後で、先生が指摘したのが、玄関の彦根城博物館の名前の入った看板碑の書体である。書体として残念だという。全て右肩上がりの字体で、全体バランスが取れていない。右に上がれば、左に下がる。それが自然の法則である。馬場恵峰先生にとって、日下部鳴鶴は書の師の宗家にあたる。馬場恵峰先生の師の原田観峰師が、日下部鳴鶴の書体をお手本に日本習字を創業した。だから日下部鳴鶴にご縁ある博物館の看板にこだわったのだ。

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 彦根城博物館

 

関ヶ原町歴史民俗資料館

 それに対して看板の書を絶賛されたのが、翌日の5月13日にご案内した関ヶ原町歴史民俗資料館の看板文字である。この字は、日下部鳴鶴の書のようで、今まで見た博物館の看板文字の中で一番の出来だという。

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恵峰先生揮毫の碑文

 恵峰先生には、自家の墓石と墓誌の揮毫をして頂いた。今回、その墓誌の碑文を見てもらうために先生を彦根に招待した。普通の書家は、恐ろしくて石碑の字は揮毫しないという。なにせ長期間も、字が後世に残るから嫌がるのだ。並みの書家ではない恵峰先生は、大村市内に数多くの碑文を揮毫されている。201733日、先生の案内で大村市にある先生が揮毫した石碑を見せてもらった。梅田のNTTテレパーク堂島ビルにある「大村藩蔵屋敷跡」の碑文も恵峰先生の揮毫である。

07 「大村藩蔵屋敷跡」は馬場恵峰師の揮毫

 梅田のNTTテレパーク堂島ビルにて 2015年10月8日撮影

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 「動員学徒の碑」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)201733日撮影

O4k8a9886 「史跡 玖島城跡」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)201733日撮影

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 「本経寺大村家墓碑群」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)2017年3月3日撮影

 

2018-05-19

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite  Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。 

2018年5月18日 (金)

国宝「彦根屏風」を見学

 2018年5月4日、彦根城博物館で国宝「彦根屏風」を見学した。この屏風は年に4月ごろの1回しか公開されないので、なかなか見る機会がない。それ以外の時期は複製が展示されている。彦根駅の壁面にもこの実物大の写真が掲示されている。4月12日に、馬場恵峰先生をこの彦根城博物館に案内したおり、この屏風の公開日を知って、今回見学した。

 

彦根城博物館

 彦根城博物館は、1987年、彦根城表御殿跡地にその復元を兼ねて建てられた博物館である。彦根は、徳川幕府の重鎮の井伊家が代々彦根藩主を勤め、城下町として栄え、数々の歴史・文化を育んできた。井伊家には豊富な美術工芸品や古文書が伝えられている。その数は約4万5千点にのぼり、彦根城博物館所蔵資料の中核となっている。その他、彦根および彦根藩に関する資料も収集しており、収蔵資料は9万1千件を超える。

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彦根屏風

 彦根屏風は、江戸時代初期に描かれた遊里の風俗画である。紙本金地著色、六曲一隻、縦94.0cm横271.0cm(本紙のみ)の中屏風画である。当時の風俗が良くわかる絵である。近世初期風俗画の代表作の1つで、浮世絵の源流とも言われる。描かれた場面は近世初期、京都六条柳町の遊里である。

 着物の描写も胡紛で立体的に表現されていて細やかい。女性の髪の毛も緻密に描かれている。

 右から4人目の遊女が男性の髷を結っているが、これが後に女性全般に広がった。当時の遊女はファッションリーダーでもあった。その女性の横に描かれた洋犬は、洋犬を飼うことが当時の最新のファッシンであったことを表している。

右から2人目の女性は、濡れそぼった髪を垂らし、華やかな場に不釣り合いな芭蕉文様の着流しを着ている。世の無常を説く謡曲「芭蕉」に登場する芭蕉の精が重ね合わされている。

