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2017年6月

2017年6月30日 (金)

オウム真理教とテクニカルライティングの死闘

  1995年5月7日(日)夜、某民放でオウム特集番組が放映された。たまたまその番組を見ていたらそこに、私の科学工業英語の師である早稲田大学篠田義明教授がコメンテータとして登場して驚いた。1995年6月3日、テクニカルライティング国際セミナー(大阪)での懇親会で、篠田教授からその時のエピソードを伺う機会を得た。

 

 地下鉄サリン事件は、1995年(平成7年)3月20日に、東京都の帝都高速度交通営団で、宗教団体のオウム真理教が起こしたサリンを使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出した。5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。

 上祐は、早稲田大学在学中の1986年8月に「オウム神仙の会」に入会する。早稲田大学高等学院、早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了し、同年4月に特殊法人宇宙開発事業団に入る。宇宙開発事業団は、翌年には退職、出家する。5年後の1992年12月には、「尊師」に次ぐ位階の「正大師」に昇進。1993年9月にはロシア支部長に就任。上祐は、ロシアへは実質的には左遷で飛ばされていたため、幸か不幸か、サリン事件には直接関与しなかった。上祐は地下鉄サリン事件後に麻原に日本へ呼び戻され、「緊急対策本部長」に就任。2年後の1995年10月に国土利用計画法違反事件で有印私文書偽造などの容疑で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受ける。

 

 この番組は、当時「時の人」であったオウムの上祐広報部長がディベートの達人であったため、各放送局が上祐氏にやられっぱなしなので、篠田教授にその論法の解析とコメントを求めての出演であった。そのご指名の理由は、早稲田大学篠田教授は、日本でテクニカルライティングの第一人者であったのと、ディベートの達人(と世間が誤解)の上祐被告(1996年現在)が同じ早稲田大学出身であったためである。

 

その番組での篠田教授のコメント

 「最初に結論を言って、その次にデータでその裏付けをしているので、いかにもテクニカルライティングの手法だが、データを多く見せているだけで、自分達に都合の悪いことは何も言ってない。またそのデータの真偽を証明していないので、論理が間違っている。上祐広報部長の論法は、データを多くして、焦点をぼかしている。これは本当の論理的な説得ではない。」

 

エピソード

 その夜、オオム真理教からの怖いアクションがあった。テレビ出演後、オウム真理教団からテレビ局に1回、自宅に2回も電話があった。そのため、その夜NHKから、翌朝の番組への出演依頼があったが、命に係わることなので、篠田先生は出演を辞退された。また一時期、不審者の尾行が付いたため先生には警察から護衛がついた。またこのTV収録でも、かなりの部分をカットしたとのことだが、それでもこの有り様である。

 上祐は早稲田在学中、篠田教授の講座を取っていたとのこと。篠田教授は、上祐のことを良く覚えていると仰っていた。なにせ、当時学生の上祐だけが、篠田教授にいつも英語で質問をしていた。だからよく覚えていると仰っていた。

 

 何事もその目的とするところを取り違えると、オオムの上祐のようになる。それは往々にして頭のいい人にそれが起こりがちである。事の本質を知るには、「その目的は何?」を5回唱えると良い。トヨタ生産方式の神様、大野耐一氏も、なぜ?なぜ?を5回繰り返せと、その大野語録で述べている。言わんとするところは同じである。

 篠田先生の評価は社内で大きく別れる。ある人は篠田先生の口癖の「だからダメなんですよ」に反発を感じ、別の人は一方的に否定されるのに付いていけない等である。その受け止め方は、その人の器の問題である。

 どんな素晴らしい師についても、受け手の持つ器の大きさ以上には受け入れられない。器が小さければ水はコップから溢れるだけ。またその周波数にあったアンテナを持っていないと、馬に念仏となる。

 また最低限、そのコップは立っていなければ、いくら水を注いでもコップの中に入らない。己の心は立っているだろうか、自問したい。

 だからこそ人は自らの器を立て、その容量を大きくするために、正しい道で学び続けなければならない。自分の器が小さいと、何が正しくて何が正しくないが見えない。特に頭のいい人ほど、その器に柔軟性がなく、考え方は思い込みが支配している。それが固定観念である。人は謙虚さを忘れたとき、成長が止まり、その殻から脱出できなるなる。素直に何事も真剣に取り組む人が自分の殻を破り成長する。

                    1996/06/03初稿、2017/06/30 追記

 図1 2つの教育 (「修身」より)

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久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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「ミニ奥の細道」朝の旅

 2010年、37年5ヵ月間を勤めて定年退職し、故郷の岐阜県大垣市(人口16万人)に活動拠点を移してから、朝の日課として「四季の路」を歩いていた。「四季の路」は、大垣市が俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』の旅で詠まれた俳句の碑を市内中心部の水門川沿いに建立し、「ミニ奥の細道」として整備した遊歩道である。

 毎朝5時に起床して、仏壇の前でお勤めをした後、日の出に合わせて散歩に出る。自宅から徒歩10分の八幡神社でお参りをしてから住吉燈台を目指して、「四季の路」を歩く。住吉神社、大垣公園、濃尾護國神社、大垣城を通って帰宅する。自宅から住吉燈台まで往復で1時間余、芭蕉『奥の細道』の紀行で詠まれた俳句の碑を横目で見ての「ミニ奥の細道」朝の旅である。

 水門川の澄んだ清流を観ながらの散歩は大変清清しく、気持ちが良い。水門川の川底まで澄んだ水の流れは、気候によっては泥水を含んで濁り、日によっては大量のゴミが流れてきて、日々その様相を変える。「海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり(修証義)」がよく思い浮かぶ。

 

 大垣に転居してから5年弱、雨の日も風の日も「四季の路」を歩いた。松下幸之助翁の言葉「雨が降れば傘をさす」。帰宅後、大垣の水(大垣は水の都として有名で、豊富で良質な水は水温が低い)をかぶり、乾布摩擦をして一日のスタートとした。水かぶりは人生への危機感から、2010年6月から再開し、それから1日も欠かさずに継続した。3年前の事件を契機に、1年間続けた水かぶりを中断しての2年ぶりの再開だ。2010年11月のローマ旅行時も、毎朝、ホテルでローマの水をかぶった。ローマの水は大垣の水とは違い、少々緻密さにかける水ではあったが、冷たいことには変わらない。何らかの達成感を得るには、多少の困難・苦痛が必要のようだ。まるで塩沼亮潤師の千日回峰行みたいだ。現在は早朝の運動の危険性を知り、体調を考えて夕刻の散歩に変えた。

