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2017年7月

2017年7月30日 (日)

カテゴリー「命の器で創る夢の道」追加

 2013年10月27日に大垣市桐ヶ崎町で火事に出逢い、それを記録「火事と人生」(314頁)にまとめている過程で、第8章に辿り着いた。この章で、今までの経過を総まとめする発想を得て、出来たのがこの冊子の由来である。この章で定年後の4年間の出来事を振り返ると、不思議なご縁との出会いの連続で、そのご縁に感謝をしている。この4年間で作成した『半生記 四季の道を歩く』(64頁)、「時間創出1001の磨墨知』(335頁)、『自分の「人生という本」』(執筆途中)、『事例研究 インプラント』(2012年、241頁)、『記憶の技術』、『火事と人生』(314頁)で作成した随筆を集大成して独立させたのが本書です。まとめてみると私の半生記となっていた。

 

2017-07-30

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インプラント 18(5回のなぜ?)

3.18 トヨタ生産方式での判断  5回のなぜ?

 何事もその目的と手段を取り違えると、オウム真理教の上祐のようになる。それは往々にして頭のいい人にそれが起こりがちである。事の本質を知るには、「その目的は何?」を5回唱えると良い。トヨタ生産方式の神様、大野耐一氏も、「WHY?を5回繰り返せ」と、その大野語録で述べている。言わんとするところは同じである。

 なまじっか、インプラントに特化してその技術に精通すると、その技術を疑ったり、捨てたり、別技術を採用するという発想は生まれなくなる。インプラントを妄信する信者になるのではないか。経営上でも、技術開発上で同じようなことが起きる。市場を独占してきた技術があるためイノベーション技術を怠り、他社が開発した革新技術に負けて市場から放逐される。これをイノベーションジレンマという。勝ち組の企業が陥りがちな事象である。このインプラントの場合は裁判での危機にも直面しかねない。経営者として、肝に銘じなくてはならない事項である。

 この考え方は、インプラントだけでなく全ての事項に展開して欲しい。

 

インプラントの真の目的は何?

何のために手術をするの?

他に方法はないの?

体に悪影響する恐れがある異物を体に埋入れてもいいの?

 

5回のなぜ?

・何故インプランを体に入れるのか?

  入れ歯やブリッジより、安定して歯を固定できるから

・なぜ安定して固定できるのか?

  直接、人工歯根を骨に埋め込むことで骨肉と強固に癒着するからから。

・何故人工歯根は強固に癒着するのか?

  チタンが体に馴染む性質を持っているから

・なぜチタンが体に馴染む性質を持っている?

 チタンは炭素と金属の中間の元素であるから、害が少ないといわれている。

・何故金属の性質も持ったチタンが体に影響はないのか

 長年の検証結果はまだ出ていない。歯科医はそこまで言わない。

    

図1 5回の何故

図2 “THE TOYOTA WAY”JEFFREY K.LIKER“THE TOYOTA WAY”

図3 『ザ・トヨタウェイ』

 

 2017-07-30

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2017年7月29日 (土)

死鬼衆としての親

 川崎市の中1惨殺事件(2015年3月)には目を背けたくなる。主原因は主犯の18歳少年の両親の後姿である。主犯の少年の父親はトラック運転手で、子供にタバコを吸わせ、「タバコを吸うのは俺が認めている」と学校に恫喝に行くほどの非常識さで、息子が非行に走っていても黙認である。親としての躾も放棄して悪に道に誘うことを教える鬼畜である。父親は週刊文春の取材に応じて、一言の謝罪もなく言い訳のみに終始であった。鬼畜の子に鬼畜の親ありである。父親はキャバレーで知り合った今の母親と結婚し、母親の同僚のホステス達が家に昼間からたむろって、いつも酒を飲んで騒いでいた。共犯の17歳の少年の母親は、パチンコや居酒屋に、毎日繰り繰り出し深夜まで家を空けることが多かった。こういう環境で子供がまともに育つわけが無い。

 こういう親を誰が育てたのか。親の子供への躾の放棄は二世代後に、凄惨な因果が回ってくる。誰のせいでもない。犯人の親の親が己の後姿で、30年後の今の親を作り、その親の子が親の背中を見て育ち、今の凄惨な結果を作った。

マスコミ(魔巣塵)という死鬼衆

 日本のマスコミはイスラム国の人質殺害ビデオをそのまま流した。イスラム国に意図通りの宣伝になる行為を援助して平然としている。今回の事件もイスラム国の邦人殺害事件が影響している。テレビ局は視聴率稼ぎの金儲け主義・成果主義で、映像倫理も考えず、過激な画面も平気で流す。欧米のマスコミは、事件は報道したが、殺害時のビデオをそのままは流さなかった。子供への簡単な洗脳教育は、価値観が未確定の年少時に悪い映像を見せ続けるに限る。それが今回の凄惨な事件で証明された。