 屏風の中央に位置する禿(かむろ)は、屏風の絵の構成上で、室内と室外の描写をつなぐ重要な役割を担う。指先の構図の意味は、諸説がある。禿とは、遊女見習いの幼女である。禿は、最上級の太夫や、または花魁と呼ばれた高級女郎の下について、身のまわりの世話をしながら、遊女としてのあり方などを学んだ。

 タバコ盆に描かれた喫煙文化は、南蛮貿易からもたらされた。

 屏風中の後ろに描かれた屏風の画は、当時から150年も前に流行した周文様式の山水画をほぼ完璧に描いている。これなどから、この絵師が高い技量を持っていたと推定される。

製作時期

 制作年代は、類品との比較や金地の使い方などから、寛永年間、特に寛永6年(1629年)前後から11年(1634年)の間だと推測される。この時代、風紀の取り締まりが厳しくなっていき、絵のような情景は急速に失われつつあった。この絵の発注者及び絵師は、かつて自分たちが楽しみ、今無くなりつつある情景を追憶するために制作されたとも推測できる。屏風や軸は当時の考え方や思想を反映している。絵は歴史の物語を秘めている。

 

屏風の購入者

 この屏風の購入者は井伊直弼との説もあるが、その禁欲的な性格から見て考えにくく、洗練された美意識をもち、趣味も広かった井伊直亮が購入したとの説が有力である。

 以上は、彦根城博物館内の説明資料、wikipediaを参考に記述。

 

美術品の撮影許可

 この彦根城博物館では、フラッシュを焚かなければ撮影可というのが嬉しい。欧米の美術館では常識だが、日本の美術館や寺院では殆どが撮影禁止である。是非、この世界の常識を広めて欲しい。日本の美術館の常識は世界の非常識である。

 寺院でも仏像の撮影禁止のお寺が多い。仏像は日本のお宝である。寺院の自己都合で撮影禁止にして欲しくない。仏様の意向に反していると思う。

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 なおこの屏風の詳細は、彦根城博物館のHP上で、「彦根屏風」をルーペで拡大して鑑賞することができる。彦根城博物館の配慮に感謝。

「彦根屏風」 http://hikone-castle-museum.jp/collection/331.html

 

文化の恩人

 この屏風は井伊家の持ち物であったが、相続税支払いの関係で彦根から流失寸前であった。スーパーマーケットチェーン平和堂を一代で築き上げた夏原平次郎氏(1919- 2010)が、1997年に12億円を彦根市に寄付して、彦根屏風を彦根市に残す恩恵を授けた。彦根のお宝が守られて、ありがたいこと。感謝。

 

2018-05-18

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2018年5月17日 (木)

恵比須軕の歴史と伝説(4/4)

「えびす」とは

 えびすは日本の神で、現在では七福神の一員として、日本古来の唯一(その他はインドや中国由来)の福の神である。古くから漁業の神でもあり、後に留守神、さらには商いの神ともされた。夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須などとも表記し、えびっさんとも呼称される。

 「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。

 

文献上の初出と本地仏

 「えびす」の最初の記録は平安時代末期の『伊呂波字類抄』(三巻本)である。そこには広田神社の末社として10社が列記される中に「夷 毘沙門」「三郎殿 不動明王」の2社があり、夷と三郎はまったく別の神であった。少し時代が下がって鎌倉時代初頭の『諸社禁忌』には「衣毘須 不動」「三郎殿 毘沙門」とあり、両者の本地仏が入れ替わっているが、これはどちらかが単なる誤りなのか、新説として後から修正されたということなのか、もとから両説が併存していたのかはわからない。が、次第に両者が混同されて「夷三郎」という神格ができていく過程が窺われる。この広田神社の末社という2社が統合されたのが現在の西宮神社の前身と考えられている。

 

漁業神

 恵比寿自体が大漁旗の図版として使われるほどポピュラーな漁業神であるが、日本各地の漁村ではイルカやクジラやジンベエザメなどを「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀る地域が多数ある。

 

福神

 平安時代末期にはえびすを市場の神(市神)として祀った記録が残っており、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮境内で市神としてえびすを祀ったという。このため、中世に商業が発展するにつれ商売繁盛の神としての性格も現れたとされる。同時に福神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱とされる。福神としてのえびすは、ふくよかな笑顔(えびす顔)で描写されている。

