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2018年5月

2018年5月30日 (水)

大垣市長と岐阜新聞の良識を疑う

 2018年5月30日付の岐阜新聞西濃地域欄に、「褒章受章の喜びを語る」の記事が掲載されていた。その掲載写真をみて呆れ、大垣市長と岐阜新聞の良識を疑わざるを得ず、悲しくなった。市長とマスコミの劣化がここまで酷いとは……..

 

「褒章受章の喜びを語る」写真に恐懼

 大垣市在住の藍綬褒章を受章された木曽義尚さんと緑綬褒章を受章された藤井和子さんが大垣市役所を訪れ、大垣市長に喜びの報告をしたとの記事である。お二人と大垣市長の並んだ写真を見て違和感を覚えた。受章された主役のお二人が脇に位置して、ど真ん中に大垣市長が大きな顔で鎮座している写真である。

 まるで結婚披露宴の記念写真で、新郎新婦の間にノーネクタイの来賓が厚かましく割り込んで鎮座しているようだ。今回は、両氏が長年の功績が認められて天皇陛下から褒章された。その天皇陛下から拝受した章の意味を大垣市長は取り違えている。まるで市長自身が章を拝受したように見える。天皇陛下がこの写真を見たら何と思われるかと考えると、大垣市民として恥ずかしい。恐懼としか言えない。

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大垣市役所の関係者と岐阜新聞の忖度

 長年、厚生保護活動で功績のある木曽さんと社会奉仕活動で功績の藤井さんが主役であるはずが、大垣市長が主役の写真になっている。大垣市では、何事も大垣市長が写真の中央、主役として出ることが伝統のようである。それを大垣市長も市役所の関係者も、新聞記者さえ、この伝統が当たり前と思って対処している。世間の常識からみて異論があっても、左遷が「恐ろしくて」口出せない雰囲気なのだろう。なにせ17年間の長期政権であるので、大垣市役所内は癒着とヒラメのオンパレードのようである。大垣市役所も岐阜新聞も大垣市長を前面に立てて、忖度をしたい下心が丸見えである。

 

第一紙面に日大の内田前監督の除名記事

 大垣市役所の担当者たちも、日本大学のアメフト部のように、大垣市長には正論を言うこともできず、世の常識も指摘できず、岐阜新聞もそれに迎合して写真撮影をして、わざわざカラー写真で掲載している。岐阜新聞には、日大のアメフト部の体質の批判をする資格はないのではないか。

 同日の岐阜新聞の第一面には日大の前監督らの「除名」の記事が掲載されているのは、大いなる皮肉で笑わされた。岐阜新聞もオツなことをする。痴呆紙の減少が止まらないのは、故あること。

 

地方紙の衰退

 日本新聞協会の2015年時点で行われた調査では、新聞社数91社で、部数 43.276.147部数(一世帯当たりの部数0.78部)で、あり、売上、部数、従業員数、すべての項目で、2005年からの減少状態にある。地方紙業界が、そんな危機状態にあるのに、大垣市長に迎合した記事をノー天気に載せるようでは、岐阜新聞の未来は暗い。新聞は公器として、正しく報道して、言うべきことを書いてもらわないと、存在意義がなくなり、新聞社自身が衰退する。岐阜新聞も中日新聞も、ここ最近の記事を見ても、問題が山積みの大垣市政の批判記事を見たことがない。それだけ癒着体質化してお抱え新聞(大垣市の広報新聞)に成り下がっていると言われても致し方なかろう。これでは、新聞部数が減るのは当たり前。

 

良識の問題

 本件に関して、私の師である元大学教授、愛知のトヨタ系ディーラの店長、高崎市の美術館館長、地元自治会長に意見を求めたら、皆さんから笑われて恥ずかしい思いをした。大垣市と岐阜新聞西濃版は、日本大学のアメフト部並みの良識を疑われる地域であることを再認識した。自己顕示欲だけ旺盛な大垣市長のせいで、大垣市は寂れる一方である。問題は、岐阜新聞、中日新聞の記事に洗脳されて、今日のような良識を疑う記事を平然と掲載しても、新聞購読者は誰も疑問を感じず、意見を言わないように躾られた体質だ。大垣市民に目覚めて欲しいと切に思う。

 以前に私は、岐阜新聞と中日新聞を購読していたが、ある事件を機に止めた。今にして、それが正しい選択であったことを再確認した。

 

2018-05-30

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年5月29日 (火)

円空佛に教えられ

 2018513日、大垣市文化センターの前を通ったら、「円空佛・木彫り作品展」のポスターが目に飛び込んできた。524日、展示会場に足を運んだ。

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 松本明慶大仏師のプロの仏師が作る仏像は、正装の仏像である。いわば高級料亭の料理である。それに対して、今回の展示会の作者・杉山正明さんが作る円空佛の仏像は、一般家庭の普段着のような身近な家庭料理の趣である。親近感を抱いた。

 その昔、松久朋琳師の「仏像彫刻通信教育講座」に申し込み、仏像彫刻に挑戦したことがある。1枚だけ課題の模様彫りをしたが、哀しいかなサラリーマン時代の忙しさの為、挫折した。本当の夢は、深夜、仏像を彫りながら心を落ち着けて過ごす姿にあこがれたのだ。

 2010年、松本明慶大仏師の仏像に出会って、また考えが変わった。その精緻さと美しさをみて、とても片手間や趣味で作れるものではなく、仏像は買うものと考えるようになった。

 今回、杉山正明さんの彫る円空佛に出会って、さらに考えが変わった。その素朴で、それでいて品のある仏様をみて、感銘を受けた。なにも構えなくとも、自分の思いがこめられた仏像を彫ればいいではないか、と。寺院にある仏様だけが、本物の仏像ではない。身近に手を合わせることのできる仏様も、自分の分身である。