 1985年にスウェーデンに出張時に見聞した現地テレビ界では、暴力シーンは子供の教育上で放映禁止である。ところが今でも日本では、刑事番組で殺人事件を毎日平然と流している。こんな場面を毎日見せられれば、子供も血を見ることに不感症になる。人はこの世で一番多く見たことを学習する。少年の凄惨な犯罪が増えて当たり前だ。金儲け主義のマスコミに責任がある。

鬼母誤情

 子供を堕落させる一番の方法は、多額の金を与えて愛情を注がないこと。女優の三田圭子の息子が大麻事件を起こした時、彼女は警察に怒鳴り込みに行って「息子には月50万円の小遣いを与えているので、不良なんかになるわけがない」、「母が女優ということで未成年である息子の事件が報道されてかわいそう」と放言した。無知な鬼母は、金さえ与えておけば子供が育つと妄信していた。良妻賢母役を演じた三田圭子に騙されたファンの人を見る眼の無さが情けない。2007年11月15日、次男が覚醒剤所持現行犯で三度目の逮捕をされ、翌日の会見で「すべては私たち夫婦の教育の失敗」「今も月70万円の小遣いを渡している」と平然と言う。大女優としてちやほやされると誰も忠言しない。聞く耳さえ捨てる。

 「みのもんた」の息子は、親の贅沢放埓の生活の後姿を見て育ち、親のコネで放送局に入社して、事件を起こした。全て親の責任である。その後の彼の言動を見ると、それを理解できていない。偉そうなことを放言しても、己への諫言には耳を塞ぐ。そんな「みのもんた」を育てた親の教育状況を知りたいと思う。

親は人生で最高の師

 2015年3月5日、たまたま大垣に立ち寄ったPHPのI部長との世間話をしていて、私の性格の形成には両親の影響が大きいとの指摘を受けて、おぼろげに感じていた師としての両親の大きさを感じた。川崎市の中学1年生の惨殺事件や近頃の嫌な事件の背景を見るにつけ、裕福ではなかったが勤労精神に溢れた両親に育てられた幸せをつくづくと感じた。

 人生で一番長く「師」として後姿で教えてくれるのは両親である。それも生まれてから脳の神経が形成される一番大事な時期に、人としての姿を後姿で教えてくれる。人は6歳までに80%の脳が完成される。後年の師との出会いでの教えとは桁違いの量である。そこで子供への人生教育が決まる。両親とは、ありがたい師の佛様である。

親の後ろ姿

 父は普通のサラリーマンで特別の趣味もない口数の少ない親だった。会社勤めの傍ら、休日にも内職で洋裁の仕事をしていた。父は大晦日から正月三が日の昼間に家にいたことがない。仕事である。正月は休日出勤手当てが100%増しで出るので、そのために出勤である。仲間は正月出勤を嫌がるので、却って職場からは喜ばれた。父からはシベリア抑留の話を全く聞かなかった。当然、恨みもあったろうに、まったくと言うほど話をしなかった。

 母も食べるのが趣味か、子供の成長を願うのが趣味みたいな親だった。10人家族の長女とうまれて、しっかりものの女傑でもあった。私はしっかり躾をされた。母も洋裁ができて、両親が共に内職で洋裁をしている家庭であった。その後姿を見ていると、とてもじゃないが贅沢をする気にはなれない。それを今は感謝している。当時、インスタントラーメンが流行り出した頃で、母が作るインスタントラーメンが楽しみであったが、一袋全部を食べさせてはもらえなかった。野菜で増量し、汁を増量し、麺を二つに分けて母と分け合って食べたラーメンである。まだまだ貧乏な時代であった。

 小学生の頃、今の今上天皇陛下の婚礼の儀(1959年、私が9歳)を見るため、社宅内で見栄のため(?)母は頑張ってテレビを買った。テレビの購入が競争になっていた良き時代でもあった。その後、数年でテレビが壊れてしまったが、買い直すこともなく、大学入学までテレビの無い家庭生活を送ることとなった。別にテレビを見たいとも思わなくなり、今もテレビの無い生活をすごす幸せを得ている。今にして母の見栄を満足させ、子への教育を考えた上での深慮遠謀ではなかったかと思う。くだらない番組で時間と言う「命」を無駄遣いせずに生きてこられた。ありがたいこと。

 両親の後姿を見て育ったせいか、親から「勉強をしろ」とは一度も言われなかった。言われなくともやらざるを得ない家庭環境であった。

 

図1 『週刊文春』2015年3月12日号

図2 脳の発達と心の発達

 