 

人生の旅

 早朝のため人通りのまばらな街を横切り、川沿いの静寂な散歩道を歩いて、今までの60年間(会社生活38年間)の社会での歩みと今後の42年??を考えた。60年間余の総括として人生を振り返ると、人生とは旅だ、と思いいたる。『奥の細道』冒頭の一節が自分の人生に重なる。

 半生を振り返り、遭遇した多様な縁を見つめるとき、よくぞ無事に定年という折り返し点にたどり着いたと感慨にふける。無事にたどり着けなかった仲間がなんと多いことか。団塊の世代で多かった同期の仲間が1/3に激減した現実を見ると愕然となる。

 

 「四季の路」を歩くなか、ごく平凡なサラリーマン生活を送ってきたつもりが、普通では「有り難い」多くの出会いを経験させていただいたことに気づいた。多くの御縁の中で生かされて、無事にやってこられたことに感謝です。頭では「塞翁が馬」を理解しているつもりですが、還暦を迎え、その言葉の重みを再確認しています。様々な出来事に出会って、それが自分の血となり肉となり知恵となったことを実感する。まさに格物致知、磨墨知の世界である。歩きながら考えることは、毎日が堂々巡りの感もあるが、実際に自分が意思を持って実行できた証のみが、自分の経験の形成につながっている。

 

只歩

 渡部昇一著『95歳へ!』(飛鳥新社 2007年)で散歩での瞑想法が推奨されている。歩いていると途中や帰宅後にいろんな思いが浮かんでくる。歩くことは考えること、生きることなのだ。人が死ぬ時は、全人生の出来事が走馬灯のように高速で目の前に映し出されるという。時おり、過去の人生の出来事の一片が走馬灯のコマ送りのように眼に止まることがあり、自分の過去の反省と懺悔の思いが湧き出てくる。また過去の出来事の判断についても、当時批判された事件が、冷静に自分が正しかったと確認する事例も多く思い出される。

 

 歩かなくなった時、チャレンジがなくなった時、創造しなくなった時、自分を磨かなくなった時、そして諦めた時に、人は老い、死ぬという。人の記憶からその人の思い出が消えた時、第二の死(本当の死)が訪れる。孔子、安岡正篤、松下幸之助、両親、共に私の記憶の中に生きて語りかけている。本当の死を延ばすには、自分の航跡をどれだけ印象強く人と記録に残せるかだと、自戒をこめて歩いている。

 

読書感想  渡部昇一著『95歳へ!』飛鳥新社 2007年

【要旨】何事かをなす時間は、まだ十分に残されている。60歳から35年間を設計する、中高年のための実践的幸福論である。ボケずに健康で95歳を迎えるため、氏は何人もの矍鑠たる高齢者と対談し、教示されたノウハウを、この本にまとめた。(2011年2月24日記)

 

 本書は世代を超えて人生観・生活方法の見直しとして多くの示唆がある。渡部氏は、60歳の人に95歳を目指して、あと35年間、がんばろうと主張している。しかし個別の内容は、どの世代でも応用できる生き方のヒントが多くある。全ての世代に伝えるべき良く生きるためのエッセいだと感じた。若い人ほど、人生の計画を立てる上で、お勧めである。

 歳月は人の背後より迫り、無常にも追い抜いていく。誰にでも訪れる死。その死を受け入れ、死までの人生を充実して過ごす術は知っておくべきだ。よく生きた人生は、よく働いた日と同じように、安らかな永遠の眠りを得る。

 95歳まで生きるつもりでないと、70歳までも生きれまい。蒲柳の質で幼少のころは養護クラスに入れられた渡部氏であるが、2016年まで、85歳でも幅広く活躍をされていた。20歳までも生きられないと医者から言われた蒲柳の質の松下幸之助氏は、120歳まで生きるんだと周囲に宣言し、94歳の天命を全うされた。凡人の我々でも95歳まで現役の仕事を見つけたい。この書で、白川静氏の生きかたを紹介されている。氏は88歳から94歳まで京都の市民大学講座で24回も講義をされた。その収録DVDを購入し、観ると生きる力が湧いてきた。

 また、生きるには言語能力の維持が欠かせない。それの音読を習慣にすることにした。今まで音読の良さは理解していたが、よい教材がなく実行できていなかた。この書を読んで思いついたのが、今までに書抜きをした資料である。本一冊を音読すると間延びがするが、自分が選別した図書の書き抜きであるので、興味が持続する。また、何回も音読することで、内容が頭に刻み込まれる。今までは、本を読んでそのときは感銘しても、すぐに忘却の彼方の例が多くあった。なかなか何回も読めないが、抜書き資料なら長続きする。『脳に悪い7つの習慣』の著者林成之教授も、大事なことは何回も頭に叩き込むべきとの説にもあっている。

 私が2017年4月17日、ウィーンに到着した日に師の訃報に接した。86歳で旅立たれるとは意外であった。それでもこの御年まで現役で大活躍されたのには敬意を捧げる。師のご冥福をお祈りし申し上げます。(2017-06-30)

 

図1 「四季の路」地図  大垣市製作

図2 四季の道の風景  左の石に松尾芭蕉の俳句が刻まれている。 

図3 住吉燈台 

 

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2017年6月28日 (水)

人生というプロジェクト

 生あるものは必ず死ぬ。春夏秋冬、始まりがあれば終わりがある。飛行機も飛び立てば、必ずいつかは着陸せねばならぬ。飛行機の離着陸に人生を感じる。

 

健気な離陸

 旅客機がある飛行場から飛び立ち、目的地の飛行場に着陸する飛行は一つのプロジェクト(PJ)である。操縦士だけでなく、管制官、機関士、クルー、キャビネットアテンダント、地上クルー、整備工場員を含め、数十名のクルーによって遂行される目的を持ったPJである。地上の整備員、管制官等の多くのサポータ全員の協力があって、このPJは完遂する。一つでも、一人でも欠けても完遂ができない。

 多くの支援を受けて飛行機が全出力を出して飛び立っていく。引力を振り切っての離陸である。その姿は健気でもある。

 

