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2017年7月

2017年7月31日 (月)

人を支える土台

 人間とは、何なのかを考えるのが人間観で、何のために仕事をするかが、職業観で、己の存在とは何かを考えるのが宗教観である。その各々の価値観を明確にしない限り、高い人間性は育たない。人生を揺るがす激震にも耐える人格を育てるには、強靭な土台が必要である。

 いくら頭が良くても、その能力が何のために己に与えられたのかが分からないと、その能力を原爆製造やサリン製造、人殺し兵器を開発するのに使ったり、コンピュータウイルス作成に使ったりする。その天才的能力をゲームソフト作成で使い、未来を背負う若者の貴重な時間をゲームのような非生産的な時間浪費に走らせる。麻薬と同じで、何の付加価値を生まないゲームソフトで、業績の建て直しを計ろうとするソニーに未来はない。ソニーの創業精神が変質している。ソニーは既に50%以上が外資である同社は、既に日本企業ではなく、グローバル企業であり、どちらかと言えば米国の価値観をもった会社なのだ。欧米の拝金主義に染まると個人的には大金持ちが生まれても、社会全体にはプラスマイナスゼロの付加価値無き結果となる。それは所詮、マネーゲームである。

人間観

 この人間観の価値観が出来ていないと、夢のある人生は送れず、心は狭く気持ちはギスギスで思いやり欠如の人間が出来上がる。それで金が出来ても幸せであろうか。

職業観

 職業観が明確でないと、カネだけのために働き、金ができたら早くリタイヤしてのんびりと暮らそうという考えに陥る。そのための金儲けには手段を選ばず、人を押し退けてでも金儲けとの浅ましい行動となる。それが拝金主義・成果主義・グローバル経済主義である。

宗教観

 宗教観が明確でないと、どうせ人間は必ず死ぬのだから、自堕落な生き方を恥ずかしいと思わない。御天道様ご先祖様が見ているとう縛りがある生き様とは対極の姿である。人間としての価値観・生命観・死生観を与え、命の尊さを教えるのが宗教観である。どこの宗教でも目指す姿は同じである。己の命が大事なら、他人の命も同じく大事である。宗教によっては、異教徒は人ではないという時代もあったのが、人類の悲しい歴史である。

 

2017-07-31

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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⒊3 後進の育成

 生活VAとは、無駄をせずに価値あるものを創ることである。この生活VAの手法で、時間やそれに換算した凝縮された質量(貯金)を、後進の育成に使いたい。価値あるものには、お金では買えないものが多い。その一つが人財である。人間が死ぬとき、その人をその功績により下記にランク分けされる。

 

レベルⅠ: 名前を残す人(後世に残る業績を残す)

レベルⅡ: 人財を残す人(後進の育成)

レベルⅢ: お金を残す人

 

 この世に人間として生まれた以上は、世に役立つ業績を後世に残しておきたい。その為の手段として、第1章の「時間の有効活用」と、第2章の「健康」が必要となる。その次が「教育」で、自分のやって来たことを後進に伝えることと、人財の育成である。自分のやって来たことが無に帰すほど、人生や企業にとって無駄なことはない。私は技術者で、その立場で人財の育成を述べる。これは、どの分野でも当てはまると思う。

 技術の伝承:自分のしてきたことを、いつか人に伝えられなかったら、何もしてこなかった同じである----アーウィン・シュレジンガー

  1つの機械、1つの部品、1つのシステム、1つのプログラムの開発にたずさわると、そこから多くの失敗と、ほんの少しの進歩を我々は得ることができる。しかし、これを文書等の形ある形態にしておかないと、後に続く人が先行者と同じ誤りを繰り返す羽目になる。そうなっては、何のために高い代償を払って失敗をしたかわからない。たとえ、失敗しても、それをステップに次の高いレベルに進むことができてこそ、その失敗が生きる。このステップが先人の貴重な失敗例、ノウハウの蓄積である。この設計関係の集大成が、我々の機械関係の「設計要領書」等のノウハウ集であり、この反省から作成するようになった開発機械の「基本設計書」である。前職の研究開発部では、この反省を踏まえて、開発の初期から、この「基本設計書」をまとめてから開発をしている。

後に続く人をゼロからスタートさせない

 これが私のポリシーで、失敗事例やノウハウ、ワンポイント知識を、文書化して残している。これを後で集約して一つの文書にまとめると、大きな財産となる。 後を継ぐ人は、その仕事をゼロから始めようと思ってはいけない。それは大きな会社への損失である。新しい機械を開発する以上は、その新しい技術を後に残す前に、今までの蓄積された技術・ノウハウを伝承する義務があると思う。その仕事には、先人の残した資料、図面、フローチャート、テストデータが必ず存在する。それを無視して仕事をしてはなるまい。

先輩の設計を否定する愚

 技術者が機械の開発をする場合は往々にして、前開発機械の否定から始まることが多いのは、哀しい性である。前の機械がいかに悪く、今回の開発マシンがいかに進歩したかを唱うことが多い。その人の自己顕示欲、名誉欲をみて壁壁する。自分の成果を誇示したい優秀な人罪なのだ。その体質が、蓄積された技術・ノウハウの伝承を阻んでいる。