2017-07-29

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ながい坂道で出会う佛様

 私の愛読書の一つは山本周五郎著『ながい坂』(1967年購入)である。この書に高校1年の時に出合ってから、大学時代、サラリーマン時代の長い旅の途中、悩んだときに何回も読み返していた。私は模擬体験として、もし自分がこの主人公なら、どうしただろうと考えることが多くあった。50年間共に過ごした本は色あせているが、今も大事に扱い、時折、読み返している。

坂の途中で出会う佛様

 この書から人生の多くの示唆と元気を貰った。最近、様々の曼荼羅の仏様と出あってきて、この書の登場人物は、主人公を育てるために現れた曼荼羅の佛様ではないかと思うようになった。必要なときに遅からず早からずに絶妙のタイミングで現れる主人公の相手方は、主人公に人生を教える師となっている。

 主人公が歩み道は平坦ではなく長い坂になっていた。人生の坂道で、ある所まで登らないと出会えない佛様がいる。途中の道端で主人公を待っている佛様がいる。坂の上の雲の中で、見守っている佛様がいる。道中で表われる多彩な佛様の姿が人生に色を添える。色とは縁であり人生経験であり、得られるのは佛様の智慧である。佛様に出会って縁を結ばない限り、智慧は掴めない。

 

 「人間というものは」と宗岳も茶碗を取りながら云った。「自分でこれが正しい、と思うことに固執するときには、その眼が狂い耳も聞こえなくなるものだ。なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」(1-p68)

 「人はときによって」と宗厳寺の老師が穏やかに云った、「――いつも自分の好むようには生きられない、ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなければならないことがあるもんだ」(1-p130)

 

 今読み返すと、二人の師の言葉は、広目天、増長天、持国天の言葉のように聞こえる。主人公を鍛える彼の師の生き様が、人生曼荼羅である。若いときは全ての師は、同じように精悍に彼を指導し鍛えるのであるが、年老いてからは各人各様の佛の姿を見せる。

老いの佛様

 一番尊敬していた師は老いの醜態を晒し、出世した彼の家に金の無心に来る。酒に溺れて醜態を見せる姿に、彼は打ちのめされる。当時の颯爽として詩経を論じた面影はどこにも無い。もう一人の師は老いて少し耄碌しているが、本好きの姿勢は相変わらずで、書籍の件で彼と穏やかな会話を続ける。もう一尊は死の床にあるが、気持ちはまだ現役の城代家老のままで毅然としている。病床にあってもお家の大事を考え続けている。

 年老いて醜態を晒したくはない。多少ボケても毅然としたまま老いていきたいと思う。最近は私に直接、その醜さを教えてくれる大ボケの佛と出会う機会が増えた。昔、エリートと呼ばれた人や元上司が、その醜態を演じて見せてくれている。人生の最終の演題で、老いた仏様が演じる人生能舞台である。佛様に操られて、本人にその意識がないのが哀しい。己がそのような仏になってはならないと、反面教師としての佛様がそれを演じて、私を教え導いている。有難い佛様である。合掌。

 

2017-07-29

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「幽霊友の会」行き高速道路を逆走

 命を大事にしたいなら、未来を切り開く生き方を続けるべし。「幽霊友の会」に入るべからず。最近、会社のOB会のお誘いがあり、元本社があった市で開催された懇親会に出て後悔をした。そこで会った昔の仲間達が幽霊に見えたのである。OB会は幽霊友の会であった。

幽霊とは

 幽霊とは、足を地に付けず、手を下向きにして、後ろ髪を振り乱し、上目遣いで、うらめしやと囁く人達である。遇った人の多くは年金生活で、特に日々やることもなく過ごしている。その人は無精ひげを生やし、服装もだらしがない。目も精彩がなく、生活が地に足がついていない。後ろ髪を惹かれるがごとく過去の思い出を語り、仲間と酒の席で時間を潰す。前向きの話はなく、病気や妻の愚痴、家庭菜園、ゴルフ、釣り、旅行の話しばかりに身を入れる。手を下に向けての身の上話しである。こういう病気になったとの話題に花が咲く。病気は己が不節制で体を痛めて、体の部位が故障したに過ぎない。それを人ごとのように責任転嫁して、うらめしやとぼやく様は幽霊である。定年退職したはずなのに、当時の職位のままに酒の席を回っている。まだ後ろ髪を引かれている。

『現代の平家物語』を語る

 OB会の仲間が足に地を付けない生活に堕ちて、過ぎ去りし恨み話や過去の肩書きで話に興じて、手を下向けて病気や妻への愚痴の話に興じる様は、幽霊の所業である。幽霊まで行かなくても、片足が棺桶に入っている。目の前にいる相手が幽霊と見えないのは、己が盲目の琵琶法師「耳なし芳一」のように、壇ノ浦に沈んだ平家武士の怨霊を前にして、昔話を弾き語っている。『現代の平家物語』が、栄光と没落の会社物語として語られる。会社の寿命は30年である。未来への投資を怠った会社は、合併で消え幽霊となった。幽霊の仲間に取り囲まれ、過去の話に加わると、己にも幽霊の「気」が乗り移る。朱に交われば赤くなる。幽霊に交われば、あの世が近くなる。

「幽霊界」行き高速道路を逆走

 自分の体中から「元気」と「未来」という陽気を発して、幽霊を追い払おう。掌を上に向けて、来る縁をプラスに受け止めて、前向きに生きる仲間と議論をしよう。そうすれば少しは長生きができる。私は64歳で、ピアノ用に部屋を防音工事をして、グランドピアノを買い、ピアノを習い始めた。

仏壇屋の大番頭?