巡行飛行

 巡航飛行に入り、高度10,000mを飛ぶ飛行機は、コンパスを使い、目的地を目指す。コンパスが無ければ、何処に行くか分からない。離陸から巡航、そして着陸に到る過程はまるで一つの人生のようである。人生の旅立ちでは、人間としての育成が必要で、どこに志すかが必要である。壮年期は、北極星に相当する己の戒め、使命、志を見つめて歩かないと、人生行路で墜落・沈没する。いくら盛大な人生を送っても、晩年を見据えて行動しないと、惨めな末路となってしまう。

 

美しい着陸

 目的地に近づけば、高度を下げ、速度を下げ、フラップ、ギアを降ろして、優雅に静々と大空から降りてくる。着陸には離陸とは違った美しさがある。

 一人で生きてきたつもりでも、多くに人のご縁・支援があって全うできる人生である。飛行機事故の80%は着陸時に起きている。それは人生の終着点で、道を誤る人が多いのに似ている。その事故例は私の家系図にも見受けられる。人生の着陸が近づいてきたのに、速度を落とさず、地面に激突する人もある。荷物(遺産・肥満)を積みすぎて、離着陸での失敗をする人がなんと多いことか。多すぎるお金が人生を不幸にする事例に事欠かない。それは感謝を忘れ、利己だけを考えた人生の結末である。残すのが金だけの人生は哀しい。何のために生まれたのか。それでは授かった天命を知らずに生きたのと同じで、屍の人生である。

 

来世へ旅立ち   Departure(死、航海の出発、撤退)

 お墓とは一つの人生を終えて、次世の大空に旅立つための基地である。戒名という来世飛行コードをもらい、佛弟子として佛道を行じるという道に修行航路を向ける。墓地はその離陸する基地なのだ。

 2008年に公開された映画「おくりびと」の英語題名はDepartureである。

 

 

図1 交通整理をする管制官がなければ、離陸も着陸もできない

  管制塔の中で、管制官がパイロット以上に神経を使って多くの飛行機を管制している。

図2 雨の中で手荷物の積み込み 長崎空港

図3 地上クルーの打ち合わせ  セントレア

図4、5 地上クルーのチーム活動 セントレア

図6 離陸  2015年9月16日  セントレア

図7 欧州から夜を徹して飛行してセントレアに着陸 2015年10月20日

 

 

6月29日は九州出張につきブログは休載します。

 

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2017年6月27日 (火)

てんで話にならず

1.2  自然な論理展開

 

 自然な論理展開とは,読者の期待を裏切らない記述手法である。各種の文章読本には論旨の展開方法として、起承転結が推奨されているが、ビジネス文書で、「起承転結」の論法は間違っており、使用禁止である。ビジネス文書で「起承転結」の「転」がこれば、論理破綻である。ビジネスマンは、文学作品を書いているのではない。相手を説得して(文書で当方の意図を伝え)、意図が成就(金儲け)するために、文書をデザインして書く。社長はそれに対して給与を払う。文学作品では給与が出ない。ビジネス文書で「転」が来れば、読み手が困惑し、会社が損をする。

 

文学作品としての例

   京の五条の糸屋の娘        〔起〕

   姉は十七,妹は十五        〔承〕

   諸国諸大名は弓矢で殺す    〔転〕

   糸屋の娘は眼で殺す        〔結〕

 

ビジネス文例1

   A  は B,C,D,Eから構成されている。

   B  は ・・・・である。    

   C  は ・・・・である。   ← ここでお天気の事を言ってはダメ

   D  は ・・・・である。        新聞コラムでは、この転が乱用される。

   E  は ・・・・である。   新聞コラムは文学でビジネスではない。

 

ビジネス文例2

 A  は B  である。

 B  は C  である。

 C は D  である。 よって

 A  は D  である。

                                         

 

文例)『桃太郎』

   昔,昔あるところに,おじいさんおばあさんがいました。

 →  次文の主語は、「おじいさん」以外にはない。これが自然な論理展開。

   「おじいさん」の記述が済めば,次文は「おばあさん」が主語の記述となる。

  これが自然な論理展開。

 

  おじいさんは山へ柴刈りに,おばあさんは川へ洗濯に行きました。ある日おばあさんが川でせんたくをしていますと・・・・

 

  以下「おばあさん」と言う主語が、変わっていない記述手法を注意。

    主語が変わらないので,内容が理解しやすい。

 

    「おばあさんが,かわで  せんたくを・・・・ながれて  きました」

    「おばあさんは,びっくりして,めを  まるく  しました」

    「おばあさんは,ももを  ひろって,たらいに  いれました」

    「おばあさんは,おもたい・・・・ももを  うちへ  もって  かえりました」

 

 

 文学は雅の世界で、ビジネスの金儲けとは別世界である。起承転結が通じるのは漢詩、日本文学の世界のみある。日本の新聞紙上でさえ、文学作品とビジネス文書をごっちゃにして、起承転結を錦に御旗にした文章を書いているから、それに慣れさせられた日本人が世界のビジネス戦争で負けるのだ。

 

敵を知り己を知れば百戦殆うからず(孫子)

 欧米の狩猟民族は、金儲け至上主義で、「雅」など知ったことではない。我々が世界を相手に戦って生き抜くためには、相手の論理スタイルを知り、己の間違った文書パターンを知り、相手に合わせて戦わねばならぬ(敵を知り己を知れば百戦殆うからず)。文書は、ビジネス戦争の武器である。武器には、武器として使う作法がある。弓道、武道等が日本の作法であるように、テクニカルライティングとは、欧米の文書道である。文学は夢の世界で、書き方は何でもありだが、テクニカルライティングには、工業製品として法則とスタイルが決まっている。何時でも何処でも誰にでも、通用する法則で書類を書けば、工業製品として世界に通用するビジネス文書が出来上がる。欧米のテクニカルライティングとは、論理思考を、文書の形に展開する手法である。

 

私のテクニカルライティングの学び

 私は日本語の文章での書き方の論理構成を学ぶために、ミシガン大学のテクニカルライティングセミナー(科学工業英語)に、二度参加した。英語の勉強をするために渡米したのではない。最初の1994年は、110万円で自費参加。会社にこの教育の展開を提案して、2度目の1997年、検定試験1級合格のご褒美として出張扱いで参加した。

