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2017年7月

2017年7月18日 (火)

ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 3/3

演奏会の収支

 ヤマハジャズクラブ演奏会のチケット代は3,000円、入場者は多くて100~150名で全収入は30~45万円である。そこから5人のジャズメンに出演料、交通費、宿泊費、食事代等を払うので、各ジャズメンにはそんなに多くのお金は渡らない。東京のジャズメンだと、2日間を拘束される。それで一人10万円以下の収入である。たまたまヤマハさんのご支援があり、ヤマハホールの利用料が無料であるのが救いであった。そのコンサートも毎日あるわけではない。遠方だと、内田先生が岡崎の病院に泊めて宿泊費を負担されていた。内田先生の全面的支援なくしてヤマハジャズクラブの活動はありえないのが実情であった。

人生舞台の収支

 ライブハウス・ラブリーでの打上会時、隣に座ったジャズメンが私に「今の仕事が充実していますか?」と聞いたので胸を張って「yes」と言えたのが、今では懐かしい。彼がそんな質問をすること事態、ジャズメンの生活が厳しく、将来に希望が見出せない生活をしていたのかもしれない。超一流以外の音楽家では、生活を立てるのはかなり難しい。特にジャズは儲からない。クラッシック音楽家でさえ儲からない。その道で生計を立てるのは大変である。音楽の練習にかける時間と情熱を、他のビジネスに向ければ大成功間違いなしなのだが、音楽の世界ではままならぬ。それでも人生好事魔多しで、音楽を目指す人は減らない。それだけ音楽に魅力があり、日本の文化が熟成してきた証であろう。音楽は好きでないとやれない職業である。ヤマハジャズクラブで活動して、ジャズメンの生活を垣間見ることで、自分の恵まれた仕事環境を確認できた場でもあった。

「今の仕事が充実していますか?」

 当時は胸を張って「yes」と答えたが、その後の会社人生で、いつもyesと答えらえられない自分がいたのは冷酷な現実である。会社人生は山あり谷ありである。今振り返ってみて、仕事そのものに没頭できている時ほど幸せな時期はない。それが仕事そのもの(私の場合は製品開発)に没頭できればまだしも、職位が上がって管理職としての仕事が入ってくると、そうもいかない。係長ならまだしも、課長や室長の中間管理職になると、上下の圧力で押しつぶされそうになったことが、何度もあった。「yes」とは言えない時期の方が多い。しかしそれがあったからこそ、今の自分がある。人生舞台で多くの経験と試練を受けたことに感謝です。

 好きな技術の世界ではなく、給与の高さに目がくらみ金融業で働くのが幸せとは限らない。銀行等で成績を出すため必死に働かされ、50歳前に支店長になれなければ、銀行から出されてしまう。その出向先で、その会社の社長に気に入られなければ最悪である。その時、己に何の腕・技術があるかが問われる。なければ路頭に迷う。たとえ支店長になっても上司から「お前の代わりは幾らでもいる。首になりたくなければ、死ぬまで働け。明日までに目標を達成しろ」と言われる修羅場の世界があることを最近知った。そしてその銀行の元支店長経験者の平均寿命は、日本人のそれより10年も短い。給与が安くても、音楽や自分が選んだ好きな世界で生きるほうが幸せである。人生はお金ではないのだ。それが分かるのは還暦後である。でもその時では遅いのだ。

芸術とは「匂い草」

 芸術の「芸」とは、草冠と「云う」から構成される。「云う」は匂うの意味で、「匂い草」の意味である。ある時期、ある場所、ある人には、良い香りで受け入れられるが、それが何時で何処でも誰にでも、通用するわけではない。何時でも何処でも誰にでも通用する世界が、「法」である。それ故、芸術家で、成功する人は生きた時代で、たまたまピンポイントにその世相に合致したごく少数の人だけである。凡人には、お金のためといっては語弊があるが、まず生活の確保が必要である。非凡な才能があっても芸術家は、全員が稼げるわけではない厳しい世界である。昔のヨーロッパの音楽・絵画・彫刻の芸術家でも、パトロンがいて生活が成り立っていた。多くの音楽家は恵まれず、天才のシューマンでも極貧のうちに亡くなった。ゴッホもモーツアルトもレンブラントも極貧のうちに死んだ。死後に世相が変わり、その芸術性が受け入れられて、評価されたに過ぎない。しかし、その時には当人の芸術家には遅いのだ。それでも自分を信じて自分の芸術を創造し続けるのが、真の芸術家である。私の場合、凡人の才能で、自動車産業という恵まれた環境でメシを食えて、その片手間の趣味で音楽が楽しめたのは幸せであった。今、人生を振り返り実感する。

 

図1~4 演奏会後のライブハウス・ラブリーでの打上会での思い出の写真。図3の中央は岐阜のジャズ喫茶ゴーストのママ。ママは皆さんの憧れのマドンナであった。私もゴーストにはよく通った。

 

2017-07-18

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2017年7月17日 (月)

石田三成公の孤軍奮闘

石田三成の人相鑑定

 石田三成家の末裔である杉山家に伝わる石田三成の肖像画は、各種伝わる肖像画の中で、一番信頼のおける肖像画と言われている。石田三成公の地元の彦根市民族歴史課でも、最近はこの肖像画を使っている。この肖像画から人相鑑定をすると、三成公は反っ歯ではあるが鼻筋が通った細面の端正な顔つきである。顎も張っていないので、温厚な性格である。狡猾な印象はなく、相手を威圧するような目つきもなく、真面目なお役人といった風貌である。豪傑風な戦国大名とはかけ離れている。実務面でも、彦根佐和山の城主であったときも、質素な城造りで名君として領民から慕われていた。実戦面でも華々しい戦いの武勇伝はなく、後方支援、兵站、実務処理と豊臣秀吉がまき散らしたトラブルを黙って後始末して歩いた人物である。それが肖像画からもうかがえる。そんな実直な仕事ぶりは、武勇伝に長け豪放な戦国武将の加藤清正や福島正則とはそりが合わないだろう。三成公の公務員のような実直な性格では、人望も少なかったようだ。

