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2018年5月30日 (水)

大垣市長と岐阜新聞の良識を疑う

 2018年5月30日付の岐阜新聞西濃地域欄に、「褒章受章の喜びを語る」の記事が掲載されていた。その掲載写真をみて呆れ、大垣市長と岐阜新聞の良識を疑わざるを得ず、悲しくなった。市長とマスコミの劣化がここまで酷いとは……..

 

「褒章受章の喜びを語る」写真に恐懼

 大垣市在住の藍綬褒章を受章された木曽義尚さんと緑綬褒章を受章された藤井和子さんが大垣市役所を訪れ、大垣市長に喜びの報告をしたとの記事である。お二人と大垣市長の並んだ写真を見て違和感を覚えた。受章された主役のお二人が脇に位置して、ど真ん中に大垣市長が大きな顔で鎮座している写真である。

 まるで結婚披露宴の記念写真で、新郎新婦の間にノーネクタイの来賓が厚かましく割り込んで鎮座しているようだ。今回は、両氏が長年の功績が認められて天皇陛下から褒章された。その天皇陛下から拝受した章の意味を大垣市長は取り違えている。まるで市長自身が章を拝受したように見える。天皇陛下がこの写真を見たら何と思われるかと考えると、大垣市民として恥ずかしい。恐懼としか言えない。

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大垣市役所の関係者と岐阜新聞の忖度

 長年、厚生保護活動で功績のある木曽さんと社会奉仕活動で功績の藤井さんが主役であるはずが、大垣市長が主役の写真になっている。大垣市では、何事も大垣市長が写真の中央、主役として出ることが伝統のようである。それを大垣市長も市役所の関係者も、新聞記者さえ、この伝統が当たり前と思って対処している。世間の常識からみて異論があっても、左遷が「恐ろしくて」口出せない雰囲気なのだろう。なにせ17年間の長期政権であるので、大垣市役所内は癒着とヒラメのオンパレードのようである。大垣市役所も岐阜新聞も大垣市長を前面に立てて、忖度をしたい下心が丸見えである。

 

第一紙面に日大の内田前監督の除名記事

 大垣市役所の担当者たちも、日本大学のアメフト部のように、大垣市長には正論を言うこともできず、世の常識も指摘できず、岐阜新聞もそれに迎合して写真撮影をして、わざわざカラー写真で掲載している。岐阜新聞には、日大のアメフト部の体質の批判をする資格はないのではないか。

 同日の岐阜新聞の第一面には日大の前監督らの「除名」の記事が掲載されているのは、大いなる皮肉で笑わされた。岐阜新聞もオツなことをする。痴呆紙の減少が止まらないのは、故あること。

 

地方紙の衰退

 日本新聞協会の2015年時点で行われた調査では、新聞社数91社で、部数 43.276.147部数(一世帯当たりの部数0.78部)で、あり、売上、部数、従業員数、すべての項目で、2005年からの減少状態にある。地方紙業界が、そんな危機状態にあるのに、大垣市長に迎合した記事をノー天気に載せるようでは、岐阜新聞の未来は暗い。新聞は公器として、正しく報道して、言うべきことを書いてもらわないと、存在意義がなくなり、新聞社自身が衰退する。岐阜新聞も中日新聞も、ここ最近の記事を見ても、問題が山積みの大垣市政の批判記事を見たことがない。それだけ癒着体質化してお抱え新聞(大垣市の広報新聞)に成り下がっていると言われても致し方なかろう。これでは、新聞部数が減るのは当たり前。

 

良識の問題

 本件に関して、私の師である元大学教授、愛知のトヨタ系ディーラの店長、高崎市の美術館館長、地元自治会長に意見を求めたら、皆さんから笑われて恥ずかしい思いをした。大垣市と岐阜新聞西濃版は、日本大学のアメフト部並みの良識を疑われる地域であることを再認識した。自己顕示欲だけ旺盛な大垣市長のせいで、大垣市は寂れる一方である。問題は、岐阜新聞、中日新聞の記事に洗脳されて、今日のような良識を疑う記事を平然と掲載しても、新聞購読者は誰も疑問を感じず、意見を言わないように躾られた体質だ。大垣市民に目覚めて欲しいと切に思う。

 以前に私は、岐阜新聞と中日新聞を購読していたが、ある事件を機に止めた。今にして、それが正しい選択であったことを再確認した。

 

2018-05-30

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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