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2018年3月

2018年3月16日 (金)

225円の決断

危機管理27  
               
 ◆ 即決できずが半数 
  ビジネス文書能力向上のため、2000年6月24日(土)に、篠田義明早稲田大学教授による科学工業英語(テクニカルライティング)セミナーを前職の開発センターで開催した。参加者は役員6名、基幹職16名、担当員17名、一般12名、合計50名である。開催地が陸の孤島であるため、セミナー参加者向けに、5月31日19:07 に昼食申し込みの案内を電子メールでした。この事務処理でなかなか返事が集まらないのに、いらだち、ふと疑問を抱きデータを解析してみた。その結果が下記。

      メールを開いて即返信     48%
  当日もしくは翌日に返信    10%
  3日~7日間で返信      20%   

      回答なし           22%   (n=44)

 これに我々の日頃の仕事ぶりやコミュニケーションのやり方が、全て出ているのに気がついた。人生はけっして偶然ではない。すべて必然で、一つの行動が全てを象徴している。たった225 円の昼食費の決断でも、日頃の決断の仕方がそのまま物語っている。今回の50人の対象者は休日の1日を費やし、テキスト代を払ってまでして科学工業英語の自己啓発をしようという意欲ある人達にもかかわらず、この有り様である。そうでない人達だったらどうなったことやら。

 結果として、約半数の方がその場で決断できなかった。わずか225 円の話である。メールを見てすぐ2行の返事を書くだけの事務処理に対して、後から処理するとなると、まずメール暗証番号を打ち込み、メールが開くのを待ち、目的のメールを探して返信する。これで最低2分はかかる。その分だけ自分の仕事が遅れる。その分だけ部下の書類の決裁が遅れる。その分だけ組織の業績が悪くなる。そしてそういう人に限って幹事の役を煩わして全体の時間をロスすることになります。

◆ 積小為大
 22%の方は「不食の場合も連絡を頂きたい」とお願いしたのにも関わらず返事のない方でした。篠田教授は当日の講義で、「文法には学校文法、生成文法,伝達文法がある」と解説されました。実社会ではこの「伝達文法」が理解できないと仕事が出来ない。この場合は、「学校文法」として返信を要求したメール文になっていないが、「伝達文法」として返信が要求されている。返信をしなかった人はそういう概念が無い人だと言える。返信のない人は食事をしない人と割り切って、事務的に処理をすれば良いのだが、今回は意図して文面に返信を要求した。

  そして返信が無い場合は、幹事は督促の電話かメールを打つ。つまり組織として余分の時間を奪う事態になる。つまり返事を出さない人は、組織としてのコミュニケーション意識がないのである。大きな仕事とは、ホームランの集まりではない。小さい作業の確実な積み重ねや、当たり前のことの積み重ねが仕事なのだ(積小為大)。

◆ 決断
 責任者の仕事の大半は決断である。責任者が決断を下さないと組織の作業は進まない。書類が机の上に停滞している間、作業は止まっており、死の時間が流れている。今の時代、企業の業績格差を生むものはスピードと行動力である。テクニカルコミュニケーションの目的は、文書での情報伝達と決裁のスピードアップで、225 円の決済に1週間もかかる人は、稟議100万円の決済はできない。たった225 円の決断を延ばす人は、決断を遅くする練習をしているのだ。

 我々が日常やっていることには「仕事」と「作業」がある。責任者は作業でなく仕事をしなくてはならない。作業とは時間コストです。それに対して、「仕事」とはその作業(=時間コスト)をなくすことを考え実行する付加価値を生む頭脳労働である。単に時の流れるままに作業をしているのは仕事ではない。責任者は選択をして、成果の出る方向にやるかやらないかを決断するのが仕事である。それを延ばすのは業務怠慢だ。

 私の時間節約法の一手法は、会議通知、宴会等の案内をもらったら即、返事をします。まず返事をして、都合が悪くなったら変更すればよい。それを後からするから、肝心の案内書が何処に行ったかわからなくなり、結果として幹事に迷惑をかけるのです。幹事はあなたの後工程です。後工程とはお客様です。お客様を泣かせてはいけません。
 どんな雑用にも学びはある。要はどう考え、何が問題かを意識するかである。最近の私の趣味は人間ウォッチングです。人は一つの情報にどう反応し行動するか? そこに日頃の人間性が全て出てきます。だだし、そこに正解はありません。それに対して自分なら、どう考えどう行動したであろうか、これから何を学んだかが問われる。上記はその私の一答例です。目の前にある事象は事実ではありません。ただ、その人の解釈の違いがあるだけです。
  There are no facts, only interpretation.      ニーチェ

(初稿2003年8月8日)

20018年3月16日

久志能幾研究所    小田泰仙


                                     

「心の汗」をかいてますか?