三成と家康の戦い

 しかし豊臣家に対しては、彼は真の忠臣であった。福島正則も関ヶ原の戦いから大阪夏の陣に至る過程で、豊臣家が徐々に滅ぼされていく様を眺めていて最後は「石田三成が豊臣家の一番の忠臣であった」と言わしめた。福島正則は石田三成に対抗して結果として豊臣家を裏切り、徳川家に加勢をした。家康の真意が分かった時は手遅れであった。それだけ家康の狡猾な手口に、単純な福島正則は騙された。

 石田三成公は、負けを悟りながらも、窮鼠猫を咬むが如きの行動が関ヶ原の戦いである。国力の差から言って、開戦前から負けるのが分かっていたのが日米戦争である。それでも敢えて戦いに向かった。戦争でも、正義が勝つことはない。タヌキと狐の騙しあいで、正義を嘘で捏造する戦略に長け、勝つための戦略を緻密に練った方が勝つ。家康が勝ち、米国が勝った。お釈迦様の王国も、無抵抗のまま釈迦様の目の前で、敵に滅ぼされるのを見せられた。

 石田三成公の歴史を調べていくうち、米国のアイゼンハワー大統領と徳川家康が、石田三成と戦前の日本がダブって見えてきた。なぜ徳川家康は、石田三成を切腹ではなく、刑場で罪人として処刑して、京都三条河原に首を晒したのか。正々堂々と戦いをして敗れたのだから、武士としての尊厳を保つべきであった。その尊厳を無視したのには、家康の後ろめたさがあったとしか思えない。奸計と言いがかりで豊臣家を追い落とし、天下を盗ろうとした家康の動きを石田三成公は見抜き、豊臣家の忠臣として命を投げ出して動き、結果として天下分け目の戦いの関ヶ原の戦いで敗軍の将となる。それゆえ徳川家康にとって石田三成は悪者でなければならなかった。それが罪人扱いの処刑と三条河原での首の晒しになる。江戸時代も幕府体制を守るため徹底的に石田三成公は悪者でなければならなかった。それは勝者側の歴史の都合であった。

日本と米国の戦い

 なぜ米国は今までの慣例を無視して国際法上で違法の東京裁判で日本の指導者を晒し者にして絞首刑にしたのか。太平洋戦争で米軍と戦ったご先祖は、アジアを植民地にして帝国を拡張して植民地の生き血を吸うために戦ったのではない。米国こそが、フィリピンやハワイを植民地にして住民の生き血を吸っていた。米国はその悪魔の触手を中国に伸ばそうとしたが、日本に邪魔されたので、仕返しに奸計を用いて原油等の経済封鎖を敢行した。そのままでは、失業者が日本中に溢れて経済破綻をする。それを防ぐため、自衛のために立ち上がったのが日米開戦の経緯である。一時期、日本は全世界(白人の植民地帝国主義)を相手に戦ったことになる。そんな国は歴史上で存在しない。それは戦後、マッカーサが米国議会で証言をしている。その米国が戦争に仕向けた奸計が露見しては、米国にとって不都合なので、徹底的に日本が悪かったとする茶番劇を東京裁判で開演して、指導者を絞首刑にした。国際法違反の裁判である。まるで無法地帯の侵略者アメリカ人が、先住民インディアンを虐殺して邪魔者を絞首刑にした無法者の所業である。そして占領軍として、日本が再度、米国に刃向かわないように、徹底的に戦前の日本の土台を壊していった。米国にとって日本の指導者は悪として置かないと、米国の「正義」の立場が崩れるからだ。広島原爆投下の戦争責任を封じ込める必要があった。

 まるで家康が石田三成公を抹殺して、豊臣家の影をこの世から消すがごときの所業である。江戸時代も石田三成悪者説が続いたのは、大阪の陣で豊臣家の結束の恐ろしさを身に染みて感じて、二度と豊臣家の亡霊が出てこないようにしたためである。それと同じように、日本軍との戦いで、特攻や玉砕、勇猛なる日本兵の恐ろしさに震え上がった米軍と似ている。戦いに勝利した後の殲滅作戦では、徳川家康と米国占領軍がダブって見えるように、石田三成公の行動は日本とダブって見える。

獅子身中の虫

 そんな米国の洗脳教育に侵された左翼が、自衛隊を「人殺し集団」と、選挙でわめいている。自衛隊が大震災の時、国民を助けた。左翼は批判だけでなにもしない。隣国は日本の不幸に喝采を上げた。左翼は人として忘恩の冷血漢である。左翼は毎日、日本国土に領海侵犯をしてくる隣国の横暴には口を閉じる。反対だけして国を滅亡の方に押しやっている。せめて日本の進むべき道の邪魔をしないでほしい。強欲主義の帝国主義はいまだ健在である。それはグローバル経済主義と美しい名に変身して繁殖中である。その害毒に気づいて、英国国民はEUからの脱退に票を入れた。大資本家がバックのマスミは、EU脱退に批判的な記事を展開している。マスコミは日本人を痴呆化する番組を垂れ流し、毒になる嗜好品の食品・菓子・清涼飲料水類のCMを流し、日本人を半病人にして、またそれに対する薬のCMを流し、スポンサーから二重のうまい汁を吸っている。

 

図1 杉山家に伝わる石田三成肖像画

 

2017-07-17

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ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 2/3

第100回記念コンサート

 ヤマハジャズクラブ入会後、数年した1981年に100回記念のコンサートに出会うご縁を頂いた。営利目的でないジャズの演奏会が100回も続き、その記念コンサートである。それも内田先生の長年の尽力の現れである。それをお手伝いさせていただく機会に出会えたのも、ご縁である。

 聴衆は200名を超え大盛況であった。会場は日本楽器名古屋店の7階ホールである。日本を代表するジャズメンが集まり、お祝いとしてのコンサートが4時間半にわたり開催された。当時、これだけの著名なジャズメンが小さなジャズクラブのコンサート集まった事例はないのではないかと思う。全て内田先生の人徳である。会場は樽酒、升酒も振舞われ大盛況であった。その日は、私は照明係を担当した。たかが照明、されど照明、日本を代表するジャズメンの演奏会で初めて照明係を担当して緊張した。その7階ホールも、2017年現在は改装されて、半分の大きさになっている。ヤマハジャズクラブコンサートは150回まで続いたが、1997年、内田先生の引退で幕を閉じた。内田先生は、収集したジャズ関係のLPや資料、スタジオ施設を岡崎市に寄付された。今、岡崎図書館に展示されている。

 