 自動車メーカのモデルチェンジでは、エンジンとボディの同時変更はありえない。必ず片方ずつ慎重に変更される。ところが工作機械では、ベッド、各装置、CNC装置、ソフト等を同時に変えてしまう傾向にある。殆どの場合のモデルチェンジの形態である。少なくとも、ある機械の開発にはしかるべき検討、試作、製作実績、製造部の製作ノウハウ、図面、バグのないソフトであるはずだ。それをあっというまに無に帰せてしまうフルモデルチェンジ方式には疑問を持つ。もっと今ある製品を大事に育てることが、トータルでは開発の効率化になるのではと思う。

古風なデザインの価値

 最近、私も年を取ったせいか、英国に代表される古びた?デザインに愛着を感ずるようなった。この頑固なデザインを固執する思想は、日本の移り変わりの激しい社会では、考えられない。しかし、時が加減乗除でふるいにかけたデザインには、それ相応の価値観があり、流行のデザインより好ましく感じる。工作機械開発に、ここまでのことは、要求できないが、考えされられるモデルチェンジ風潮である。

技術者の喜びとは

 「楽しみ」と「喜び」の違いとは何か? 「楽しみ」とはゴルフ、釣り、テニス等の趣味の世界の話である。「喜び」とは仕事での充実感である。ここでの大きな違いは、前者が金で買えるのに対して、後者は金では買えない違いがある。部下を持つ人間は、この大きな違いを認識させる事と、この喜びを部下に与える事に責任が有る。上記テーマは、その上司が部下に伝るべき大事な要点である。これが味わえないと、仕事は西欧の語源どおり「苦役」となる。

 私は自分で担当した機械の開発設計、テスト、評価、BSテスト、号機設計、操作説明書作成、納入立合い、現地でのフォロー、営業的対応、サービスマン的対応まで一貫してやらして貰った。この経験の中で何が一番嬉しかったといってもスウェーデンのお客様から直接、「君の機械は、うちの工場に導入した研削盤の中で最高のもの一つだ」と言われたことだった。これで今までの苦労が全て消えて、ああ頑張ってきてよかったとしみじみと感じた。技術者と言う職種は、新しい技術を生み出してそれをユーザに提供するのが使命だが、それを直接客先で評価されるのは、何事にも変えがたい喜びである。またあるテーマを与えられて、それを技術者として実現するのも、大きな喜びの一つである。部下を持つ立場の技術者は、こういう喜びを部下に味あわせてあげる義務がある。こういう喜びを感じられない技術者なら転職を考えた方が良い。

芸術と技術

 その昔、レオナルド・ダ・ビンチがそうであることを実証したように、芸術と技術は同一のものであった。芸術家、技術者の特質は、仕事に対してこだわりを持っているかどうかで決まる。この技術者としてのこだわりがあるからこそ、前述の技術者の喜びが感じられると思う。技術屋と言うものは、所詮24時間勤務の芸術家と同じだと思う。寡聞にして私は、一流の芸術家に勤務時間があって、ある時間しか仕事の事を考えていないなどとは聞いたことがない。ある仕事に取り組み、それに対して、思いとこだわりが無ければ技術屋として不幸な事である。

 技術者としてこの拘りが持てなければ、他の職業に変わった方が将来的に幸せかもしれない。何故なら時間内だけ拘束されても、就業時間が終われば、自分の世界に没頭出来るから。これはお役所の仕事であろう。

 こういった観点から、技術者として「仕事がない」という言葉は私には理解できない。ある仕事をまかされれば、その点について、幾らでも技術者としてテーマが出てくる筈である。また、自分でそのテーマは探さなければなるまい。ホンダの創業者・本田宗一郎氏は、技術者と職人の違いを次のように言う。

今までに得た知識や経験をそのまま繰り返しているのが職工。

得た知識や経験にもう一つ自分の考えを加えるのが本当の技術者だ。

 

 貴社が「技術の□□株式会社」を目指すなら、技術者に上記の位置づけと指導をすべきだ。技術者を育てることなくして、技術は育たない。

 

2017-07-31

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天声人誤の竹槍が14万人を殺した(4/4)(改題・改定)

「ブッシュ大統領、宮中晩餐会で倒れる」が歴史の転換

 2000年の米大統領選挙の投票数集計では、ブッシュ候補とゴア候補間のおそまつな得票数集計茶番劇が数カ月間続き、ゴア氏が国家の危機意識をもって身を引く形で第43代米大統領がきまった。その点で、ゴア氏の決断には敬服する。このドタバタ劇は、1992年、ブッシュ候補の父親であるジョージ・ブッシュ第41代大統領が宮中晩餐会で倒れることで、その幕が切って落とされた。大統領の健康を心配した国民が、当時のブッシュ大統領を再選させなかった遠因となったとも言われる。結果とし、次の選挙でクリントン氏は、ブッシュ氏を破り大統領にはなった。しかし後年弾劾寸前まで追いつめられた下品な事件を起こし、チャイナマネーに絡む疑惑を巻き起こした。不幸への道の前幕である。

