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2018年3月

2018年3月10日 (土)

カテゴリー「危機管理」を新設

 危機管理は、私が20年来、こだわってきたテーマです。今まで書き溜めたエッセイを、今の眼で見なおして掲載します。

 2018-03-10

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

2018年3月 9日 (金)

命をケチる

 大垣藩の最後の藩主であった戸田共氏の戸田伯爵夫人の極子は、岩倉具視の三女である。その岩倉具視の件の調査の関係で、2016年9月20日頃、京都の知人に電話をしたら、彼の27歳のご子息が自殺をされたとの話を聞かされた。そのためとても、聞きたいことも聞けなかった。これも戸田伯爵夫人の調査がなければ接せることのなかった事件である。自殺という重たいテーマのご縁をいただいた。

 

多くのご恩のお陰

 人は一人では生きてはいけない。今の生まれた命や支えて頂いている多くの人たちのことを思えば、自殺はありえない。自分一人で、自力で生きていると思い詰めるから自殺になってしまう。先祖、親、師、隣人、友人の恩があって生きていると悟れば、自殺はありえない。絶望の時、相談する師がいないと、路頭に迷う。所詮、人間界で起きた事象は、人間界で解決できる。思い詰めるとあの世に行っても解決はできない。家族や師との会話があれば、自殺は防げるはず。家族、師とのコミュニケーションを大事にしたい。

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馬場恵峰書 2016年9月27日 揮毫

同級生の自殺

 1973年4月1日、入社日の夜、同級生が自殺をした。クラスで成績2番の秀才である。夜の就寝前に電気コードを体に巻き、タイマーをかけての自殺である。原因は不明だが、45年経った今でも、頭の隅から消えない事件である。

 

叔父の自殺

 1988年4月2日、親戚の叔父が鉄道飛び込み自殺をした。当日は一人息子の入社日である。それが遠因で息子の人生が暗転した。しばらくして、彼は会社を辞め、その後も数回の転職を繰り返すことになった。なにも息子の入社日に自殺をしなくてもとは思うが、本人はそれさえ考えが及ばないほど追い詰められていたのだろう。その為だと思うが、彼の孫は3人とも日本の最高学府を卒業しながら、10年間も就職浪人である。なにか考えさせられる。

 

講師の自殺未遂

 2000年頃、私は地獄の研修を受けた。その研修講師のKさんから自殺未遂の話を聞かされた。Kさんは元会社経営の社長で、会社経営に行き詰まり、絶望して車ごと崖から飛び降りるつもりでアクセルを踏んだが、家族の顔を浮かび、崖の直前で思いとどまったという。自分を支えてくれている家族が、自殺を引き留めてくれた。

 

師としての信用自殺

 自分が思い詰めて、師と仰ぐ人に相談に行っても、その師が「忙しい」とかの言い訳で逃げられると、百年の恋にも似た師への尊敬の念が雲散する。何時でも何でも何処ででも相談に乗ってくれるのが、真の師である。それは現世の人とは限らない。本の中にも真の師は存在する。私は師と崇めていた人の本質が露見してから、その人は単なる人生の水先案内人であると悟り、距離を置いた。講師が師としての信頼を自分で殺したのだ。

 

緩慢なる自殺

 自分を支える一番の御恩ある御本尊が自分の体である。命が短くなるのが分かっていてなぜ、不摂生、煙草、暴飲暴食に走るのか。己の体を痛めつける生活習慣、食生活(飽食)、悪い食べ物の多食は緩慢なる自殺である。過労死も、仕事と命を天秤かけて値踏みして、仕事の方が大事とする誤った判断の結果の自殺行為である。過労死をして誰が喜ぶのか。仕事とは、人に喜ばれてナンボである

 

他人の命(時間)の軽視

 2018年3月8日、ある会合に出かけて、その人の軽自動車(顧客からの預り車)に乗せられた。その零細企業の社長は、運転中にかかってきた顧客の電話の応対で忙殺されていた。社長クラスの人を3人も乗せて、安全面で問題がある軽自動車で携帯電話を掛けながら運転するのは、自殺行為である。その社長は会合中も、会議に途中で皆がイベントの打ち合わせをしている中、妨害するように、何度も携帯電話をしまくっていた。会合に関係ない電話の時は、席を外して会議室の外で電話をすべきである。その社長は会議に参加した人の時間(命)と自分の仕事の忙しさを天秤にかけて、自分の仕事を優先したのだ。人のことは知ったことではないのだ。命や人の時間を粗末にする人を計値(ケチ)という。

 

ケチとは

 計値(ケチ)とは、命と快楽・仕事を天秤にかけ、値踏みをする愚行である。食欲の快楽に身をゆだねるのが情けない。その仕事をしてくれる人は他にもいる。世の為になる仕事は皆で行ずればよい。仕事を自分一人でやろうとするから、無理が出る。偉大な仕事は多くの人が協力して成し遂げられる。人を悲しませては、その仕事に傷がつく。己の命の代わりはない。多くの御恩に支えられて、自分が生かされている。自力ではない。

 

ケチの行く末

 ケチとは己の狭い視野で値踏みをすること。ケチな人は目先に囚われて、短絡的・短期的な視野でしかものが見えないため、10年後に損をする判断をする。佛様の差配は人智を超える。回り道にお宝が埋まっている。佛様も元は人の子、陰徳を積めば佛様も恩義を感じて、10年後に利子をつけて倍返しの報恩をされる。