図1 コンサート風景

図2 コンサート風景

図3 コンサート終了後の記念撮影

   前列中央に渡辺貞夫氏と内田修先生

   前列左端 伊藤邦治会長、2列目中央に著者

図4 当日の演奏プログラム

 

2017-07-17

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インプラント 6 (自分で考える)

3.3 自分の頭で考える

 歯の治療問題で、己の経営課題として判断して、手術2時間前に中止通告して、インプラントの調査を始めた自分で誉めてあげたい。松下幸之助翁は若いとき、行水をしながら、今日は吾ながらよく働いたなと自分の頭をなでてあげたいと思いに至ったという。それと同じ思いを抱いた。考えることは肉体労働以上に汗をかく仕事である。ナレッジワーカは、考えてなんぼの世界である。

 

思考停止の老人

 いつものように早朝の散歩での出来事(2011年ごろ)。神田のお地蔵様の前の横断歩道を、赤信号であったが、左右を見て車が来ないことを確認して渡っていたら、後方で「ムチャクチャやりおるな」との怒気を含んだ声が聞こえた。振り返ると声の主は、自転車降りて信号を待っていた初老の人であった。私は思わず「自分の判断で渡っているのだから、関係ないでしょう」と怒鳴り返した。なぜ、無条件反射のように怒鳴ったか、いつも冷静なはずの自分に不思議であった。

横断歩道の安全確認

 私はいつも横断歩道の信号は、左右を見て十二分に安全と確認できれば信号無視でも渡っている。たかが機械の信号の分際に、自分の時間(人生)を奪われたくない。これは欧米では当たり前の合理的な考えである。世界中でも、くそ真面目に信号を守っている人種は日本人くらいだ。

 ただし車の運転では、信号無視は絶対にしない。車上では死角が多くあり、完全な安全確認ができない。また、どこかにお巡りさんが隠れていて、信号無視で反則切符を切られる恐れが多分にある。そのため最近、過剰な駐車違反検挙が増えている。なんでも、東日本大震災の影響で東北の交通違反検挙件数が激減して、その分の収入の穴埋めをするように全国の警察に通達があったとの噂を聞いた(2011年当時)。なにかおかしい。世も末だ。

日本人の痴呆化

 この後、散歩を続けるうち、この件で日本の病状に思い至った。最近の日本では、自分の頭で考えることを妨げる事象が多くなった。機械が絶対だ、法律が絶対だと洗脳された人間が多くなった。また事件に対して、偏向した報道で正しい判断を妨げる強い流れがある。私に怒気を浴びせた初老の人は、車が来ないことを見通せる状態にも関わらず、信号機が青になるのをじっと待っていた。自分の頭では「前進の判断」ができず、機械という信号機の指示に黙って従う思考停止状態である。なにか日本の現状が象徴されて、恐ろしい。こんな人にも選挙権が与えられている。これでは日本の政治は良くならない。機械文明に毒された状態である。その結末が福島第一原発事故ではないか。数日前の近所での立ち話で「怒りとは頭が働いている証拠」と79歳のおばさんが慰めてくれた。このおばさんは、最近のテレビはくだらないからと、あまり見ないそうだ。

痴呆化が進む日本

・見るに耐えないバラエティ番組

 なにがそんなに可笑しくて笑うのか? テレビに映らない死角から、スタジオディレクターがスタジオにいる愚衆に「笑え」とのキューを出しているのが見え見え。参加者は若い人が多いので、日本の将来が心配だ。

・思考停止のグルメ番組

 知性あるとは思えないタレントが、思考停止のような光悦感に浸って食う様を流すグルメ番組。そのタレントは自己管理のできない肥満体が多い。先日、たまたま銭湯で見たグルメ番組で、元横綱が出ていた。横綱審査には体力人格が抜群との規定があったはず。元横綱が情けない姿で、今の日本の惨状を象徴していた。旨いものはかり食べて、贅沢病の糖尿病になり、結果として医旅費が膨れ、健康保険料が上がり、国の赤字が増え、被害を受けるのは日本国人である。番組制作者は非国民である。テレビを見続けるのは痴呆症の始まりである。

・偉そうな見識を流すワイドショー

 知性も見識もないと思われるタレントが、事件を偉そうにコメントをするワイドショー。あんたからそんなことを聞きたくもない。それに反対するコメントは徹底的に叩かれる。泥棒にも三分の理がある。それを認めないのは、全体主義の共産党がやる手法である。

・60歳の定年後の痴呆状態

やることがなく無為に劣悪番組を見続ける人たち。テレビを切るという思考も消滅している。なぜ働かないのか。ボランティアでも掃除でも、気力さえあればやることは一杯ある。

・真実を報道しないマスコミ

 中韓に気兼ねをして主張すべきことは報道しないマスコミ連中。そればかりか、名古屋市市長の意見広告掲載を拒否する中日新聞社。私は偏向新聞の購読を止めた。愚劣な偏向記事やTVに接していると脳死になる。

・韓流ドラマにうつつをぬかす有閑中年婦人(2011年当時)

 反日教育を60年も続けている国の番組がそんなによいのか。国の安全を考えないオバタリアン。そんな国に金を貢ぐのは国賊行為。この愚かな韓流に目が覚めるのに5年もかかった。(2017年現在)

・国賊の企業人(2011年当時)

 何回も痛い目を合いながらも、金儲けに目が眩み反日教育を60年も続けている国へ出かける企業人。チャイナにおべっかを使う経済連会長。まさに国賊である。何回も痛い目に合っても眼がさめない。企業トップが思考停止(脳死)である。

・軽薄な日本人

 〇〇ダイエットが流行ると、全ワイドショー、週刊誌が右倣えをする国民性。TVを見る人、雑誌を買う人がいるから、流行る。日本人が軽薄になった。

・日本の価値観を捨てた企業人

 金儲け主義を「グローバル化」という美しい言葉に言い替えられて、眼が眩み、日本人の価値観を捨てた企業人。海外進出して国内空洞化が進み、若者雇用が減り、益々日本がおかしくなった。日本の将来を長い眼で考えていない企業人。短期の利益ばかり求める欧米式経営の染まりつつある経営層。

・考えない経営者(2011年当時)