危機管理23 

  人がかく汗には「体の汗」、「頭の汗」、「心の汗」の3つがある。仕事が中途半端なのは本気でないため。身体の汗をかいていないのだ。仕事で時間がかかるのは頭の汗をかいていなため。いい仕事ができないのは心を働かせず気配りがないため。

 動いて「体の汗」をかいて仕事をするのは当たり前。なにせお客様からお金を頂いているのだから。汗をかかなければ月給泥棒。本気で仕事をすれば自然と汗がでる。

 でも、もう少し「頭の汗」をかいて仕事をすると、体力のいる作業が減り、仕事が効率的になり、より高品位な商品をお客さまに提供できる。頭の汗をかかなければ、それは仕事ではなくルーチンワーク(作業)をしただけ。それは作業であって仕事ではない。それでは新しい付加価値は出せない。今までと同じやり方では後退を意味する。
   なにせ世界は、すごいスピードで変貌している。海外の若者の明晰さは日本人の大卒と同じである。それなら、作業は外国人に任せればよい。

 その仕事に「心の汗」をにじませると、お客さまに感動を伝える仕事(商品)ができる。その汗とは、その仕事に対する思いと誠意から滲み出るものだ。そう、「心の汗」は滲み出てくるもので、流れ出るものではない。管理間接部門のお客様は姿が見えにくいのだが、トヨタ生産方式から言えば後工程がお客さまである。お客さまが感動しない商品を売っていては、このデフレ時代、グルーバル化の時代には、いつか淘汰される。それは企業でも、組織(含む家庭)でも、個人にもあてはまる冷酷な事実なのだ。結果として会社、組織、個人、最後は家族が不幸になる。その責任は汗をかかなかった当人にある。心の汗を滲み出させるのにお金は不要です。

   今、マスコミを賑わしているリストラ、倒産、不祥事等はすべてこの3つの汗をかくのをさぼったためなのだ。そしてこの3つの汗をかかなかった人が、記者会見の場で、冷や汗と油汗をかいて、雛壇から世間様に対して謝罪の頭を下げている。
   汗をかかなかった人は往々に、社会や人のせいにする。そして、自分はかわいそうな存在です、と同情をもらうのである。慰めてもらうのは気持ちがいいもの。また、人に責任転化するのは楽なのだ。でも、それは被害者の人生で、敗残者の人生である。原因を自分に求めないと事態は何も解決しない。責任者なら、リーダーなら、この3つの汗をかき、危機管理の予防処置で3つの汗を流す行動が必要だ。(初稿2003年7月22日)

2018年3月16日

久志能幾研究所    小田泰仙

そんなこと言われったって、ワシ困る

  あるプロジェクトで、私がリーダーにある人のことでかみついたら、「そんなことわれったって、ワシ困る.....   であった。私はもっと困るである。その組織は最大に困るのだ。
  そのリーダーが、その問題ある人に声をかけてプロジェクトの一員にして、最初の会合で問題を起こしている。リーダーは鈍いのか、それが問題になっているとは意識がない。その御仁は会議中に勝手に関係ない電話をしまくるし、皆を乗せた車で運転中に携帯電話を平気で応対している。肝心のそのプロジェクトには、忙しいとかでメインの行事は欠席である。それでは幹事を頼んだら意味がない。

リーダーの責任
  リーダーには分かっているはずだ。見たくない現実から目をそらしているに過ぎない。それと同じ類の事例がごまんとあり、リーダーが見て見ぬ振りをして組織を危機状態に追い込む。そうなのだ、問題があってもそれを指摘してもらっては、「ワシ困るのだ」である。ノー天気で無責任なリーダーには、何事も、なあなあにしてもらわないと困るのだ。その問題から逃げるから大きな事件になる。初期消火をしなっかった罰である。

  それが、東電の津波対策であり、無資格者の検査体制であり、業者との癒着であり、業者への丸投げの無責任体制の放置、無償残業の放置であり、ブラック企業の体質の放置であり、食品偽造の横行であり、二重国籍の放置であり、野党のブラーメン政治のお粗末なのだ。
  リーダーなら、見たくもないものも直視して、触りたくない事柄にも、対処せねば組織が不幸になる。不幸な事故の原因は危機管理へのリーダーの姿勢にある。

2018年3月16日

久志能幾研究所     小田泰仙

2018年3月15日 (木)