 円空佛は信仰対象の仏師の彫る仏像ではなく、当時の庶民の心のよりどころとして彫られた。その荒い彫りの中に安らぎが見いだせる。私でも彫れそうだという仏像彫刻の敷居の高さを低めてくれる仏様である。

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円空とは

 円空(寛永9年(1632年)-元禄8年(1695年))は、江戸時代前期の修験僧・仏師・歌人である。各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。

円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。そのうち愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌や大般若経の扉絵なども残されている。

 

円空仏の特徴

  円空仏はデザインが簡素化されており、ゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。一刀彫というのは鉈一本で彫り出した事に由来するが、実際には多数の彫刻刀によって丹念に彫られており、鉈で荒削りで彫ったに過ぎないというのはただの宣伝である。円空としては民衆が気軽に拝める、現代で言えば量産型の仏像として製作し、野に置かれる事を望んでいたのだが、そのデザインが芸術的に高く評価されたため、大寺院で秘仏扱いされる事もあった。

 

木喰仏

 円空から後代の木喰も同様に日本各地で造仏活動を行っており、ノミ痕の残った鋭い円空仏に対し、表面を滑らかに加工し、後年には柔和で穏やかな表情を有した「木喰仏(微笑仏)」は円空仏と対比されている。

 この項、wikipedia 2017/05/29 より編集

杉山正明氏

 今回の「円空佛・木彫り作品展」で円空佛を彫られた大垣在住の円空仏師である。自宅に「蒲公英工房 杉山正明庵」を作り円空佛の彫刻に務めておられる。県立高校教師を38年間務め、2002年から故山田勝己師匠から彫刻の手ほどきを受け、円空学会に入って研鑽を務めて、この17年間で1万体ほどの円空佛を彫られた。2年に一回のペースで展覧会を開催されている。

 東北大震災後には、岩手県の興性寺や、各地の寺院に千体仏を奉納されている。合掌

 

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2018-05-29

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2018年5月28日 (月)

削り屑に佛が宿る

 松本明慶先生は弟子たちの仕事場に不在していても、帰って来て弟子の削り屑を観れば弟子の仕事の調子が分かるという。佛像彫刻は荒彫り、中仕上げ彫り、仕上げ彫りを経て完成される。削り屑は段々と細かくなっていく。その日の削り屑の大きさは一定である。ところがその削りくずが一定していないと、中仕上げ中や最終仕上げ中に、荒彫りに戻る修正工程が発生していることになる。きちんと手順が踏まれず、手戻りのロスが発生していることだ。能力不足なのか、先を見極める力が不足していたのかは別として、仕事の手順が悪いことを削りくずが示している。

 

仕事の手順

 どんな仕事でも、例えば私の昔の仕事であった機械設計の場面でも、開発設計の作業で、最初はラフ構想をして、基本構想の設計の足場を固めて、回りの干渉関係をチェックして、その次のステップの詳細設計に進む。その足場がきちんとしていないと、また逆戻りの工程をやり直すこととなる。その隠しようもない仕事ぶりの履歴を上司は見ている。そこに己の仕事のレベルが顕われる。それを見抜けないようでは上司失格である。だから全ての仕事が修行である。見るほうの上司も試されている。

 

文書という私の佛様を創り出す

 私は文章にも佛が宿ると考える。その文章で何を読み手に伝えるか。そこに己の魂が宿る。文書に顔があり、目があり、人を招く手がある。人を救う言霊がある。それこそが佛様としての本性である。

 それを構築するにも、概略構想があり、大筋の文書構成を考え、細部の文章を作り上げる。できた文書に校正・推敲を繰り返して、一字一句を磨き上げる。出来上がった文書が集まって、本となる。その本は生まれた我が子の様で愛おしい。

 

自分という佛様を作り上げる工程

 人生でも若い頃の正しい人格構築の基礎工事が出来ていないと、中年、老年になってから人生の大事なところで躓く例が多い。人生の基礎作りである下積みの仕事での修行をスルーしたエリートたちが、晩年を汚す事件が頻発している。人生に無駄な修行はない。

 人生の三大不幸の一つに、「若くして高台に登る(若くして偉い地位に就く)」がある。

 今の世は成果主義として、やり手の若い経営者を抜擢することが流行している。往々にリーダとして不適な人がトップに任じられ、地位ゆえにその成果を出すため傲慢になり、年功者の助言を聞かず暴走しがちである。それを誰も止められず、そこでその人の成長も止まってしまう。功を焦るため法を無視して金儲けに走り、その結果として企業の不祥事が多発している。

 

年功序列

 企業が金儲け最優先で経営すると、技術の伝承がされず、製造業も衰退してしまう。それが今の米国である。成果主義の弊害でモノづくりの力が落ちた米国を日本は他山の石とせねばならぬ。いくら天才のヤリ手でも、年功で汗と涙で勝ち得た年功者の智慧には、長期戦では負ける。年功序列には、功を焦り、法を犯してまで金儲けしようという考えは生まれにくい。

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  2014年10月8日 松本工房にて

 

2018-05-28

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2018年5月27日 (日)

老いの器を律する

 最近は老いの醜態をさらす市長、官僚、経営者が跋扈している。嘆かわしことだ。他山の石として、自分の身を正したいと思う。

 

経験

 老いとは、仏様・ご先祖様から歳を頂く幸せである。還暦という歳を頂けずに、鬼門に入る人も数多い。老いとは、経験を積むことを意味する。その経験から生まれた智慧を己の器に入れるのである。痛い思いをして得た経験を智慧のレベルに昇華しないと、同じ過ちを死ぬまで繰り返す。それは歳の取りがいのない醜態である。