 ソニーもそんな毒素の侵されておかしくなった。欧米式の経営で、赤字を作った張本人であるストリンガー元社長が経営陣に居座った(当時)。欧米の悪い経営方式と日本の経営方式の欠点を合わせたのが今のソニーである。経営能力がなく、数千億の赤字を垂れ流しても数億の社長報酬を分捕るのは泥棒でだ。成果主義を唱えるなら、赤字の場合は賠償をせよ、である。これでソニーは長期的視野に立った経営が出来なくなった金儲け主義の「考えない経営」の結末である。2017年現在もゲームに社運をかけているので、あまり変わっていないようだ。

 

図1 早朝の横断歩道 「四季の路」の途中(朝6時30分ごろ)。

   遠くまで車が来るのは見えない。見通しは良い。

 

2017-07-17

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2017年7月16日 (日)

石田三成次男と弘前

 新戸部さんと種差海岸に行く車中の世間話で、石田三成の子孫の墓が弘前市内のお寺にあるという。石田三成公は関ヶ原の戦いの時、大垣城を作戦本部にした武将であり、彦根の佐和山城主として、井伊長政公が彦根に入城する前に彦根を治めた武将でもある。不思議なご縁を感じて、翌日(2016年5月16日)、お墓参りをすることにした。

石田三成の次男の運命

 そのお墓は宗徳寺の中に建立されていた。子孫の方がその墓所を守っている。その墓石に「豊臣家家臣」とあったので、当時の徳川の威光が全国に届いていた時代になんと大胆なことかと目を引いた。徳川の時代は豊臣氏の名が徹底的に排斥された。それが津軽では、豊臣の家臣の石田三成の子孫が家老として存命し、墓に「豊臣家家臣」と明記があるのには、歴史の錯綜を感じてしまう。家康は存外と心が広いようだ。

 1600年の関ヶ原の天下分け目の戦いで、石田三成は戦いに敗れ刑場で首を刎ねられた。刑場での罪人扱いの処刑は、戦国時代の戦いの結末としては異様である。戦国の時代でも、徳川家康は石田三成に対してこだわりがあったようだ。その次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に落ち延びて、津軽藩の家老になり生涯を全うした。それを大目に見た徳川家康の対応に興味が湧く。本来なら、石田三成家の一族郎党の皆殺しが筋ではあるが、なぜか家康は石田三成の子孫を見逃している。次男の石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出した。家康は深追いをしていない。石田重成は津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗り、後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

石田三成の長男の運命

 長男の石田重家は、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家した。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている。

石田三成の人間の器

 石田三成の天敵というべき徳川家康の人柄と比較すると、石田三成の人間の器を考えざるを得ない。石田三成は豊臣秀吉に見いだされて、出世街道を驀進したエリートである。頭は切れた合理者である。朝鮮出兵でも後方の支援(ロジスティックス)の重要性を認識して対応して、そつなく仕事をこなした優秀な能吏であった。実戦より兵站を重視して論功行賞に当たったことが、人情に厚く戦に苦労した戦国武将の反感を買った。彼は豊臣家の為に、関ヶ原の戦いという事業を計画・遂行した。三成が豊臣家のお家大事との義と理は正しい。しかし現実の世界は、豊臣家の時代が終わっており、石田三成は理屈と現実が乖離している現実に納得できす、大人の対応ができなかった。もっと大人の対応を講じていれば、豊臣家が滅亡せず、大大名ではないが、徳川家康の時代にも生き延びる術はあったはず。勝つのではなく、負けない戦略が必要であった。

徳川家康の人間の器

 それに対して、徳川家康は、幼少時代は今川家の人質、戦国時代は織田信長の命令で、妻と長男を自らの手で殺させられた。世のあらゆる辛酸を舐めて、待ちに待って、我慢に我慢を重ねて天下を盗った老獪な知恵者である。苦労人の家康には、才覚はあるが苦労の薄い石田三成の敵ではなかった。石田三成の理想論には世の武将はついてこなかった。

 舛添元東京都知事のように、東大法学部を首席で卒業するほどの頭の良さだけでは、人はついてこない。頭がいいだけでは、世の中を動かせないのを徳川家康公の人生家訓が物語っている。合理的に考える能力の高い人は、合理的にしか考えられにない欠点を持つ。それでは人生を戦えない。私も還暦を過ぎてから、この人生の根本原則にたどり着いた。随分と遅い悟りではある。

 

図1 宗徳寺の山門(弘前市)

図2 宗徳寺 本堂

図3 杉山家の墓所

図4 杉山家の墓所の奥に石田三成の次男・重成のお墓

   豊臣家臣と字が彫られている

 

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石田三成公からの学び(改定)

 私は前職の会社に1973年入社し、数年後、私の二人目の指導員はM主任(当時)であった。Mさんは、石田三成の末裔の某課長から薫陶を受けていた。

「オレは、君が仕事のしやすいように環境は全て作ってやった。あと、君が仕事をするかしないかは君の自由だよ」とは、M主任の元上司であった生産管理部課長の指導の言葉である。

 私はその課長と数回だけ口をきいたことはあるが、明確には覚えていないのが残念である。太ってずんぐりした方との印象だけである。しかし、指導された言葉は大変キツイ。そうやって上司から言われると、大変である。私もMさんから、その言葉を暗に突きつけられて冷や汗をかいた。そこから学んだ私が部下に言うもっとキツイ一言は、「(体を張って)がんばらなくてもいいよ。(頭の汗をかいて)成果だけ出してくれればいいよ」。

ロジスティク重視 ⇒ 三成出世

 石田三成は、当時重要視されていなかた兵站(ロジスティク)で才能を発揮して、頭角を表した。言うなれば、「戦いの準備・後方支援は全て整えてやった。後の戦でどう戦うかは、おぬし達の頑張り次第だ」と三成は思っていたのだろう。「後方支援など、武将のやる仕事ではないわい」と思って三成を見下していた武将たちに、三成の評判は良くなかった。会社組織でも最前線の営業や開発部隊が偉いのではない。それを総合的に運営・管理する部隊があってこそ会社が存在できる。

ロジスティク軽視 ⇒ 日本敗戦

 第二次大戦での日本兵戦死の6割以上が餓死である。父の弟の小田五郎氏は、昭和19年、ビルマのインパール作戦中に戦死であるが、現実は食料、医療品の欠乏による、餓死、病死である。日本軍部はロジスティクスを軽視した。米英軍の兵站の戦力(兵站も戦力)をみると、日本は負けるべくして負けた。石田三成が苦労したことは、300年経った第二次大戦でも日本では教訓にされていない。歴史に学ばない民族は敗れる。戦争とは資源の配分の頭脳戦である。陸軍学校で何を教えていたのか。