 英語を学ぶと自然に論理構成が分かる。日本語が出来なければ、英語もできない。科学工業英語の検定試験1級には、ネイティブ並みの英語力TOEIC900点でも、合格できない。英米の現地人が、正しい英語を書けるわけではない。TOEIC600点でも、自然な論理展開法が使いこなせれば合格できる。過去30年間の科学工業英語検定試験で、1級合格者は500人もいない。英検1級なら数万人である。私は3年の挑戦で、389人目の1級合格を射止めた。それで学んだ武器としての文書道で、えげつないビジネス社会を生き延びてきた。それを教えて頂いた篠田義明教授と後藤悦夫先生に感謝です。

 

 

文豪の森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、川端康成らの文学者は、英文科卒である。文豪と称される彼らは欧米の英文の書き方を学んでいるので、その文学作品は、ビジネス文書ではないが、論理的に書かれている。

 

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図1 ビジスネとは生き残りをかけた顧客創造戦闘

 久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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「桜田門外ノ変」の検証 (3/20)

(2)リーダー自己鍛錬  ―― リーダーとしての性格と生い立ち ――

  彼は井伊家の側室の子で14男である。本来なら井伊家の当主には、どう間違ってもなれるはずがなかった。それが運命のいたずらで、なおかつ最も国難の非常時に藩主になり、また井伊家が名門故と、幕府内の権力争いの偶然から、国難時の舵取りの大老にまで任命される。大老職は非常時の時だけ設けられる職位である。当然、側室の傍流故の過剰な意識から、また非常時故の過剰な責任感から、過剰なリーダーシップの取り方にならざるを得ない状況に追い込まれたといえる。

 また彼は不遇の時期である埋木舎の15年間、1日4時間で睡眠は足るとして自己鍛練を続けて、文武両面でその道を究めている。当然、自己に対して厳しい姿勢、強い責任感、組織やルールの規律への厳しさ、厳格さを自然と身につけたといえる。

 

井伊直弼公の性格診断

 1950年に米国の心理学者エリック・バーン博士が開発したTA(対人交流 Transactional  Analysis)の理論から言えば、CP(Critical Patent、厳しい親)の要素がかなり大きな数値を示す人物であったと言える。このCPは組織のリーダーには欠く事のできない性格である。このタイプは自己に厳しいのは当然だか、組織の全員に規律を厳しく求める。そこで当然、反発や軋轢が生じる。彼の性格から、組織の秩序やしきたり無視する輩には、極端な嫌悪感を抱き、それが組織の崩壊に繋がるとして危機管理としてその者を排除しようとする。理想に燃えて危機感を持つリーダーであればあるほど、その組織を乱す行為をする人を反逆者と捉えがちである。外国からの開国の圧力や清国の植民地化の情報の状況で、勝手に朝廷との交渉をはじめ、幕府に無断で攘夷の朝勅を頂く段取りをして、勝手に江戸城の掟を破って、意見を述べに来る水戸藩主の徳川斉昭らの横暴さを彼は許せなかった。その厳格な性格が、彼に組織の存亡への過剰な危機感を抱かせ、安政の大獄に向かっていった。

 

  私もCP値はかなり高い方である。現在は自己分析・訓練をしてかなり押さえてはいる。それでも本来の性格が影響を残している。そんな同じ性格の身から井伊直弼を見る時、限りなく彼の心情が理解できる。目の前に氷山がある。そのまま進むと氷山に激突して日本丸は沈没する。船長として思いっきり取り舵を指示しているが、公然とそれに反対して、面舵を画策する主君筋の名門軍団がいる。権力を持ち、理想に燃えた彼が選択した「安政の大獄」は自然の成り行きであった。大きな組織であればあるほど、慣性が大きく、おいそれとは方向が変わらない。そんな現実を踏まえて、江戸幕府という大船の船長である井伊直弼公は、大船の舵を取る難しさに悩んだはず。私ならどうしたであろうか。

 世の中では、最高のことしか起こらない。それが安政の大獄であり、桜田門外の変であり、その結果が明治維新であったと、歴史は語る。

 

私の業務改革 IT業務改革

 2004年、私は役員会にIT業務改革を提案して認められ、その推進の事務局を任された。当時の事業部は、まだまだITを使った業務改革に疎く、私も担当業務である三次元CADの推進で頭を抱えていた。それには全事業部を巻き込んで推進すれば良いと思っての提案であった。将を射るにはまず馬を攻めよ、である。提案したら、時の事業本部長が乗り気になり、すぐGOがかかった。事務局として、事業部の全職場を事業本部長のお供で点検して回れる機会に恵まれた。このお陰で、全職場の業務内容を、その部長から事業本部長の横で聞くことができて、現在の事業部の問題点と課題が見えて経営の勉強に大変役立った。

 事務局として見ると、いい加減な部長や、それを邪魔する部長もおり、井伊直弼公の開国への反対する輩への怒りと同じ心境となった。当時は、ITに疎いおじさん達軍団の部長達が跋扈しており、ITは敬遠される事項であった。当時の森首相にいたっては、ITを「それってなに?」という低落であった。まるで鎖国を続けて太平の世に浸かっていた江戸末期に、過激な開国を唱えるようなものである。尊王攘夷として、従来の紙の図面が天皇様で、新参のデジタル化図面などとんでもないである。世界は三次元CAD化の推進で嵐が吹き、大手自動車メーカーが競ってIT業務推進をしていた。私は、担当業務の三次元CAD化の推進で悩み、グループ会社の連絡会で他社の進んだ状況を見せつけられていた。だから当社の状況に危機感を持って上記のIT業務改革を提案したのが経緯である。

 

和敬静寂

 私が大老なら、当時の部長達を大獄に送ってやりたかった。でも今思い出すと、己も若く考えが未熟だね、である。当時のITベンダーは金儲けのため、過剰宣伝でやり過ぎていた。少し実務とは乖離したITツールを売り込んでいたのが現実であった。大きき組織は、小魚の料理の様にはいかず、大魚の料理方法がある。時間をかけて料理しないと、煮崩れを起こし「桜田門外の変」を招く。後世の人間は、なんとでも批判できるが、あの時点では、井伊直弼公の選択は最高の解決方法であったと信じたい。諸外国の植民地化の魔の手という火事が迫っているときは、まず火事を防ぐのが最優先である。

 アジアで植民地化の魔の手を逃れられたのは、日本とタイしかない。タイは地理的な状況で、幸運にも列強諸国が手を出しそびれていたに過ぎない。日本が植民地化の魔の手を逃れれられたのは、強力な軍隊(各藩の武士軍団)が存在したためである。武士道で死ぬことを恐れない。、腰の刀を差した武士の存在が大きかった。貴族、丸腰の商人、町民、農民、だけなら日本は間違いなく植民地にされていた。非武装中立はたわごとで、永世中立国のスイスは軍隊があり徴兵制がある。