 

智慧

 老いとは、練れる道を歩くこと。流行に惑わされない思想を深めること。シナ・ローマの歴史を紐解くと、2000年前の先人と現代人の行動に差などはない。人間的に少しも進歩していない現実に愕然とする。人は先祖の霊を受け継ぎ生まれるが、記憶はオールリセットされる。それ故、ゼロから学んで自己鍛錬をして成長するしかない。その学びを放棄して、年よりがいのない人が多い。TVやゲームに流され練れない日々を送り、認知症への道を歩む人が多い。

 智慧ある老いとは、敏鈍の使い分けができること。我儘も言え、都合が悪くなったら惚けの振りをすること。息子が「グレてやる」とほざいたら、「それなら俺は惚けてやる」と逆に脅すことができる才覚である。

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  百舌鳥の鳴き  馬場恵峰書   

 老いとは、考え方が充実していく過程である。自己の人生を振り返り、これでいいのかと自に刃を向けて問う生き方である。それが「心」「刃」を向ける「忍」という文字である。そこから「認」という文字ができた。己の愚かさをしみじみと認められる歳になるのが老いである。現代社会は、あまりに人にばかり刃を向けて、己には刃を向けない人が多すぎる。年よりがいがない。それを「年寄り害」という。

 自分に刃を向けず、理想論で実際に政治を動かしたら、選挙公約が机上の空論であったことを露呈させたのは民主党政権であった。

 

人徳

 老いとは、若き人を叱る人徳の力の獲得である。己が若造で同じ言葉で、若い人を叱っても反感を持たれるだけ。しかしそれ相応の歳を頂くと、若い人を叱っても反感を買われることが少なくなったことを実感する。若き人を叱るのは年長者の務めである。それは己の経験を若い人に伝えること。

 

悟り

 老いとは、素晴らしい人生ではなかったが、素晴らしく楽しむ活き方であったとの悟りを得る境界である。人は必ず老いる。老いて人生を振り返ったとき、そう思える人生を歩みたい。

 世間的には素晴らしい生き方をした偉いさんは多いが、実際は死んだような生き方であった方も多い。ハンコを押すだけが仕事であった偉いさんが、認知症に罹りやすいという。校長先生、警察署長にその例を多く見る。

24k8a02491   馬場恵峰書  2013年

布施

 老いの道を歩むには、もらう人から与える人に変わりたい。器に中身や金が無くとも七施ならできる「無財の七施」(『雑宝蔵経』巻6)とは、

   ・ 眼施    目による施し

   ・ 和顔悦色  笑顔による施し

   ・ 言辞施   言葉による施し

   ・ 心施    まごころによる施し

   ・ 身施    体=労働による施し

   ・ 床座施   席を人に譲ることによる施し

   ・ 房舎施   住まいによる施し

 

名器

 人間とは土でできた器である。土で出来た人間の体は、いつかは老い、死んで土に還る。生きている間に、その器に何を入れるかが問われる。いくら集めても、入れるべき器は、いつかなくなってしまう。来世に持って行けない。器に入れたお宝が雲散しないように、世のために昇華させるのが、老いてからの仕事である。

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床下愚器

 独居老人が亡くなって、床下から数千万円の札束が出てきたという新聞ニュースを良く見る。お金をいくら己の器に入れても昇華ができない。お金は使ってこそ価値がでる。貯めるだけの人生は、お金の奴隷になった人生である。

 

2018-05-27

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2018年5月26日 (土)

自分の命の値段はいくらか?

 還暦を迎えた自分の命の値段は、いくらで評価されるのか? 若く働き盛りなら、金に渋い銀行も2千万円や3千万円のローンを組ませてくれる。しかし己が60歳になったとき、いくらの金を銀行が貸してくれるか、その金額が自分に対する社会からの評価額である。

 

還暦で一億円の借金

 馬場恵峰師は60歳(1988年)の時、私財を投じ日中友好親善と社会奉仕活動の一環として日中文化資料館を建設された。建設費用(1億円)は銀行からの借入で、350坪の敷地に、日中文化資料館と図書館が建てられた。波佐見の実家・土地を抵当に入れての借金である。銀行に高額な生命保険にも入らされた。

 生命保険料が高いとこぼされながら、再婚するなら相手は保険金目当てだろうとご夫婦で冗談を交わされるユーモア精神が豊富である。24年間をかけて、2010年にその借金を完済された。完済時、御歳84歳であった。完済時には清治若先生と手を取り合って喜ばれた。

 建設当時は「荒瀬町」という名の通り先生宅しかなかった小山の寒村だが、現在は住宅地として多くの家が立ち並ぶ。今は大村市の高台に建つ図書館の二階から、大村湾と長崎空港、九州高速道路の夜景を見ながら、静かに思索にふけるのが楽しみと言われる。

1img_3558   日中文化資料館  

2 敷地への入り口 右手が図書館

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 玄関に12仏が並ぶ 201142

4img_3492 中国古代の石器が並ぶ。模造品だが、今はそれも手に入らないほど貴重品

5img_3605 図書館二階の書斎からの眺め

自分を値踏みして

 自分が還暦の身で、銀行から数千万円でも借りようとしても、おそらく貸してはくれまい。それを思うと、馬場先生の信用と言う黄金の器がまぶしい。そういう師にご縁ができるのは幸せである。私は人生の目標にしている。

 

後ろ姿の教え

 恵峰師が還暦の時に、一億円の借金をして24年間で返済されたという事実は、弟子たちに大きな励みを与えたようだ。岩手県と宮崎県の知人の社長が相次いで還暦を過ぎたのに、一億円以上の資金をつぎ込んで新し事業を始めた。二人とも功成り名を遂げている地方の実業家である。