 

他の神との習合

 えびすは記紀に出てこない神であるため、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきた。蛭子、事代主神、少名比古那神、火々出見命(山幸彦)等の諸説があるが、えびすを祀る全国の神社では蛭子説と事代主神説が圧倒的に多い。

 

蛭子命

 記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったために流し捨てられたとされる。その神話を受け、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、蛭子命が海からやってくる姿が海の神であるえびすの姿と一致したため、2神は同一視されるようになった。このえびすを蛭子命と見る説は、室町時代のころに現われたものであり、えびすを夷三郎と呼ぶのは『日本書紀』において3番目に生まれたことによるとされるが、本来は夷と三郎は別々の神だったのが混同されたものである。

 蛭子命の漂着の伝承は各地にあるが、その代表が兵庫県西宮市の西宮神社とされている。西宮神社はえびすという名の神を祀った神社としては現存する記録上で最古であるため、全国のえびす神社の総本宮とされる。

 以上、wikipediaより編集

 

大垣の蛭子神社

 大垣八幡神社の近くにある蛭子神社の「蛭子」とは変な名前だなと思っていたが、今回の恵比寿の歴史を調べていて、記紀神話においての蛭子命であることを知った。大垣の蛭子神社の歴史と由緒を記載した立て看板をみたら、下記の如くその旨が記載されていた。今までこの看板を真剣に見ていなかったので、蛭子と恵比寿の関係には思いつかなかった。あれども見えず、である。今回、恵比寿軕の歴史を調べて出会ったご縁である。大垣まつりも、神話に基づいた恵比寿神を祀って370年の歴史を持つ。身近には歴史が埋まっている。昨年には、この経緯も知らず、この蛭子神社にのぼりを寄進したばかりである。商売繁盛の良きご縁であった。

以下、大垣の蛭子神社の歴史の看板

 

蛭子神社の歴史と由緒の概要

 一. 天正八年(約450年前)人皇第百録第正親町天皇の御宇無二オと云う人西宮神社の御分身(恵比寿大神の御分身)をお迎えして奉斎す。御神徳高く商売繁盛の福の神として参拝者多く社頭殷舞を極めしも何時しか衰退し其の名も世上より忘れられしが昭和二十年七月二十八日の空襲時に罹災御本堂及び諸建造物焼失せり。然るに御神体は奇しくも已に御出ましありて何の異常もなかりしかば氏子総代其の奇端に恐懼し崇拝者相寄り新本殿を造営奉斎し愈々御神徳の御発揚を祈念申し上げ崇敬の誠を致さんとす。

 二. 故に今日に伝わる一部の歴史を今回兵庫県西宮市西宮大社へ持参吉位宮司殿に提出せし処先方も文献と対照の上明らかに県下に唯一の御分身たる事を証明され・御神符・御守・御みくじ等一切を下付されました。

  蛭子神社

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神話と大垣まつり

 私の学校時代は、GHQの指令のせいか、学校で神話のお話は全く聞かなかった。GHQが禁止した。禁止したことさえ私は知らなかった。だから私は「蛭子命」も知らなかった。神話は史実ではないが、その国の建国に関する文化である。神様とは我が国を守ってくれる存在だ。その後継者が天皇である。日本と国民の平和を祈るのが主な仕事である元首は、世界でも天皇陛下以外にいない。世界一長い歴史と平和を愛するすばらしい伝統のあるこの国に誇りを持つように、子供たちを教育すべきだと思う。子供たちがお祭りに参加して、その文化の一端に接することは良いことだと思う。

 日本は、ヨーロッパから勝手に移住して800万人の原住民インディアンを虐殺して建国した自由の国、米国とは違うのだ。自国民の数千万人を虐殺して建国した共産国家とは違うとの誇りを持ちたい。大垣まつりは、日本の歴史を誇りに思わせてくれる。

 