 現代の経営では、ヒト、モノ、カネ、情報をいかに効率的に、タイミング良くビジネス戦地に投入できるかが問われる。それの効率を極限まで高めたのが、トヨタのカンバン方式である。その生産システムで、たった一つの部品の欠品で、30万人が働くラインが止まる。そのため生産管理システムの構築は精緻を極める。だからトヨタでは生産管理部門の権力は強大である。だから世界のトヨタとして君臨している。急成長したクロネコの足が絡めとられたのは、お粗末な配達人の手配の問題である。人の対応に失敗してその出鼻をくじかれ、2017年、赤字に転落した。

歴史に学ぶ

 経営も戦争である。石田三成に末裔の某課長も生産管理部で手腕を発揮したのはご先祖返りである。そんな石田三成のDNAを引き継ぎ、当時から部長の風格があった某課長であるが、そりの合わない家康の性格を悪くしたような上司が実権を握ると、次長にもなれず即、子会社に飛ばされた。知性があっても、きれいごとだけでは生きていけない。ある程度奸性も必要である。サラリーマンの人生は上司次第でもある。その上司も後日不祥事で会社を追われた。出世競争の苛烈さは戦国時代も、今も変わらない。

親と上司に贈られた環境を感謝

 自分の今の環境が、あって当たり前と思っている間は、人間としての成長はない。親も上司も師も、自分のために働ける環境や生きていく環境を、黙って整えてくれた。その中で恩を感じてどう働くか、どう生きていくかは、自分の責任である。うまく行かないのを人や環境のせいにするから、醜い争いが絶えない。それでは幸せはやってこない。

自家の兵站整備

 人生という戦いで、勝利に大きく影響するのは、兵站である。まず手近なことは、己の仕事がやり易い環境整備である。自宅の書斎とか睡眠の部屋の環境整備である。ハード面は、自分でお金をかければ誰にでもできる。それに設備投資をするかどうかだけである。もう一つが人間関係の整備である。気持ちよい人間関係を構築してこそ、財産である。そのためには、心理学・人相学・経営学・歴史の勉強が欠かせない。後方支援として、良き医師の友人と人生の師があれば、鬼に金棒である。

自社の兵站整備

 貴方が会社の経営者として、兵站に相当する、教育部、管理部、調達部、社内医局、資料室、渉外部、知財部の間接部門に目が届いているだろうか。営業部ばかりに注力して接待費を湯水のごとく使えば、会社は土台から腐っていく。前職の会社は、「教育は大事だ、大事だ」と念仏の如く唱えていたが、景気が悪くなると、真っ先に教育費を削減した。教育こそが、10年後に必要な兵站である。当面なくてもすんでしまうので、真っ先に削減して、10年後の危急存亡の時には、活躍してくれる人材が払拭している。兵站からの復讐である。

英霊への追善供養

 2010年、大垣に帰郷後、父の遺品を整理していて小田五郎氏の天皇陛下からの勲八等の表彰状(昭和41年7月30日発行)を発見した。時の佐藤栄作総理大臣の名が入っている。供養として、それを額に入れて座敷に飾った。五郎氏は英霊であるが、50回忌は終わっていた。この叙勲の表彰状を眺めているうち、また石田三成の兵站のことを思い出し、その苦労に報いる為、お墓を改建したおりに位牌を新作して仏壇に納めることにした。英霊への追善供養として院号を付けて頂くことにした。夫を早く亡くし、二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思われる。不憫である。

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ、人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をする名とする供養である。院号はお金を出しても、相応の功徳ことがないと付けてもらえないという。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない。

 小田五郎さんはビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けて頂いた。院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得た。人生知らないことばかりである

 

図1 死亡通知書

 

2017-0715

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ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 1/3

内田修先生の逝去

 日本のジャズの父と言われた内田修先生が、2016年12月11日、肺炎のため87歳で亡くなられたことを、ブログのために己の音楽経歴でこの件を調べていて知った。これも「馬場恵峰卒寿写経書展写真集」出版から生じた佛縁である。このニュースが手元に届かなかったのが残念であったが、これもご縁である。直前の2017年4月6日(木)に先生の追悼コンサートがヤマハビルであった。その頃は、出版準備と渡欧の準備で忙殺されていた。ご冥福をお祈り申し上げます。

ヤマハジャズクラブへ

 学生時代からジャズに興味がありLPレコード収集やジャズ喫茶めぐりをしていた。ジャズ喫茶やレコード店に通ううち、ヤマハジャズクラブの存在を知り、お願いしてスタッフにして頂いた。ヤマハジャズクラブの主催者は内田修先生である。活動内容は、年に数回ある演奏会の企画・運営のお手伝いである。当初から、演奏会のチケットの販売ノルマがあることは承知していたので、数枚売って、残りは自己負担でもいいなと甘い考えであったが、事態はそんなにも甘くなかった。まず全く売れない。無償で進呈しても受け取ってもらえない。交友関係にそんなにジャズを好きな人はいない。また当時は日本経済の高度成長の最盛期で、回りの仲間は残業につぐ残業で、わざわざ時間外の夕刻に、勤務地から名古屋市納屋橋まで出かけてジャズ演奏を聴くという余裕は無かった。皆さんひたすら働いていた。定時の帰るのさえ気が引けた時代である。そんななか演奏会に知った人がこないと、肩身が狭いのである。チケット代は負担しているのだが、会場に知った人がいないのは辛いもの。

 私も3、4年ほど活動したら、工作機械見本市出品機の開発にどっぷりつかるようになり、平日は深夜まで働き、土日も無いような状態になり、ヤマハジャズクラブのスタッフ会議にも出られなくなり自然退会になってしまった。

内田先生宅のスタジオ

 内田先生は自宅の半地下の一室にスタジオを設置されていた。ここで先生の懇意のジャズメンが集まり録音をしたテープ、レコードも多い。LPレコードの総数が3万枚とかで、羨ましさを通り越して、違う世界の話として羨む気持ちも起きなかった。図1の写真は整然とされた状態で展示されているが、当時は、レコードや他のジャズ関係の品々で溢れて洪水のようだった。