 松本明慶仏像彫刻美術館館長の小久保氏が50年ぶりで、中学時代の同窓会に参加した。同期の約200名のうち、33名が既に鬼門に入っていた。残りの大半は、前記OB会の仲間のようにラフな格好で、話題も病気や家庭菜園、ゴルフ、釣り、旅行の話しばかりであった。残りの10%がまともな格好で、まともな話しをする仲間であった。人の真の評価は、60歳からと感じたという。

 笑い話として、小久保氏が仏像彫刻美術館に勤めている話しが、仏壇屋の番頭をしているという話しに化けていて、それを打ち消す説明に苦労したという。自分の世界に閉じこもり、仏像美術と言う世界を知らないし、理解しようともしない。広く知識を得ようとしない。まさに認知症の世界の入り口をさ迷っているようだ。60歳過ぎても仕事をしている幸せを感じたという。仕事をしていれば多くの人と出会える。仕事をしなければ惚けるの当然である。

幽霊にならない人はゾンビになる

 もっと恐ろしいのは生きたままゾンビになること。認知症になり、わが子も認識できなくなり、脳死同然の状態で、親の仮面を被って夜な夜な、ベッドから抜け出し徘徊するさまはゾンビである。精魂込めて介護しても、「お前はだれだ、俺をベッドに縛り付けてお前は鬼か」と罵られては、わが子は心身ともに疲労困憊である。手塩をかけて育てた子供から虐待をされ、家族からはゾンビと思われるのも、全て己の不摂生が招いた因果である。この世の地獄である。

  在宅介護する家族の80%がストレスを感じており、35.5%が憎しみさえ感じている。虐待したことがあるかの質問に、12.3%がイエスと答えている。重い認知症の場合、は26.9%がイエスと答えている(調査は連合加盟の労働組合からの1381件の有効回答より 2014年8月21日 産経ニュースより)。

  2014年9月11日朝7時半ごろ、散歩の道中の喫茶店に寄ったら、老女4名が大声で吼えていた。曰く「薬を飲みテレビを見ていて寝てしまった。テレビが付けっ放し。そのため夜に寝むられず、睡眠薬を飲んだ」。静かな朝の喫茶店内でゾンビ行動である。歳はとってもボケたくはない。淑やかであった日本女性も歳を取ると化け物になる。次の川柳を笑える人は幸せである。そのうち、笑えなくなる日がやってくる。それが一日でも遅くなるように精進をしたいもの。

起きたけど寝るまで特に用もなし

 

図1 平成の壇ノ浦耳あり芳一   絵 兼俵順子 2017-07-26

 

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地蔵菩薩尊の慈愛

 私は地蔵尊が男性の仏さまだと思っていたが、違っていた。本来「仏さま」に性別はない。お釈迦様の入滅後、弟子達が表した教典の教え(仏性)を、概念として表現したものが「仏」であり、それを具体的に形に表したものが「仏像」である。「菩薩」とは、悟りを開くべく修行の道を歩いている仏の姿で、お釈迦様の若い頃の修行の姿を現している。「菩薩」とは、母性の悲愛、慈愛、母の優しさを現している。観世音菩薩や地蔵菩薩は、「母性」を現す佛様なので女性として扱われる。子安観音菩薩や子安地蔵菩薩のように幼子を抱いた仏像として表現される例が多い。

 それに対して「如来」はお釈迦様が悟りを開いた後の姿で、慈愛、父親の厳しさを表している。奈良の大仏は毘盧遮那仏=大日如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来で、共に性別はないが、上記のように如来は「父性」を表しているため、男性的な表現が一般的である。

 ちなみに、インド仏教から組み込まれた「天」には性別があり、帝釈天、梵天、四天王、十二神将、金剛力士などは男神。吉祥天、弁財天、技芸天、鬼子母神などは女神となる。

ピエタ

 慈愛とはラテン語でpietaである。ピエタはミケランジェロが終生、追い求めたテーマでもある。宗教上での慈愛は、宗教派を問わず、普遍的な人間性のテーマでもある。理不尽な理由で、我が子キリストを殺されたマリアができることは、黙って慈愛の目を差し向けることだけである。それは目の前で、無差別爆撃から逃げまどい、焼死する庶民を見つめた地蔵尊と同じである。この慈愛は無償の無限の愛である。