 ケチの究極の姿が、植民地獲得の侵略戦争、民族虐殺、利己主義、成果主義、グローバル経済主義である。一時的には儲かったように見えるが、結末は妬みの文化の氾濫、冨の偏在、格差の拡大、移民が原因の暴動頻発、1%の人だけが富み、99%が不幸になる社会への転落である。

 人は、ものが見えているようで、実際はその本質の10%しか見えていない。残りの90%は人智を超えたベールに覆われている。人は狭い視野でものを見て、全て分かったと自己満足の値踏みをしている。それがケチの根性である。人は実態の10%しか見えないのに、あたかも全て分かっているかのような顔をして経済学者は学問を振り回す。もしそれが正しいのなら、経済学者は全て大金持ちや成功者になれるはず。学者とは単なる知識を切り売りする者である。学者は本質を凡人には難しい表現で煙に巻く。得た知識から知恵を生み出す人が人生で儲ける。得た知識を死蔵では、情報センタの門番でしかない。知識は実社会で知恵を付加して活用してこそ、付加価値が生みだせる。

 先に生まれた人から浄土へ逝く。何も焦って追い越さなくとも、お迎えは来てくれる。人生道では追い越し禁止である。頂いた命をお大事に。生きるとは祈りである。

 

 割り込みは 許されないよ 浄土道    (馬場恵峰作)

 文句なし 今のままでは 極楽素通り地獄行き (馬場恵峰作)

 狭き門 極楽寺坂 すべり落ちるな   (馬場恵峰作)

 

2018-03-08

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月 8日 (木)

あの世は有りや無しや?

 佐藤一斎著『言志晩録』の「三学戒」に接し、あの世を考えた。2015年末に縁あって三基のお墓を改健したが、あの世のことが明確に頭にあったわけではない。墓の完成後、冷静に考えてみてお墓の目的を考えてみた。

 少にして学べば 壯にして為すことあり

 壯にして学べば 老いて衰えず

 老いて学べば 死して朽ちず   『言志晩録』の「三学戒」

 

1.ご先祖の思い出としてのお墓

 あの世の有無に関わらず、ご先祖へのご恩返しがお墓参りであり、お墓の建立であると思う。お墓はご先祖のご恩を思い出させてくれる碑である。ご先祖があって、自分はこの世に存在している。

 最近、死刑になりたいとかで無差別殺人や、人を道連れの自殺事件が多発している。これらの事件の背景に道徳、宗教観の希薄化があると思う。先祖を敬わない、自分だけよければよいという思想が蔓延している。現世だけの世界、ご先祖の恩に思い至らない利己主義的な思想の氾濫の結果ではないか。

 私は小さいころ、祖母に地獄絵を見せられて、子供心に震え上がったことを懐かしく思い出す。子供心に、悪いことをしまいと心に誓ったものだ。それがよき人生の戒めの教育として生きている。今はそれがないようだ。死んだ後は無であると思うと現世ではやりたい放題である。戦争ゲームとして人を殺しても、リセットボタンを押せば、全てチャラ。TVでは人殺しのドラマが横行。これではまともな精神が育つわけがない。

 

2.子孫への教えとして遺すもの

 親がご先祖のお墓参りをする後姿を子孫に見せることが、今あるのはご先祖のお陰との教育をすることになる。私も父の墓参りに随行して、墓参りをするのが当たり前との考えになった。そのお墓がないと、空中に手を合わせることになり、何か実感が湧かない気がする。やはり形あるものに手を合わせたいもの。

 そういう点で、海への散骨等は日本人には違和感がある。将来、子供達が親に手を合わせたくても、墓が無く、海上に出向いて手を合わせさせるのは、子供を不幸にする。2世代後には、ご先祖を考えなくなるだろう。私は海への散骨はイヤだ。分からないことを理性で考えると、後で後悔する。

 元旦の行事、春夏秋冬の日本の行事の中に、お盆、彼岸の墓参りが日本文化に溶け込んでいる。善悪の問題ではなく、それが日本の文化なのだ。

 

3.あの世はあるとして、為すべきこと

 あの世があるかないか、誰にも分からない。それに類する論を数学者パスカルが『パンセ』の中で「神は存在するか否か」というテーマで理論的に展開している。それを元に渡部昇一師は、あの世の存在の有無を、『95歳へ!』(飛鳥新社)の中で展開している。その結論からいくと、あの世があると信じてこの世で、お墓を作るのは危機管理的に理にあっている。

 その著書の中で、佐藤一斎の「三学戒」(「少にして学べば…」)の言葉があり、また2018年3月4日に佐藤一斎の故郷の恵那市岩村を訪問したおり、佐藤一斎像の横の石碑に、「三学戒」を見て、以前に「あの世は有りや無しや?」を考えたことと、馬場恵峰先生に、この言葉を揮毫して頂いたことも思い出した。

 佐藤一斎作「三学戒」は、言志晩録の中では最も輝いている言霊である。この言葉が人間の人格を高める。あの世はあるとして、人格を高めてから、あの世に旅立ちたいと思う。その為には老いても「志」を大事にすべく精進すべし。

 

 江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎の著書『言志晩録』に「少にして学べば即ち壮にして為すあり。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず」という言葉があります。

 一斎の言う「壮にして学ぶ」とは、仕事以外のプラス・アルファを勉強することです。現職の時に頑張って働くのは当然のこと、それは別に何かプラス・アルファの勉強をしていると、「老いて衰えず」になると言っているのです。

ここで「死後も霊魂の世界がある」と信じるかどうかが問題になります。これは死後のことですから、私たち生きている者には「わからないこと」です。したがって、俗な言い方をすれば「どちらに賭けるか」ということになります。