そんな話しは聞いていない

危機管理37 
                  
そんな話し聞いていない症候群
 「そんな話は聞いていない」とは、よく責任者が発する言葉である。ひどい上司になると「小田君、私はその話を聞いてないことになっているからな!」と私にクギをさして、唖然とさせられる事例もよく経験した。しかし、責任者がそれを言ってはおわりである。そんな人が経営していた会社も今はない。
 「そんな話は聞いていない!」?
 「でも、今聞いたではないですか?」
 聞かなかったのはタイミングの問題で、不可抗力もあるかもしれない。でも、今聞いたでしょ。責任者として、その時点でどう判断し、どう処置するか、が問われている。聞いた時点で、責任者として適切な手を打てば大火にはならないのだ。ところが多くの責任者は、「そんな話は聞いていない」と逃げるのである。そう言って逃げる人は、どうせ前から聞いてもまともな手を打てない人なのだ。だからこんな言葉を発する。
 「そんな話は聞いていない」を禁句にする人は、部下をきちんと上司に報告させるし、そのように部下を指導教育している。だからそんな事件は起こらない。その前に手を打っている。「そんな話は聞いていない」と言う人は、部下をそのように無責任体質に汚染させている。だから必然的に問題が起こる。情報を本人に伝えないような状況を作りだしているのは、当の上司なのだ。

そんな話しの顛末

  2000年夏の雪印乳業食中毒事件で、当時の社長が記者団に囲まれて、思わず「私は寝てないんだ!」と発した状況は、社長自身が作りだした。しかし、今回の悲劇は当の社長がその原因を分かっていないこと。なぜそんな事故や事象が起きたのか、それは責任者が分かっていても、その正しい処置を取らなかったことに起因します。「そんな話は聞いていない」ではなく、そのような状況を当の責任者が作りだしている。結果として、責任者(リーダー)が間違った判断をすると、組織の全員が不幸になるのです。それ故、責任者を選定するとは企業にとって重い決断です。貴方はだれを後継者にして、どのように指導育成するか、どんな価値判断で選ぶか、それが問われた事件だと私は観察した。その結果、2011年4月1日に雪印は消滅し、2016年10月20日、三菱自動車はゴーン社長への貢物となった。

 「そんな話」は感性を高めていれば、自然と耳に目に入ってくる。その業務に人並みの責任感さえあれば、気づく類なのである。聞いてないとは言いながら、実は責任者も薄々は知っていた話が多いはず。特に大きな問題になるような事象は、それを示唆する事前現象があったはず。雪印食中毒事件も三菱自動車リコール隠しも前の東海村の臨界事故も同じだ。その話を聞いた時点で正しい判断と行動を取れば、一時的なロスは生じても最悪の事態はさけられたはず。的確な処置さえとれば、却って信用が増す場合もある。それを「聞いてない」と責任転化する体質が悲劇を生む。無責任から引き起こされる損失は、雪印や三菱自動車のように企業の存続問題に発展する(初稿2003年10月30日)

2018年3月15日

久志能幾研究所    小田泰仙

2018年3月14日 (水)

貴方の近くで時限爆弾のチクタクが聞こえる

危機管理11 
カウントダウンの意味


 人生・仕事の危機管理とは、爆発(信用金庫破綻)までのカウントダウンの秒読みが聞こえるかどうかである。危機意識に対する感性の低い人には、この秒読みが聞こえない。仕事を始めれば、自動的に危機状態へのカウントダウンが始まる。また決断を引き延ばしていると、いつの間にか最終カウントダウンの状態に陥る。人生では、いかに早くそのカンウトダウンに気づいて、リセットボタンを押せるかの能力と意欲、およびその訓練の姿勢が問われている。そして危機に気づかず、リセットボタンを押せなかった人が、毎年30,000人ほどが自らの命を絶っている。今はそんな厳しい時代である。

==カウントダウン3==
 上司はやさしい人だ。部下の育成を願い、色々と注意や叱責をしてくれまる。そして3回目迄は許してくれる。でも仏の顔も3度まで。1回目の「督促」は要注意なのだ。「残りはあと2回ですよ」と。2回目になるとイライラした怒りなのだ。「あと一回で爆発ですよ」と。3回目は爆発して、もう「この件に関してはダメ!」との烙印を押すのであり。仏が鬼に変貌する。もう4回目は無いのだ。仕事が他の人に回るのである。まさにリストラの危機である。上司は何回言っても判らない人、言っても仕方のない人には何も言わない。そうしないと、組織全体が危機に陥る。

==カウントダウン2==
 自動車メーカーはもう少し厳しい。1回目の品質問題か納入問題を起こして、キチントした再発防止を打たず、2回目の問題を再発させると、自動的に納入停止である。最悪の場合は取引停止である。そうなれば倒産です。でもそういう厳しさが有るからこそ、トヨタグループ全体としてはなんとか勝ち組みに入っている。