 私も勇気をもらって、新しい仕事に一歩踏み出すことに背中を押してもらったようだ。66歳の身で出版業と写真業を始める勇気をもらった。感謝。

 

元気の源

 師の口癖は、「生涯現役、一生青春」である。福沢諭吉の訓言「世の中で一番」の「楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事を持つ事である」を実践されている。そのために、書の仕事一筋である。前に紹介した「身閑夢亦安養心」も師の信条である。

 そのための健康面の配慮で、日頃から少食で、間食はしない。酒はほんの少々。日に朝晩、2回(一回30分)の庭の草取りで体を動かす。庭師もされる。庭と言っても350坪の敷地である。広大な敷地に草一本生えていない。多くのお弟子さん(女性)に囲まれて、書道を教える合間に、人生のお話しをお弟子さん達に、ユーモアを交えてされる。この人気が高い。だから女性にもてるんです。これが健康維持とボケ防止に最高に良いようだ。

 結果として、月に一回国立病院に検査に通われるが、血圧正常、目も正常、悪いところはないという。95歳まで運転免許も保証された。

 昭和2年4月生まれの先生は、2018年現在、92歳、現役である。東奔西走で走り回ってみえる。今までに240回、中国に行かれた。全て自費である。

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2018-05-26

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2018年5月25日 (金)

グローバル経済主義教の大垣市長

 現在はグローバル経済主義競争という宗教が、世界中で猛威を振るい、従来の価値観を破壊しつつある。特に世界の大企業は、この宗教に帰依しないと生き残れないとして、この「宗教活動」の布教に邁進している。この宗教が国家の時間を食いつぶしている。次のステージは暴動、国家崩壊である。国民が不幸になるために働く社会が正常であろうか。

 行き過ぎたグローバル経済主義競争の結果が、一部の特権階級が99パーセントの富を独占し、貧富の差を拡大し、年功序列の価値観を破壊し、国民の多くを不幸にしている。成果主義の過度な増長である。ゴーン社長のように年収10億円の社長がいる一方で、生活保護者が2,163,394人(2016年)もいる。これは、100人に2人の貧困者割合であり、何かおかしい。40年前はそんなことなど、話題にも上らなかった。

 

サラリーマン平均年収の推移

 日本政府の無策で、日本のサラリーマンの年収は下降を続けている。1997年に比べて50万円も下落した。

 1995年 457万円

 1996年 461万円

 1997年 467万円

 1998年 465万円

 1999年 461万円

 2000年 461万円

 2001年 454万円

 2002年 448万円

 2003年 444万円

 2004年 439万円

 2005年 437万円

 2006年 435万円

 2007年 437万円

 2008年 430万円

 2009年 408万円

 2010年 412万円

 2001年 409万円

 2002年 408万円

 2003年 414万円

 2004年 415万円

 統計元:平成26年 国税庁 民間給与実態統計調査結果

 

安さの追求の果て

 企業が人件費の安さを求めて海外進出をすることで国内の生産を減らし、結果として国内労働市場を縮小させ、非正規社員を増加させている。非正規雇用労働者は、15.3%であった昭和59年(1984)から急増し、以降現在まで増加を続けて、現在の非正規雇用労働者は、雇用者全体の37.3%(2017年)と二倍以上に増えている。さらにフリータを増やし(152万人、2017年)、失業者を増やし、自殺者(年間3万人前後)を増やしている。

 私が新入社員の頃の40年前は、派遣社員の方が、自由に仕事ができて収入が多かった。腕に自信があると、独立をして派遣で働いたもの。今は、時代が変り、古い価値観が崩壊している。儲かっているのは特定の企業のみである。多くの人が不幸になる「宗教」とは正しいのだろうか。新興宗教でも教団だけが金持ちになり、信徒が貧乏になる構図と同じである。

 

大垣の惨状

 大垣市長の差配で、大垣市役所だけは124億円もかけて立派になるが、大垣駅前商店街はシャッター通り化してスラム街になりかけている。大垣市長がそういう政策を推進したのだ。

 大垣市の2014年の平均所得は、311万4153円で、全国市区町村ランキング300位で下位に位置する貧しさだ。全国平均平均所得415万円に比べて大きく見劣りする。それだけ大垣市の経済が活性化していない。それどころか衰退の一途である。大垣市長が長期政権に胡坐をかき経済活性化の策を講じない。大垣市長の無為無策の結果で、大垣市は貧困地域から這い上がれない。

 

グローバル経済主義という名の宗教

教祖   欧米の特権階級、各企業のトップ、行政のトップ

御神体  拝金主義が求めるマネー

経典   グローバル経済主義と拝金主義という教義

      金儲けが最優先、勝者のルールを弱者に押し付け一人勝ち

      1%人が99%の富を独占するのが自然の法則という定め

      貧困層が激増するのも神の思し召し

      (経済学と科学が浸透すれば、貧困は無くなるはずだが?)