 もし「死後の世界はない」ほうに賭けたら、どうでしょうか。死んでみて、これがアタリだったら場合、「当たった。よかった」ということはありません。死後の世界はなかったのですから、死んだらそれまで、あとは何もなしです。

 では、ハズレで、死後の世界が存在した場合はどうでしょう。ないと思っていた世界があって、そこで生きなければならないとすると、準備不足で困ったことにならないでしょうか。つまり「死後の世界はない」ほうに賭けた人はアタリで何もよいことはないし、ハズレで困ったことになるのです。

「死後の世界はある」ほうに賭けた人はどうでしょうか。ハズレで、死後の世界がなかったら、それまでです。何もなし。アタリで死後の世界があったら万歳でしょう。するとハズレで何もなし、アタリで万歳ということになります。

 どちらに賭けたほうが得か、明々白々です。これは数学者パスカルが『パンセ』の中で説いた考え方です(パスカルは「神は存在するか否か」というテーマでこの論を展開しました)。 この項、渡部昇一著『95歳へ!』(飛鳥新社 2007  p136)より

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 馬場恵峰書 陶板に揮毫 2016年

 陶板への揮毫は誤魔化しがきかず、書いた跡がそのまま浮かび上がる。

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 岩村歴史資料館の佐藤一斎像(2018年3月4日撮影)

 1p1040529  岩村歴史資料館にて(2018年3月4日撮影)

2018-03-08

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お礼 ベストテン入り

 2018年3月8日、「エンジョイブログ」の人気ブログランキングで、「久志能幾研究所通信」がベストテン入りを達成しました。皆様の閲覧に感謝申し上げます。これからも精進してより価値ある記事にブラシアップしてまいります。ご支援をよろしくお願い申し上げます。

 今日,18時現在の累計閲覧回数は21,713回、記事数は569件です。

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2018年3月 7日 (水)

「佐藤一斎の街」に学ぶ

 2018年3月4日、岐阜県恵那市岩村を訪問して、言霊とは、指導者とは、それに率いられた組織の成果とは、について多くの学びがあった。

 私は岩村を明徳塾OB会二日目(4月15日)の学びの旅行先にする計画を進めている。その事前調査として訪問した。当日、11時過ぎまで、大垣市の元気ハツラツ市の状況調査をしてからの出発である。JR恵那駅で明智線に乗り換えて、現地の岩村駅に14:09に到着した。

 岩村は、幕末の大儒学者で日本の孔子とも言われる佐藤一斎の生まれた村である。佐藤一斎の書『言志四録』は、多くの志士の座右の銘として親しまれ、明治維新を成し遂げる原動力となった。『言志四録』は西郷隆盛が島流しにされたとき、この本を島流しの獄舎で熟読して、西郷の思想と人格を固めたと言われる。

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ひなまつりで街中一致団結

 電車から降りた観光客は少なかったが、着いて見ると観光バスや自家用車でこの地を訪れた人が多く、街中が観光客で賑わっていた。この日は、「いわむらの城下町ひなまつり」として、美術館や町屋の殆どの玄関にお雛様の飾りが設置されて、町中で雛祭を祝っていた。その雛壇の数は53店舗中に約71セットの多さである。殆どのお店がお雛様を飾って、城下町ひなまつりを盛り上げていた。街の古くは江戸時代のひな人形から昭和初期までの作があり、歴史を感じた展示である。観光客をもてなす街の熱意が伝わってきた。

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江戸末期から明治時代までの街並みを保存

 岩村駅から約1キロの道なりが江戸末期から明治時代までの町家や武士屋敷が連なり、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。商家や武士屋敷が無料で美術館の記念館として開放されている。当時のかまどや生活の道具、機織り機、蔵内部などが展示されており興味深い。

 街の中央の広場では、若い衆が雛祭として一斗樽で無料の振る舞い酒があった。私が到着した時に、何故かちょうど樽が空になり、「最後の一杯ですよ」と若い衆が声を上げていた。私も手を出したかったが、禁酒中の身のため遠慮したが、なにか損をした気になるのは、卑しい根性なのか?

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『言志四録』の木板に学ぶ

 街中の7割ほど家の軒先に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げられていて、街中で佐藤一斎の遺徳を偲び観光客にその教えを伝えている。『言志四録』の言葉が軒を連ねていると、何か厳かな気分になる。街中で佐藤一斎の言葉を学んで崇めている雰囲気である。毎日、この板を眺める大人も子供も、良き教育環境であると思う。人は言霊から霊感を受け、人格向上の糧となる。

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 街中のあちこちに『言志四録』の句の碑文も建立されている。岩村駅前にも、佐藤一斎の言葉の碑が建立されており、街中で佐藤一斎の業績を顕彰している。

 明徳塾OB会で訪問予定の415日には、今春スタートするNHK朝の連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ状況のパネル展示と花の展示がされる。この岩村は、ヒロインの鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さん故郷という舞台設定である。鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さんは「岐阜弁は、関西弁や標準語とも違っていてとても難しい。」という。岐阜県人の私としては、岐阜弁は標準語に近いと思っていたのが意外である。大垣弁とは少し違うのかもしれない。

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岩村歴史資料館

 岩村駅から徒歩で1.7kmの坂の上に位置する岩村歴史資料館は、佐藤一斎を顕彰するために建てられた資料館である。この土地には、岩村藩主の館があったが、明治14年に失火により焼失してしまった。その跡地に岩村歴史資料館が建築されている。佐藤一斎に関する展示物は少ないのが残念ではあるが、佐藤一斎の肖像画に直筆の書が書かれた軸、著書等がガラスケース内の一面に展示されている。管内は撮影禁止である。門の前には佐藤一斎の像と顕彰の碑が建立されている。