==カウントダウン1==
 怒鳴るお客様は親切です。きちんと間違いを指摘してくれるのですから。なんとか改善してほしいと思っているのですから。
 でも真のお客様はもっと厳しいのです。お客様はお店に来て、一回の不愉快さを感じると、もう来てくれません。なおかつ、何も言わず去って行きます。それが一番冷酷です。そういった危機感を持って仕事を運営しないと、仕事が無くなります。店が潰れます。

==今ここ/カウントダウン0==
 しかし運命の女神様はもっともっと冷たく厳しい方なのです。あの時、あの状況、あの人達との巡り合わせは2度と来ません。今その時に全力を投入しないと、やり残しで悔いが残るのです。失った時間,チャンスは二度と帰って来ないのです。でも積極的に運命に直面する人には女神様は優しいのです。
 決断しない、行動をしない、優柔不断に引き延ばす、こんな行動では、全て悪魔にカウントダウンのスイッチを押させる行為なのです。決断しない、それは決断しなければない項目が目前にあるはず。判っていても、できない。行動しない、頭では行動しなければと思いながらも、動かない、動けない。それこそ悪魔にカウントダウンの時計を弄ばせること。すべて自己の選択の結果です。決断しないという選択をしている。決断・行動をしない人には運命は冷酷なのだ。
 しかし、本物の時限爆弾と違い、人生での危機は、その状況に気づき、それをリカバーする気になれば、遅い速いは別にして、リカバーの手段は無限にある。それが唯一の救いだ。それさえ気づかない人が絶望して命を絶つのだ。

 一期一会とは危機管理の言葉である。人生に、もう一度の機会などはないとの危機感が必用である。悪魔は黙ってカウントダウンのスタートボタンを押す。心耳を澄ませば、あなたの頭上で音もないカンウトダウンが聞こえるはず。それは何のカウントダウン?


==懐かしい思いで==
 私の前の部署の上司で、トヨタから出向されていたO部長には、この件で厳しく指導された。「3回督促して、上司の要求に応えられない時は、もうその件ではダメ!」との烙印を押されるとはその時の指導であった。「これで3回目ですよ。小田さんって、そんな情けない人だったんですか」と言われたことが多々あった。それはなんと辛く情けないことであったか。言い方は優しいが、心にグサッと突き刺さるような厳しさがあった。でもこの厳しさはトヨタ自動車では当たり前で、思えば私にはかなり甘い指導であったようだ。O部長が受けた指導はそんな生半可なものではないようだ。だからトヨタは生き残っている。「リーダーとは厳しく、嫌われてなんぼの世界、それが組織が生き残る条件」と割り切れば、人を厳しくするのに抵抗はない。なまじっか人に好かれようとするから、人を指導できなくなる。自分に甘くては人を指導できない。多くの上司が私の前を通りすぎていった。優しい上司や冷酷な上司は記憶に薄いのだが、厳しく指導をしてくれた上司ほど記憶に残り、厳しさを教えていただいたありがたさを今つくづくと感じる。

  会社を退職してから今の時点で周りの付き合っている人達を見ると、なんと極楽とんぼのような人ばかりかと心配になる。ご縁ある人達のため、敢えて鬼の諫言を伝えている。(初稿 2001年3月16日)

2018年3月14日

久志能幾研究所     小田泰仙

2018年3月13日 (火)

「天命を待つ」は間違い

危機管理24                           

人事を尽くしても天命を待つな

 「人事を尽くして天命を待つ」のは間違った生き方である。待っていては、時間は無為に過ぎていく。世の移ろいは速く、その間には状況が刻一刻と変わっていく。1300年前の鴨長明も「方丈記」で、「ゆく河の流れは絶えずしてしかも元の流れにあらず」と描写している。これは危機管理の言葉である。だからこそ、更に変化の激しい時代の現代で、勝ち組や事を成した人は待つ間も寸時を惜しんで人事を尽くし「志を天命と信じ人事を尽くす」で行動している。

 全世界の70億人が神様仏様を当てにして天命を待っていては、天命を授ける神様仏様が過労師になってしまう。たまには神様仏様の身になって考えよう。自分で出来ることは自分でするのが大人である。

 

天命と信じ人事を尽くす

 「志を天命と信じ人事を尽くす」との信念が無ければ、コロンブスのアメリカ大陸発見もアポロ11号の月面到達もなかった。アメリカ大陸を発見する(実際はインドを見つけるのが目的だった)とのコロンブスの信念が、人々の嘲りや船員たちの動揺を抑えて行動したからこそ、アメリカ大陸が発見された。

 アポロ計画も同じである。ケネディ大統領の声明を米国の威信を掛けた志とし、期限を1970年代末と宣言し、天命を信じてNASAの全員がその目標に向かって行動したからこそ、アームストロング船長は、「人間には小さな一歩であるが、人類には大きな一歩を」月面に残したのだ。