 もしこの宮中晩餐会での事件が起きなかったら、ジョージ・ブッシュ氏が再選を果たし、結果として2000年に、息子であるブッシュ氏の大統領当選はなかったと言われる。そしてイラク戦争の拡大もなく、世界貿易センタービルへの911航空機テロ(2001年)も、ISの誕生もなかったはずである。どちらが良かったのかは、神のみぞ知る。歴史に「もし」はないが、物事は死(本当の死でなくて、物事の終結)で新しい価値や進展が生まれる。

 歴史の語り部が、文章の本質を吐露

 事件が起こるとマスコミが騒々しい。それは格好の比較材料を提供してくれた。「段落とは」というテーマで、当時の各紙のコラムを統計分析で比較した(1992年)。今まで、「名コラムとは?」の定義が曖昧であったが、今回でそれが明白になった。また単にテクニカルライティングの視点だけでなく、日本経済と政策の誤りによる自殺者推移までに視点を広げて再検討をした(2017年)。

 五紙のコラム比較

 1992年1月9日,宮沢首相のブッシュ大統領歓迎夕食会で、大統領が過労で倒れるハプニングがあった。この「ブッシュ大統領倒れる」をテーマに各紙が記述した文は、そのコラムの書く人の文体を比較する絶好の機会となった。これの内容を分析した表と図を下表に示す。原文は、著作権の関係で掲載を控えますが、図書館に行くか、新聞社のHPでバックナンバーが閲覧できる。それを見なくても、現在のコラムを読めば、この傾向が理解できる。ご自身で、各新聞のコラムの論理性(ビジネス文書として必須)の有無を確認ください。ビジネスで役立たないコラムを読んでも、人生の道草になるだけである。

 

このデータと分析結果からの結論

(1) 「天声人語」は段落数、段落内の総文字数から判断して段落の思想がない。

(2) 「編集手帳」も同上の傾向ある。僅か2センテンス弱で改行している。     「天声人語」は3センテンス強で改行しているが、内容からみると,一文当たりの文字数が少ないので多く見えるだけである。実質の文字数で見れば「天声人語」と「編集手帳」は同レベルである。

(3)「春秋」はこの分量からすると常識的な段落の区切り方をしている。     段落の総文字数も他紙の2倍近い量でまとめてある。五紙の中で「春秋」のみが段落の思想あると言える。

(4) 「天声人語」の文は平均長さが27.8文字で,他紙と際立って短い。一文の平均文字数とその分散値の比からも、極端に短いセンテンスを織り混ぜながら適宜長い文も使って、メリハリを付けている。25文中,5文は15文字以下の超短文であり,最大長の文は57文字である。この特徴は文章の下品さを表すと感じた。

(5)「春秋」は文の平均長さが47.5文字で、分散値から見ても「天声人語」ほど極端な文の長短がなく落ち着いて書かれている。

(6) 「天声人語」は主語が毎回変わる。日経の「春秋」と比べると興味深い。

 

各段落の冒頭文の主語比較(各紙のコラム比較 例2)

 テニルカルライティングの基本原則は、「段落の冒頭にはトピックセンテンスを据え、その主語は統一する」である。この原則に適合しているのが「春秋」で、外れているのが「天声人語」である。「天声人語」はよくもまあ、これだけ主語を支離滅裂に変えて書けるものだと呆れる。文は名文なれど、論理性なし。日本政界では、「言葉明瞭、意味不明」の首相も多く出現した。日本の代表新聞のコラムだからその象徴かもしれない。

 その昔、私も英語の勉強のため、天声人語の英訳本を買って読んだことがあるが、今にして思うと、実に不適な教材を使ったと後悔している。日本語が論理的でなく、主語が毎回変わり、主語が省略されてる文書は、英訳にするとバラつきの多い変な英文になる。その点からも、日本語失格の文章である。工業製品としての文章ならだれが英訳しても、同じ翻訳となる。正しく英訳できるかどうかも、工業製品としての評価指数である。

 ビジネス文書は工業製品である。工業製品であれば、その品質が問われる。論理性ある文章は、主語、述語、動詞、目的語等が明確で、文書の品質にバラツキはない。それがバラツクなら、それは芸術・文学の世界で、情報伝達のための工業製品ではない。それは上図のバラツキ、分散の分布は明確に示している。

 

図1 五紙のコラムの傾向

表1 コラムの分析表

表2 コラムの冒頭文の主語比較(括弧内は省略された主語)

資料1 各コラムの冒頭段落

 

2017-07-31

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表1 コラムの分析表

        コラム名 日本経済新聞 朝日新聞 読売新聞 毎日新聞 中日新聞

              春 秋   天声人語 編集手帳 余 祿  中日春秋

項目        単位  

総文字数      文字    618     696    505    590    623

文数         個    13       25     11     18     16

段落数        個    4     8    6    6    6

段落の平均文数    個   3.3     3.1    1.8    3     2.7

段落毎の平均文字数 文字   155      87     84     98    104

一文の平均文字数L 文字    47.5     27.8    45.9    32.8    38.9

分散         σ    15.9     11.8    17.7    13.3    15.6

  

表2 コラムの冒頭文の主語比較(括弧内は省略された主語)

 

 「春秋」                                      「天声人語」

 ① ブッシュ大統領は          ① ブッシュ大統領は

 ② 大統領は              ② 訪日については

 ③ (大統領は)            ③ (行動は)

