般若心経を英訳と和訳で理解する
般若心経とは、「般若の心髄についての経典」である。ここでいう般若とは簡単に言うと「悟り」である。唐の玄奘(三蔵法師)が国禁を冒してまでして西域(インド)に行き、持ち帰った多数の仏教経典を漢訳し、600巻余に編纂した「大般若波羅蜜多経(大般若経)」。そのうち、大般若経の心髄(空に関する経文)のみを要約したお経が般若心経である。
三蔵法師は重罪の国禁を犯してまでしてインドに行き、多数の経を持ち帰った。しかし帰国時は玄宗皇帝が、三蔵法師を国賓として出迎えたと言われる。
般若心経の和訳
漢文の般若心経は、サンスクリット語を漢文に翻訳しているため、日本人には難解であるし、数多くの翻訳が出ていて、混乱を招いている。サンスクリット語を漢文に翻訳して、それをまた日本語に翻訳しているので、一部には間違った解釈をしているのもある。私もおぼろげには理解していたが、その真意はつかみかねていた。
竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』(みやび出版 2013年)は、サンスクリット語から英語に訳しているので、却ってその源意が良くわかる。
2018年新春に、馬場恵峰師が10本の軸に各宗派の和訳の写経をされた。私は、2018年2月22日の写真撮影の折、その美しい和文で揮毫された般若心経の写経軸を見て、私の心にストんと落ちてきた。漢文の般若心経は難しいが、和文の美しい書で読むとよく理解できる。その和訳を文末に記します。
僧侶の堕落
般若という言葉は、能面の「般若の面」の形相とは関係ない。お寺で、お酒を「般若湯」というのは、お坊さんの言い訳(?)である。僧侶は原則、精進に務め禁酒・禁煙のはずである。それが最近の風潮で、飲酒、喫煙、飽食で、肥満体の僧侶が目に付くのは、堕落の象徴である。ある地方で松本明慶仏像彫刻展を開催して、その会場に訪れた僧侶の過半が肥満体であったのは、日本仏教の堕落の象徴かもしれない。京都には各宗派の総本山があるので、全国から僧侶が研修の名目で集まるが、祇園で羽目を外す僧侶も多いと聞く。地方の地元では目立つので、僧侶もおとなしくしているが、檀家の目の届かない京都で羽目を外すようだ。檀家の目は逃れても仏様の目は逃れられない。日本で仏教が衰退するのも故あること。上に立つものが範を示さないと、その組織を衰退させる。どの世界にもあてはまることだ。今の僧侶は、お経読みのお経知らずになっている。難解な漢文でなく、せめて和文での般若心経を味わって学んで欲しい。
菩提寺の住職が、私の先祖の戒名を間違って伝え、位牌と墓誌を作り直す顛末になったが、それは現代の僧侶の生き様の乱れを象徴していたようだ。仏様はよくお見通しである。僧侶が絶対だと思っていた私の目を覚まさせてくれた。その因縁で、恵峰先生に墓誌の文字を揮毫して頂けるご縁となった。この4月に、馬場恵峰師が岐阜に講演に来られるので、その折に、完成した墓誌を見て頂く計画である。
馬場恵峰師の和訳の般若心経
ずっとー昔、観音さまが深い智慧を完成するという「深般若波羅蜜多」を修行していた時、物質や精神は皆、実態が、空の状態だということを悟り、すべての苦しみから抜け出すことが出来ました。
舎利弗よ、この世における物質は実体のないもの空であり、実体がないということは、また物質(色)を離れてはありません。即ち物質は実体のないものであり、実体のないものが物質なのです。又それは感受作用(受)、知覚作用(想)、意志作用(行)、判断作用(識)といった精神も同じことです。
舎利弗よ、この世におけるすべての現象は実体のない状態(空)ですから、生じたり消滅したりすることはなく、汚いとか、きれいということもありません。また増したり減ったりすることもないのです。
空という立場においては、物質という規定もなく、精神もなく感覚器官や、その対象となるものもありません。視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、触覚(身)、意識(意)も存在しなければ、それぞれの対象となる形あるもの声、香り、味覚、触観念もありません。視覚の世界から意識の世界に至るまで感覚の世界はないのです。道理に暗いということはなく、道理に暗いことが尽きることもありません。
また老と死もなく、老と死が尽きることもないのです。苦しみや苦しみの原因(集)苦を滅することも、苦を滅する道もありません。智慧のなければ、悟りに達することもないのです。
このように悟りに達する事を否定される境地に住むからこそ、仏の道を極めようとする者は、智慧の完成をよりどころにし、心を曇らせることがありません。曇りがないから恐怖もない。迷い、妄想からも遠く離れ、究極の悟りの境地に到達出来るのです。過去現在未来にわたる諸仏もすべて智慧の完成により悟りを得たのです。だからこれを知るべきです。
般若波羅蜜多は大いなる真実の言葉、この上ない真の言葉比較するものもない真の言葉。すべての苦悩を除くもの。真実で虚しくない。だから般若波羅蜜多の真の言葉を説きましょう。
行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に共に行ける者よ、悟りよ、幸いあれ、ここに完全なる智慧の心が完成する。
平成30年初春10日午後5時 斎戒沐浴 三寶齋恵峰 馬場英男敬書
補足説明
ここでいう「般若」とは「言葉にならない智慧」という意味である。だから我々も言葉では説明できない。維摩経には、維摩居士と釈迦の弟子の中で一番智慧があるとされる文殊菩薩が、知恵比べをする場面がある。その時、文殊菩薩が「般若は、言葉では語ることができない」と説明してしまう。維摩居士はひたすら沈黙である。文殊菩薩が言葉で説明してしまったので、文殊菩薩の負けである。
それでも敢えて説明すると、
智慧とはPrajna(梵語)で、英語ではwisdom. The mental function which enable one to perceive without error and to distinguish what is true and what is false.( 誤りを犯さないように認知して、真実と虚偽を区別させる精神の働き)である。波羅蜜多とはParasite(梵語)の音訳で、「真理を知る力」である。現代訳では「完成」と訳し、「智慧の完成」となる。
竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』より
2018-03-01
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