ながい坂道で出会う佛様
私の愛読書の一つは山本周五郎著『ながい坂』(1967年購入)である。この書に高校1年の時に出合ってから、大学時代、サラリーマン時代の長い旅の途中、悩んだときに何回も読み返していた。私は模擬体験として、もし自分がこの主人公なら、どうしただろうと考えることが多くあった。50年間共に過ごした本は色あせているが、今も大事に扱い、時折、読み返している。
坂の途中で出会う佛様
この書から人生の多くの示唆と元気を貰った。最近、様々の曼荼羅の仏様と出あってきて、この書の登場人物は、主人公を育てるために現れた曼荼羅の佛様ではないかと思うようになった。必要なときに遅からず早からずに絶妙のタイミングで現れる主人公の相手方は、主人公に人生を教える師となっている。
主人公が歩み道は平坦ではなく長い坂になっていた。人生の坂道で、ある所まで登らないと出会えない佛様がいる。途中の道端で主人公を待っている佛様がいる。坂の上の雲の中で、見守っている佛様がいる。道中で表われる多彩な佛様の姿が人生に色を添える。色とは縁であり人生経験であり、得られるのは佛様の智慧である。佛様に出会って縁を結ばない限り、智慧は掴めない。
「人間というものは」と宗岳も茶碗を取りながら云った。「自分でこれが正しい、と思うことに固執するときには、その眼が狂い耳も聞こえなくなるものだ。なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」(1-p68)
「人はときによって」と宗厳寺の老師が穏やかに云った、「――いつも自分の好むようには生きられない、ときには自分の望ましくないことにも全力を尽くさなければならないことがあるもんだ」(1-p130)
今読み返すと、二人の師の言葉は、広目天、増長天、持国天の言葉のように聞こえる。主人公を鍛える彼の師の生き様が、人生曼荼羅である。若いときは全ての師は、同じように精悍に彼を指導し鍛えるのであるが、年老いてからは各人各様の佛の姿を見せる。
老いの佛様
一番尊敬していた師は老いの醜態を晒し、出世した彼の家に金の無心に来る。酒に溺れて醜態を見せる姿に、彼は打ちのめされる。当時の颯爽として詩経を論じた面影はどこにも無い。もう一人の師は老いて少し耄碌しているが、本好きの姿勢は相変わらずで、書籍の件で彼と穏やかな会話を続ける。もう一尊は死の床にあるが、気持ちはまだ現役の城代家老のままで毅然としている。病床にあってもお家の大事を考え続けている。
年老いて醜態を晒したくはない。多少ボケても毅然としたまま老いていきたいと思う。最近は私に直接、その醜さを教えてくれる大ボケの佛と出会う機会が増えた。昔、エリートと呼ばれた人や元上司が、その醜態を演じて見せてくれている。人生の最終の演題で、老いた仏様が演じる人生能舞台である。佛様に操られて、本人にその意識がないのが哀しい。己がそのような仏になってはならないと、反面教師としての佛様がそれを演じて、私を教え導いている。有難い佛様である。合掌。
2017-07-29
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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