 内田先生宅のスタジオには3万枚のレコード収集の宝庫があって圧倒された思い出がある。ちなみに先生に、「このレコードの全部聞いたのですか」と伺ったら、「ノー」であって少し安心した。先生のところへ、関係者が無償で毎月、多くのレコードを送ってくるようだ。嫌でも集まってしまうとか。今、冷静に考えてみると、3万枚のレコードを試聴するとなると3万時間弱の時間を要する。普通の仕事人が有効就労期間中に取れる時間は、4時間×365日×40年で計58,400時間である。その過半の時間をジャズ音楽のレコード鑑賞だけに費やせるわけが無い。特に内田先生は、大きな病院の院長先生である。そんな時間を付加価値の生まない鑑賞だけに使うはずが無い。

内田先生の奥様とのご縁

 内田先生は奥様を乳がんでなくされた。その手術も内田先生が執刀されたが、妻にメスを入れる辛さと、結果として1982年12月26日に亡くなられた不幸を慮ると忍びないものがある。なまじっか己の腕にガンの手術する技があるのも残酷な運命である。奥様のガンを直すことができればまだしもであった。

 生前、奥様は内田先生がジャズにお金を使い過ぎるのをスタッフの世話人に嘆かれていた。我々スタッフの前では、にこやかに迎え入れて頂いたが、10名ほどのスタッフが先生宅で打ち合わせのため出入りするだけでもかなりの出費である。まして日本のジャズの父として、経済面で恵まれないジャズメンの多くを面倒見た先生の財政的負担は大きかったはず。病気のミュージシャンがいれば自分の病院で診察して療養させ、お金や住まいに困っていれば自宅に呼んで何日も過ごさせるなど、彼らの心身のケアを買って出られた。1975年、日野皓正が渡米前に健康診断のため内田病院を訪問。1977年、内田病院に入院していた久野史郎が逝去。1981年、宮沢昭が内田病院で手術を受け、2ヶ月間入院。1982年、渡辺貞夫が内田病院に入院とお世話になったジャズメンは数知れず、である。それを陰で支えたのが隆子奥様である。お金の面は内田先生がされたが、実際の面倒は奥様がされたはずである。内田隆子奥様は日本ジャズ界のマリア様のような存在であった。その多くのジャズメンの面倒を見る心労が、ガンの遠因となったのではないかと思う。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 当時、ヤマハジャズクラブのスタッフの集まりが岡崎市の内田先生宅で開催され、20時ごろから始まり終わりが深夜に及ぶ。そのため、終電車がなくなり、いつも奥様に案内をしていただき、内田病院の病室に泊めて頂いた。これが契機で車を買う決心がつき、1978年にカリーナ1600ccを購入した。回りの会社仲間に比べれば5年遅れの入手である。

冨田家とのご縁

 内田隆子奥様は冨田家の出身であった。冨田家は岡崎市の名家で、世界的なシンセサイザー奏者の冨田勲氏もこの家系である。また冨田環社長は、私の入社時の社長である。冨田社長は昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)まで社長を務められ、その後会長として昭和56年(1971年)まで勤められた。私の入社後、8年間がご縁のあった時期である。平成2年(1990年)12月、冨田環最高顧問(当時)の葬儀では、お手伝いをするご縁を頂いた。関係ある各部で、各1名の幹部がお手伝いに参上した。その一人に選ばれたことに感謝している。思えばその当時が、前職の会社の全盛期であった。1991年にバブルがはじけて、前職の会社は地獄の奈落に転落する。

 

図1 岡崎図書館に寄贈された内田先生の録音スタジオの機器

   当時の情景が再現されている

図2 隆子夫人全快祝いセッションの打ち上げ会で内田先生ご夫妻。

   その全快祝いの1ヵ月後の信じられない突然の訃報であった。

   1982年11月22日 伊藤邦治氏撮影

図3 内田先生と私(奥側)

  演奏会後の打上会で(1978年ごろ)

 

2017-07-16

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自動車メーカのDNA(改題・改定)

 企業は人と同じで生まれた時のDNAを受け継いで活動している。その因果が30年後、50年後、100年後に華が咲くこともあれば、毒になって全身をめぐるときもある。著名自動車メーカの社是、経営理念を比較検討して、社是の重みを実感している。

聖光寺での交通安全夏季大法要

 長野県茅野市の蓼科山聖光寺は、昭和45年7月9日に奈良薬師寺別院としてトヨタ自動車と関連会社が施主となり、交通安全祈願と事故で亡くなられた人の供養、負傷者の早期回復祈願のために建てられたお寺である。毎年恒例の七月の夏季大祭が執り行われ、17日は交通事故者慰霊萬燈供養、18日に交通安全夏季大法要が執り行われ、トヨタ自動車の豊田章一郎名誉会長、内山田会長、豊田章男社長をはじめ関係役員とトヨタ自動車販売店協会などから多数の方々が出席される。協豊会からは会長と各地区の代表副会長が出席し、会員の皆様の交通安全を祈願される。

 

交通安全を祈願 ~蓼科山聖光寺夏季大祭~

http://www.kyohokai.gr.jp/news/times/2015_shokoji.html

 

 この大祭は、これは他の自動車メーカではあまり聞いたことの無い行事である。これは豊田佐吉翁が、トヨタ自動車の創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」との遺言と豊田綱領に「神仏に尊崇報恩感謝」と記したように神仏への敬いの心の現われである。豊田佐吉翁の頭には金儲けではなく、報国の精神があり、結果として事業が成功したのであって、金儲けがうまかったから、成功したのではない。

 

豊田綱領 (豊田の5つの精神)

1.上下一致、至誠業務に服し産業報国の実を挙ぐべし

1.研究と創造に心を致し常に時流に先んずべし

1.華美を戒め質実剛健たるべし

1.温情友愛の精神を発揮し家庭的美風を作興すべし

1.神仏を尊崇報恩感謝の生活を為すべし

 昭和10年10月30日、豊田佐吉の6周忌にあたって、全従業員が整列した佐吉翁の胸像まえで、佐吉翁の信任が厚かった取締役支配人・岡本藤次郎が朗読・発表(試作車を完成させ、国産自動車生産の目処がたった時)

 