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伝鴨長明塚

 岩村駅の横に鴨長明の塚が建立されている。何事かと説明看板を見ると、『方丈記』の作者、鴨長明(11551216)は、鎌倉を追われ遠山景簾の好意で岩村の両家に逃れて半年を過ごした後、病を得て入寂したとある。

 この地に、後に岩村藩の家老丹羽瀬清左衛門が石碑を立てたとされる。長明作といわれる木像があり、昔から夜泣き子供に添い寝をさせると丈夫になるとされ、お礼に小さなちゃんこを奉納する慣習が明治時代まで続けられた。(恵那市教育員会作成の看板より)

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空き家の少なさに驚き

 「重要伝統的建造物群保存地区」の53店舗中で、「売物件」の看板がかかった空き家は1件だけあった。大垣市のようにシャッターを降ろした店が192店舗中、117店舗(61%)も連なるのとは、大違いである。同じ観光地で大垣市と岩村は何が違うのか。明智線は単線で、一日に2両連結のジーゼルカーが、15本しか走らない超ローカル線であり、岩村は過疎地の観光地である。それでも観光地として栄えている。

 

観光政策における大垣市と岩村の格差

 岩村は街中で統一した方針で、観光地として街興しをしている。ほぼ全家屋に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げている。ほぼ全家屋が、ひままつりとして玄関に雛壇のおひなさまを飾っている。53店舗中で、その数71セット。村長のビジョンで、村中で一致団結して観光客を招く段取りをしている。

 これと比較して、大垣市の観光政策を情けなく思った。大垣市は、市長のビジョンが曖昧で、元気ハツラツ市で大垣市をどうしたいのかが分からない。観光都市としての明確なビジョンが分からない。だから大垣市の外部団体の大垣観光協会もお役所仕事で熱意がなく、業者に仕事を丸投げをしている。そのため大垣駅前商店街が、元気ハツラツ市にそっぽを向き、当日に敢えて店を閉めている店主が多い。それ自体が恥さらしである。なにせ観光客は露店に行ってしまい、店を開いても儲からないから。大垣市が、市民税を使って大垣駅前商店街の営業妨害をしている。

 元気ハツラツ市で盛り上がっているのは、大垣市の外からきた業者、露店商たちである。それでどうして大垣商店街の活性化ができるのか。儲けのカネは全て市外や県外に行ってしまう。ますます大垣駅前商店街が寂れる。

 

ビジョンなき航海で沈没寸前の大垣市

 大垣市長の観光方針が曖昧のため、大垣駅前商店街を歩いても、芭蕉の句の一つもない。店も何もない水門川沿いに芭蕉の句碑があるだけである。岩村と大違いである。奥の細道を歴史遺産として登録するという大垣市の方針があるが、大垣駅前商店街と市民はそっぽを向いている。この原因は大垣市長に、明確なビジョンと実績がないためである。市長の座に座り続けるのが目的で、市長として何をやるかが全く見えない。だから商店街がそっぽを向き、大垣市は衰退の一途である。

 組織は、一人の優秀な長によって発展もするし、ビジョン無きリーダーで衰退もする。組織の興亡は、すべてリーダーの手腕にかっている。その現実の差を岩村と大垣市で発見した。

 現在、「大垣中心市街地活性化計画書」が提示されているが、これは大垣市がハコモノを作って業者を潤わすためのお役人が書いた「お作文」の言い訳書である。住民不在の計画書である。これに沿って実施しているから大垣は寂れてきた。大垣駅前商店街の店主達は、誰もその内容を知らない。この計画書は、冗長な文体で冗長にデータをこね回し、曲げた結論を出している。これでは読んでくれ訳がない。

 ビジョンには夢と希望と志がなければ意味がない。この計画書にあるのは新市庁舎の建設というハコモノだけである。大垣市長に欠けているのは「志」である。大垣に「平成の維新」が必要である。幕末に大垣藩を建て直した家老小原鉄心の再来が望まれる。

 

2018-03-07

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2018年3月 5日 (月)

天狗行政による大垣市の末路

 元気ハツラツ市の目的は、大垣駅前商店街の活性化である。それが真逆の結果となっている。元気ハツラツ市は、大垣駅前商店街の活性化を目的に2011年から7年間で総額1億2千万円を使って開催されている。実際は商店街を衰退させることに気付いた商店主たちが改善を申し出ても、怨嗟の声を上げても大垣市は、耳を貸さず、運営方式も変えず、会計報告もせず、これが大垣駅前商店街活性化だと、強引に運営を進めてきた。

 その結果が、商店街の衰退(61%が閉店)と大垣市外の露店商の跋扈である。下図は2018年3月4日の元気ハツラツ市で、商店街の中心の新大橋から南方向を見た東西側の商店街の衰退の惨状と道路中央で繰り広げられる露店商の繁盛ぶりである。道路中央の露天には散歩客が多いが、商店街はシャッターを降ろした店ばかりで、人通りもまばらである。

 露店商からモノを買うと、問題が起きても保証が不明確だし、地面に並べた不衛生な商品を買うとは、自分が不衛生になること。モノを買うとは自分を買うこと。モノを売るとは、大垣市を売ること。大垣市が大垣市の品性を落としている。