 

  彼は好んで「和敬静寂」という禅の言葉を書にしている。彼は清涼寺で禅の修行を積み一角の境地に達していた。この言葉は、相手を敬えば、その結果が居心地のよい清々して関係ができることである。彼は和を大事にしていた。相手を無視して、組織の和を乱す人間や行為は許せなかったのだ。国難の非常時に全社(全藩)一丸となって国を守らねばならないのに、それを妨害する人間が許せない。そういうCP的な性格が前面に出た行動を取らざるを得なかった。それが「安政の大獄」である。

 

井伊直政公の生まれ変わり

  井伊家の創業者は井伊直政公である。彼の性格と井伊直弼公の性格がよく似ている。それは徳川家の再興を期待された最後の将軍徳川慶喜が、徳川家康公の生まれ変わりと言われたのとよく似ている。井伊直政公は平時には温厚な人であるが、一旦戦時や筋が通らない場面になる、井伊家の赤鬼と呼ばれたような激しい性格を表す。戦いでは全身赤い装具を身につけ、真っ先に飛び出し暴れ回り、井伊家の赤備え、赤鬼として恐れられた。戦いすんで家康の元を出奔して秀吉に使えた石川数正が同席しているのを見ると、「祖先より仕えた主君に背いて、殿下(秀吉)に従う臆病者と肩を並べるのは御免こうむりたい」と一括して席を立った。彼は冷静な判断力と炎のような気概をもっていた。

 

その点で、井伊直弼公も直政公の血を色濃く受け継いでいる。井伊直弼公は当初、彦根の赤牛と呼ばれ寡黙な老中であったが、大老になって井伊家の赤鬼として辣腕を振るった。その点で井伊長政公とよく似ている。

 

 

図1 和敬清寂  馬場恵峰書

 明徳塾でこの書をみつけて、井伊直弼公の好んだ言葉だと気づいて入手をした。

 

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2.7 段落(パラグラフ)

  段落はそれで一つの論旨のまとまりとして,一つの主文とそれを説明、修飾する従文、各論から構成される。段落の第一文は、その段落の要約文とする。

 

  その段落に、その内容に反した意見、内容を書いてはならない。書く場合は段落を改めるか章を改め反論、反対の意見を記述する。同じ段落で違った論がでては読者が混乱する。これでは読み手は著者が何を言いたいのか分からない。

  ある「文章読本」で、「2~5のセンテンスを続けたら適当に改行すると良い」など書いてあったが、これは間違いである。この著者は、論理性の記述が何たるかが分かっていない。ある論旨で記述している間は、死んでも改行してはならない。たとえそれが数頁になっても、である。通常、たまたま2~5行でその論旨が終わるので改行しているだけで、美しくするために改行しているのではない。

 このことはつい最近でも、朝日新聞社でさえ行われていた。

 

2.7.1 辞書比較

  下記に代表的国語辞典での「段落」の定義を記載する。

 『実践・言語技術入門』朝日選書

  ・段落は、ある話題についての書き手の考えを明確・簡潔に整理して表すための基本的な部分の単位である。

 『例解新国語辞典』

  ・文章のなかで、意味の上でひとまとまりになっている部分。書いたり、印刷したりするときは、段落の最初を一文字分下げてはじめるのがふつう。

 『新明解国語辞典』第3版

  ・文章中の意味の上での大きな切れ目。〔物事の区切りの意に用いる。例,「これで一段落だ」〕

 『広辞苑』第4版

  ・長い文章中の大きな切れ目。段。転じて、物ごとの区切り。

 『岩波国語辞典』第3版

  ・長い文章を幾つかのまとまった部分に分けた、その一くぎり。転じて,物ごとの切れ目。

 “LONGMAN DICTIONARY OF CONTEMPORARY ENGLISH"

  paragraph: a division of a piece of writing which is made up of one or more sentences and begins a new line

 

 

 こういった意味の表現、定義の仕方(定義法は次章参照)の比較からも辞書の善し悪しが判断できる。最初の3冊が合格ラインの記述内容である。国語教育で、段落の意味が徹底されて指導されていない事情は国語辞書の表記を見れば理解できる。購入選定の際は、自分の目でサンプル単語をチェックして辞書を選定するのが辞書選択の一方法である。

 

 段落とは、それで一つの論旨のまとまりとして,一つの主文とそれを説明,修飾する従文,各論から構成される。「段落の第一文は,その段落の要約文とする」がビジネス文書の段落の原則である。その視点から段落について、各新聞の名コラム(と称される)の比較をしたい。名コラムは名文とれさているが、個別の名文が集まってもそれが文章として名エッセイとなるは限らない。

 

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走る棺桶に乗っていませんか? (改定)

8.2  安全への投資

⑴ より安全な車を選択

 目先の節約の点や、経済性からいくと逆になるが、大きな車に乗る方が安全で、人生の長い目で見たら総合的に経済的である。人生で一番大事なのは、己の命である。命はお金では買えない。

 

 私は業務上の必要性から、会社のテスト車で、軽自動車,リッターカー,小型乗用車,普通乗用車、FF車、FR車、RV車,1BOX車、スポーツカー(ホンダNSX)を乗り比べてみて、道路上での周囲の反応が微妙に違うことに気がついた。明らかに、軽自動車やリッターカー等の小さな車に乗っていると、トラックやチョットいい車に乗っている連中に、軽く見られる傾向があるのを感じた。特に、信号待ち等での相手車の強引な右折や追い越し等で、それをよく感じた。逆に、でかいRV車に乗っていると、この現象が激減する。

 ランクルに乗っている知人の話でも、トロトロと走っていると普通車では直ぐあおられが、ランクルだとあおられることはまずないそうだ。どうも日本人は、乗っている車の車格から人格を判断しているようだ。確かに私でも、相手が高そうな外車や、特に相手がベンツなら下手をするとヤーさんかもしれないので、思わず道を譲ってしまう。また無意識に高い外車だと下手に絡むと高い修理代を請求されるとの潜在意識が働き、無意識に車間距離を広げてしまう。逆に軽なら、金のないオバチャンが乗っているかと、軽んじてしまいそうだ。

 