 時に30万Kmも離れた日本の国会では、野党と自民党の間で議決に対して愚かな「牛歩戦術」が繰り広げられていました。同じ「小さな一歩」でもなんとした違いでしょうか。まさに月とスッポン。月という理想に向かった志、利権や党の愚かな方針にスッポンのように食らいつく議員根性、まさにこの違いです。これは行動に志の有無の差でした。志の有無が人間に品格の差を与えます。

 2003年7月18日、元社民党の辻元議員の秘書給与詐欺問題で、辻元議員と土井党首の元秘書の逮捕が報じられました。当時の牛歩戦術の主導格は社会党です。今の社民党の前身です。四半世紀経っても組織のDNAは変わらないなと感じました。

そして19日の記者会見で、土井党首は党首辞任を否定して、「社民党の信頼回復に努めることが天命と心得ている」と発言した。こんな場面で「天命」を使うのは不遜です。

  

--かたえくぼ--

 『牛歩戦術』

  この一歩は小さいが....

   ----野党 (大垣・百舌鳥) 朝日新聞「声の欄」1979年7月28日

  百舌鳥は私のペンネーム

 

 やったことが正しいだろうかと、不安の心で天命を「待つ」のは愚かである。人事を尽くして待つとは、俺は十分にやった、との傲慢さの現われだ。誰もそれが正しいとか、完璧なんて言えない。言えるのは神様仏様のみ。そんな待つような暇があれば、更に人事を尽くすべきなのだ。間違っていてもそれが信念となれば、世の中の方の価値が変わる。そんな事例が歴史にごまんとある。そして謙虚でない人々は、あたかも当時から私もそう思っていたなどとほざくのである。私はそんな人々にはなりたくない。

 

「志」とは何か?

 「志」とは、音符「士」は「ゆく」の意味。心のゆき向かうこと。その向うところは一カ所でないと迷ってしまう。「志」とは字の構成から、「十」のあれもやりたい、これもやりたいとの思いの内、たった「一」つを「心」に決めて取り組むと書いて「志」なのです。限られた人生時間内で、あれもこれもはできないのだ。並みの人間にできるのは、たった一つなのだ。孫子もランチェスターも戦力の分散を固く禁じている。戦力は一点に集中すべきである。

 

年賀状での志

 今年もある程度の数量の年賀状を送り、そこそこの枚数の年賀状をいただいた。送ろうと思えば文明の利器とお金を使って、数倍の数をやりとりできるだろう。でも私はそうしたくないので、敢えて数を抑えて年賀状を発信している。志と同じで本当に送りたい人を,限られた人生時間の中で精選すべきだと思っています。虚礼こそ廃止すべきで、その代わり年賀を送るなら心を込めた年賀状にすべきでしょう。

 心なき年賀状は表も裏もパソコン印刷で既成の印刷パターン、こんな年賀状はもらってもうれしくない。だから私は返礼で年賀状を書かない場合も多々ある。私は年賀状を両面、毛筆直筆で書いている。最近は裏面は毛筆で書いてそれを複写している。時間がかかるので、そんなに多くは書けない。年賀状も少数精鋭。それでいいと思っている。だから私は、心なき虚礼年賀状への対応時間があるなら、自分の人生目標達成のための時間に振り向ける。

 

継続的ラーニング

 「人事を尽くして天命を待つ」の話は後藤悦夫先生より伺った。この話題に接する縁を頂いた先生に感謝です。先生とは、英語の質問があると電話でいろいろと教えて頂き、人生やマネジメント等での各種の示唆を頂いている。しかしながら、話し好きの先生で直ぐ1時間くらいは電話を切らせてくれない状態になってしまう。先生の豊富過ぎるくらいにインプットされた頭脳から湧き出る情報に接していると、話が尽きなくなり、電話が切りづらくなる。

 人間の成長とは、人とのコミュニケーションを通してお互い切磋琢磨して磨かれる。人と人の間の関係を持つと書いて「人間」なのだ。人というダイヤモンドを磨くのはダイヤモンドでないと磨けない。お互い継続的なラーニングをする姿勢がないと、話していても得るべきものがない。得るためや与えるためは、継続的なインプットが必用である。インプットがあって初めてアウトプットができる。継続的ラーニングがないのは、人とであっても人間ではないと考えている。志の有無が「人間、死ぬまで学び」との姿勢を決める。(初稿 2003年7月19日)

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2018-03-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月12日 (月)

死生観 = 「人生の定義」

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

The way you live your life, and what you do and experience during it.

“Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

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2018-03-12

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2018年3月11日 (日)

生きた仕事には魂が宿る

 命に値段があるのは、その命が社会のために活動をして、そこから付加価値を生むからである。それができなくなったら、死と同じである。私は体と頭の健康管理をして、生涯現役を目指すため生涯自己挑戦を続けたいと精進している。

 馬場恵峰師は、2018年現在も91歳で現役である。83歳の三枝子奥様も書家として現役である。馬場恵峰師は書家としての活動以外に、東奔西走で講演会、指導、震災地慰霊訪問、中国での写経指導の引率と大忙しで、認知症になる暇がない。こういう人生でありたいと、手の届かないお手本にさせていただいている。感謝。

 今日2018年3月11日は東日本大震災が起きて7年目である。犠牲になられた方のご冥福をお祈りいたします。この件で、ご縁があった馬場恵峰師の震災への支援について報告をさせて頂きます。

 

東日本大震災での支援

 2011年4月2日、盛岡で東日本大震災の被害に遭われた朋友の齋藤明彦社長(㈱電創総合サービス)が、東北の皆さんを元気付けるため、書の師である馬場恵峰師(当時84歳、大村市)の元を訪問して、哀悼の書の揮毫を依頼された。そのとき、三陸海岸宮古浄土が浜の海水を持参して、それを使っての書の依頼である。その海水にまだ犠牲になられた方々の精霊が漂っていて、その精霊を鎮魂したいとの思いである。震災後のかたづけの多忙の時期で、家族や社員の方からは白い目で見られたにも関わらずの長崎訪問である。当時、斎藤社長の会社も甚大な被害を受け、てんてこ舞いの状態であった。従業員の方で亡くなられた方は見えなかったのがせめてもの幸いである。

 海水を使っての磨墨は、そのままではかなり書きにくいとのことで、恵峰師は薄めて書かれた。その書は、2011年4月16日の明徳塾でお披露目された。その時、私は初めてその経緯を知った。

 

同席のご縁

 齋藤社長が長崎の先生宅を訪問したとき、私もたまたま同席をするご縁を頂いた。私は先生の松尾芭蕉300年御忌で書かれた『奥の細道全集』を撮影するため訪問していた。齋藤社長とは机を並べて馬場先生の書を習う仲間である。齋藤社長とは長崎空港で別れたが、かなりお疲れのようであった。こういう無償の奉仕こそ生きた仕事である。

 考えるまもなく津波に押し流された方の無念さが偲ばれる。明日はわが身と思い、時間(命)の有限性を再認識して精進している。

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 恵峰先生の図書館にて(2011年4月2日) 撮影 小田

 左端が齋藤社長、右端が恵峰先生、中央は福田琢磨社長。

 手前がこの日、撮影した馬場恵峰書「奥の細道全集」

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 大阪府箕面市 加古川山荘にて(2011年4月16日 撮影)

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 上の書は、2011年4月2日、長崎県大村市の先生宅を訪問した時にお土産として頂いた。

 

恵峰師の震災地慰霊訪問

 馬場恵峰師は、老体に鞭打ち、計6回の東北訪問をされた。その間、岩手県知事を訪問、山田町や大槌町などを訪問して、追悼の書を贈呈された。夜は地域の皆さんへの講演活動をされ、皆さんを激励された。現地は交通路が遮断されているので、車で4時間も5時間もかけての遠路に足を延ばされた。頭が下がる思いである。

 岩手県知事を訪問時には、知事の名前を織り込んだ漢詩を贈呈され、知事を元気づけた。

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 第3回目東北地方講演会訪問 岩手県知事室にて東日本大震災・復興記念講演会と浄土ケ浜の海水でしたためた「鎮魂の書」を贈呈するため訪問。2012年10月2日

 左から齋藤社長、奥様、馬場恵峰先生、達増拓也岩手県知事、吉田県議、福田社長、齋藤社長のご子息

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 知事の名前を織り込んだ漢詩を贈呈

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 大槌町の佐々木副町長に贈呈 2012101日 撮影 福田琢磨

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 宮古市の山本正徳市長に贈呈 2012101日 撮影 福田琢磨

8 山田町の佐藤副町長に贈呈  2012101日 撮影 福田琢磨

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 大船渡市の角田副市長に贈呈 2012103日 撮影 福田琢磨

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 高齢の先生にはハードスケジュールである。さすがに疲れたと仰っていた。

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 岩手県 浄土ヶ浜

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 浄土ヶ浜で、恵峰先生ご夫妻と齋藤明彦さんとご子息 撮影 福田琢磨

義援金のご縁

 今回、齋藤明彦さんとのご縁に佛の差配を感じて、この震災への義援金として数回に分けて計50万円を送った。最初は日本赤十字に送っていたが、齋藤さんの助言で、途中から山田町役場に直接送ることとなった。その理由は、日本赤十字に送ると、2割が日本赤十字社の運営費に回されてしまう。またその用途が公表されないという。山田町役場に義援金を直接送ると、役場のHPに公開されるし、その用途も公開されるという。そうすれば山田町役場には、2割引きの義援金でなく、全額が届くのである。

 

2018-03-11

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月10日 (土)

あなたは裏切り者?