「慈」とは「心」と「茲」から成る。「茲」は、「増える(子を増やして育てる)」=「愛」と「心」で「母」の意味を持つ。「慈」の反対語は「厳」である。旧字体は「嚴」で、冠の「□□」と「嚴」の下部(音)から構成される。「□□」は、「厳しく辻褄を合わせる」の意味で、「父」の意味を持つ。自然界は陰陽で出来ている。優しい母がいて、その背後に厳しい父がいて子供は育つ。

ミケランジェロ作のピエタ像

 バチカン大聖堂のミケランジェロ作のピエタ像には、私が定年退職記念にローマ旅行した時(2010年11月10日)に出会い、衝撃を受けた彫刻であった。次元の違う彫刻に遭遇したような思いである。10日間のローマ滞在中、3回もこのピエタ像を見るためバチカンを訪れるほど引きつけられるものがあった。本物は10m先の防弾ガラス越しでしか鑑賞できないが、宗派を超越してキリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も世界各地から訪れた老若男女が長時間、ピエタ像を見つめていた。宗派を超越した慈愛の姿であった。

 後で隣接したバチカン美術館に、この精巧なレプリカが展示してあるのを発見して、至近距離1mから長時間、お顔を拝ませて頂いたのは幸いであった。同じレプリカが岐阜県立美術館に設置されているが、バチカン大聖堂に比べると周りの雰囲気が明るすぎて荘厳でないので、なにか違った作品に見えてしまうのが残念だ。

 

図1、2 ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 2010年11月10日 著者撮影 

     見学者用柵から10m先に防弾ガラスで覆われて安置

 

2017-07-29

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子供の未来を食う死鬼衆

 大垣市立図書館で若い子達と席を並べて学習していると、目に付くのがスマホのゲーム中毒である。このゲームの氾濫が若い子をダメにしている。私は彼らがゲーム中毒蟻地獄に足を取られる姿を見る度に、どうにかせねばと苛立っている。電車や公共の場で、多くの若い子がスマホをいじっているが、その多くはゲームである。それと同じ状況が図書館の学習室でも氾濫している。親は我が子が図書館に行っているので安心している。知らぬは親ばかり。

大垣市立図書館の惨状

 学習室でも勉強中にゲームを始めると、1~3時間くらいは連続してゲームに嵌っている。その間、無為な時間が過ぎている。無為ならまだしも、怠惰な心を植え付け、己を律する心が死鬼衆に喰われる。脳がゲーム脳に浸食される。学生時代の貴重な勉強時間が毎日数時間も侵されれば、確実に学力低下である。そんなレベルの学生を会社は採用しない。まともな就職が出来ず、アルバイトやフリータへの道へ転落である。

 ゲームは非生産的な娯楽である。思考の抵抗力のない若い人を、ゲーム機やゲームソフトでゲーム中毒にさせるのは、麻薬を売るに等しい。若い人の青春が潰れていく。「若い時の命」と言う大事な時間が大出血で失われていく。誰がその血を貪って利益を上げているのか。ゲーム機、ゲームソフトを売るメーカである。血税で運営している学校や図書館がゲームで蝕まれている。図書館の市の職員は誰も禁止をしない。公共の図書館学習室ではスマホのゲームは禁止すべきである。

 

ゲーム中毒での損害

 若い人たちが日本の未来を背負ってくれる。その若人を堕落させ、麻薬同然のゲームで金儲けするのは死の商人であり死鬼衆である。若人が世界の学生に負ければ、日本は沈没である。若いときの1時間の勉強価値は、年老いてからの1時間労働の5倍の価値(私の実感)がある。若いときに勉強しなければ、年収1000万円の課長職の給与を得られるはずが、フリータの給与で一生を過ごさねばならぬ。一生、年収は200万円である。仮に日本の1学年の全学童の10%が毎日1時間、ゲームに没頭するとだけで、1兆8250億円の日本の損失である。それが6年間も続けば10兆円を超える。それを誰が食べているのか。

  損失金額=1時間×365日×50千円×10%×100万人

      =1兆8250億円/年 (一学年で)

       (時間アワーレートを5倍の50千円で試算)

 ソニーが業績回復をゲームで稼ごうと狼煙を上げている。ゲーム業界はゲームソフト開発にしのぎを削る。そんな死鬼衆まがいのビジネスに血道を上げるソニーなんか潰れてしまえ。貧すれば鈍す。若人の生血を吸うビジネスに手を出すソニーに未来は無い。さようなら、僕達のソニー。

 