恵比寿様は笑顔の神様

 幸せな笑い顔は、えびす顔といわれる。笑顔が人を幸せにしてくれる。一部の富裕層だけが儲けて笑いが止まらず、世の富の99%も独占するグローバル経済主義では、世界は幸せになれない。

 福沢諭吉は、その著書『学問のすすめ』で「孔子の格言を信じて、ことさら渋い顔つきを示すのは、入口にガイコツをぶら下げ、門前に棺桶を置いているようなものである。これでは誰も近づかなくなる。」と明言を述べている。恵比寿様は、それを諭す笑顔の神様である。

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2018-05-17

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2018年5月16日 (水)

恵比須軕の歴史と伝説(3/4)

恵比須軕の保管

 宮町の軕収納庫には、猩々軕が保管されている。この保管庫は2軕の収納が可能な造りである。船町、伝馬町、岐阜町、宮町の4つの町は、4年ごとに当番が回ってくるので、それを想定した大きさの収納庫となっている。各町は、担当の軕の収納庫を持っている。今日の2018年5月13日の本楽は、雨であったので、宮町では、猩々軕の奉芸の披露をこの軕収納庫内で行った。

 昨年2017年5月15日の朝、何気なく伝馬町を車で走っていたら、お頭の無い恵比須軕が目に飛び込んできた。慌てて車を降りて撮影した。大垣に住んで、初めて見た光景である。聞けば、恵比寿様の御頭は地区の役員の家で大事に保管されているという。

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 昨年2017年5月15日朝 前夜の御頭渡しが終わった後、伝馬町の収納庫前に置かれた恵比寿軕。御頭は地区の役員の家で大事に保管されている。

42p1100475  宮町の収納庫

43p1050103 雨のためテントを張って展示 5月13日

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 2018年5月13日11:27  ちょうど奉芸の披露が終わった後

伝統を守る価値

 今年は、大垣まつりの本楽は雨で中止であったが、恵比須軕を含めて3軕だけは、ビニールを被って、市内を練り歩いたという。370年間、この「大垣祭の軕行事」を継続して守っている各町内の皆さんに頭が下がる。伝説は、地道に愚直に自分達の街の伝統を守ることで、生まれる。奇をてらったことをするわけではない。継続が難しいのだ。大垣の子供たちには良き誇るべき大垣の財産である。

 

後世の記録として

 私は大垣まつりの写真をこの8年間、毎年撮っているが、「お頭渡しの儀」の写真撮影が上手く撮れたのは、今回が初めてである。それでも写真の出来には、反省点が多い。私は公式のカメラマンではないので、制約が多く撮りたい写真が全ては撮れない。それでも市民の眼で伝統を記録に残したいと思う。何事も一朝一夕では成就しない。これから順次、他の12両の軕の詳細報告をします。私はこの行事の記録を文書と写真で後世に残していきたい。

 

2018-05-16

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2018年5月15日 (火)

恵比須軕の歴史と伝説(2/4)

「御頭渡し」の儀

 恵比須軕の恵比須大神の人形の御頭を渡す儀式「御頭渡し」は、大垣まつりの締めくくりの儀式である。本楽の夜、各町の軕が曳き分かれた後、その年の担当町から次の年の担当町へと、御頭を渡す儀式「御頭渡し」が古来と同じ手順で、今も伝統行事として執り行われる。御頭は担当地区の代表の家で保管される。最近では、担当役員の家の事情もあり、その御頭は耐火金庫に納められて大切に保管される例もある。毎月、1日と15日は、保管地区の神社か集会場に御頭を飾って神事が行われる。

 御頭の保管は船町、伝馬町、岐阜町、宮町の4町内が一年交代で担当している。今年2018年は、宮町が「御頭」保管の担当である。そのため、宮町は2つの山車の受け持ち、大変である。宮町ではこの6月1日から毎月神事が集会場で行われる。

 

今年の「御頭渡しの儀」

 2018年5月13日、午後6時から伝統の儀式「御頭渡し」が、大垣八幡宮神殿で古来と同じ手順で行われた。本来、午後9時半からであるが、雨で本楽が中止になったので、その時間が早くなった。