社是とミッションの文化の違い

 社是に「神仏を尊崇報恩感謝の生活を為すべし」とはなかなか書けない言葉である。その精神がトヨタのDNA中に流れている。目には見えないご先祖や神仏を大事にの精神が、今のトヨタを創った。欧米の企業の会社理念(社是)には、神仏への感謝、ご先祖、お国へのご恩返しの思想はない。あくまで個人主義の延長で、会社としては会社主義の行き着く先が成果主義、グローバル経済主義で、結果として富の偏在、格差の拡大である。日本の主要な自動車メーカの社是を比べてみると、日産とマツダの社是に、ミッションという言葉が目に付く。日本企業の社是とは違和感がある。共に欧米の企業に乗っ取られた会社である。それが故、欧米の価値観が社是に表れている。

ミッションから生まれる文化

 ミッション(mission)とは、ラテン語のmittere(ミッテレ。送る、つかわす)から派生した語であり、人や人のグループに与えられた、特に遠方の地へ行き果たすべき役割、使命、任務である。イエス・キリストが弟子たちに与えた、遠方へ行き福音を広く人々に伝えよとの使命には、強い目的意識、(自分を超えた何かによって宣告さた)強い使命感がある。ちなみに日本仏教では強制的な布教は禁じられている。ミッションと聞くと殉教者的な犠牲を強いられる印象があり、日本では違和感がある。リストラ後の日産を辞めた社員の言動を見ていて、つくづくとそれを感じる。結果として日産は、創業90年後に狩猟民族のルノーに内部資産を喰い尽くされつつある。最近は三菱もその魔の手に落ちた。

 日産は財閥総裁の鮎川義介が金儲けのために、図面も生産設備もフォードから買ってきて工場を立ち上げた。三菱は岩崎弥太郎が明治初期に、政商として暗躍して巨万の利を得て、その金で創業した財閥の一企業である。お国の技術高揚のために、図面も設備も一から自分たちの手で作り上げたトヨタとその志が違う。日産にも三菱にも、金儲けというミッションはあるが、報恩という思いはない。

社是から生まれる文化

 社是とは社員の目指すべき行動規範で、自分達に夢に実現のため会社としてやるべき規範である。「是」とは正しいこと、会社として正しい道を示した行動規範である。神仏を敬いご先祖を祭り、自主的に仕事に仕えて社会に奉仕をする。結果として会社の業績が向上し自分達にも返ってくる。それと比較して神からの強制で社会に奉仕をする行動を比較すると、その差がお墓つくりに重ね合わせて見ると興味深い。

自動車メーカ各社の社是比較

 トヨタ以外の車メーカの社是からは、感謝という思いが感じられない。「オレ達が偉いから、車という最高の製造物を君たちに作ってあげるのだ」との上から視線が伝わってくる。日産のビジョン&ミッションは、提供、寄与、プログラム開発とかで、何かヒトゴトである。過去の遺産を食い潰して、結果としてトヨタより儲かっていない日産のゴーン社長が、10億円の報酬では違和感がある。強欲の極みで格差社会の象徴のように感じる。「機会を提供する」のではなく、「付加価値そのものを提供して欲しい」とユーザは望んでいる。

 

日産のビジョン&ミッション

ミッション

「未来への投資」

未来を志向する人々が、“どのような社会に生きたいか”を実験し、体験し、思索する機会を提供する

目標

ミッションを実行することにより、社会的価値の創造に寄与する

活動方針

・多様性を促進するプログラムを開発する

・社員の社会参加を促進するプログラムを開発する

http://www.nissan-global.com/JP/COMPANY/MESSAGE/VISION/

 

マツダの社是

Vision(企業目標)

新しい価値を創造し、最高のクルマとサービスにより、お客様に喜びと感動を与え続けます。

Mission(役割と責任)

私たちは情熱と誇りとスピードを持ち、積極的にお客様の声を聞き、期待を上回る創意に富んだ商品とサービスを提供します。

Value(マツダが生み出す価値)

私たちは誠実さ、顧客志向、創造力、効率的で迅速な行動を大切にし、意欲的な社員とチームワークを尊重します。環境と安全と社会に対して積極的に取り組みます。そして、マツダにつながる人々に大きな喜びを提供します。

http://www.mazda.com/ja/about/vision/

 

ホンダの社是

基本理念

人間尊重   自立、平等、信頼

三つの喜び   買う喜び、売る喜び、創る喜び

社是

わたしたちは、地球的視野に立ち、世界中の顧客の満足のために、質の高い商品を適正な価格で供給することに全力を尽くす。

運営方針

・常に夢と若さを保つこと。

・理論とアイディアと時間を尊重すること。

・仕事を愛しコミュニケーションを大切にすること。

・調和のとれた仕事の流れを つくり上げること。

・不断の研究と努力を忘れないこと。

http://www.honda.co.jp/guide/philosophy/

 

 下記の三菱自動車の企業理念には、感謝の念が全く感じられない。何度も社会を裏切ってきて、その言葉は白々しい。冒頭の言葉に、「走る歓び」とあるが、顧客にとって、走る歓びよりも、安全が最優先である。車は走る凶器ともなる側面を持つ製品である。大前提を間違えた会社の末路は悲惨である。親会社の三菱グループからも見放されて、2016年に外国資本ルノーの手に落ちた。

 三菱自動車は創業者岩崎弥太郎の殿様商法、政商のDNAが脈々と受け継がれている。三菱は明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いた。最初に弥太郎が巨利を得たのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時である。各藩が発行した藩札を新政府が買い上げる政策を事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。この情報を流したのは新政府の高官・後藤象二郎である。弥太郎は最初から、政商として暗躍した。

 

三菱自動車の企業理念と目指す姿

企業理念(2005年1月制定)

大切なお客様と社会のために、走る歓びと確かな安心を、こだわりをもって、提供し続けます。

大切なお客様と社会のために

お客様第一主義に徹します

お客様からご満足いただくことを最優先に企業活動を行います。そのためには環境問題への対応や安全性の追求に全力を尽くし、お客様のご満足を通して社会から信頼される企業を目指します。

走る歓びと確かな安心を

三菱自動車のクルマづくりの方向性を明確にします

三菱自動車がお客様に提供するクルマは“走る歓び”と“確かな安心”という2つの考え方を反映します。クルマ本来の魅力である走行性・走破性と、お客様にながく安心してお乗りいただける安全性・耐久性を両立したクルマづくりを行います。

こだわりをもって

三菱自動車らしいこだわりを大切にします

お客様にご満足していただけるようなクルマの新しい価値を見出し、お客様のカーライフをより豊かなものにするために、どんな小さなことでもこだわりを持って、クルマづくりに取り組んでまいります。

提供し続けます

継続性を重視します

三菱自動車は信念と情熱を持って継続的な挑戦を行うことで、三菱自動車らしさを進化させたクルマをお客様に提供し続けます。

http://www.mitsubishi-motors.com/jp/company/philosophy/

 

フォルクスワーゲンの社是?