 ④ (大統領の)代役スピーチは            ④ それは

                      ⑤ こころの状況までが

                        ⑥ そういう例も

                                             ⑦ (この事実は)

                      ⑧ (我々は)

 

資料1

 著作権の関係で、各社のコラムの第一段落のみ記載します。(後半は各社のHPか、各市の図書館の蔵書で確認ください)

「春秋」   日本経済新聞社   1992.01.10

 ブッシュ大統領は自国を離れるほどリラックスする人物だといわれる。外交に精を出したのも得意技がここにあるからだろう。米国経済建て直しの長旅も,成果を上げて米大統領選の予備選に臨もうという戦略だった。(以下略)

 「天声人語」   朝日新聞社     1992.01.10

 夕食会で倒れたブッシュ大統領は,昨日,比較的元気な姿を見せた。疲れがたまっていたに違いない。ひどい事態に至らず,何よりだった。

 今度の米大統領訪日については,米国の中だけでなく,欧州にも冷やかな見方があると報じられていた。産業界代表を引き連れての,あまりにも露骨な商売第一主義,というのだ。(以下略)

 (わずか2文で段落が変わっている。次の段落では別の話題である。段落に思想が全くない)

「編集手帳」   読売新聞社     1992.01.10

 「トランジスターのセイルスマン」と日本の首相が皮肉られたのは昔。今,「自動車のセイルスマン」と陰口されながらの旅は,ブッシュ大統領もさぞ気が重かったことだろう。(以下略)

 「余録」  毎日新聞社     1992.01.10

 「ロシアの専制君主は地球上のだれよりも権力を持っている。しかし,その君主でさえ止めることのできないものが」とマーク・トウェーンはいった。「それはクシャミだ」(以下略)

 「中日春秋」   中日新聞社   92.01.10

 宮沢さんの言う通り,確かに米国は病んでいた。大統領が夕食会の席で倒れた光景をテレビで見て,思わずそうつぶやいた人も多かったろう。(以下略)

2000年12月16日作成の論文を、グローバル経済主義企業の跋扈にアタフタする状況を、現在の視点で見直して掲載した。(2017年7月31日)

カテゴリー「志天王が観る世界」を追加

 

 前著『吾が人生の師天王』を脱稿して、2015年5月の高野山での四天王の開眼法要後に再度、四天王を拝観してから、そのまとめを書こうと思っていた。ところが2015年3月に縁戚の叔母の死が分かり、そのお墓のお守りをどうするかの問題が出てきて、事態が急展開した。その過程で、家系図の作成、ご先祖の道仙探し、お墓つくりの話に展開することになった。この書『志天王が観る世界』はその過程を記録した。結果として、私の人生の側面史と私の人生の戒めである。ご先祖の生き様を知る事は、自分の生き方を見つめ直すことだ。表紙は、調べた150人の家系図である。

 

2017-07-31

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インプラント 19(現地現物)

3.19 トヨタ生産方式での判断  原則12 現地現物

Principle 12:

Go and See for Yourself to Thoroughly Understand the Situation.

Observe the production floor without preconceptions and blank mind.

Repeat“why”five times to every matter.

Taiichi Ohno (as quoted in The Toyota Way Document)

                      JEFFREY K.LIKER“THE TOYOTA WAY”

 現地現物とは、自分で現地に行き、自分の目で見て、状況を完全に理解することである。先入観なく、素直な心で生産現場を観察せよ。そして5回のナゼを繰り返せ。(大野耐一)

(「現地現物」の説明として、ミシガン大学リッカー教授の英語訳の表現は出来色である。日本語より明確で分かりやすいので引用した。)

 問題が起きて、原因を机上でいくら考えても、答えは出ない。答えは現場にある。このトヨタ生産方式の行動原則第12に基づく調査として、人脈を頼りに、北は北海道、南は宮崎までの皆さん(中小企業の社長)にインプラントの生情報を、直接、聞き込みをした。これにより書籍やweb情報、歯科医からの非対称ある情報の裏に隠れた真実の情報を得ることができ、正しい経営判断をすることができた。

 リーダーは問題が起きたら、すぐに現場に直行すべきである。たとへ現地が九州、北海道、海外であってもだ。行けば何らかのヒントを発見できる。私はそうやって生きてきた。それで後悔したことはない。

 

2017-07-31

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2017年7月30日 (日)

自分とは何か

 自分とは何かを追及すると、己の心には佛も住めば鬼も住む存在であることに行き着く。神を住めば悪魔も住む。それを超越して自然と佛と一体になること、それが仏教である。それを目指すのが人間であることに行き着いたのが、弘法大師である。自分の運命は己に流れるご先祖の血が左右している。己の無意識の行為に、ご先祖様の姿がある。家系図でご先祖の後姿を見れば、己の血が分かる。善も悪もご先祖様の教えである。ご先祖は、人としてやってはいけないことの結末を、30年後に孫に見せつける。それは天網恢恢疎にして漏らさず、である。