寺院   大企業、グローバル企業、お役所

信徒   大企業の経営者、官僚 (中小零細企業の経営者は対象外)

異教徒  一般大衆

 

ジニ係数

 ジニ係数とは、主に社会における所得分配の不平等さを測る指標である。ローレンツ曲線をもとに、1936年、イタリアの統計学者コッラド・ジニによって考案された。所得分配の不平等さ以外にも、富の偏在性やエネルギー消費における不平等さなどに応用される。係数の範囲は0から1で、係数の値が0に近いほど格差が少ない状態で、1に近いほど格差が大きい状態であることを意味する。ちなみに、0のときには完全な「平等」つまり皆同じ所得を得ている状態を示す。社会騒乱多発の警戒ラインは、0.4である。

 

1975年→2014年 ジニ係数の推移

 アメリカ  0.32 →  0.40

 英国    0.27 →  0.36

 日本    0.30 →  0.33

 フランス  0.28 →  0.29

 ドイツ   0.25 →  0.29

 スウェーデン 0.21 → 0.28

 

ローレンツ曲線が示す貧富の差

 もっとも平等な社会はジニ係数が0で下図の緑線で示される。不平等ほど下凸の曲線で、示される。完全不平等ではジニ係数が1の赤線で示される。この場合は99人が貧乏で、1人が富の99%を独占している状態を示す。下図の縦軸は富の累積値で横軸は収入である。

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 アメリカではグローバル経済主義で拝金主義が横行して、貧富の差が急拡大している。中国ではジニ係数が0.61(2012年末)になり、暴動発生寸前の状況である。これも経済特区を作り、経済最優先で驀進して、中国特有の特権階級が富を独占しているからである。金持ちは益々金持ちに、貧乏人は益々貧乏になっていく。高福祉国家のデンマーク、フィンランドはジニ係数が低い。フランス、ドイツ、日本はまだ平均的なジニ係数の値である。

 

中国のジニ係数

 北京大学「中国民生発展報告2015」によると、12年のジニ係数は0.49と国家統計局の数値0.474を上回り、また保有資産でみたジニ係数は、95年0.45から2012年0.73に上昇。上位1%の層が社会の3分の1の富を保有する一方、下位25%の層は1%の富しか保有していない。家計調査や失業率推計で定評のある西南財経大学家庭金融研究センターの2014年調査では、13年に所得上位10%が社会の富の60%強を保有しており、ジニ係数は0.717だ。

玄冬舎HP「低すぎる?中国国家統計局が公表する「ジニ係数」への疑念」金森俊樹著2016.2.29より(https://gentosha-go.com/articles/-/2342

 

貧富の格差の拡大の影響

 2014年8月、米国・ミズーリ州で黒人青年の警察官による射殺事件をきっかけに抗議デモ、暴動や略奪行為が起こり、夜間外出禁止令も出る騒動になっている。この背景にはグローバル経済主義の行き過ぎがもたらす貧富の格差の拡大による貧困層の不満の爆発がある。世界最富裕の国で暴動、夜間外出禁止令である。世も末で、米国も中国を笑えない。その状況に危機感を持った米国民がトランプ氏を大統領に選んだ。

 

合成の誤謬

 「合成の誤謬」とは経済用語で、個々の場合には正しいが、全体となると正しくないことを意味する。グローバル経済主義は、個々の企業には都合が良いが、社会全体には不都合な結果をもたらす。

 大垣市政の個々の政策は、いかにも市民のためであるように見えるが、全体では市民を貧困に陥れる政策なのだ。それを「合成の誤謬」と呼ぶ。だから大垣市は衰退に一途をたどっている。大垣市長とその取り巻きは「豪勢の誤謬」に浸って悦にいっている。

 

大垣市のグローバル経済主義

 大垣駅前商店街の衰退も大垣市ベットタウン化も地価下落も、大垣市政の大型小売店舗優先、大企業優先、弱者切り捨ての政策が影響している。大垣市は、市民のためと誤魔化して役人、大企業を優先して、市民を貧困に誘導する政策に終始している。それは正にグローバル経済主義者の行動そのものである。

 なにせそれが役人には楽なのだ。大義名分も立つ。仕事を大企業に丸投げすれば、役人は苦労をしなくて済むのだ。事故が起きれば業者に責任を押し付ければよいのだ。ドローン墜落人身事故のように。大垣市民の我々は、大垣市役所の仕事ぶりに監視の眼を向けねば、己の生活が破壊される。

 

2018-05-25

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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お礼 ブログ1周年達成

 お陰様で昨年の5月26日に本ブログを立ち上げて、今日でまる1年が経ちます。ここまで来れたのは皆さまが、本ブログを閲覧して頂けたこととご意見のメールを頂いたことが励みとなっています。深くお礼申し上げます。

 今日の24時で累積閲覧総数は 28,900(予定)(実績28,898回)

 記事総数 667件(予定)

 

 一記事、A4版で約3ページですので、A4版で総計2,000ページ程の分量になります。400字詰原稿用紙で約8,000枚です。

 今後ともよろしくお願いいたします。ご意見をお待ちしております。

 

2018-05-25

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2018年5月23日 (水)

文化を破壊する大垣共立銀行

 大垣市には、「郭町通り」という70年を超える由緒ある名前があった。国宝であった大垣城があって「郭町」と「郭町通り」が存在する。それを大垣共立銀行は、強欲に自己誇示のため、「OKBストリート(大垣共立銀行通り)」に名前を変えてしまった(2013年)。市民が知らないうちに、裏で金が動いたのやも。あまりの非常識に先代の頭取が草葉の陰で泣いている。

 

名前「郭町通り」の所有権は?

