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2018年3月10日 (土)

あなたは裏切り者?

危機管理20 

◆ 選択

 人が自分の所に来て、頼みごとをすることがある。その時に、自分がどういう反応をするかで、己の評価と将来がきまる。その人は数多くの候補者の中で、自分を見込んで,つまり「選択」をして来ている。単に出鱈目に自分を選んで来ているわけではない。最初からやってくれそうもない人や、頼むとイヤな顔をされる人、頼むと仕事の出来に不安のある人になんかに誰も頼まない。自分はそういう期待をされた。だから、そんな自分を頼ってきた人に対して、「ノー」と言うのは、人の期待を裏切る「裏切り者」なのだ。少なくともその件に関してはマイナスの「選択」をしたのだ。相手は自分に「裏切り者」との烙印を押す。全ての選択には責任が伴う。その結果に対して責任を負うのは自分である。それが3年後かもしれない。3年前の選択の因果が今の自分の姿なのだから。

 その仕事は往々にイヤな仕事か難しい仕事かもしれない。でも難しいからこそ、自分の問題解決能力向上のよい練習であり、自分専用の教育機会なのだ。人は自分の能力よりも少し難しい問題に取り組むことを繰り返すことで成長し、仕事の能力を向上できる。それは時間の有効活用する練習をすること。しかし、それを避けているのは、つまり人の期待を裏切っているのは、自分の能力を摩滅させる訓練をしている結果となる。自分は○○家株式会社の責任者である。家族と自分自身に対して今よりも幸せにしていく責任がありる。今のその言動は、その責任と期待を果たさない「裏切り行為」となっていないだろか? 

 

◆ 自分が「ノー」と言う時

 私が頼みに来た人に「ノー」と言う場合は、相手が過去にそう言われるような裏切行為を何度もしてきたのだ。この世では偶然はない。全て必然である。人は裏切られたことを忘れない。徳人はそれを忘れるが、まだ人間が出来ていない私は忘れない。

 

◆ 裏切り者の烙印

 人が高級ブランド品を買う時は、そのブランドの信用を買っている。性能とか味で買うわけではない。高いのだから性能や味が良いに決まっている。テクニクッス、ラックス、レクサス、ベンツ、グランドセイコー、ローレックス、ヒルトンホテル、ホテルオークラ、吉兆等は、性能や対応、味で選ぶ人は稀である。ブランドを買うとは、そのブランドを信用してその店を「選択」したのだ。その信じた信用が裏切られたときの怒りは大きい。百年の恋の破局にも似た境遇となる。だから使い回しの食材を出していた船場吉兆は廃業に追い込まれた。

 

事例1

 2018年3月6日、あるブランド品を購入した。その過程で、怒り心頭に達する不手際をその店はしてくれた。どんな製品にも故障はある。故障は当たり前。人がやることだからミスがあっても致し方ない。そんなことは問題にはしない。問題は、その後の対応と再発防止である。

 今回は、その対応がお粗末であったので、担当者に私の怒りを伝えた。ブランドに裏切られたのだ。3日後、再発防止が全くないので電話でそれを伝えたら、慌てて店長が飛んできた。顧客の怒りが、察しできないようでは営業マン失格である。また気持ちはわかるが、高級店のバターや生クリーム、アーモンドの入った洋菓子の手土産を持ってきたのが、お粗末である。私は健康上の理由で、その種のお菓子はドクターストップである。そういう些細な手土産の選択からでも、人とお店は評価される。どれだけ相手のことを考えているかである。ブランドには先輩が築いた志と汗が籠っている。それを壊してはならない。配慮不足でブランドの信用を毀損するのは先輩への裏切り行為である。

 

事例2

 2013年、ある知人のお店に車検に出して、とんでもない裏切り行為をされた。その裏切り行為が、ドライブレコーダに記録されていた。私は黙ってその知人との付き合いを切った。言うだけ無駄だと思ったからだ。そう思われたら、人生はおしまいだ。社長塾にも行っているから、信用あると信じていたが、裏切られたのだ。

 

事例3

 ある岐阜トヨペット店で車検の時、タイヤに窒素を入れるように頼んだことがあった。お粗末なことに、その店は窒素ガスを入れてあったタイヤ(窒素ガスの表示あり)に普通のエアを補充した。そのクレームを言っても、謝りはしたがその店はエアの入れ替えの対応をしなかった。私は別の店で窒素ガスを入れ直し、それ以来、車検は別のトヨタ店に変えた。他の件でも不愉快な件があって、私はそのトヨペット店に裏切り者の烙印を押した。

 

◆ 人生とは航海

 人生は航海にたとえられる。ボートの船長は自分である。裏切り行為が積み重なっていくにつれ、己のボートは人生の危険領域に静々と流されていく。自覚はないが、気づいた時は、自分が船長を勤めるボートは、風も吹かない、海流もない死のバミューダ海域に到達するのだ。そこは船の墓場、人生の墓場である。外部は無風状態で、心の中を氷点下の冷風が吹き荒れている事に初めて気づくのである。

 人生の航海を後悔にしたくないものだ。私の人生も後悔の連続であるが、あの時あの縁を生かさずやらなかった後悔より、やって失敗した後悔がよほど良い。人は失敗から多くを学ぶ。しかし、一歩前に出る「行為」がない限り、失敗もない。しかし成長も学びも縁の獲得もないのだ。

 

◆ 過去課、現在課、未来課

 人が頼みに来る、これも一つの縁である過去の自分の言動から発生した縁である。それは仏教用語で過去課という。その縁をどれだけ大事にするかで、今後の人生の展開(未来課)が違ってくる。人は出会うべき時に、遅からず早からず、出会うべき縁に出会うもの。しかし、その縁に気づくかどうかは、今をどれだけ真剣に生きているかとその熱意によって変わる(現在課)。全力で生きている、必死に学んでいる、サービス精神に徹していると、その縁に出会うまでの時間が短くなる。人生の成功はその縁にいかに早く出会うかである。それ故どんな縁も大事にし、その縁を生かす能力(感性)を身につけるべきである。柳生家の家訓「小才中才大才」はそれを伝えている。

      

  小才は、縁に出会って、縁に気づかず。

  中才は、縁に気づいて、縁を活かさず。

  大才は、袖すり合うた縁をも活かす。

               柳生家の家訓   柳生石舟斎

 

 その縁が10年後に花開く。人生でまかぬ種は開かない。人生は何にどれだけの時間と金と情熱を投入したかで、それに比例して花開くのだ。最近、この10年後というキーワードを実感している。今、種をまいても収穫は10年後なのだ。今やっている事は10年後にしか効かない。しかし、やらなかったら10年後にボディブローとして効いてくるのだ。しかしその時に気づいても遅いのだ。(初稿 2003年7月14日)       

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2018-03-10

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail : yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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