人は佛性を持つ存在

 東洋の思想では、人は全て佛性を持つとされる。悪人でも閻魔大王の前で、地蔵菩薩が弁護人として救済してくれるとの思想が生まれ、地蔵菩薩信仰が生まれたという。それゆえ東洋の宗教には救いがある。悪があるから善が映える。人間である以上、一度も罪を犯さなかった人はいまい。それに目覚めさせてくれるのが懺悔(さんげ)する心であり、ご先祖に手を合わせる環境である。ご先祖様は家系図内で人生劇場を演じている。そこには平家物語もあれば方丈記、リア王の物語もある。東西の宗教の差や宗派の違いは、単なる派閥争いの類で、手を合わせ自省することは、宗派を超越した行為である。

西洋での天国と地獄

 西洋では神が完全無欠の絶対的存在であるので、不完全な人間は悪でしかない。最期の審判で、人は天国と地獄に行き先を振り分けられる。敗者復活戦はありえない。その最期の審判を凝視する姿がロダン作「考える人」である。地獄の前で最期の審判を見なくても、家系図を見れば、自分が考える人になれる。家系図を考えない人には悲惨な人生がある。2015年6月30日の新幹線内の焼身自殺事件がそれを象徴している。自分の考え方次第で、人生の螺旋階段を昇るのか、地獄へ下るかは、全て己の考え方次第である。

神とは人でなし

 人は不完全な存在であるからといって、完全なる神を目指してはなるまい。それでは人でない存在を目指すこと、人でなし、になってしまう。あくまでも人間として欠点もありながら、それを人間味として角熟した人間に昇華した人生を目指したいと思う。それが自分の発見である。

 

図1 人間の成長  「修身」

図2 童地蔵  松本明慶師作

図3 考える人 大垣市興文地区センター前

 

2017-07-30

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仏像の著作権は松本明慶師にあります。

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生前葬、棺から起きて逃走す(改定)

 会社で定年を迎えて会社の残ると、いわば使用済み人材の扱いを受ける。定年退職を生前葬だと定義する定年小説『終わった人』(内館牧子著)まで現れている。そんな会社の物差しで測られてたまるかいと、私は会社を離れ、還暦後の自分の道を探して歩いている。まだ棺桶に入れられるのは早い。棺桶からの逃走も人生である。会社に残れば生前火葬の憂き目にあう。生涯現役が天の思し召し。それは自分が決められる選択肢である。

人は3度死ぬ

 人生での一度目の死は、会社の定年であるが、人生の使命が終ったわけではない。二度目の肉体的な死までは、かなりの時間がある。三度目の死は縁あった人たちの記憶から、その人の記憶が無くなる時だ。その時を少しでも伸ばすための仕事が、定年後のやるべきことである。それからが本当の人生である。それは自分で全て取り仕切れる仕事である。その仕事に嫌な上司の干渉はない。その時期に完成させた仕事が世に長く残るとは、その人が永遠に生きることだ。その作品を見る度に、後世の人がその人に思いを馳せる。その人の作品が目の前で語りかける。そんな風に命が永らえる作品を残して旅立ちたい。だから定年後だからと、おちおち棺桶で寝ていられない。

第二の人生

 第二の人生で、何に己の命を捧げるのか、今までの38年間の修行をどう生かすのか。単に命の糊をしのぐために働くのか。第二の人生は、お金の為ではあるまい。今まで培った能力を世のために使うべきではないのか。その仕事を探して5年間をさ迷って、瓢箪から駒みたいに出版業という鉱山に突き当たった。IT技術の発展が、私みたいな素人でも出版業に携われる時代に変化した。幸せなことだ。金脈ではないのが残念だが、後世に残す仕事してはやりがいがあると認識した。今は手さぐりで鉱山を掘っている有様である。

 50年間、趣味で飛行機の離着陸写真を撮り続けていたら、ピアニストの河村先生から演奏会の写真撮影の依頼がきた。飛行機の着陸時の一瞬を切り取ってきた技が、音楽家の演奏中の顔の一瞬を撮る技に役立った。何が人生で役立つか、分からないものだ。朝起きてまだ息をしていれば、まだまだやるべきとはあるとの仏さまのメッセージである。

姨捨山風習

 自分という大地を耕し続けないと、使用済み核燃料の処理の問題のように、使用済み徘徊老人、寝たきり老人になって、家族や社会のお荷物になる。やることがなく無為に生きている人が溢れる時代である。ショッピンモールに行けば、朝から初老の多くの人が、ベンチに座り込んで、時間をつぶしている。仕事を選ばなければ職はいくらでもあるのに。そんな生活をすれば、病気にもなりがちだ。寝込めば、誰かが介護をしなければならない。介護に疲れて妻が夫の首を絞め、子供が介護の親を殺す時代である。親の介護のため子供が会社を辞め、そのため妻との喧嘩が絶えず、生活が崩壊することもある。己の体の維持管理の怠慢がわが子を不幸のどん底に突き通す。認知症のかなりの部分が、自身の快楽(タバコ、美味飽食、運動不足、痴呆TV番組へ没頭)に起因する。それが家族を地獄に追いやる。昔の姨捨山風習がまだ合理的であったかもしれない。昔の貧しい時代は、そうしないと家族全員が崩壊してしまう。姨捨山風習は貧しい時代の生きる術であった。それを豊かな時代の我々は非難をできない。