 「郭町通り」という名は、大垣市民の歴史としての財産である。大垣共立銀行が独断で占有できるものではない。名前変更の審議でも地域の住民の意見も封殺して、商店街のひとたちだけで、こそこそと名前を変更してしまった。それで良いものなのか? 大垣市役所は何も指導をしないのが不思議である。それは大垣の歴史文化の破壊行為なのだ。

 

「郭」とは

 「郭(くるわ)」とは城やとりでの、周囲を土や石などで築き巡らしてある囲いを言う。また、その内側の地域を意味する。江戸時代になって「郭」の字もあてるようになった。

 山城では背後を削り取り,その土を前面に盛って造成する。単なる屋敷地や畑の段と異なって防御用の平場とするために、壁面を急傾斜の切岸状にしたり、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。近世城郭では天守を備えた中心の郭を本丸、その外側に隣接した城主の館邸が設けられた郭を二の丸、その外側の家臣屋敷などが並ぶ郭を三の丸と呼ぶ。その他の諸郭に西の丸などの方角、あるいは人名を冠した呼称が用いられる。

 「郭」は遊郭の意味ではない。周囲を塀や堀で囲ったところから、遊女屋の集まっている地域として「遊郭」という名がある。大垣市の廓町はお城の囲いの意味である。

 

名前の重たい意味

 名前とは、その対象に対して思いを込めて、その成功、成長、幸せを祈って付ける符号である。それなのに、大垣駅前商店街に銀行の名前を付けて、商店街の発展があるはずがない。事実、この5年間、大垣駅前商店街は衰退の一途で、昼間にシャッターを下している店は61%にも達した。

 たかが名前、されど名前である。私はテクニカルライティングからの学びで、文書でも人の名でも、建物でも、名前が一番大事だと悟った。それは何事にも通じる真理である。文書の名前を見れば、書いた人の人格と思いが分かる。人の名を見れば、その人の目指す姿が見える。親は、子供に思いを込めて名前を付ける。

 それなのに商店街の商売繁盛と発展を祈念して付けるべき名前に、「OKBストリート」では非識である。銀行屋には、大垣駅前商店街の発展など知ったことではないのだ。大垣共立銀行を知らない人が見たら、横文字でさっぱり意味が分からない。知っている人なら、ついにこの商店街も左前になって銀行支配になったかと思ってしまう。これでは発展などはできない。企業が左前になると、経営が銀行支配になるのは世の常識であるからだ。

 

名前変更の劇的効果?

 2013年12月2日、商店街のアーケド街の名前は、大垣共立銀行の強欲から、「郭町通り」から「OKBストリート」に変えられた。2018年現在、5年経っても大垣駅前商店街の衰退は止まらない。それどころか衰退のスピードが加速している。地元銀行としてもっと別の支援する方法があるだろうと、この寂れた風景を見るたびに思う「銀行は晴れの日に傘を貸し、雨が降れば、その傘を取り上げる」という通説が頭をよぎる。

 2018年3月10日には、「OKBストリート」の中心部に店を構え、街の商売上でも、大垣駅前商店街組合活動でも理事として運営をリードしていた大型衣料店「正札堂」が事業を停止した。負債総額2億円。1952年創業で、岐阜・滋賀県下に13店舗を構え、一時は28億円の売り上げを誇ったお店である。

 この5年間だけで、それも郭町だけで、靴店、鞄店、菓子店、煎餅屋、カメラ店、傘店、タクシー、コンビニが消えた。新たに開店したのは、コンビニの跡に持ち帰りすし屋だけである。

 さらにトドメの象徴的な事象として、「OKBストリート」の中心に店を構える商店街組合理事長のお店が、今年、廃業に追い込まれた。それでも理事長としての責任は取らない。無責任である。衰退も故あること。

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1p1100404   2018‎年‎4‎月‎28‎日(土曜日)‏‎16:52 大垣駅前商店街の衰退の惨状。土曜日の休日で!

   中央の「正札堂」は2018年3月10日に営業停止となった。頭上の「OKBストリート」の看板が虚しい

 

銀行の横暴

 新しい建屋や新設の通りには命名権として、お金を出してスポンサーの名前を付けることがある。それは許される。しかし歴史的に由緒ある名前を、己の金儲けのために、己の銀行の名前にすることは許されまい。商店街の支援をするなら、金だけ出して、己の名は片隅に、寄付者として名前を入れるのが世界の常識である。それが、世界の富裕層が地域の文化を育成してきたやり方である。この自分の名を誇示するやり方はド田舎の成金者の下品さである。

 文化・芸術に造詣が深かった大垣共立銀行の先代の頭取なら決してしなかったであろう。これは欧米の拝金主義者・グローバル経済主義者の行為である。でっぷりと太った今の頭取のやり方に疑問を感じる。欧米では肥満体は自分の体さえも管理できないものとして、管理者失格と見なされ出世できない。現代のグローバル経済で競争が激化している現在、世襲の頭取では先が思いやられる。

 

後ろめたい?

 通りの名前が変わった直後、現頭取が郭町商店街の一軒、一軒を訪ねてお礼に回ったという。「よほど嬉しかったようだ」とは担当銀行員の話である。この一軒一軒にお礼に回った行為自体に、私は違和感を覚える。いかに舞い上がってしまったかを感じる。後ろめたさもあったのだろう。世間の常識から見て、まともな行動ではない。会社は公器なのだ。己の自己顕示欲のためにあるのではない。

 

文化・芸術とは

 文化・芸術では飯は食えない。だから昔の貴族や王族は芸術家に支援をして、文化・芸術を育てた。それで金儲けをしようとはしなかった。だから欧州でオーストラリアやフランス、イタリアで芸術の花が開いた。それがルネッサンスである。その支援したスポンサーは、芸術の表に出しゃばることはなかった。陰で芸術家を支えたのだ。それが教養ある金持ちの素養である。

 

十六銀行を過剰意識

 大垣共立銀行は、十六銀行を過剰意識して、本社ビルを「16を超えよ」と17階建てにした。岐阜県のトップ都市銀行として、大人げない行動である。このビルは、経営者として最適な設備投資の意思決定をしなかったことを示す恥さらしな物証である。その無駄な汗を大垣発展・駅前商店街復興に向けて欲しいと思う。

