恵比須軕の歴史と伝説(1/4)
大垣まつりは、1648年(正保5年)、ウィーン公使であった戸田共氏伯爵のご先祖にあたる初代の大垣藩主戸田氏鉄が城下の八幡神社を再建した折、城下十八郷が神輿三社を寄進して喜びを表し、大垣十ヶ町(本町、中町、新町、魚屋町、竹島町、俵町、船町、伝馬町、岐阜町、宮町)が10両の軕(山車)を造って曳き出してその喜びを体現したことが起源という。
1679年(延宝7年)、第四代の大垣藩主戸田氏西が、神楽軕、大黒軕、恵比須軕の三輌を下賜。この3輌を「三輌軕」とよぶ。
2018年5月12日8時45分から、大垣まつり「試楽」が開催された。大垣まつりは、370年の伝統ある祭りである。5月12日は快晴に恵まれ、「大垣祭の軕行事」として2016年12月にユネスコ無形文化遺産に登録されたこともあり、今までにない人出であった。早朝の試楽はまだ人出が少なかったが、夜宮はいまだかってない混雑で、写真撮影の場所取りも撮影も困難を極めた。私は撮影中に群衆に押されて、2回も望遠レンズフードを落としてしまった。暗闇で足元のフードを探すのに大変だった。
残念なことに5月13日の本楽は、雨で中止になったが、雨の中を、恵比寿軕を含む3軕はビニールの覆いを被って市内を練り歩いた。雨のため、各軕の収納倉庫では、奉納芸の披露もあった。奥の細道むすびの地記念館では、玉ノ井軕の女の子達の日本舞踊の披露があったようだ。
恵比寿軕の歴史
1679年(延宝7年)、第4代藩主戸田氏西公が恵比須神を祀るにあたり、先代の出身地である摂津の広田神社に祀られている西宮の恵比須神に、人を派遣し祈願したといわれる。現存の恵比須大神の人形は左甚五郎の作と伝えられる。
左甚五郎は江戸時代初期に活躍した伝説的な彫刻職人である。16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。それでは甚五郎は左である。左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。その製作年間は安土桃山時代から江戸時代後期まで300年にも及び、出身地も様々なので、左甚五郎とは、一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。(この項、wikipediaより)
伝説によると、恵比須大神の人形の顔面の塗料が剥げていたので、塗り師が塗り変えようと顔面に手を触れた途端、口から火を吹いたといわれる。
また祭礼の日に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残っている。
この日の晴れ舞台の為に伝馬町の子供達も猛練習。PTAも全面支援。良き教育の場である。2018年5月12日試楽にて
2018-05-14 久志能幾研究所 小田泰仙
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