石碑の揮毫
彦根は書聖・日下部鳴鶴の出身地である。そのご縁ある彦根城博物館の看板石碑の文字が残念である。もっと正しい書体の豊かな感性の文字であってほしい。
日下部鳴鶴
彦根城博物館には、明治の三筆の一人と言われた書聖・日下部鳴鶴の書が時折展示される。彼は、それまでの和様の書体から唐様に日本の書法の基準を作り変え、数多くの弟子を育成した。彼は書聖とも日本近代書道の父とも称される。彦根は日下部鳴鶴の出身地である。
彼の義父の日下部三郎右衛門は、「桜田門外の変」時の護衛組長である。彼は最期まで大老・井伊直弼の籠の側で戦い、力尽きて闘死した。彼の名は、桜田門外殉死八士の碑の冒頭に名前が刻まれ、豪徳寺の井伊直弼公の菩提の後ろに祀られている。
桜田門外殉死八士の碑。向うが井伊直弼公の菩提 豪徳寺(東京)
義父の死後、生活は困窮を極めたが、日下部鳴鶴は明治になって藩命により明治政府に仕え、大久保利通の第一書生として身近に接する。彼は、大久保利通を父のように思い接したという。その大久保利通は、明治11年(1878年)5月14日紀尾井坂で暗殺されるが、その第一発見者が日下部鳴鶴である。まだ温もりのある大久保利通の骸を抱きしめて、彼は天命を悟ったのだろう。義父とは言え、二人の父を政争で失ったのだ。これを機に、彼は誰にもその理由を告げず官を辞して書の道に進む。
この彦根城博物館は明治以前の資料を展示するのが目的なので、日下部鳴鶴の書の展示が少ないのは致し方ない。しかしその日下部鳴鶴の図書も販売しているのだから、日下部鳴鶴の書を常設しても問題なかろうと思う。
彦根城博物館
2018年4月12日に馬場恵峰先生をこの博物館に案内をしたが、この時は日下部鳴鶴の書の展示はなく、この秋に企画展があるということで、九州から来られた恵峰先生には残念なことであった。
その後で、先生が指摘したのが、玄関の彦根城博物館の名前の入った看板碑の書体である。書体として残念だという。全て右肩上がりの字体で、全体バランスが取れていない。右に上がれば、左に下がる。それが自然の法則である。馬場恵峰先生にとって、日下部鳴鶴は書の師の宗家にあたる。馬場恵峰先生の師の原田観峰師が、日下部鳴鶴の書体をお手本に日本習字を創業した。だから日下部鳴鶴にご縁ある博物館の看板にこだわったのだ。
彦根城博物館
関ヶ原町歴史民俗資料館
それに対して看板の書を絶賛されたのが、翌日の5月13日にご案内した関ヶ原町歴史民俗資料館の看板文字である。この字は、日下部鳴鶴の書のようで、今まで見た博物館の看板文字の中で一番の出来だという。
恵峰先生揮毫の碑文
恵峰先生には、自家の墓石と墓誌の揮毫をして頂いた。今回、その墓誌の碑文を見てもらうために先生を彦根に招待した。普通の書家は、恐ろしくて石碑の字は揮毫しないという。なにせ長期間も、字が後世に残るから嫌がるのだ。並みの書家ではない恵峰先生は、大村市内に数多くの碑文を揮毫されている。2017年3月3日、先生の案内で大村市にある先生が揮毫した石碑を見せてもらった。梅田のNTTテレパーク堂島ビルにある「大村藩蔵屋敷跡」の碑文も恵峰先生の揮毫である。
梅田のNTTテレパーク堂島ビルにて 2015年10月8日撮影
「動員学徒の碑」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)2017年3月3日撮影
「史跡 玖島城跡」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)2017年3月3日撮影
「本経寺大村家墓碑群」(馬場恵峰師の揮毫)(大村市)2017年3月3日撮影
2018-05-19
久志能幾研究所 小田泰仙 e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp
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