危機管理20 

◆ 選択

 人が自分の所に来て、頼みごとをすることがある。その時に、自分がどういう反応をするかで、己の評価と将来がきまる。その人は数多くの候補者の中で、自分を見込んで,つまり「選択」をして来ている。単に出鱈目に自分を選んで来ているわけではない。最初からやってくれそうもない人や、頼むとイヤな顔をされる人、頼むと仕事の出来に不安のある人になんかに誰も頼まない。自分はそういう期待をされた。だから、そんな自分を頼ってきた人に対して、「ノー」と言うのは、人の期待を裏切る「裏切り者」なのだ。少なくともその件に関してはマイナスの「選択」をしたのだ。相手は自分に「裏切り者」との烙印を押す。全ての選択には責任が伴う。その結果に対して責任を負うのは自分である。それが3年後かもしれない。3年前の選択の因果が今の自分の姿なのだから。

 その仕事は往々にイヤな仕事か難しい仕事かもしれない。でも難しいからこそ、自分の問題解決能力向上のよい練習であり、自分専用の教育機会なのだ。人は自分の能力よりも少し難しい問題に取り組むことを繰り返すことで成長し、仕事の能力を向上できる。それは時間の有効活用する練習をすること。しかし、それを避けているのは、つまり人の期待を裏切っているのは、自分の能力を摩滅させる訓練をしている結果となる。自分は○○家株式会社の責任者である。家族と自分自身に対して今よりも幸せにしていく責任がありる。今のその言動は、その責任と期待を果たさない「裏切り行為」となっていないだろか? 

 

◆ 自分が「ノー」と言う時

 私が頼みに来た人に「ノー」と言う場合は、相手が過去にそう言われるような裏切行為を何度もしてきたのだ。この世では偶然はない。全て必然である。人は裏切られたことを忘れない。徳人はそれを忘れるが、まだ人間が出来ていない私は忘れない。

 

◆ 裏切り者の烙印

 人が高級ブランド品を買う時は、そのブランドの信用を買っている。性能とか味で買うわけではない。高いのだから性能や味が良いに決まっている。テクニクッス、ラックス、レクサス、ベンツ、グランドセイコー、ローレックス、ヒルトンホテル、ホテルオークラ、吉兆等は、性能や対応、味で選ぶ人は稀である。ブランドを買うとは、そのブランドを信用してその店を「選択」したのだ。その信じた信用が裏切られたときの怒りは大きい。百年の恋の破局にも似た境遇となる。だから使い回しの食材を出していた船場吉兆は廃業に追い込まれた。

 

事例1

 2018年3月6日、あるブランド品を購入した。その過程で、怒り心頭に達する不手際をその店はしてくれた。どんな製品にも故障はある。故障は当たり前。人がやることだからミスがあっても致し方ない。そんなことは問題にはしない。問題は、その後の対応と再発防止である。

 今回は、その対応がお粗末であったので、担当者に私の怒りを伝えた。ブランドに裏切られたのだ。3日後、再発防止が全くないので電話でそれを伝えたら、慌てて店長が飛んできた。顧客の怒りが、察しできないようでは営業マン失格である。また気持ちはわかるが、高級店のバターや生クリーム、アーモンドの入った洋菓子の手土産を持ってきたのが、お粗末である。私は健康上の理由で、その種のお菓子はドクターストップである。そういう些細な手土産の選択からでも、人とお店は評価される。どれだけ相手のことを考えているかである。ブランドには先輩が築いた志と汗が籠っている。それを壊してはならない。配慮不足でブランドの信用を毀損するのは先輩への裏切り行為である。

 

事例2

 2013年、ある知人のお店に車検に出して、とんでもない裏切り行為をされた。その裏切り行為が、ドライブレコーダに記録されていた。私は黙ってその知人との付き合いを切った。言うだけ無駄だと思ったからだ。そう思われたら、人生はおしまいだ。社長塾にも行っているから、信用あると信じていたが、裏切られたのだ。

 

事例3

 ある岐阜トヨペット店で車検の時、タイヤに窒素を入れるように頼んだことがあった。お粗末なことに、その店は窒素ガスを入れてあったタイヤ(窒素ガスの表示あり)に普通のエアを補充した。そのクレームを言っても、謝りはしたがその店はエアの入れ替えの対応をしなかった。私は別の店で窒素ガスを入れ直し、それ以来、車検は別のトヨタ店に変えた。他の件でも不愉快な件があって、私はそのトヨペット店に裏切り者の烙印を押した。