この世の地獄

 戦前の日本は貧乏で、昭和東北大飢饉(1930年、1934年)で姨捨山、子供の間引き、娘の売り飛ばしが横行した。それが遠因で戦争の時代に突入していく。今の豊かな時代はまだ40年間ほどである。その現実を忘れて現代人は飽食、放蕩を尽くしている。それは天が仕掛けた落とし穴である。その天罰が、ガン、認知症、贅沢病(痛風、高血圧、肥満)、精神の荒廃の増大である。

 寝たきり老人の介護は使用済み核燃料の扱いのようである。寝たきり老人を施設に預け、家族の誰も「放射能」を恐れるかのように近寄らない。自分が寝たきりになってベッドに縛り付けられ、食欲のないのに胃瘻をされて、生かさず殺さずにされたら生き地獄である。意思表示もできず、寝返りも、かゆいところもかけない。死にたくても自分では死ねない。自分なら餓死での自殺を選ぶが、ベッドに縛り付けられればそれも叶わない。

 スウェーデンでは寝たきり老人はごくまれで、人権無視の延命治療はあまりされていない。胃瘻やベッドへの拘束は虐待扱いとされる。先進国のはずの日本がこの医療体制を執っているので、スウェーデンからは呆れられている。

 生涯現役が家族への愛情

 自分が健康で人生を全うすることが、家族への愛情表現である。介護の為にわが子から人生を奪ったら鬼である。鬼にはなりたくはない。佛として成佛したい。佛が無理なら、せめて人間として尊厳ある死を選びたい。それが死生観である。

 この世で一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つ事である。

寂しいことは、仕事のないことである。       福沢諭吉翁の訓言

 

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冥途行き切符をドタキャン

 2016年10月12日、体調不良の真因を検証してもらうため、セントレアから西方浄土の方角(九州)に向けて飛び立った。当日予約のシニア割引で極楽席(プレミアムシート)を予約しようとしたら、季節柄、乗客が少なくなったので、機材が小型のB737-500に変更されてその設定がなかった。シニア割引では、全国どこでも一区間15,000円である。少しの追加料金で極楽シートに座れると思ったが叶わなかった。

冥土行きのご挨拶

 搭乗手続きが終わり、時間があったので我が師に「ちょっと西方浄土の方へ行ってきます。極楽席が入手不能です」とメールを打ったら早々に返信(図1)があった。師に言わせると、極楽に行く人は皆無に近いので、向こうに行っても誰もいなくて寂しいという。極楽ではやることもなく、孤独で死ぬほど退屈だが、地獄なら仲間も多く、話し相手として地獄での修行の苦労話にも話の花が咲き、退屈しないという。極楽に行けば、間違いなく惚ける。地獄であっても、みんなで苦労を共にすれば、よき経験になる。間違っても「極楽行き」などに乗らないようにとの師の忠告である。「地獄へ行けって??」か

 真島消化器クリニックの診察

 久留米市の真島消化器クリニックで、血管に付いたプラークの厚みを測定した。その結果、かなり危険な状態であることが判明した。全身の8か所の血管の状態を検査して、一部の血管は血管年齢80歳と判定された。いうなれば余命5年である。今から余命5年を40年にするための食事療法、生活改善をする。今のままの生活・食事習慣では、冥途行き特急切符を携帯していたみたいだ。その冥途行き切符をドタキャンして、帰路は地を這うように新幹線で名古屋に帰り着いた。

 真島消化器クリニックでは、看護婦からの事前問診が20分、真島院長によるエコー検査が20分、資料説明が10分、エコー検査の写真8枚と食事療法の資料40頁を受け取った。診断のエコー写真まで提供されたことに新鮮な驚きを感じた。全身8か所の血管のプラーク厚みを測定するのは全国で、真島消化器クリニックしかない。私は死んでも?いいから、己の健康管理のためなら全国どこへでも飛ぶつもりです。それで病気の真因がわかれば安いもの。この医院には国内全国各地は勿論、海外からも、診察に訪れる人が多いという。タクシーの運転手が言っていた。地獄でよき医師に巡り逢った。滑り込みセーフで昇天できそうだ。

 今まで診断を受けていた病院とその診察対応を比較して考えさせられた。普通の受診では待ち時間1時間、問診3分、医師は患者本人をあまり見ず、パソコン画面を睨めっこしていることが多い。あと「薬を出しておきます」で終わりである。薬で治すことが最優先で、生活習慣や食事療法の指導には及ばない。その結果、私の場合、毎月の薬代が、1万円を超えている。

 薬漬けの日本

 その薬も長年使われて副作用の少ない安全で安価な薬ではなく、高価で安全性がまだ定まっていない新薬を処方されることも多い。製薬会社も新薬開発で膨大な研究開発費をつぎ込んでいるので、元を取るため医師に取り入って新薬を使わせる工作をしているようだ。病気は、薬の処方や手術で治療としている。食事療法や生活指導で薬を無くすような指導はない。それでは、医院の売り上げも、製薬会社の売り上げも減ってしまう。日本では薬漬けにして儲ける体制が出来上がっている。その結果、40年前は10兆円であった日本の医療費は、現在40兆円に膨れ上がっている。患者は減らず、むしろ増えている。なにかおかしい。

