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2017年7月31日 (月)

人を支える土台

 人間とは、何なのかを考えるのが人間観で、何のために仕事をするかが、職業観で、己の存在とは何かを考えるのが宗教観である。その各々の価値観を明確にしない限り、高い人間性は育たない。人生を揺るがす激震にも耐える人格を育てるには、強靭な土台が必要である。

 いくら頭が良くても、その能力が何のために己に与えられたのかが分からないと、その能力を原爆製造やサリン製造、人殺し兵器を開発するのに使ったり、コンピュータウイルス作成に使ったりする。その天才的能力をゲームソフト作成で使い、未来を背負う若者の貴重な時間をゲームのような非生産的な時間浪費に走らせる。麻薬と同じで、何の付加価値を生まないゲームソフトで、業績の建て直しを計ろうとするソニーに未来はない。ソニーの創業精神が変質している。ソニーは既に50%以上が外資である同社は、既に日本企業ではなく、グローバル企業であり、どちらかと言えば米国の価値観をもった会社なのだ。欧米の拝金主義に染まると個人的には大金持ちが生まれても、社会全体にはプラスマイナスゼロの付加価値無き結果となる。それは所詮、マネーゲームである。

人間観

 この人間観の価値観が出来ていないと、夢のある人生は送れず、心は狭く気持ちはギスギスで思いやり欠如の人間が出来上がる。それで金が出来ても幸せであろうか。

職業観

 職業観が明確でないと、カネだけのために働き、金ができたら早くリタイヤしてのんびりと暮らそうという考えに陥る。そのための金儲けには手段を選ばず、人を押し退けてでも金儲けとの浅ましい行動となる。それが拝金主義・成果主義・グローバル経済主義である。

宗教観

 宗教観が明確でないと、どうせ人間は必ず死ぬのだから、自堕落な生き方を恥ずかしいと思わない。御天道様ご先祖様が見ているとう縛りがある生き様とは対極の姿である。人間としての価値観・生命観・死生観を与え、命の尊さを教えるのが宗教観である。どこの宗教でも目指す姿は同じである。己の命が大事なら、他人の命も同じく大事である。宗教によっては、異教徒は人ではないという時代もあったのが、人類の悲しい歴史である。

 

2017-07-31

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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