 

◆ 人生とは航海

 人生は航海にたとえられる。ボートの船長は自分である。裏切り行為が積み重なっていくにつれ、己のボートは人生の危険領域に静々と流されていく。自覚はないが、気づいた時は、自分が船長を勤めるボートは、風も吹かない、海流もない死のバミューダ海域に到達するのだ。そこは船の墓場、人生の墓場である。外部は無風状態で、心の中を氷点下の冷風が吹き荒れている事に初めて気づくのである。

 人生の航海を後悔にしたくないものだ。私の人生も後悔の連続であるが、あの時あの縁を生かさずやらなかった後悔より、やって失敗した後悔がよほど良い。人は失敗から多くを学ぶ。しかし、一歩前に出る「行為」がない限り、失敗もない。しかし成長も学びも縁の獲得もないのだ。

 

◆ 過去課、現在課、未来課

 人が頼みに来る、これも一つの縁である過去の自分の言動から発生した縁である。それは仏教用語で過去課という。その縁をどれだけ大事にするかで、今後の人生の展開(未来課)が違ってくる。人は出会うべき時に、遅からず早からず、出会うべき縁に出会うもの。しかし、その縁に気づくかどうかは、今をどれだけ真剣に生きているかとその熱意によって変わる(現在課)。全力で生きている、必死に学んでいる、サービス精神に徹していると、その縁に出会うまでの時間が短くなる。人生の成功はその縁にいかに早く出会うかである。それ故どんな縁も大事にし、その縁を生かす能力(感性)を身につけるべきである。柳生家の家訓「小才中才大才」はそれを伝えている。

      

  小才は、縁に出会って、縁に気づかず。

  中才は、縁に気づいて、縁を活かさず。

  大才は、袖すり合うた縁をも活かす。

               柳生家の家訓   柳生石舟斎

 

 その縁が10年後に花開く。人生でまかぬ種は開かない。人生は何にどれだけの時間と金と情熱を投入したかで、それに比例して花開くのだ。最近、この10年後というキーワードを実感している。今、種をまいても収穫は10年後なのだ。今やっている事は10年後にしか効かない。しかし、やらなかったら10年後にボディブローとして効いてくるのだ。しかしその時に気づいても遅いのだ。(初稿 2003年7月14日)       

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2018-03-10

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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危機管理は成佛のために

 危機管理とは、その界で成佛するために己が管理職として為すべき義務である。その界とは、宮仕えでの世界であり、社長業としての世界であり、個人事業主としての世界である。危機管理とは、己が己の管理者として、その界を無事に過ごすための戒めである。

 危機管理とは、その界での管理が疎かになり、その会社生活(界)を全うできず(成佛できず)、不本意に不祥事が発生してその責任を取らされことを防ぐためにある。どんな界にいても定年を含めて必ずその終わりがある。どんな界も生老病死である。無事にその最終目的地(死)にたどり着くことが成佛である。それでこそ、次の界(子会社、起業、第二の人生、あの世)に胸を張って進める。

 

危機管理の目的

 私は前職で新入社員教育として10年近く「危機管理」の講義を続けてきた。現地法人のチャイナの新入社員向けにTV会議システムで、英語で講義もした。私は危機管理の目的を、①会社と自分と家庭が不幸にならないため、②自分と部下を刑務所に行かせないため、③生活基盤の会社を倒産させないため、④失業しないため、と説明してきた。しかしこれは新入社員向けに説明した方便である。目的は、人生での成佛である。

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  講義資料『危機管理』p5 2005年

 

人生の目的

 人間の最終目的とは、人間になって成佛することである。人は動物として生まれてきて、多くの学びを経て人間に成長する。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。それなのに、餓鬼道に落ちて、集めることを目的として、人や法律や倫理を押しのけて金儲けに邁進している人が多い。その挙句、世に紛争の種を蒔き、悔いを残して、その界を去る人がなんと多いことか。なんと多くの人が、動物レベルのままで死んでいくことか。それは畜生界の生き様である。人生の成果は、己のために集めた財宝ではなく、社会に与えた徳の多寡である。

 

餓鬼道に落ちた衆生

 現在は、組織や己に対する危機管理が出来ず、その結果の不祥事でマスコミを賑わす事件が多い。人生の目的を理解せず、またそれを達成するための危機管理意識が欠如しているためである。最高学府を出て豊富な知識はあっても、人生の目的を知らない智慧無き人が氾濫している。ド田舎の市長や東電、東芝、政界等に畜生界の餓鬼道に落ちた衆生を見る。その輩は反面教師として、やってはいけないことを教えてくれる仏様である。

 耳をすませてごらん。あなたの身近で時限爆弾のチクタクが聞こえる。

 

2018-03-10

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