 父は86歳で胃の全摘手術を受けたが、その1年後、亡くなった。医師の勧めるままに手術を受け入れたが、却って苦しめただけだと今にして後悔している。86歳の高齢癌患者に、胃の全摘手術が本当に適正な治療であったのか、手術万能主義の現代医学に疑問を感じている。

 

図1 我が師からの茶目っ気あるメール

図2 B737-500 2016年10月12日 セントレア

図3 離陸 西方浄土の方向に向けて離陸(昇天?) セントレア

 

2017-07-30

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天声人誤の竹槍が14万人を殺した(3/4)(改題・改定)

この真因を前哨戦となった新聞コラムから分析する。

五紙有名コラムの論理構成を統計分析

 論文として段落思想(前コラム掲載)の有無を、各新聞第一面のコラム欄で分析すると、各新聞社の作文能力が明白になる。1992年1月9日、宮沢首相主催のブッシュ大統領歓迎夕食会で、大統領が過労で倒れた事件を「ブッシュ大統領倒れる」で各紙がコラムを記述した。この事件は歴史の転換を象徴する事件になった。それ故、これのコラムを統計解析で分析した(表1 コラムの分析表 (4/4)で掲載)。

 その中で、日本経済新聞社の文が一番,論理的に記述されているのが分かる朝日新聞社の「天声人語」は段落の思想がなく、数センテンス間で改行して、主語も頻繁に変わり、論理性が皆無に近い。このコラムは、ビジネス文書では厳禁の起承転結を意識している。いわば文芸作品である。読売新聞社の「編集手帳」も「天声人語」と同じ傾向である。

 この文芸作品のよう文書を論文のお手本にしたら、従業員の生活と社長の生死をかけるビジネス戦争では殺される。事実、毎年1万人の管理職、社長が殺されてきた。左が好きな大学教授が作る大学論文試験では勝てるが、実戦のビジネス戦争では負ける。

 こういう論理性のない考え方が背景にあると「失われた20年」などの無責任な文学表現が氾濫して、日本経済に突きつけられた問題点を曖昧にして、真因を探そうとする思考を放棄させてしまう。これは思考に論理性の欠如を生み、日本の道を誤らせる憂慮すべき事態である。朝日の慰安婦事件の誤報は一過性だが、日本語の論理性の欠如を新聞紙面の第一面で長年にわたり展開するのは、ヒ素のような慢性の毒を国民に盛ると同じである。鎖国時代の平和な時代なら許されたが、グローバル経済主義企業が跋扈する時代は、論理性で日本を守らねばならないのに、その行為は売国奴である。

 名文を集めても名論文でない

 各文が集まって一つの論文、エッセイとなるが,いくら単品の名文が集まっても段落、論旨が明確に構成されなければ名エッセイ、名論文ではない。コラム中の単文は日本語表現としてのみ、学ぶべき表現はある。

 しかし「天声人語」等のコラムは、話題の展開性が激しい構成なので、論理構成を学ぶのには不適である。ビジネス文書では、論旨展開の激変は厳禁で、ビジネスに求められるのは、論理の一貫性である。

 「天声人語」等のコラムは、文芸の遊びとして言語明瞭、論旨曖昧の文章である。だから「天声人語」等のコラムは、文芸作品である。文芸作品は新聞の一面でなく、最終紙面にあるべきだ。日本経済新聞では、最終紙面は文芸欄である。大学入試に大新聞社のコラム欄が出題されるケースが多いせいか、この欄は受験生の愛読欄となっている。これが我が国の国語力、論理思考の育成の妨げの一因となっている。皆さんが、大学入試に受かって、会社の論文試験に落ちたのは、論理的でない新聞コラムを教材にして勉強したためである。

 左翼の特徴

 朝日に代表される左翼系の論調は、ヒガミの文化である。大学教授とか知識人とは、(日本の場合は)左翼的でないと駄目なのだ。人をけなさないと商売にならない。金持ちをけなすので貧乏人が喜ぶ。金持ちが金持ちになった血と汗と涙には目を向けない。日本が嫌いでないと駄目なのだ。そんなに日本が嫌なら、共産国に移住をすればよいのだが、それはしない。共産主義は左翼の代表的な形態で、人の成功をうらやみ、足を引っ張るのが得意である。人が成功すれば、密告して足を引っ張る。だから共産圏の経済が発達しない。それは世界の共産国家の歴史を紐解けば一目瞭然である。

 左翼系新聞社のコラム執筆者は、所詮、雇われ人で、社長の顔色と社内の風向きを見ながらコラムを書いている。左翼的な考えこそが進歩的で唯一正しいと思い込んでいる人が、大学教授に多い。けなすのは簡単で、良いところを見つけて褒めるのは難しい。頭が良くて要領がよい故に教授になった人は、けなすのが得意である。有能なリーダーや教育者は、人の良いところだけを見て、それを伸ばす指導をする。

 大学教授は恰好をつけて、簡単なことを、わざと難しい表現をして大衆を煙に巻き、相手を騙す。そうしないと己の保身にならないし、すぐ本質を追及され嘘がばれる。その類の経済学大学教授が大金持ちになった話を聞いたことがない。