 あいにくの雨の中を、横笛のお囃子が流れる中、伝馬町の方がびしょ濡れになりながら、ビニールに覆われた御頭を恵比須軕から外した。伝馬町役員が外した御頭を捧げながら、八幡宮神殿前に置く。神主様がお祓い授け、伝馬町の全員で大祓詞を謳い、伝馬町の役員が「確かにお渡ししました」、宮町の役員が「確かにお受け取りしまいた」と述べて受け渡しの儀式は終わる。宮町の役員が、神前に置かれたお頭を捧げて、再度、恵比須軕に御頭を取り付けて完了である。

 その後、恵比須軕の前で、横笛のお囃子を奏でてから、大垣市内を通って宮町の軕収納庫に曳いていく。あいにくの雨の中、軕を曳くのは大変である。それでも、昨年は境内が真っ暗で、カメラも高感度対応の機材でなかったので写真撮影が大変だった。今年は雨のため早い時間の明るいうちに儀式が執り行われたので、写真が鮮明に撮れた。何が幸いするやら。

 

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 昨年2017年5月14日21:15 御頭渡しの儀 

 夜宮の後の八幡宮神殿前で、真っ暗の中での儀式

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23dsc08735  今年2017年5月13日17:42  八幡宮神殿前 明るいうちでの儀式

244k8a0126_8  お頭を外す前にお囃子を演奏

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 お頭の取り外し

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 伝馬町の役員が八幡宮神殿にお頭を捧げて運ぶ

284k8a0126_12  お頭を慎重に神殿前に設置 

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 神主のお祓い

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 お頭を伝馬町から宮町に引継ぎ

324k8a0126_14  お頭の取り付け 

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 御囃子を奏でる

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 雨の中を市内の巡行と収納庫へ向けて出発

お祭りを支える人達

 伝馬町の世話役全員で大祓詞を謳っていたとき、私の横にいた老人が、それに合わせて大祓詞を口ずさんでいた。以前に恵比須の御頭をお世話された町内の方だろうと推察した。恵比寿様を商売繁盛、大垣繁盛の神様として心から崇めておられるようだ。そういう人達が大垣まつりを支えている。感謝。

昨年と今年の撮影状況

 昨年2017年は、地元ケーブルテレビが神殿の中を右往左往して、「お頭渡しの儀」を神殿の外から撮影するには最悪の状況だった。今回は、雨で観客が少なくケーブルテレビも不在だったのが幸いした。私も昨年は、当日この行事を初めて知って行動したので、撮影位置が神殿に集まった観客群衆の後ろになり、上手く撮影が出来なかった。今回は、構えて早めに来て一番前に場所取りをしたので、上手く撮影できた。この撮影も2年越しである。

2018-05-14    久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年5月14日 (月)

恵比須軕の歴史と伝説(1/4)

 大垣まつりは、1648年(正保5年)、ウィーン公使であった戸田共氏伯爵のご先祖にあたる初代の大垣藩主戸田氏鉄が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進して喜びを表し、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出してその喜びを体現したことが起源という。

 1679年(延宝7年)、第四代の大垣藩主戸田氏西が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。

 2018年5月12日8時45分から、大垣まつり「試楽」が開催された。大垣まつりは、370年の伝統ある祭りである。5月12日は快晴に恵まれ、「大垣祭の軕行事」として2016年12月にユネスコ無形文化遺産に登録されたこともあり、今までにない人出であった。早朝の試楽はまだ人出が少なかったが、夜宮はいまだかってない混雑で、写真撮影の場所取りも撮影も困難を極めた。私は撮影中に群衆に押されて、2回も望遠レンズフードを落としてしまった。暗闇で足元のフードを探すのに大変だった。

 残念なことに5月13日の本楽は、雨で中止になったが、雨の中を、恵比寿軕を含む3軕はビニールの覆いを被って市内を練り歩いた。雨のため、各軕の収納倉庫では、奉納芸の披露もあった。奥の細道むすびの地記念館では、玉ノ井軕の女の子達の日本舞踊の披露があったようだ。

 