1dsc01395  2018年3月4日10:55 元気ハツラツ市 新大橋より東側を南方向に見る

2dsc01390  2018年3月4日10:55 元気ハツラツ市 新大橋より中央部を南方向に見る

3dsc01392  2018年3月4日10:55 元気ハツラツ市 新大橋より中央部を南方向に見る

4dsc01393  2018年3月4日10:55 元気ハツラツ市 新大橋より西側を南方向に見る

芸の達人とは

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6dsc01373 2018年3月4日10:22 元気ハツラツ市で

 上記集団は、元気ハツラツ市で市政百年の宴に酔い痴れて暢気に謡っている。この人たちは、生活の足場である大垣舞台が背面のようにシャッターを降ろして滅亡寸前なのに、大垣市民として何も感じないのか。問題意識を持たないのか。自分達が大垣市の衰退に手を貸していることに気が付かないのか。芸は人の心に訴えるモノでないと本物ではない。観客数と舞台がそのレベルを示している。芸の修行とはその心と感性を培うものだ。芸の達人なら、物事の兆が見えるものだ。年長者のこの人たちは、何を修行してきたのか。

 

経営の失敗事例

 以上が、愚政としか言えない『大垣中心市街地活性化計画』の目玉政策の結果である。7年間で1億2千万円もの市民税を使って、一度もPDCAを回さなかった大垣市経営の失敗事例である。大垣駅前商店街活性化計画書では、かくれ空き店舗数を無視して大垣市の惨状をデータで誤魔化して成功を謳っている。大垣市長は、この祭りをダシに豪華な大垣市庁舎の建設を進めている。

 大垣市長は、ほぼ毎回顔を出して鼻高々に演説をぶっているが、大垣駅前商店街の惨状は見ないようにしているようだ。大垣市という組織体の経営者として、現実から目をそらすのは経営者失格である。

「視る目を以てすれば即ち暗く 視るに心を以てすれば即ち明らかなり」佐藤一斎 『言志四録』 138(2018年3月4日 恵那市岩村で発見した言葉)

 

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8dsc013772 2018年3月4日10:32 元気ハツラツ市の雛壇で

 「つまらん行事だな」と思っている顔のように見える。顔は嘘を言わない。

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 2018年3月4日16:14 恵那市岩村の商店の軒先で

うまい汁を吸う者たちの跋扈

 この愚かな行政が展開される中、天狗に隠れて誰がうまい汁を吸っているのだろうか。印刷業者、芸能プロダクション、タレント、露天商の斡旋業者、露天商、警備会社、大垣駅前商店街組合の店舗無し幹部達………かも。大垣駅前商店街の葬礼行進曲が流れる中、その者たちの高笑いが聞こえるようだ。

 

大垣市の末路

 声を上げるべき市会議員達も、何か利権でもあるのか何も言わない。御用新聞のような地元二紙も大垣市の批判記事は全く書かない。毎日の記事内容が、まるでお花畑の学校新聞の壁新聞である。商店街店主達は理事から意見を封殺されてモノが言えない。商店街店の青年達は、祭りに目が眩み、真実が見えず踊らされている。周辺の自治会の会長も市や組合から丸め込まれて、自治会員の声を封鎖している。子供たちが、元気ハツラツ市に日曜日に金儲けで駆り出されても、校長は予算と人事権を大垣市に握られているので、何も言わない。元気ハツラツ市の球技や水遊びで、子供たちの命が危険に晒されていても、大垣教育委員会は知らんふり。ヒラメの役人は市長の顔色を見るのに汲々としている。

 大垣駅前商店街がシャッター通り化して、駅前にマンション、予備校が林立している。駅前一等地に居酒屋の開店(昼間は閉店)が続き、もうじきピンクサロンが開店するだろう。大垣市政は稼ぎのネタを潰し、結果として金のかかる老人・介護の街になろうとしている。市税の収入が減り、地価が下がり、失業者が増え、出費が増える。大垣は終わりである。これが大垣市の末路である。市民が声を上げないと、大垣市は滅びる。

 

2018-03-05

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2018年3月 3日 (土)

痴鈴痴憐に日本人の劣化を見る

 最近の風潮で、猫も杓子も携帯や財布やカバンに鈴を付けてチリンチリン(痴鈴痴隣)と傍若無人に音を響き渡らせ、それに無頓着な老若男女が氾濫している。老人は耳が遠くなっているか痴呆化なのか、回りの迷惑には不感症で、その音が聞こえないようだ。「自分だけが幸せになりますように」と鈴を鳴らしまくって徘徊している。若者は耳にイヤホンで音楽を聴いているので、自分が出す迷惑音に気がつかない。中年ビジネスマンは、電車の中や禁止区域でも携帯電話で成果主義に追いまくられ話しまくっている。経営者は金儲けに目が眩み、己の愚行が他人の迷惑になっていることに気がつかない。これでは、日本経済が停滞し、日本人が劣化するのも故あること。

 

「道徳の会」の不道徳行為

 毎週の休日、ホテルで朝会をしている経営者団体がある。なんでも「道徳の会」のような名前であるが、この人たちが不道徳行為に走っているのは、大いなる皮肉である。2018年3月3日朝、その団体の朝食会場から拍手と歓声が流れ、静かなホテルの少し離れた朝食会場に、その騒音が響き渡ってきた。どうも、その団体への新入会員の紹介の場面と推察された。その経営者達が集団でホテル宿泊客に迷惑をかけている。やっている経営者と自称する者たちは、その自覚が全くないようだ。それで「道徳の会」の名前が呆れる。以前、その団体はホテル客と同じ会場で朝食をとっていたが、その団体の行動が目に余り宿泊客の迷惑とあるので、ホテル側は、その団体の朝食会場を別にした。しかし、その変更理由にその経営者の幹部は誰も気がつかない。経営者は、些細な変化を捉えて経営判断が求められる。それが出来ない経営者達である。それが「道徳の会」の朝会に出ているという自己満足で、過ごしている。