 テクニカルライティングは難しいことを、誰にでも分かるように簡潔に書く。そうしないと科学工業英語検定試験に受からない。

 

2017-07-30

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飽食の罪

 その昔、学校で悪さをすると、罰として水の入ったバケツ2杯(約10kg)を持たされ廊下に立たされた。それが今は、長年の飽食の罰として、肥満になると佛様から脂肪の塊(10kg)が身につけさせられる。天からの罰として、バケツの水と同じ重さを持って働かされていると同じである。肥満になれば、高血圧、糖尿病、脳梗塞、ガン、通風等の病気になるのは自然の理である。飽食が万病の元である。その結果、医療費も高騰の一途をたどり、40年前に総額10兆円であった日本の医療費は、現在、40兆円を超えている。医学が発達しても患者は増えている。食生活が贅沢になり、本能のまま旨いものばかりを求め、心の修養を怠った結果である。その罪悪の履歴(閻魔帳の記録)が体に付いた脂肪の重さで「情報公開」される。誰でも閲覧可能な情報である。見れば分かる。閻魔帳はあの世に無い。今の己の肥満体が、閻魔帳として存在する。

飽食の連鎖(food slave chain)

 テレビでは連日、グルメの番組、料理番組、行列のできる飲食店の特集、絶品食品の宣伝、スイーツ・ジャンクフードのCMが目に付く。締めくくりとして胃腸薬の宣伝を大々的に展開する。ここに「飽食の連鎖」で食い物の奴隷に成り下がった現代人を垣間見る。食い物を食い物にして、金儲けに走る企業の戦略が透けて見える。

 その結果が、日本の男性の40代~50代で肥満者が30%を超えている。20年前に比べると3割も増加である。肥満は病気である。この結果が、医療費40年間で、3.7倍への肥満化である。現代社会は病気製造の片棒を金儲け主義の企業が担いでいるといえる。更に製薬会社と医療産業まで金儲けで目の色が変わっている。人の命をネタに金を稼ぐのは、吸血鬼ビジネスである。

徳州会の堕落

 最初は崇高な理念で始めた徳田虎雄氏の徳州会病院も、その娘の徳田秀子は堕落で世にそのスキャンダルを晒した。旨いものばかりを食って太った中年太りの姿は醜態そのものである。その誘惑に負けた食い意地の履歴が、己の肥満として閻魔帳に記録される。美味しいものには毒がある。それを防ぐのが克己心。何のために生かされた命かを自問しよう。

 大垣徳州会病院も、2008年4月、近江絹糸大垣工場社宅跡地に建設された。私は、この地の社宅で中学生まで12年間を過ごした。それ故、なにか縁を感じる事件である。開院当初は、素晴らしい先生方が揃っていたが、いつの間にかいなくなってしまっていた。後日、上記に事件が発覚してその理由が判明した。徳田秀子が、業者から多額の美味しいものを中間搾取して懐に入れ、その臭が漂い先生方が逃げ出したためである。

足るを知る

 満腹したライオンは、目の前をウサギが通っても襲わない。それが自然の摂理である。ライオンでも本能として「足るを知る」のである。ところが現代人は、満腹でもあるだけ食べてしまう。テレビも食べろ食べろとグルメ番組の氾濫である。人間様も犬畜生にも劣る存在に落ちぶれた。その罰を糖尿病、高血圧、ガン、認知症として受けている。世の中では最高のことしか起こらない。ガンでさえ、己の細胞の「火事」を最小限に防ぐために命が起こす自衛活動である。病気になるのも、みほとけからのメッセージである。それに聞く耳を持たないのが現代人である。

 「足るを知る」を忘れ、自然との共生を忘れ、己の利益だけを追求するグローバル経済主義の影響で、食品メーカが人の健康は無視して少しでも食べさせて売上を高めることに奔走する。飽食と食品CMの氾濫に踊らされている現代から見ると、中世の貴族の食事を笑えない。人間は恵まれ過ぎると不幸になる。

 金持ちになり、美食を漁り、食べ過ぎ、生活習慣病になる。グルメと飽食を追求した結果は、毎日が辛い・・・とまるで悪魔のサイクルである。それなら最初のところを「足るを知る」に変えると、我慢もいらないし、生活習慣病にもかからない。毎日を楽しく過ごし、認知症にも罹らず長生きすることができる。現代の医療費の異常な膨張は、天からの警告である。認知症に罹った身内を見て反省しない人間が、同じように認知症の道を歩む。

テレビでグルメ番組、週刊誌での薬に宣伝

 痴呆的グルメ番組がオンパレード。それを視聴続ける人が情けない。面倒見のよいマスコミでは、胃腸薬の宣伝も怠り無く展開されている。己の子孫が、後年これらの番組、CMの出演者に先祖を見たら軽蔑するだろう。これこそ河原こじきの仕事である。昔の芸人とは河原こじきのこと。

心肥

 心肥とは、欲望のまま旨いものばかり食べず、切磋琢磨して知識や技術を身につけ、心を肥やすべし。

 

図1 バケツ2杯の内臓脂肪を持たされて  絵 兼俵純子 2017-07-26

 

2017-07-30

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