 このように、小さい車に乗っていると、強引な割り込み等で事故に巻き込まれる可能性が高まるので、少しでもそれを避けるには2000CCクラスの普通車が無難である。出来れば戦車がお勧めです? それが無理なら、「乗用車の戦車」と言われるVOLVO 車やベンツがお勧めである。ボルボ車には、事故になっても車は無事で、乗っていた人は死んでいた、とのジョークがあるほどで、その安全に取り組む姿勢は並ではない。安全のためにはこの出費は保険、として考えれば納得がいく。事故が起これば、いくら節約で効果を上げても、何をやっているかわからない。また一般的に、事故が起きた時には、車が大きい方(高い車)が死亡に至る危険性が少ない。安全が人生最大の節約です。事実この理由で、知り合いの社長は娘さんにアメリカ車を与えているとか。

 

軽自動車の留意点

 軽自動車は、税金、運用経費の安さで、2台目の車として利用されている。しかし安全性の点では、利用方法を考えるべきだ。特に、軽自動車に乗る時は、間違っても国道1号線等のトラックが多く走る夜間の道路は走らないことが前提である。軽自動車がトラックと勝負しては、軽自動車は「走る棺桶」に変貌する

 昔の仲間で、夜遅くまで仕事をしてその帰路、国道一号線で信号待ちをしていて、居眠りのトラックに追突され半身不随となり、退職を余儀なくされた方がいた。相手が居眠りのトラックでは、防ぎようがないが、せめてその対策の一つとして、丈夫な車を選択し、夜間の国道を走らないのが自衛策だ。

 

 その被害にあった車は、軽自動車ではなく普通自動車ではあったが、追突時に車体がトラックのバンバーの下に潜り込み、運転者は首をやられて半身不随となった。同乗者は首を下げて回避して、軽傷ですんだ。

 この種の対策は、信号待ちで止まるとき、①前の車との車間距離をとって、いざという時、回避運動を取れるようにする、②バックミラーで後方の車が正しく停まるか注視する、③なるべく夜の国道は走らない、で自分を守るしか手がない。

 夜の国道には魔物が住む。国道では基本的には信号無視はなく、安全とは言えるが、居眠り運転では如何ともしがたい。

 

 夜遅くまで働かせるようなブラック企業勤務なら、転職も一つの道ではある。それで命を落としたら何のために働いているのは分からない。私もその当時は、仕事をするのが生き甲斐で、夜遅くまで働いていたが、苦にならなかった。当時は今から見れば、ほとんどの企業がブラックであったかもしれない。そういう時代であった。時代が違うというと、語弊があるが、この10年で価値観が激変した。仕事とは何か、生きるとは何か、何のために生きるのか、自分で回答を見つけないと、人生の手段の一つである車の運転で殺される。仕事とは人生である。運転は人生の目的ではなく、手段である。車の運転で人生が無為に帰するのを避けたい。それがこの文書の目的である。車の運転では、安全が最優先である

 

 軽自動車の前面は、その構造上で衝撃吸収空間が小さいので、正面衝突の場合の危険性が大きい。また物理学の運動エネルギー不滅の法則からで、その質量差から来る衝撃エネルギーの吸収の点で、軽自動車の致死率は普通車の7倍に達する。その運動方程式を表すと、式⑴となる。車の質量の差が、吸収エネルギーに変わる割合が示される。

 

   M・V1 + m・V1  = M・V2 + m ・v2    ・・・・・⑴ 

       M :普通自動車の質量

       m :軽自動車の質量(≒ 0.5* M)

       V1 :衝突前の速度(普通自動車)

       V2 :衝突後の速度(普通自動車)

       v2 :衝突後の速度(軽自動車)

 

    図⒏4 普通自動車 vs  軽自動車の衝突

 

 リッターカーの宣伝で、「クラス最高の安全性を確保」とカタログで詠う車種もあるが、あくまでそのクラス間での話で、別クラスのベンツと衝突の喧嘩をすれば、「全面敗北」である。

 

 交通事故の死亡原因を、損傷臓器別に見ていくと、その6割が頭部損傷である。これは「びまん性脳損傷」と言って、交通事故による死亡者の多くは、頭部の外傷や骨折によるものではない。直接的な打撲がなくても、衝突による加速度やひりね力で、脳の各層にずれやひずみが生じる。その結果、脳のあちこちで血管が破裂したり、神経がずたずたになってしまう。頭部損傷による交通事故死のほぼ3分の1が、こうした加速度損傷による死亡だと言われる。

 森安信雄著『交通頭部外傷の社会的研究』やゼネラリー博士の『軸策損傷の研究』によると、猿の頭部に、回転角度と回転中心を一定とした3方向の加速度運動(1~2 ×105  radans/sec2)を与えた実験では、側面からの衝撃は、他の方向(前後、斜め)からの衝撃に比べて、より大きな脳のずれを発生させることが判明している。このことから、エアバック、特にサイド・エアバックが極めて重要であることを示してる。

 

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120170627

2017年6月26日 (月)

銀行強盗の勧め?

(8) 曲がったことは嫌い? 

  交通事故死の44%は、交差点で起きた事故である。(1993年) 

  林洋著『自動車事故の科学』で、氏は交通事故を下記で定義している。

 〔交通事故件数〕=〔遭遇数〕×〔遭遇が事故になる確率〕 

 この遭遇数とは変化の数である。この式からも「変化ある」運転が事故の確率を増やすことが分かる。

 

 人生では「変化はチャンス」と言われる。しかし、車の運転に関しては「変化はピンチ」との認識が必要だ。ピンチとチャンスは表裏一体である。「曲がる」,「ブレーキをかける」,「アクセルを踏む」の3つの「現状からの変化」の動作には、常に危険が付いて回る。だからこの3つの変化をする時は、無条反射の下記動作で、回りの状況を確認する習性を身につけるべし。これが事故への出費を無くしてくれる。これを守らないと、テストドライバー検定試験では減点される。

 

 確認の基本動作

 ・バックミラーを見る

 ・ドアミラーを見る

 ・首を振って横を見る

 

 経営道でも、一度決めた経営方針をたびたび変えると、迷走経営となる。ひたすら、愚直に経営方針を貫こう。経営方針を変える時は、周りの経済状況を確認して、競合他社を観察しよう。

 