 私も以前に入会を誘われたが、その会員の実態を見ていたので、入会を辞退した。街の中小企業の経営者がその「道徳の会」へ入会する動機は、商売上で金儲けのツテを求めているだけのようだ。それ故、「その会員の新陳代謝は激しい」と毎回、その団体を観察してるホテルマンは言う。私は朝食会場で彼らの雑談を横で聞いていて、その内容の下劣さに呆れて、入会を辞退した。多くの部下を持ち、人を導く立場の中小企業経営者達が、このレベルでは、日本人の劣化も故あること。

 静かなホテルの会場で、団体が大きな拍手と歓声を上げるのは、痴鈴痴憐と鈴を鳴らす痴人と同じである。静かなホテルのロビーで、大声で話しまわる近隣諸国の団体客と同じレベルである。

 

 

玉田裕人さんのピアノコンサート

 その朝食を済ませた後、11時から名古屋のヤマハグランドピアノサロンで、玉田裕人さんのピアノコンサートに出かけた。玉田裕人さんはベーゼンドルファ弾きの達人である。今回の私のお目当ての一つが、ベーゼンドルファ214VCの音色確認である。

玉田裕人さんの演奏の写真撮影の許可もいただいた。会場がサロン形式なので、皆さんに邪魔にならないように撮影は最後列のその後ろから撮ったので人影が邪魔になり、またこのサロンは一般のホールよりも暗いのでピントが合いにくかった。20枚ほど撮ってから、よい写真を撮るのをあきらめて、玉田裕人さんの演奏を聴くことに集中した。私はその演奏を堪能した。

P1100056

    会場風景。手違いでフラッシュが光ってしまった。ごめんなさい。

 

異人闖入

 その演奏が始まってしばらくして、異様な姿の若者が入ってきた。クラッシクの演奏会なのに、大きなリュックサックを背負い、決して清潔とは言えない風体で入場してきて、ピアノの演奏が始まっているのに、声も落とさず受付に質問をしている。背負ったリュックサックにぶら下げた多くの鍵の相互に当たる金属音が、演奏中の会場に響いた。本人は無頓着である。私は我慢できなくて、敢えて注意をした。それでも本人はきょとんとしていた。その御仁は、その後、演奏中なのに、後ろの席でスマホをいじり出した。何しに来たの?

 あとで、受付の女性から、私が注意してくれたことに感謝をされたが、「下手に注意をすると最近は異常な人が多く、危害が及ぶ場合があるので黙認です」と言われて、現代の世相に危機感をいだいた。これも日本人の劣化の証しだろうか。

 

静寂文化に暴力音が殴り込み

 日本の家屋は木と紙でできている。それ故、隣りの部屋の音は丸聞こえであった。最近は多少改善されたが、純日本家屋では、昔と防音関係は変わらない。そのため、日本人の生活や話し方、音の出し方には、他人を慮り、周りに気を使う文化が生まれた。その文化をテレビと携帯と携帯音楽が破壊している。テレビを付けっぱなしにしないと寂しいという病気みたいな人間も多い。耳にイヤフォンで音楽が流れていないと勉強できないという学生も氾濫している。最近の日本人がチリンチリン(痴鈴痴隣)の音に不感症になるのも故あること。このままで日本の静寂、他人を慮る文化は劣化しないのか、危惧している。

 

ビエナトーン(ウィーンの音)の熟成

 それに対して、欧州、特にウィーンは石の文化である。道路も石畳、教会も建物も住居も石造りである。ウィーン市街を一人夜道を歩いていると、後ろからヒタヒタと後を付けてくる音が響いてくる。後ろを振り返っても誰もいない。恐ろしくなって慌てて自宅に逃げ帰ったとは、ウィーン在住歴20年余のベーゼンドルファ専属調律師井上雅士さんのお話である。後ろから聞こえた音は、石畳、石の建屋に跳ね返った自分の足音が聞こえてきたのだ。教会や美術館、宮廷の建屋に入ると、自分の話し声が反響として響いてくる。それ故、壁にかかった絵を見てその感想を述べるにも、小声で話すという上品な文化が生まれ、ウィーンの独特の音文化を作った。オーストリアはドイツ語圏であるが、正式のドイツ語で「ざじずぜぞ」の音階も、ウィーンのドイツ語では「さしすせそ」の音になって濁音が消えた言葉になっているという。「ベーゼンドルファ214VC」のVCの、Vはビエナ(ウィーン)、Cはコンサート、直訳すると「ウィーンのコンサートの音」、ビエナのトーン」である。それを意識して作られたベーゼンドルファの音色には、歴史と文化の香りがある。

 

現代の世相に危機感 -- 思考文化の破壊

 その両方の文化が、下劣なテレビ、スマホ、携帯音楽、身に付けた鈴で汚染されようとしている。ウォークマンを創造したソニーは素晴らしいが、無差別な音の氾濫させたアップルは、その運用では世界の文化の破壊者となったようだ。騒音よりも静寂に価値があると私は信じる。どんな超一流の音楽家が演奏した音でも、聴く人が興味を持たなければそれは騒音である。44年前の1974年8月28日朝、神奈川県平塚市でピアノの騒音を理由として、母子3人が殺害された「ピアノ騒音殺人事件」が起きた。その教訓を現代人は忘れている。音楽を耳に強制的に流しぱなしにすることは、音に不感症になり、思考を停止させる。最近の大学生の半数が、本を全く読まないという。これもその影響だろう。静寂の文化をもっと大切にしたい。日本の未来が心配だ。