スマホのゲーム利用者は約6割・・・・うち半数が毎日ゲームを起動

MMD研究所は、「スマートフォンゲームに関する調査(利用実態編)」を実施した。

同調査によると、スマートフォン所有者のうち、ゲームを利用したことがある人は61.7%で、そのうちの51.6%がゲームを毎日起動することがわかった。

スマートフォンゲームの1日の平均起動時間は、77.1%が30分未満である一方、10.3%の人は1時間以上であった。

調査期間は、8月8日から8月11日。調査対象はスマートフォンを所有している15歳~う59歳の男女566人。(インターネットコム)(2013年8月21日 読売新聞)

 

2017-07-29

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インプラント 17(テクニカルライティング視点)

3.17 テクニカルライティングの視点からの判断 

 新興宗教は、ご利益とお布施そして都合の悪い話しはしない、で信者をねずみ講的に増やしている。儲かるのは教祖である。そして「足抜け」が難しい。その点で、インプラントの普及と似ている。

 その昔、オオム真理教の上祐広報部長(当時)が、テレビのディベート番組で、テクニカルライティングの手法で論理的に相手を論破していた。私のテクニカルライティングの師であるの早稲田大学篠田教授が、「最初に結論を言って、その次にデータでその裏付けをしているので、いかにもテクニカルライティングの手法だが、データを多く見せているだけで、自分達に都合の悪いことは何も言ってない。またそのデータの真偽を証明していないので、論理が間違っている。上祐広報部長の論法は、データを多くして、焦点をぼかしている。これは本当の論理的な説得ではない。」と論説した番組があった。

 その篠田教授のコメントのテレビ放映後、その夜、オオムからの怖いアクションがあった。テレビ出演後、オウムからテレビ局に1回、自宅に2回も電話があった。そのため、その夜NHKから、翌朝の番組への出演依頼があったのだが、命に係わることなので、先生は出演を辞退された。また一時期、不審者の尾行が付いたため先生には警察から護衛がついた。またこのTV収録でも、かなりの部分をカットしたとのことだが、それでもこの有り様であった。

 上祐被告(当時)は早稲田在学中、篠田教授の講座を取っていたとのこと。篠田教授は、「当時学生の上祐被告だけが、いつも英語で質問してきたので、よく覚えている」と仰っていた。インプラントの調査の過程で、篠田先生とオオム真理教にまつわる事件を思い出した。インプラントに関する都合のわるい情報を歯科医やインプラント解説本は患者に開示していないのが現実である。そして歯科医側やメーカは桁違いの利益を得ている。これではインプラント真理教である。私がかかった歯科医は、インプラントの専門医である。私はインプラントの知識も関心もない時にこの歯科医にかかり、抜歯後にインプラントの問題に直面した。

担当歯科医の履歴

2001年 〇〇歯科大学卒業

2004年 〇〇の歯科医院に勤務

     その歯科医は国際インプラント学会指導医。インプラントの著書も多い。

     その元でインプラント治療技術の修行をする

2007年 米国〇〇〇インプラントコース〇期生

2010年 インプラント100時間講習終了

2011年 〇〇〇〇〇インプラント公認インストラクター認定

2012年 米国〇〇〇インプラントコース〇期生

インプラント真理教?

 この歯科医は、インプラントが絶対であるとの「洗脳」での研修を数多く受けている。指導の医師が国際インプラント学会の指導医であるので、それに疑問も感じず、ひたすらインプラント「教」を学んできた趣がある。それ故、インプラント大好き医師で、患者にはインプラントを勧める。自分の家族の場合にも抜歯の場合は、インプラントを勧めると言っていた。私はそんな履歴を知らないので、説明を聞いてインプラントの手術をする気になった。

 技術畑出身の自分としては、この種のことはメリット、デメリットの比較検証をして慎重に採用の可否を決めるのが常道である。しかし、医院からは、デメリットの件の情報開示はない。一部が文書でさらりと書いてあるだけ。特にインプラント歯周病、その対策を怠った場合の危険性、アレルギー、経年変化、異物としての免疫拒否反応の事前説明はない。解説書にも説明文もなく、手術同意書にも記載がない。自分の都合の悪いことを公開せず、ご利益ばかり説明し、自身は多大の利益を得るのは、悪い「新興宗教」であるとの結論に至った。

 

「霧の中を行けばおぼえざるに衣しめる。

よき人に近づけばおぼえざるによき人となる」(『正法眼蔵随聞記』)

「正師を得ずんば学ばざるにしかず」(道元)

 道元禅師は、正しい師を得られないのであれば、むしろ学ばないほうがよいとまで極言されている。人生とは師を求めて歩く旅であり、誰に出会うかにより、創られる世界や、目的地が変わってくる。正師でない人に、ローマに行くべき道を尋ねたら、シベリア流刑地行きの道を教えられたのと同じである。安易に極楽に行ける手法を狂祖から学んだら、行き先が絞首刑台であったのは、オオム真理教信徒達であった。小さい時から芸事に接すれば、簡単に能力が身に付くなどとの愚かな考えには至らない。