 現状からの変更は、とかく大きなエネルギーが必要である。同じことが車の運転にも言える。現状維持が一番の省エネである。だから、曲がったことの嫌いな?私は、目的地に行く場合でも、距離数で選定した経路でなく、曲がる回数の少ない経路を選んで走る。「曲がったこと」をするには、それ相応のエネルギーが必要で、これが僅かながら事故の確率を増やすことになる。いくら近道でも、狭い生活道路を曲がりくねっての走行は避けたい。曲がる行為は、交差点で発生する。

 

 物理の法則に「慣性の法則」がある。動いている物はいつまでも動いていて、止まっている物はいつまでも止まっている。もう一つの運動法則に

    F=m・α

で表される運動方程式がある。これを車の運転に適応すると、車線変更等の現状から変化する運転は、余分のガソリン消費になる。さらにその分のストレスが発生し、帰宅後アルコールを消費する因果となる。節約上で無駄である。また車の運動の変化には、事故の要因が入り込む。

 

 またタイヤにかかる摩擦円の力学的にも、曲がるときには駆動力以外に側面力(駆動力の30%)がかかるので、エネルギー的にロスが生じる。当然曲がるためには、ブレーキを踏まねばならない。ブレーキはエネルギーロスの最たるもの。無駄なガソリン(お金)を消費しないために、曲がらずに走るべし。

 

(9) ブレーキを踏まない運転をする 

 

現状からの変更には、とかくエネルギーがいる。同じ理由で、できるだけブレーキを踏まないように予想運転をすると、事故とタイヤの磨耗を防げる。それには、前後とその前を走る車の状態、回りの状況を考えて運転すればよい。ブレーキを踏むことになる状況に陥るのは、考えて運転していない証拠である。事前に相手の状況、次の信号を予想できれば、エンジンブレーキとアクセルで、車の速度は制御できる。急ブレーキを踏むのは、起こるべき状況を予想できなかったためである。

 

 同じことが経営にも言える。不景気になり在庫が増え、慌てて生産調整でブレーキをかけるのは、世の中の経済状況の変化を経営者として予見してなかったためである。経営者失格である。

 

 極楽運転道の集大成の結果として、私の車のタイヤは、70,000kmの走行実績を記録した。この走行距離でも、まだ、然るべき規定のタイヤ溝深さを保持した状態である。けっしてタイヤがツルツルの状態まで乗ったわけではない。

 

追い越し車線の意義     

 本来、追い越し車線は、急ぐ人や貧乏人のために空けておくべきで、安全運転と生活VAを心掛ける人は走るべきでない。そのかわり、急ぐ時には必死に飛ばして走るべきである。不真面目にとろとろと走っていると、気の短い輩に煽られるし、「気違い」に、走行車線からの変則の追い越しをかけられ、逆に事故に巻き込まれる可能性が増す。だから、私がたまに追い越し車線を走るときは、目的意識を持ち「真面目に」飛ばしています。私は、周りに覆面パトカーがいないかを確認して(重要)、前の車が遅いと「グズ! そこを退け!」と、貴公子?のペルソナをかなぐり捨て、暴走族の仮面に着け変えて、臨機応変に対応する。

 

銀行強盗の勧め?

 某大学の教授室で、車の論議中、さる大会社から天下ったお偉い御方が曰く、「とことこ走りたい人はそれでよろしいが、世には親の死に目に間に合わせるため、命がけの法規無視で駆け抜けたい人もいる。その人のためにこそ、追い越し車線を空けて欲しい・・・」と。

 それを受けて、私の敬愛する茶目っ気のある師匠が、「さすれば金のない人のために、いつでも銀行強盗ができるように、金庫を開けておけと言うか・・・」とスマートに言ったら、気まずい雰囲気になったとかで、大笑い。さるお偉いお方はユーモアのセンスが無い。将来の認知症予備軍である。住専問題と比較すると、一人の人間ができる銀行強盗の額は高が知れている。(住専問題が沸騰した頃のお話です)

 

(23)  相手にブレーキを踏ませない運転をする

 相手にブレーキを踏ませる強引な運転は、事故の確率を高める。また省エネにも反する行為である。僅かな時間を待てずに、無理な割り込み、飛び出しがなんと多いことか。あと数秒待てば安全に通過できるのに、なぜこの数秒を待てないの? なんで貧乏人がそんなにも忙しいの? 「忙しい」とは心を亡くすと書く。「車の氾濫した現代では、車を使うことは不便だ」との悟りが必要だ。

 

 ブレーキを踏まないことが、生活VAである。ただし本来、ブレーキを踏まなければならない時に踏まないのは、逆に事故等で多大の出費を強いられることになる。ここで言うのは、「ブレーキを踏まなくてはならない状況に、身を置かない」である。渋滞時の出勤、無理な運転の自粛、混雑が予想される行楽地へのお出かけの自粛等をすれば、ブレーキを踏まずに快適で経済的な運転ができる。

 ブレーキは消耗品である。以上の運転を心掛けるだけで、その交換期間が延びる。普通5年、5万キロで交換されるブレーキシュー(約1万円)のインターバルが、7年に延びれば、年571円の節約となる。急ブレーキを踏むと500円分のブレーキシューが減る。ブレーキを踏むにもお金がかかっている。

 テストドライバーの検定試験で、急ブレーキを踏むと、一発で不合格である。それは予測運転ができていなかったと判定されるから。急ブレーキは、ブレーキシュー、タイヤそして神経を大きく摩耗させる。ストレスの発生は自己の寿命を削る鉋となる。それと懐の中身を削る。

 

 会社経営で不用意にブレーキを踏むと、余分な経費が発生する。己の経営手腕が疑われて、雇われ社長だと、首が危ない。

 

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「桜田門外ノ変」の検証 (2/20)

 安政の大獄 業務改革

 「桜田門外の変」(1860年)を招いたのは、「安政の大獄」(1859年)が引き金となっている。その発端はペリーの黒船来日(1853年)である。そこから幕末の争乱につながっていった。その初期の騒動の「安政の大獄」は当時の業務改革であった。それもかなり荒っぽい血みどろな改革であった。業務改革に反対する抵抗勢力を権力と血で粛清した事件である。その抵抗勢力が尊皇攘夷派であった。尊皇攘夷派も開国派とも、国を憂い、熱く思うがゆえに、行動が過激となった。阿片戦争(1840~1842年)での清朝の大敗、植民地化の情報、ペリーの開国強要等の外圧で、国際情勢に精通した良識在るリーダーは、国内の危機意識に沸騰寸前であった。国際情勢状況を把握しない理想論に燃えた尊皇攘夷派が国論を乱していた。