 フォルクスワーゲン(VW)のHPより社是を探したが、「Think People. ACTION」しか出てこなくて、これが会社の社是として存在しているようだ(2017年7月16日)。

 社是に「私たちにできることひとつ一つに挑戦していきます」とあるが、今はできないことに取り組むことが挑戦ではないのか。できることだけやるなら、誰でもできる。それは朝鮮ではない。VWが利益最優先で考えて(順法精神など考えずに)今できることが、排気ガス計測の不正であったとみると、下記の社是もどきは、意味深長である。社是が会社を現す例である。

 

Think People. ACTION

人を真ん中に考えるクルマとして、私たちはいま、様々な取り組みを進めています。

乗る人を見つめることは、クルマの未来を見つめること。

クルマを愛する皆さんから寄せられる声をヒントに、私たちにできることひとつ一つに挑戦していきます

フォルクスワーゲンのHPより 2017年7月16日

http://www.volkswagen.co.jp/ja/volkswagen/company.html

 

2017-07-16

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一人では成佛できない

仲間との切磋琢磨

 2011年4月6日に第50回京都佛像彫刻展に出かけたら、偶然、松本明慶先生にお会いできた。展示されている佛像を説明して頂いた。そこには若い佛師の作品が多く展示されていた。中には松本工房から独立して、佛像を作っている佛師の作品も展示されていた。素人目から見て、その作品が、松本工房の佛師の作品に比べて、レベルが落ちるのがわかる。明慶先生によると、独立したくらいだから腕はいいのだが、独立当時から作品のレベルが変わっていないという。つまり時間が止まっている。これは自分の世界に閉じこもってしまい、松本工房で大勢の仲間(40人)との切磋琢磨が無くなったので、成長が出来なくなったとのことである。自分の世界と比較して、身につまされるお話である。人は、批判、指導、人との切磋琢磨により人間として成長し、その作品の出来に影響するのだと。作品が、その人自身の成長の度合いを冷酷に表す。作品とは、仕事や芸術作品(音楽、絵画、書、彫刻、写真、教育での人財等)が、己自身の反映なのだ。己の生きざまを仕事に昇華させて、どんなレベルの仕事を残して逝くかである。人生は集めたものではなく、昇華させた仕事だけが、後世に残る。

菩薩と成仏

 菩薩とは如来になるべく修行中の佛様をいう。菩薩様は修行をしながら衆生を救う佛様として拝まれている。一人では成仏できない。回りの仲間がいてこそ、自分が成仏への修行ができるのだ。仲間に手を合わせて感謝しよう。

 

 

図1 松本明慶先生と    2011年4月6日

   第50回京都佛像彫刻展(京都伝統産業ふれあい館)

   後ろは千手観音菩薩(松本明慶先生作)京都市長賞受賞

図2 学ぶとは

 

2017-07-16

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2017年7月15日 (土)

タバコの経営損害(改定)

 私が経営診断でみる最初の要点が、社長・幹部の喫煙の有無である。私の前職の会社では、過去、多くの歴任社長と役員がタバコを吸いまくっていた。1円1秒を問題にする原価低減会議、省エネ会議の場で、多くの管理職がタバコをスパスパ。クリップ一つでもうるさく言う私の上司がヘビースモーカでは、馬鹿らしくて、まともに相手ができない。そのモラルの面での影響も大きいはずで、歴史ある名門の企業が、60年余でケムリとなって消えた。悪影響が明白なタバコを止めれない経営者は、まともな会社経営ができない。自分さえも管理できない経営者は、社員も企業をも正しく経営できない。

 タバコは、人生経営、会社経営、生活VA、健康、PL問題、教育、省エネ、経営的ロスの観点で、言語道断である。タバコは健康害し、他人の健康を自己以上に害し、頭を悪くし、その結果として企業の業績を悪化させる。たばこで頭の悪くなると、それさえ認識できなくなる。下記は少し古いデータもあるが、実際はもっと大きな被害が出ている。

 

・タバコに起因する病気での死者・年間        約3万人

       (年間の概算総誕生数、概算総死者数 100万人)

・日本人の死因の約半数が癌。タバコが原因で癌になる人は2割  *3

つまり、タバコの影響での年間死者         10万人

・タバコを吸う人の死亡率は      男性1.6倍、女性1.9倍 *3

・タバコによる患者数               100万人 *2

・タバコでの医療費(国民医療費の4%)   1兆4900億円 *2  

・タバコにより働けない損失           2500億円 *2 

・日本のたばこによる年間税収は       2兆0500億円 *1

たばこによる病気、火事、清掃などの損失は 3兆5000億円 *1

日本人の20歳以上の人口を8,000万人と仮定すると

・一人当たりの年間単純損失金額は       43,750円 

・従業員5,000人の企業での年間損失総計は  2億1875万円

・従業員 500人の工場での年間損失総計は     2188万円

 

30年間のタバコ代は             約500万円

・喫煙によるの経営的ロスは        約53万円/年・人

・タバコが頭の働きを阻害              ▲10%

    それによる経営的損害         約20万円/年・人

・タバコ一本あたりの空気清浄費用         15円/本

・タバコの煙は赤ちゃんの体重を減らす        100g

   大人換算で、我が子から2kgの肉を削ぐ犯罪

副流煙は、奥さんの子宮癌の発生率を増加        7倍

非喫煙者に対する喫煙者の交通事故発生率        4倍

・タバコ半分を吸った場合は、20ワットの仕事を20分するエネルギーを浪費

 

 *1:1995年のチバガイギー科学振興団が経団連会館で開催したフォーラム           「タバコを考える---防煙、分煙そして禁煙について」の発表

                   (週刊『東洋経済』1995.07.08号)

*2:2014年度厚生労働省研究班(日本経済新聞2017年5月31日)

*3:国立研究法人国立がんセンター

   http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/252.html

 (Japanese Journal of Cancer Research 2002年93巻6-14ページ)。

 

2017-07-15

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