 

大垣共立の異様なライバル意識

 (大垣共立銀行は)岐阜市に本店を構え、県を代表する地銀の十六銀行とは何かと対照性を見せる。例えば、1973年(昭和48年)に大蔵省(当時)の反対を押し切って建設した17階建新本店(建設時は地銀本店として、また東海地方の高層ビルとして最も高いビルであった。なお、この階数は“16(十六)を超える”意味があるとされる)の象徴性など、ライバル意識が強い。このライバル意識は、融資競争における低金利傾向(岐阜金利)の遠因ともされている。

 消費者からの評価については、前述のように大垣共立が高い評価を受ける一方、現在の財務指標においては、行員一人当たりの業務純益が大垣共立の593万円に対して十六は975万円、総預貸金利鞘の0.18%に対して0.5%、不良債権比率は4.54%に対して4.19%等、十六がより安定的な優位性を見せる。(数値は2006年3月末決算)(この項、wikipedia 「大垣共立銀行」2018/5/22より)

 

コップの中の鍔迫り合い

 日本経新聞記事「しのぎ削る岐阜2行」(2018年5月18日付)によれば、愛知県の金融経済規模の2割しかない岐阜県で、大垣共立銀行と十六銀行の都市銀行間で過当な覇権争いを繰り返しているという。日本、世界の全体の森としての経済の流れを見ずに、小さな木しか見ずに、金の奪い合い合戦である。まるでコップの中で戦略・戦術を間違えて同士討ちをしているようだ。

 「OKBストリート」商店街のど真ん中に位置する三菱UFJ銀行の大垣支店は、大人(たいじん)のように鷹揚としている。まるで大垣共立銀行の小人(ことな)の愚行など眼中にないように。なにせ三菱UFJ銀行の預金量は124兆円、大垣共立銀行は5.5兆円で、その格差は大きい。格が違うのだ。

 現在、リニア新幹線の効果で、岐阜も大垣も名古屋駅前の経済圏にストローに吸われるように、客が名古屋駅前に流れ、経済が衰退している。岐阜も大垣も駅前の商店街は閑散としている。大垣共立銀行には、もっと視野を広げて地域経済の発展と日本経済の発展に寄与すべく知恵を絞るべきなのだ。伝統ある商店街の通りの名前を利己的に変えるような思考レベルでは、大垣の発展などあり得ない。大垣共立銀行の発展もないだろう。大垣共立銀行は、大垣の文化を破壊する利己的な売名行為に忙しい。

 

共立の意味

 グローバル経済主義は利己主義なのだ。古来、日本は利他の心で生きてきた。グローバル経済主義教に犯されると、利他の心は消える。大垣経済と大垣駅前商店街の立て直しには、利他共生の心が必要だ。大垣共立銀行の「共立」の名が泣いている。大垣共立銀行の創業者は、思いを込めて、この名を付けたはずだ。創業者は草葉の陰で泣いている。

 

2018-05-23

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2018年5月22日 (火)

神楽軕は神話の世界

 2018年5月12,13日の大垣まつりは、試楽の12日が16万人、本楽の13日が6万人の総計22万人の人出で賑わった。13日は雨になって人出が少なかったが、雨でなければ、総計30万人の人出となったと言われて、残念であった。雨にも関わらず6万人もの人出で、いつもは閑散としている大垣市内で、その人出の多さに私は驚嘆した。大垣の人口が16万人であるので、どこにそんな人がいたんだと云うくらいの人が集まった。去年より5割増しの人出である。こういう伝統行事を活用して大垣の活性化につなげて欲しい。

 

三輌軕の歴史

 神楽軕は大垣まつりの13軕の行進で、先頭を行くので別名「いち軕」、「お祓い軕」とも呼ばれる。大垣まつりでは、この神楽軕と大黒山、恵比寿山車を三輌軕という。延宝7年(1679)に3代藩主戸田氏西公が、この3輌を八幡神宮に奉納したのが起源である。本町、中町、新町が1年交代で担当する。当番に当たるとその町は2つの軕を受け持つので大変である。

 

町内渡し・組合町渡し・前触れ

 三輌軕は試楽の2日前から出して、氏神様への奉芸と町内渡しを行う。町内渡しは、自町の町内を曳いて廻ること。その後、組合町渡し・前触れを行う。前触れは市内を曳き廻すこと。これが大垣に初夏の訪れを知らせる風物詩となっている。この時、奏でられる曲「帰り軕」は名曲中の名曲である。

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 2018510日 前触れ  大垣市御殿町付近

神楽軕の構成

 三輌軕は棚車で、飾り軕という素朴な造りで、屋形や、からくりを持たない軕である。神楽軕は、車輪が内輪で、前輪は後方にあり、手古棒は八の字にとりつけられている大垣独自の形式の軕である。水引は戸田家の九曜の紋、横幕も軸には本軕とは異なり、赤、黄、青の縦縞模様となっている。

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飾り人形

 神楽軕は神明造りの祠に天照大神をお祀りし、進行方法の右側に猿田彦命、左に天鈿女命をお祀りしている。

 猿田彦命は、瓊瓊杵尊が天孫降臨をする時に先導を務めた国神様である。天鈿女命は、天孫降臨にお供した神様である。高天原の天岩戸の前で神懸かりに躍ったと伝えられている神様である。瓊瓊杵尊は天照大神の孫である。天孫降臨は『日本書紀』の神話である。

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神楽軕の掛け芸

 神楽軕上で舞をする人形は2体あり、人形の芯となる長さ1.5m、直径7㎝ほどの竹に、竹で編んだ人形を取り付け、先端に人形の首を取り付ける。左右の肩から50㎝ほどの細い付けを垂らし、それを腕として先端に手を付けてある。