恵比寿軕の歴史

 1679年(延宝7年)、第4代藩主戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたり、先代の出身地である摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣し祈願したといわれる。現存の恵比須大神の人形は左甚五郎の作と伝えられる。

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左甚五郎は江戸時代初期に活躍した伝説的な彫刻職人である。16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。それでは甚五郎は左である。左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。

 日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地も様々なので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。(この項、wikipediaより)

 伝説によると、恵比須大神の人形の顔面の塗料が剥げていたので、塗り師が塗り変えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれる。

 また祭礼の日に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残っている。

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174k8a0126_5 この日の晴れ舞台の為に伝馬町の子供達も猛練習。PTAも全面支援。良き教育の場である。2018512日試楽にて

2018-05-14     久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年5月13日 (日)

小学生の夢、大人の悪夢

 日本FP協会では、全国の小学生を対象に「将来の夢」をテーマにした「小学生『夢をかなえる』作文コンクール」を2007年度より毎年実施している。このコンクールの応募作品に書かれた「将来なりたい職業」の結果を男女別に発表した。その2017年度の結果を見て私は暗澹たる気分になった。悪夢を見ているようだ。

 

第11回 男子児童のなりたい職業

順位(前回)  職業          票数

1(1) サッカー選手・監督など      189

2(2) 野球選手・監督など      181

3(3) 医師             109

4(4) ゲーム制作関連      105

5(5) 建築士          62

6(14)ユーチューバー          51

7(6) バスケットボール選手・コーチ 50

8(11)大工             43

8(8) 警察官・警察関連        43

10(17)科学者・研究者          40

日本FP協会:https://www.jafp.or.jp/personal_finance/yume/syokugyo/

 

製造業の就業者数の減少

 総務省は1日、2012年12月の製造業の就業者数が前年同月比35万人減って998万人(原数値)となり、51年ぶりに1000万人を下回ったと発表した。国内では製造業が調整を進めた分の雇用を成長したサービス産業が吸収しており、産業構造は大きく変化している。

 製造業の就業者はピークだった1992年10月の1603万人からほぼ一貫して減少してきた。就業者全体に占める製造業の割合が最も高かったのは70年代前半の27%超で、これが昨年2012年12月には16%まで落ち込んだ。(2013/2/1付日本経済新聞)

 

経済産業省作成の資料では、製造業の割合が

 2000年 20.5%

 2005年 18.0%

 2010年 17.2%

 2014年で16.4%である。

 

 経済産業省が企業を対象にしたアンケート調査によると、人材が不足する分野として機械工学が最多の結果となった。それだけ技術分野に進む学生が減っている。(2018/4/25付日本経済新聞)

 

日本の未来

 未来を背負う子供たちが、製造業を避け、安易な金儲けを夢見て働くようでは、日本の未来はない。年収一億円のユーチューバーを夢見る子供が増えるのは、大人には悪夢である。ゲーム制作もユーチューバーも社会には付加価値を生まない。ゲーム制作もユーチューバーも社会のテラ銭稼ぎの商売である。陰陽の世界で言えば、陰の世界の仕事である。世界に誇れる仕事ではなかろう。それで未来の日本は支えられない。ゲームが後世に残る仕事を生むわけではない。それは時間の浪費をさせる悪の遊びである。

 モノを作り出す職業の人気が、5位の建築士、8位の大工、10位の科学者・研究者では、将来の日本は絶望である。後は大半が虚業である。

 

占いの世界での職業

 東洋の占いは、全て陰陽で分けて占う。四柱推命での職業では、正財偏財の職業に分ける。正財は、農業、職人、大工等のモノを作り出す職業である。偏財は、医師、役人、学者、商人等の間接部門の職業である。正財の人間がいて、偏財の人間の仕事がある。それが偏財の仕事ばかりに人気があって、モノを作り出す職業に就く人がいなくなれば、国は衰退する。あくまでバランスである。

 