 

図1 篠田教授との会食  名古屋キャッスルホテルにて  2000年8月24日 

   左から2人目が篠田教授。右端は私の英語の師匠、後藤悦夫先生、左端は小生。

 

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2017年7月28日 (金)

自分つくりの最終仕上げ

「私は歳のせいで視力が落ちて細かいところはよく見えない。しかし、彫刻の時は、彫る場所の1点に集中させてそこを見るから見える。周りまで全て見ようとするから見えないのだ。」

「佛師は美しい佛像を作る責務がある。」

「人の寿命は80年、佛像(大佛)の寿命は1,000年。」

「時間に追われて焦るのは、自分が弱いからだ。」

                                                       大佛師 松本明慶先生の言葉

 

 我々は何を焦って仕事をしているのか。自分つくりの一つだけに集中して、人に負けない仕事をすれば十分ではないか。残り時間が少ないのに、欲張っても仕方がない。人生最大の仕事は自分造りである。自分だけの顔をつくればよい。美しい自分の人生を創って、後悔なく旅立ちたいもの。

 

「自分という佛は何者か」を60年間考えながら、自分自身を彫り続けてきて、今の顔がある。還暦後の仕事はその最終仕上げ工程である。本当の自分の顔をどれだけ彫り出せるかが還暦後に課せられた仕事である。自分の鬼の顔の下に佛の顔が埋まっている。

 松本明観さんが松本明慶師から、製作中の佛様の「頬を少し削れ」と言われ、紙一枚分よりも少ない量を削いだら、「削り過ぎだ」と叱られたという。佛の顔と鬼の顔の差は紙一重である。佛師は絶妙の一刀に命をかける。その技を磨くのは鍛錬しかない。

 

百不当の一老

効果のないと思われるような小さな積み重ねが、臨界点に達すると劇的な変化となる。臨界点に達するまでに止めてしまうから、それまでに費やした時間が無駄になる。還暦までに費やした時間を無駄にしたくはない。還暦後の人生第4コーナからが昇竜に変貌する時なのだ。

「僕は『1万時間の法則』を唱えていて、何であれ、1万時間をかければマスターできる」 藤原和博・教育改革実践家 (日経ビジネス 2013/07/02)

 

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人生能舞台という音楽発表会(改定)

 人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習、舞台への階段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの後姿も全て人生劇場の演技である。観客が見る舞台での演技は一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という佛が見つめている。

 舞台での一番の見せ場が、曼荼羅で言えば中心の大日如来である。その一番の見せ場を盛り上げるため、各場面での佛達の演技がある。すべて見せ場のための脇役である。それが大日如来を支える観音菩薩であり、四天王であり、邪鬼である。歌舞伎でも脇役がいて主役を支えている。脇役無き主役など存在しない。邪鬼あっての四天王である。脇役としてお役を頂いたら、どれだけ脇役に徹することが出来るか、それが将来主役を演じるときの練習となる。

 一局を舞い舞台を下りて初めて「人生曼荼羅の織物」での横糸を形作る一尊が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。人生とは、1875尊が演じる曼荼羅である。どんな役者も最初は脇役である。最初から主役を演じるエリートは、晩年にその借金を払う。

音楽発表会

 2017年7月23日(日)、大垣フォーラムホテルの「天の間」で、「かすみの会」(代表・河村義子)と「音えんぴつ」(代表・伊藤応子)主催の音楽発表会があり、私は河村先生の依頼で写真撮影に赴いた。私はその発表会を見て、能舞台を連想してしまった。役者(演奏者)は5歳から40歳代までの23名である。演奏者は一言も発せず、舞台に上がり観客に一礼をしてピアノに向かう。ある子は能芸者として歌を披露。ひたすらピアノを弾き、歌って、演奏が終われば一礼をして舞台から降りる。その一挙一動作が能の舞台役者である。それよりも舞台に上がる前の練習が、大舞台であったはず。演奏会という能舞台では、一人で全役を務める大役である。

演奏会場の雰囲気

 今回の大垣フォーラムホテルの会場は、95名の観客席で、昔の宮廷音楽会を連想させられた。大ホールのような大上段に構えるのではなく、同じ視線で音楽が楽しめた。弾くほうも身近に聴衆の目と耳を意識しての演奏である。将来、プロを目指している子は、大垣市の音楽堂での演奏を希望するようだ。どちらも捨てがたい魅力があり、毎年、交互に開催すればよいかもしれない。

 惜しむらくは、ピアノが40年程前のヤマハのグランドピアノG3であった。大垣は水の都で、ウィーンとも友好のある音楽の都である。大垣市スイトピアセンター学習館の音楽堂は、日本百選の選ばれている名ホールである。調律師が苦労をして調律をしたので問題がないが、大垣市で一番格式あるホテルとして、もっと良いピアノがあると市民から喜ばれるだろう。