2018-03-03

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年3月 2日 (金)

七眼の身に変身

 2018年2月26日、車歴18年の自車に、後付けの車両衝突防止装置であるイスラエルのモービルアイ社製「モービルアイ570」を搭載した。今までにナビのカメラ、ドライブレコーダー、後方カメラ、前方バンパーに側面カメラを装備しているので、自分の眼がねを含めて、今回で7番目の眼の追加である。

 2013年、夕刻に歩行者をはねてしまったことがある。幸い相手は打撲だけですみ、示談にしてもらった苦い経験がある。そのため車の安全装置として対歩行者用の後付けの人検知センサーを探していたが、後付けでは見つからなかった。あっても、車メーカーの標準装備品で、それを購入すると、おまけ(?)で新車が付いてきてしまう。それ故、新車一台分の価格(?)で高価である。どうも自動車メーカーが新車を売りたいために、部品メーカーに圧力をかけて、この種の製品を開発させないようにしているようだ。自動車メーカーは、車を大事に長く使うユーザーのことをもっと考えて欲しい。

 

安全方針

 私は安全には金を惜しまない方針である。人身事故を起こして、その後始末を考えれば、安全装置は安いものである。「死んでもよいが、健康管理が大事」と同じ考え方である。

 自車は車歴18年だが、走行距離はまだ11万キロでエンジンは絶好調である。私の方針として、車は大事に長く乗りたいと思う。しかし電子機器の進化は早いので、その更新は適宜行っている。2月21日に大村市で乗ったタクシーは77万キロの走行距離で、快調であった。タクシーで50万キロ、70万キロはざらであるとか。車は整備して乗れば長寿命である。

 ネットでモービルアイ社製「モービルアイ」を発見して、早急に装備した。価格は取り付け費を含めて21万円。これは特約店でしか購入できず、中部地区では、豊田市と名古屋市の2店のみである。ネッツトヨタの店長さんの推薦で豊田市の新明工業さんを選定した。そのため大垣から豊田まで出かけた。遠いのが難点であったが、安全には代えられない。

 

モービルアイの機能

 カメラからの画像処理で人を検知すると、画面に人が緑で表示される。その人に近づきすぎると赤に変わり警報音が出る。

 前方の車との車間距離を、衝突までの秒数で表示される。車間距離が2.5秒以上の状態では警告は表示されない。

 道路の速度制限標識を、カメラが検知してその制限速度値が、次の画像更新まで画面に表示される。なかなかに賢い。

 ウインカーを出さずに車線を逸脱すると警告音が出る。

詳細はネットで「モービルアイ570」を検索ください。

 

モービルアイの限界

 残念なのは、人や車の検知がカメラでの画像処理なので、夜間は使えないこと。現在の新車に装備された人感検知が、ミリ波レーザー方式で夜間でも有効である。これは、致し方ない。最新式はセンサー連動で自動ブレーキであるが、そこまでは必要はないと判断した。

 一番怖いのは、右から来た車に気を取られ、左側の歩行者や自転車を見落として事故を起こすこと。最近の老人や自転車は、信号無視の人や横着な人が多く、私は頻繁にヒヤッとしている。自分の老化のせいで、車の周囲の検知能力が低下しているのも現実の姿である。その運動神経の劣化を機械で補えれば、十分に目的を達せる。これは十分に元が取れる装置である。

 

車の安全運転の原則

 車の安全運転の原則は、機械でできる安全は、お金で解決すること。事故を起こすことを思えば安い。人間は間違いを犯す動物である。特に老いるとミスが多くなる。その前提で安全な車に乗ること。安全な運転と安全装置を付けること。

 夜間は運転しないこと。運転のプロの白バイの警察官でも、「夜は暗闇に人や障害物が溶け込んで見えないので恐ろしい」という。運転の素人の我々はなおさらである。 

 事故が起きることを想定して、ドライブレコーダーを装備すること。以前に、トラブルが記録されていない事象があったので、保安としてドライブレコーダーを二重にした。

 トヨタ生産方式を作った大野耐一氏の言葉「金が出来たら、設備に金を回せ。人で効率を上げてはならぬ」である。私は「金がなくても、安全には金を使え。安全を人の注意だけに頼ってはならぬ」が信条です。

1p1100043  表示部の取り付け状態 

2p1100055_1  左側の黒い箱がモービルアイのカメラ部と本体

3p1100048  前方との車間距離1.6秒と速度制限標識を表示

4p1100052_1  人を検知して緑の人マークが表示

2018-03-02

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2018年3月 1日 (木)

般若心経を英訳と和訳で理解する

 般若心経とは、「般若の心髄についての経典」である。ここでいう般若とは簡単に言うと「悟り」である。唐の玄奘(三蔵法師)が国禁を冒してまでして西域(インド)に行き、持ち帰った多数の仏教経典を漢訳し、600巻余に編纂した「大般若波羅蜜多経(大般若経)」。そのうち、大般若経の心髄(空に関する経文)のみを要約したお経が般若心経である。

 三蔵法師は重罪の国禁を犯してまでしてインドに行き、多数の経を持ち帰った。しかし帰国時は玄宗皇帝が、三蔵法師を国賓として出迎えたと言われる。

 

