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2018年2月28日 (水)

佛様の顔に泥を塗らない

自分の佛とは

 自分のとっての佛様とは誰か。その佛様の顔に己の我儘で泥を塗って、幸せになれるわけがない。今まで、佛様が段取りをしてくれたご縁の多くを、自分は蹴とばしてこなかったのかを、還暦を超えてから遅まきながら反省している。

 己にとって佛様とは、両親であり、恩師であり、上司、部下であった。意図せず、己に降りかかる種々のご縁が、佛様である。過去に若気の至りで、愚かなことをして、佛様の顔を汚していたことに、今になって気が付くのだ。その仏様は何も言わず黙って見守っていてくれた。気が付いた時には、両親も恩師も上司もこの世にいない。降りかかってきたご縁も今は、浦島太郎の玉手箱の煙のように消えた。いつか「親孝行したいとき親はなし」が訪れるのだ。

 巡り逢った仕事にも佛が宿る。その佛様の顔に泥を塗らないような仕事をせねばならぬ。その仕事に己の魂を宿すのだ。仕事に泥を塗るとは、己の魂に泥を塗ること。名誉欲と権力欲だけで、市長の座の長くいることは、その職と市民の顔に泥を塗ることだ。仕事の佛の顔が汚れたかどうかは、仕事の出来栄えを見れば良い。大垣市のように経済、人口が衰退していれば、大垣市長としてやるべきことを放棄して、仏様の市民の顔に泥を塗ったのだ。

 佛様が巡らすご縁は、その時は逆縁のように見える場合も多い。それが後年に、幸いの華として咲くのだが、その時は、自分の身を嘆き、神仏を恨むこともあろう。しかし、その逆境こそが自分を成長させてくれるご縁であった。それを恨むとは、佛様の顔に泥を塗る行為なのだ。冬の時は、自分に与えられた修行として行に励めばよいのだ。

 己の心には佛も住めば鬼も住む。鬼の心が悪事に手を染める。鬼の心が支配する心で、己の佛の手を黒く汚してはなるまい。佛の手を汚すのは餓鬼道である。

 

何故、佛の顔に泥を塗るか

 佛の顔に泥を塗るのは、心身が餓鬼道に落ちているからだ。自分の我儘、強欲、身勝手でモノと見るから、佛の心が分からないのだ。餓鬼は畜生にも劣る存在である。畜生は自然界に生きている。中立である。だから畜生は自然に合わせて生きている。だから畜生には飽食もなく、権力欲もなく名誉欲もない。それに対して餓鬼は、食べても食べても飽き足らず、集めても集めても飽き足らず、権力を持てば17年経ってもその座を離さず、それでいて名誉欲も限りない。自分で自分の欲を制御できないのだ。だから、己のために身を捧げてくれる仏様の顔に泥を塗るのだ。他山の石としたい。

 

和文の般若心経と佛法僧

 2018年2月22日、馬場恵峰先生宅を写真撮影のため訪問したとき、和文の般若心経の写経軸が目に留まった。和文の般若心経の写経は初めて見た。恵峰師の和訳の般若心経で、その上に、お釈迦様の顔が金色で印刷されていた。その周りに「佛法僧」の文字が揮毫されていた。その3文字は、お釈迦様の顔と手に墨が付かないように揮毫されていて、思わず見とれてしまった。馬場恵峰師の雅号「三寶齋恵峰」の三寶とは、「佛法僧」を意味する。

 2011年10月の明徳塾で恵峰師が、亡くなられたお弟子さんためにお棺に納めた書と同じ書(控えとして揮毫)を持参され、披露されたことがあった。お弟子さんはその書をまとって旅立たれた。その書には、お釈迦様のお顔が3面印刷されており、恵峰師が「南無阿弥陀仏」と、お釈迦様のお顔を汚さないように揮毫されていた。私はその書のことを思い出して、即、この軸の入手を決めた。

1img_6348  2011年10月8日撮影

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 2018年2月22日撮影

 

2018-02-28

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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