  この大獄で明治維新の創造の原動力となった精神面と行動面の2人の偉人が連座した。精神面の指導者の吉田松陰が死罪となり、行動面で頭角を表した西郷隆盛が遠島に処せきられる。

 幕吏に追われて、二人を守りきれなくなった薩摩藩は僧の月照と西郷の二人を追い詰め、西郷は月照と一緒に入水自殺を図り、月照は死亡したが西郷は命を取りとめた。幕府に遠慮した薩摩藩が、彼を死亡したとして届け、彼の名前を偽って遠島に処した。遠島での自己への内観と読書が彼を明治維新へのエネルギーに変えた。

 

平成の大獄と業務改革

 トヨタ自動車の奥田碩社長(当時)がその立場なら、「せめて改革の足を引っ張らないで、何もしないでくれ...」と訴えたであろう。それを思うと現代の業務改革は直接的に命までは取らないので幸せかもしれない。埋木舎で15年間も修行に励んだ井伊直弼公とマニラで6年半も間、冷や飯を食わされた奥田碩氏は、なにか人物的に重なるものがあり、前職では注目していた親会社の社長である。私は当時、室長として全社プロジェクトの一環として、自分の室内の業務改革に取り組んでいた。

 1995年8月、28年ぶりに豊田家出身以外で奥田碩氏が代表取締役社長に就任した。奥田社長は、それまで保守的のイメージアがあったトヨタを改革した。世界に先駆けてハイブリッド車「プリウス」をトップダウン判断で発売した。また東富士研究所に直接訪れ、それまでトヨタが敬遠していたF1への参戦を指示した。社長就任直後にダイハツ工業の連結子会社化を断行した。就任翌年の1996年には常務以上の役員19名のうち17名を総入れ替えした(斬首)。1997年には社長直轄組織のVVC(ヴァーチャル・ベンチャー・カンパニー)を設立、稟議書の決裁速度の速さも有名だった。奥田社長時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年で40%代まで回復させた。奥田社長時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、彼の改革を手本にする企業まで出てきた。前職の会社もその影響で、業務改革にまい進した。奥田社長は1997年には、米「ビジネスウィーク」誌で、世界最優秀経営者の1人に選出された。

 

 しかし、その陰で、業務改革、自己改革に遅れた会社や個人が、市場競争に破れて、リストラ、倒産に至り、家族が路頭に迷う事態に陥っている。トヨタの躍進の陰で、家族経営の鏡といわれた松下電器が、1万人を超えるリストラをする展開となった。その背景には、役員同士の醜い派閥抗争があった。まるで幕末の尊王攘夷派と開国派の戦いのようである。

 そして日本社会全体では年間、約34,000人(1999年)が自ら命を絶っている。そのうち経営者・管理者は毎年14,000名を数える。その傾向はバルブがはじけて、高度成長期かちデフレ下の低成長時代の移行で、さらに顕著になった。米国からのグローバル経済企業を通しての米国から規制緩和要求、関税撤廃の要求、中国や東南アジアからの低価格高品質の製品の流入は、正に幕末の開国の圧力に相当する。

 グローバル経済主義企業が、現地の弱小企業を飲み込み、形を変えた植民地政策を始めた。外国資本の現地合弁企業の利益は、海外の株主に流失してしまう。現地人の給与は安ければ安いだけ、外国資本が儲かるシステムなので、現地国民の暮らしは良くならない。

 その間接的な影響で日本国内では年間1万人の自殺者の増加となっている。特に自営業者・管理者の自殺が増えている。安政の大獄の犠牲者は79名であったが、現代の自殺者数からいくと、デフレ下で業務改革と政治の改革をなおざりにした結果の犠牲者はケタ違いである。

 

1)トップの判断  ―― 国の舵取りとしての選択 ――

井伊直弼公は、朝廷に意見を伺うのだか、朝廷の側近の反対派による裏工作のため開国の朝許がでない。この国家存亡の危機の時、井伊大老は国の最高責任者として、朝裁もへず、彼は独断でアメリカ総領事タンゼント・ハリスと通商条約を決済した(1858年)。彼は行政の最高責任者として、これは朝廷の裁断事項でないとして、彼の責任で米国と調印する。この時点で、彼は国家のために命を捧げる決断をした。国を思う苦渋に満ちた決断であった。座禅を通して修行を積んだ直弼は、今ここを生きるという選択をした。自身の身を捨てたリーダーは、一段高い位置から状況を把握できる。まさに直弼は「千古を洞観し、古今を一視する」して自身の天命を悟った心境で政治にとりくんだと言える。

 

図1 安政の大獄の対象者

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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御礼

 いつもブログを読んで頂きありがとうございます。ブログを開設して昨日(6月25日)で、1か月が過ぎました。当初は、どれだけ読んでいただけるかと不安でしたが、お陰様で1日に平均70回ほどの閲覧実績となりました。1か月目の昨日は、今までで最高の140回の閲覧を記録いたしました。お陰様で、エンジョイブログの人気トップ20にも数回顔を出すまでになりました。

 これも読んで下さり、コメントをして頂ける皆様のお陰です。それが何よりの励みです。今後も精進をして、経営に役立つ良き情報、ヒントを入れたエッセイを書いてまいります。皆様の叱咤激励をよろしくお願いいたします。

 

追伸

 今までは、特定の人だけを対象とした文書を書き、製本してもごく少部数を特定の人だけに配布していました。今回、ブログで公開するにあたり、極めて緊張して、精魂込めて文章を選別・作成・校正・点検・法的チェックまでをしてアップしています。今までは、書きなぐって製本にしてきた感があります。あとから見ると誤字脱字だらけです。その点で、公開する文書を作成し続る「修行」は大変勉強になりました。

  ブログは美人コンテスト、モデルショーの感があります。いくら美人でも、修道院の中にいては、その美貌は磨かれません。衆人の前に己を曝し、自分を磨き、緊張して、構えて己の思いを表現する。それでその美貌がさらに洗練されて超美人に変貌するのです。仕事でも、自社の製品でも同じです。磨いてくれるのは、使ってくれる顧客、見てくれる観客、聴いてくれる聴衆、読んでくれる読者です。仕事とは、己のファンと共に奏でるオーケストラとしての作品なのです。一人だけでは、お客がいなければ仕事とは言えません。

                 

120170625

   2017年6月26日    小田泰仙