能舞台の人生スタイル

 事前に登録したメッセージを司会者が紹介した後、本人は一言も発せず、ピアノに向かい弾く。ある人は頭をかしげてピアノを弾き、音楽にのって体を動かしながら、ある子はひたすら背筋を伸ばしてまっすぐ前を凝視してピアノを弾く。座る椅子の高さを真剣な目で調整して着座する子。

 最年少の5歳の女の子が「初めての舞台です。緊張していますが、一生懸命に弾きます」との司会者からの代読メッセージが流れる中、ピアノを健気に弾いたのは微笑ましく可愛くあった。舞台に立ち、床の印の位置で一礼して、観客席の親に視線を向けたしぐさが微笑ましい。一緒に連弾した河村先生が優しく見守りながらの演奏であった。5歳で初舞台とは偉いな....。(私も河村先生から、発表会に出なさいと「脅迫?」されているが、逃げ回っている....(^-^;)

 この演奏会を区切りに受験勉強に専念しますと宣言した高校生もいた。ニコリともせず能面のような表情でピアノを弾く子もいた。よほど緊張しているようだ。事情を聞けば直前まで上手く弾けず、一夜漬けみたいな猛練習をして当日に臨んだようだ。それも人生である。同じような経験が今後、立て続けに起こるはず。この修羅場のような経験がきっと活きるはず。若い学生が男女で連弾をした。息を合わすのに大変な練習が必要であったはず。それでも、晴れ舞台の発表会で皆さんが間違えず立派に弾いたので素晴らしかった。ここから近い将来、国際舞台で活躍する子が巣立っていくことを祈念したい。

 ハラハラドキドキは観客の親御さんの方である。多くの親御さん方がカメラを持ち、ビデオを回し、緊張して我が子の演奏を見守っていた。演奏会後に、舞台で記念撮影をしている家族が多くいて微笑ましい。そんな愛情を与えられた子からは不良はでまい。

ゲームの邪鬼が人生を食い殺す

 芸を習うとは、自己を習い、自己と向き合い、自分つくりである。若い時に快楽に流した時間は、大人になって涙となって返ってくる。最近はピアノ等の芸事の稽古でなく、同じ時間をゲームに没頭する子が多い。しかしゲーム大会で一番をとっても、誰も褒めてくれまい。親も自慢したくもない。10年後に芸事に励んだ子と、ゲームで時間を無為に過ごした子と人格が同じであるはずがない。本人ではなく、親がわが子の躾に失敗して、子供の犯罪で後悔の涙を流すときもある。どれだけゲームに時間をかけても、精神の成長にはなんの役にも立たない。その分、成長の時間が削がれる。なんら生産性の向上、人格の向上に役立たないゲームへの没頭は亡国の前兆である。私も一時期、パソコンゲームの「上海」に取りつかれたことがあるが、これは中毒みたいなものだ。その後に時間を無駄にしたとの後悔の念が残るだけ。ゲームで殺人ゲームをしても、リセットすればそれで生き返る。そんな感覚をゲームで飼育された少年達が、いじめや凄惨な殺人事件を起こしている。そんなゲーム事業で業績回復をしようとしているソニーは許せない。ソニーの社是にゲームで日本人を不幸にするとは書いていない。草葉の陰で創業者の井深さんが泣いている。

 

スマホのゲーム利用者は約6割・・・・うち半数が毎日ゲームを起動

 MMD研究所は、「スマートフォンゲームに関する調査(利用実態編)」を実施した。同調査によると、スマートフォン所有者のうち、ゲームを利用したことがある人は61.7%で、そのうちの51.6%がゲームを毎日起動することがわかった。

 スマートフォンゲームの1日の平均起動時間は、77.1%が30分未満である一方、10.3%の人は1時間以上であった。調査期間は、8月8日から8月11日。調査対象はスマートフォンを所有している15歳~う59歳の男女566人。(インターネットコム) (2013年8月21日 読売新聞)

 

図1 最年少演奏者。きちんと床の印の場所に立って一礼

   観客席の親に向けるまなざしが可愛い

図2 お姉さんがタンバリンで伴奏をしながら優しくサポート

図3、4 最年少演奏者と河村先生が連弾

図5 河村先生と連弾

図6 先生が優しくサポート

図7~8 ピアノ伴奏での独唱。伴奏は河村先生、伊藤美幸先生

図9 ピアノの他にトロンボーンもの多才な神徳くん。伴奏は伊藤応子先生

図10 椅子の高さを真剣なまなざしで調整

図11 吾が子の演奏にやきもき

図12 演奏会後、先生から講評と花束をもらう

図13 出演者全員で記念撮影

図14 人生は能舞台

図15 過去から未来へ「人生曼荼羅の織物」

 

2017-07-28

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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