般若心経の和訳

 漢文の般若心経は、サンスクリット語を漢文に翻訳しているため、日本人には難解であるし、数多くの翻訳が出ていて、混乱を招いている。サンスクリット語を漢文に翻訳して、それをまた日本語に翻訳しているので、一部には間違った解釈をしているのもある。私もおぼろげには理解していたが、その真意はつかみかねていた。

 竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』(みやび出版 2013年)は、サンスクリット語から英語に訳しているので、却ってその源意が良くわかる。

 2018年新春に、馬場恵峰師が10本の軸に各宗派の和訳の写経をされた。私は、2018年2月22日の写真撮影の折、その美しい和文で揮毫された般若心経の写経軸を見て、私の心にストんと落ちてきた。漢文の般若心経は難しいが、和文の美しい書で読むとよく理解できる。その和訳を文末に記します。

 

僧侶の堕落

 般若という言葉は、能面の「般若の面」の形相とは関係ない。お寺で、お酒を「般若湯」というのは、お坊さんの言い訳(?)である。僧侶は原則、精進に務め禁酒・禁煙のはずである。それが最近の風潮で、飲酒、喫煙、飽食で、肥満体の僧侶が目に付くのは、堕落の象徴である。ある地方で松本明慶仏像彫刻展を開催して、その会場に訪れた僧侶の過半が肥満体であったのは、日本仏教の堕落の象徴かもしれない。京都には各宗派の総本山があるので、全国から僧侶が研修の名目で集まるが、祇園で羽目を外す僧侶も多いと聞く。地方の地元では目立つので、僧侶もおとなしくしているが、檀家の目の届かない京都で羽目を外すようだ。檀家の目は逃れても仏様の目は逃れられない。日本で仏教が衰退するのも故あること。上に立つものが範を示さないと、その組織を衰退させる。どの世界にもあてはまることだ。今の僧侶は、お経読みのお経知らずになっている。難解な漢文でなく、せめて和文での般若心経を味わって学んで欲しい。

 菩提寺の住職が、私の先祖の戒名を間違って伝え、位牌と墓誌を作り直す顛末になったが、それは現代の僧侶の生き様の乱れを象徴していたようだ。仏様はよくお見通しである。僧侶が絶対だと思っていた私の目を覚まさせてくれた。その因縁で、恵峰先生に墓誌の文字を揮毫して頂けるご縁となった。この4月に、馬場恵峰師が岐阜に講演に来られるので、その折に、完成した墓誌を見て頂く計画である。

 

馬場恵峰師の和訳の般若心経

 ずっとー昔、観音さまが深い智慧を完成するという「深般若波羅蜜多」を修行していた時、物質や精神は皆、実態が、空の状態だということを悟り、すべての苦しみから抜け出すことが出来ました。

 舎利弗よ、この世における物質は実体のないもの空であり、実体がないということは、また物質(色)を離れてはありません。即ち物質は実体のないものであり、実体のないものが物質なのです。又それは感受作用(受)、知覚作用(想)、意志作用(行)、判断作用(識)といった精神も同じことです。

 舎利弗よ、この世におけるすべての現象は実体のない状態(空)ですから、生じたり消滅したりすることはなく、汚いとか、きれいということもありません。また増したり減ったりすることもないのです。

 空という立場においては、物質という規定もなく、精神もなく感覚器官や、その対象となるものもありません。視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、触覚(身)、意識(意)も存在しなければ、それぞれの対象となる形あるもの声、香り、味覚、触観念もありません。視覚の世界から意識の世界に至るまで感覚の世界はないのです。道理に暗いということはなく、道理に暗いことが尽きることもありません。

 また老と死もなく、老と死が尽きることもないのです。苦しみや苦しみの原因(集)苦を滅することも、苦を滅する道もありません。智慧のなければ、悟りに達することもないのです。

 このように悟りに達する事を否定される境地に住むからこそ、仏の道を極めようとする者は、智慧の完成をよりどころにし、心を曇らせることがありません。曇りがないから恐怖もない。迷い、妄想からも遠く離れ、究極の悟りの境地に到達出来るのです。過去現在未来にわたる諸仏もすべて智慧の完成により悟りを得たのです。だからこれを知るべきです。

 般若波羅蜜多は大いなる真実の言葉、この上ない真の言葉比較するものもない真の言葉。すべての苦悩を除くもの。真実で虚しくない。だから般若波羅蜜多の真の言葉を説きましょう。

 行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に共に行ける者よ、悟りよ、幸いあれ、ここに完全なる智慧の心が完成する。

  平成30年初春10日午後5時 斎戒沐浴 三寶齋恵峰 馬場英男敬書

 

補足説明

 ここでいう「般若」とは「言葉にならない智慧」という意味である。だから我々も言葉では説明できない。維摩経には、維摩居士と釈迦の弟子の中で一番智慧があるとされる文殊菩薩が、知恵比べをする場面がある。その時、文殊菩薩が「般若は、言葉では語ることができない」と説明してしまう。維摩居士はひたすら沈黙である。文殊菩薩が言葉で説明してしまったので、文殊菩薩の負けである。

 

それでも敢えて説明すると、

 智慧とはPrajna(梵語)で、英語ではwisdom. The mental function which enable one to perceive without error and to distinguish what is true and what is false.( 誤りを犯さないように認知して、真実と虚偽を区別させる精神の働き)である。波羅蜜多とはParasite(梵語)の音訳で、「真理を知る力」である。現代訳では「完成」と訳し、「智慧の完成」となる。

 竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』より

14k8a9318   馬場恵峰書 般若心経 和文(部分)

2018-03-01

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