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2018年3月12日 (月)

死生観 = 「人生の定義」

 「人生とは何であるか」の定義で生き方が決まる。人生とは何であるかの定義をして、人生の価値を測る物差しを決める。そこから人生は始まる。私は、下記で定義した。英英辞典の中から探して一番納得できた表現であった。

「人生とは、生きている間に行動と経験を積ねながら歩く道である」

The way you live your life, and what you do and experience during it.

“Longman Exams Dictionary”

 

狭き門より入れ

 目の前に極楽の平坦な道があり、もう一方に苦難の起伏に富んだ道がある。一方に広き門があり、もう一方に狭き門がある。一方に食べ放題の道があり、他方に節食の道がある。ずる賢い人間は、動物を捕獲するのに極楽の餌を用意する。金に飢えた食品企業は、美味しい餌をぶら下げて意志の弱い人間を捕獲する。理性ある人間なら、餌に釣られて道を誤るのは避けたいもの。

どちらの道を選ぶかでその人の人生が決まる。

 

死生観を持って

「何のために生きるのかの問題意識を持っていない人は、死生観がなく死に向けた準備もない。死生観がない人は、日本人の9割を占め、信仰なしの人は7割弱も存在する。死への準備がある人は覚悟を持っており、その準備のある人の86%は延命治療を望まない。(『週刊ダイヤモンド 2016年8月6日号』)」

 人間として生まれたなら、死生観をもって生き、死に覚悟をもって臨みたい。我々は犬畜生ではないのだ。

 

人は自然の一部と解釈

 人は大地から生まれ、大地からの恵みで成長し、必ず生まれた大地に還る。大地も自然の一部で、四季折々の変化を見せる。それは自然が声なき経を読んでいる姿である。自分の生きる姿が自然の風景なのだ。人生にも春夏秋冬がある。自分もいつかは自然に還る身である。人生を大地と定義したら、それを耕し豊潤な大地にするにはどうするか、その豊かさを測るものは何かを決めてから始めるべきだ。その定義は百人百様で、自分の定義を定めればよい。それは解釈の問題でもある。人生という事実があるのではなく、その人がどのように人生を解釈して生きたかである。それによって死に方も異なる。

 

人生という大地を耕す

 人生は自身の広大な大地を耕す仕事に似ている。広大な大地を汗水たらして毎日、死ぬまで耕し続けるのが人生である。毎日毎日が同じことに繰り返しである。長年耕し続けても、大地の見た目は変わらず、耕した後を振り返って見ても、耕した面積は広大な大地のごく一部分でしかない。死ぬまでに耕せる面積は限られている。それでも耕し続けなければ、農夫(人間)ではなくなる。人生を行動と経験の道と定義すれば、多くの行動と経験が大地を豊かにしてくれることになる。

 人間が動物ではない証が、人生に価値を求めて生きることである。できることは限られていると、諦めたら負けだ。勝負では先に諦めたほうが負けなのだ。

 

人生とは仕事

 人生とは仕事であると定義すれば、それにあった人生が展開される。人生で一番多くの時間を費やすのは仕事である。それを「人生は苦行である」と定義すれば、行く先は苦行ばかりである。それは奴隷の人生である。その大地を小作人として年貢を納めるために耕せば、奴隷の人生である。地主として豊かな実りを夢見て耕せば、大地主の人生となる。定義の如何によって働き方、生き方が異なる。良く生きることは良き死生観ともなる。

 より広く開拓して耕すのか、より深く自分の地所を耕すのか。方法は千差万別ではあるが、耕し続けた人は幸せである。その大地が豊かになったかどうかは、植えた木が大きくなる20年後でしか分からない。分からなくても、ひたすら耕し続けるのが人生である。その実りを子孫が受けるのも人生の定めである。自分もご先祖の植えた木の恩恵を受けて育ってきたのだ。

 

西洋の労働観

 欧米の労働観では、労働は神がアダムとイブの過ちの罰として与えた苦役であるとされる。そのため欧米人は金が出来たらさっさと引退して悠々自適の生活を送る。労働を苦役とするから奴隷制度が生まれ、戦争して勝てば敗者を奴隷としてこき使うという思想が生まれる。それに対して、日本では労働を神聖なものとして考えるので、日本には奴隷文化は生まれなかった。世界でも稀有でありがたい思想である。それが現在は欧米の拝金主義で汚染されつつある。ホリエモンのように、金が全てという考えの人間が出現する有様である。それは金の奴隷になること。

 

会社の存在意味

 自分が何のために存在しているか、それを現すのが志であり、家族の一員なら家訓である。そこに生きるための指針が示されている。同じように企業は何のために存在するかを示すのが経営フィロソフィー、経営理念である。Toyota way、pasonic way といった道で示した例も多い。己の会社が何のために存在するかを忘れたとき、企業は存亡の危機を迎える。会社の寿命は30年である。創業者が築いた企業基盤を、後継者がその会社の存在理由を忘れて、ゴルフ、酒の放蕩におぼれたとき、金儲け至上主義に陥った時、天は会社の存在理由がないとして倒産を宣告する。有名一流企業でも、後継の社長が利益追求や権力闘争に明け暮れ、創業者の会社理念を忘れて会社を没落させる例が頻発している。JAL、ソニー、東芝、松下、三菱、日産……..。

 企業は社会に貢献してそのお礼としての利益を国と従業員に配分する。赤字会社は、国が税金で用意したインフラをキセル行為で利用している。それでは使用済み核燃料と同じで、赤字企業は社会の利益に貢献しない使用済み企業である。さっさと潰れるのが社会の為である。存続は税金の無駄遣いである。

 

自分の存在意味

 世に役立ってこそ、自分の存在意義がある。企業の不祥事を他山の石として己の存在意義を考えたい。この世でお世話になるのなら、死ぬまで世の役に立つ仕事をして生きよう。

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2018-03-12

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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