大人の責任

 この原因が、社会の拝金主義者の跋扈の影響であることは明白だ。チャラチャラしたテレビ番組や、虚業の世界を絶賛する安易な情報操作で、それを価値があると誤解してしまう子供達である。それは洗脳教育と同じである。そのように仕向けているマスコミの責任である。それを指導できない大人たちの責任なのだ。仕事とは何かを教えていない大人の責任なのだ。

 

2018-05-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年5月12日 (土)

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館~訪問記2/2

零戦「海軍十二試艦上戦闘機」の実物大模型

 零戦の試作機の実物大模型が飛燕の上の空中に吊り下げて展示されている。そのため、至近距離では見られず、少し残念である。この試作機の初飛行は、この各務ヶ原飛行場である。小牧の三菱重工で製作され、牛車でここまで運ばれたと聞いた。当時の物資の無い日本の状況を象徴している。

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UF-XS実験飛行艇

 我が国が誇る救難飛行艇US-1A、哨戒機PS1の基礎技術を開発した機体である。新明和工業が、名機二式大艇のDNAを受け継ぎ、この実験機で多くのデータを集積して、今の飛行艇を開発した。どんな技術でも同じであるが、天才技術者が、名機を作るわけではない。地道な実験を繰り返し、多くの失敗の塗炭の苦しみを経て、素晴らしい技術が獲得できる。それが名機の誕生となる。飛行機はその技術の集大成なのだ。だから惹かれる。

 この博物館では、上から俯瞰できるのが良い。米国スミソニアン航空宇宙博物館でもこうはいかない。上から俯瞰する飛行機はなかなか良い眺めである。

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  UF-XS実験飛行艇の技術が花開いた水陸両用の救難飛行艇US-1A

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 日本独自開発の超音速ジェット機T2 ブルーインパルス(2代目)に採用された

134k8a9615 超音速ジェット機T2高等練習機を改造した研究機

 コンピュータ制御確立に貢献した研究機

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 日本で初めてラセンス生産された超音速ジェット戦闘機F-104

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飛行シミュレータ

 飛行シミュレータも、以前はセスナの機体であったと記憶しているが、現在はジェット旅客機の操縦席になっている。親子で体験している姿が微笑ましい。

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再会

 この博物館で偶然、前職場の研究開発部で一緒に仕事をした元I次長に再会した。20年ぶりの再会である。現在85歳でお元気である。現在は特に仕事は何もやっていないが、リンドバーグ著「翼よ、あれがパリの灯だ」を翻訳されて自家製の本にされたとか。「それは既にあるではないですか」と問うと、その翻訳本の日本語があまりにひどいので自分で訳し直したという。そのデジタルブック版を贈って頂けることになった。縁は異なもの。犬も歩けば棒に当たる。まず出歩かないとご縁には出会えない。

 

2018-05-12

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年5月11日 (金)

岐阜かかみがはら航空宇宙博物館~訪問記1/2

 本博物館は、航空と宇宙の展示を兼ねた国内唯一の専門博物館で、実機34機、実物大模型9機の計43機が展示されている。リニューアル後は1.7倍に拡大された敷地に、実機展示数で日本一を誇る飛行機が展示されている。ここ各務ヶ原は、ライト兄弟が動力飛行に成功した1903年から14年後の1917年に、国内二番目の飛行場が作られた由緒ある場所である。

 2018年5月9日、上記博物館を見学した。当初は車で、と思ったが、国道21号線、岐阜~各務原市の道路渋滞状況を考えて、電車で行くことにした。ガイドパンフレットで、名鉄「各務原市役所前駅」下車とあったので、博物館が駅の近くにあると勘違いをした。駅から3.5キロほどの距離があり、歩けないことはないが、バスに乗らねばならない。知らずに途中まで歩いて、客待ちのタクシーにその距離を教えられ、即、タクシーに切り替えた。バスの本数は少ない。

 