 腕には、腕を操るための1.3mほどの細い竹が取り付けてある。これに衣装を着けたのが神楽の人形である。操作者は、人形の芯となる竹の下端を腹の帯にのせて、腕につながる竹を操って人形を舞わせる。これは「直扱い」と呼ばれ、全国でも珍しい。巫女の重量は9.8キロ、山伏は7.6キロと重量があり、巫女を優雅に舞わせて、山伏は激しく動かしてと、操作者は大変である。それが操作者の誇りでもある。

 青装束の巫女は「市」と呼ばれている。巫女は右手に鈴、左手に扇を持って神楽を舞う。昔、八幡神社の近くに「いち」という名の美しい娘がいて、祭りで神楽を舞って評判になった。神楽軕で舞う巫女は、その名をとって「市」と呼ぶようになったという。

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 2018512日の大垣まつり試楽で  昨年と少しお顔と服装が違う。

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 2011年5月11日の大垣まつりで 099l4a0011

   2017514日の大垣まつり本楽で 

 次に、白装束の山伏が鳥居下の桶を湯桶に見立て、両手に笹を持って激しく神楽を舞う。その舞いに合わせて、山伏が湯ノ花の代わりに紙吹雪を舞わせる。

 湯立て神楽は、煮えたぎる釜の湯を青笹で祓い、その飛沫を氏子に降りかけて穢れを清めるという神事を舞楽とした。

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 2018年5月12日の大垣まつり試楽で 

 

  夜宮では、神楽軕に飾られた提灯に明りが灯り、山伏が散らす紙吹雪が明りに照らされて幻想的である。

14dsc08550  夜宮に出発前で待機中   2018年5月12日17:39

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 夜宮の奉芸前に八幡神社に後ろを持ち上げ礼をする神楽軕

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 紙吹雪が提燈の灯に映える

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裏話

 本来、軕を曳くのは当番の町衆であるが、今は街中に若い衆も少なく、サラリーマンが多いので、仕事を休んでもおられず運営がままならぬ。体力のない今の中年男性が重い軕を曳いて一日中歩くと、疲れ果てて次の日は仕事にならないという。軕は縁起物だから、遠い町からも来て欲しいとの要請もあり、3キロ以上も離れた町まで軕を曳いて出かけるという。年寄りは、付いて歩くだけでへばってしまう。だから大学の運動部の学生達にお願いして、お祭り前の1週間ほどを専任して、お祭りで軕を曳いてもらうという。大垣まつりは大垣市、地元有志の寄付、地元企業・商店からの寄付で成り立っている。町内の涙ぐましい努力で、大垣まつりの伝統を守っている。感謝である。

  他の都市でも、お祭りの運営は同じようだと聞いた。これも少子高齢化の影響である。

参考文献:浅野準一郎著『大垣まつり』(風媒社)

 

2018-05-22

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2018年5月21日 (月)

自殺は最悪の人殺し

 最近(2018年)、ジェイアールが頻繁に遅れる。その原因が、いたずらによる踏切警報機の発信、電車と人との接触事故等による迷惑行為に起因する。最近のJRの定時運航の乱れ具合が、日本人のモラルの低下を表している。電車と人との接触事故は、表現は穏やかであるが、鉄道飛び込み自殺である。

 自殺とは、自分というこの世で一番大事な人間を殺すこと。人と生まれたら、最低でも、自分だけは幸せにする義務がある。それが己を此の世に遣わせてくれたご先祖に対する恩返しである。

 

鉄道事故に遭遇

 久留米の真島消化器クリニックで診察を受けた翌日、2016年10月15日、知人と会食のため名古屋に向かった。午前10時過ぎに大垣駅に着くと東海道本線が人身事故で上下線とも不通になっていた。10時頃に、岐阜駅と木曽川間で人が列車と接触したとのこと。飛び込み自殺である。人は必ず死ぬ定めであるが、人に迷惑をかけて死んではなるまい。当事者はそれどころの心境ではないだろうが、人として最後の一線として、その掟は守りたいもの。しかしその鉄道自殺が頻発している。現代は人の最低限度のモラルが低下している。

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道ずれ旅客機墜落事故

 2015年、ドイツの機長が乗客を道ずれにして旅客機ごと墜落させたジャーマンウイングス9525便自殺事故があった。ジャーマンウイングス9525便墜落事故は、2015年3月24日、西・バルセロナから独・デュッセルドルフに向けて飛行していたドイツのLCC・ジャーマンウイングスの定期便がフランス南東部に墜落した航空事故である。世界の精神の荒廃を垣間見る。

 

親の因果が子に報い

 鉄道自殺は、遺族に塗炭の苦しみを与える。関係のない鉄道利用者に大迷惑である。鉄道関係者もその遺体の後始末が大変である。また子、孫にもその影響が及ぶ。その昔、親戚の叔父が鉄道自殺をしたが、その日が息子の入社日であった。それで息子の人生が暗転した。さらに40年後に孫が日本の最高学府を卒業しても就職できないという因果をこうむっている。

 

人の道

 道連れ自殺は、犬畜生ではありえない世界である。人間の尊厳にかかわる事象で、人間の精神の荒廃を示す表れだ。動物は死を悟ると、人知れず姿を消して、静かに死を迎え、土に帰る。犬畜生にも劣るふるまいの死は避けたいとの思いを新たにした。

 親として、年長者として、後進に人としての生き方を示して死にたい。人として生まれたのなら、人を幸せにして死にたい。人を不幸にして死ぬのは、人の道に反している。まず自分を幸せにしてから、死ぬべき。

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2018-05-21

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