トヨタの新型タクシーに乗車

 各務原市役所前駅から博物館まで1,500円である。偶然、乗ったタクシーがトヨタの新型タクシーであった。その利便性、快適性を体得した。背が高いので乗りやすい。前職でホンダのスポーツカーNSXに試乗したことがあったが、実に乗りにくい。サーキットならともかく、一般道を走るには視線が低すぎて視界が狭く乗りにくいし、シートが低いので、乗り降りが大変だ。改めて、恰好は悪いがトヨタの新型タクシーは快適である。車は性能や格好じゃないよ、乗り心地、利便性だよ、と納得した。人との付き合いも、学歴や肩書、利害関係ではないよ、人柄だよ、と実感する事例に最近は度々遭遇してその想いを新たにした。

 

博物館に到着

 入門ゲートを過ぎると、屋外に展示されたヘリコプターV-107A、YS11、救難飛行艇US-1A、対潜哨戒機P-2Jが出迎えてくれる。まず写真撮影で忙しい。観客が飛行機の前から離れるの待っている時間がもどかしい。観客の姿を飛行機の写真に入れたくはないからだ。

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入館

 入場料に60歳以上はシニア割引があり、この時だけ歳をとった有難さを感じた。当日は、春の連休の大混雑も過ぎて、程よい人数の観客であった。私は飛行機を見るとわくわくする。写真を撮りまくって幸せな気分となった。私が若い頃(20代、30代)に話題になった飛行機がズラーっと展示されており、至近距離で眺めて写真を撮れて嬉しくなった。飛行機にはロマンと夢がある。技術者として技術の粋を集めた形を見ているだけで楽しい。この博物館には20年ほど前に来たことがあったが、それ以来ご無沙汰である。今回、戦闘機「飛燕」も復元展示され、この3月24日にリニューアルオープンされ、何時行こうかと思っていた矢先である。

飛燕

 復元された飛燕は、至近距離で見ると威圧感があり、思った以上に重厚で大きい。展示の照明もわざと暗いして、銀色の機体が映えるように配慮されていた。各所に、制限された環境で開発を進めた先人の技術者の苦労が見て取れる。写真で見ていたスマートな戦闘機とはイメージとは、かなり違う。

 飛燕の機体にも零戦で開発された沈鋲式リベットも採用されている。当時に最先端技術である。戦争とは国力の総力戦であることは、最先端の戦闘機を見るとよくわかる。当時はガラス素材の技術が米国に劣り、家の窓のように枠にガラスをはめたような操縦席の窓ある。対抗する当時に米国戦闘機は、全面一体式のガラス窓となっている。そこに技術の底力の差を見る。その差を設計力で補おうとした当時の設計者に頭が下がる。

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2018-05-11

久志能幾研究所 小田泰仙   著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年5月10日 (木)

大垣まつり 準備中

 今日201851016時頃、郵便局にピアニスト玉田裕人さん宛ての封書を出しに行ったら、その道の途中でお囃子が聞こえてきた。大垣市内にお囃子が聞こえると、それはお祭り当日の山車練り歩きの練習を告げる「大垣の春の風物詩」の奏である。それ行け、とその方向に歩いたが、何時しかお囃子の音は消えて、大垣八幡神宮の前に来てしまった。八幡神宮の鳥居の前にのぼりが立ち、神前には新しいしめ縄も張られ、512日、13日の大垣まつり案内看板がかかっていた。神社境内では恒例のお化け屋敷の設営が真っ盛りであった。八幡様も大垣まつりの準備中である。

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恵比寿さん山車と大黒さん山車

 八幡様への参拝の後で、水門側沿いに大黒さんの山車を見つけて、その後に続いて街の中心部まで追いかけをして写真撮影した。行きつけのお店に人に聞くと、店前に大黒さんの山車、恵比寿さんの山車がやって来ると、ご祝儀を出すのだそうだ。若い衆が休日を返上して山車を引いている。そのお礼でもある。山車がやって来もしないお店では、どうしようもなかろう。大黒さんと恵比寿さんの山車は福の神である。

 今日は、大垣市内の大通りで大黒さんと恵比寿さんの山車を拝顔できて、私も目出度い気分である。聞けば、明日11日の午後から、大垣八幡神宮周辺が通行規制されるので、ガソリンスタンドもお休みにするという。慌てて自車にガソリンを入れた。

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2018-05-10

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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