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2017年9月

2017年9月23日 (土)

閻魔大王に閻魔帳を突きつけられて…

 閻魔大王の閻魔帳には、己の日々の善悪の所業が記録されている。その閻魔帳とは、己の体そのものであることに、目の病気を患ってから初めて気がついた。人が自分の死を意識するのは、病気をして各器官にも寿命のあることを思い知り、終りを意識せずに登ってきた未来への道が、登りきった坂の上の曲がり角で陥没しているのを発見したときなのだ。その時になって初めて、後ろからヒタヒタと迫り来る死を明確に認識する。

 

四季は、なお、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前より来らず、かねて後ろに迫れり。人みな死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

          (吉田兼行『徒然草』第155段  1331年)

  

あそこまで登れば新しい道が見えると登ってきた道に、いつしか夕日が迫る。夕日が己の姿を照らし、その陰が長く地表に延びる。

 

あの世のトヨタ生産方式

 人は還暦を過ぎるとあの世ではなく、この世で閻魔様より閻魔帳を見せ付けられる。昔は死んでから閻魔様に前に行って、閻魔帳に記録された前世の善悪の所業を審判された。しかし、人の寿命が昔の40年から80年に延びたので、閻魔様もあの世では暇になって、閻魔様が、負荷の平準化のためトヨタ生産方式を導入して、現代人に因果応報を生前に知らしめている。閻魔様も不届きものが増えて、その審判の忙しさで過労死寸前なのだ。なにせ1975年には206,702人だった癌患者が、2012年には865,238人(厚生省データ)と急増なのだ。その忙しさ解消のため、健康に関する審判を現世ですることになった。ご先祖から預かった体を虐めると病気になるのは、自然の理である。病気とは己の体への悪業の積分の結果である。己の体を正しく維持管理しなかった証である。それを「運が悪い」とか、「なんで私だけが」と言うのは、お門違いである。全てのことには原因がある。それを仏教では因果応報という。それに早く気が付いた人が、閻魔様より長寿というビザ有効期限延長書がもらえる。その分、閻魔様の負荷が減る。たまには閻魔様の身になって考えよう。

 

この世の地獄

 昔は老衰が自然な死亡の原因であった。人は寿命として納得して死んでいった。時代が変わり、人は贅沢になり、贅沢が原因で様々な病気を発症する。医療技術が進歩しているが故、金を積み名医にかかれば病気は治ると思い込む。しかし、それが拒絶されると「お前はヤブ医者か」と正直に病状を話す医師を罵倒する。藁にすがった己の愚かさを悟り苦しみ死んでいく。これは地獄である。それは、生あるものは必ず死を迎える、という真理を考えないで生きてきた証である。

 

己の道

 古代中国の各都市は城壁で囲まれていた。その外側は魑魅魍魎(ちみもうりょう=山の怪物や川の怪物)が住む恐しい場所と信じられていた。城壁の外に出て、その恐ろしい場所を通って他の都市に行くときは、異教徒を殺し、魔よけとしてその生首をぶら下げて歩いたという。その歩いた所が道となった。それが道の語源である。道の「しんにゅう」は十字路を意味する。

 

未来を拓く道

 現代で、全く新しい分野の道に進むには、自分の首をかけて未開の地に道を創る意気込みが必要である。何時の時代も、新しい道には夢がある。夢は命をかけてこそ実現できる。時として足元は、己を含めた多くに先人の失敗で血の海である。死屍累々の中をひたすら前進して道を創る。なにもしないでいれば、座して死ぬだけである。己の失敗という生首が、後進の道しるべとなる。それも人生、人生に無駄はない。一人の成功の足元には先輩の尊い失敗がある。自分はその失敗を避けて、可能性のある新しい道を進む。先人に感謝をして進むべし。

 

図1 馬場恵峰書(2013年入手)

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2017-09-23

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2017年9月22日 (金)

吾がトロッコ人生

 人生の道は鉄道に似ている。基幹路線もあればローカル線もある。そこを走る列車にも新幹線もあれば、急行電車も鈍行列車もある。どんなに速い列車でも鈍行列車を使っても、途中下車さえしなければ、目的の到着駅には必ず到着する。早い遅いはあるが、いつかは終着駅に着く。人生の旅の終着駅は死である。最速の新幹線で行けば、早くは着くが途中のいろんなご縁をすっ飛ばしての到着となる。到着が目的ではなく、その過程が人生の目的である。鈍行電車には時間が多くあり、多くのご縁と出逢いがあり、景色を楽しみながらの旅となる。どちらが良いか悪いかの問題ではない。その人が選択した人生であり、その結果の運命である。

 

手押しトロッコ

 多くの路線、電車の中でも、なぜか私はトロッコに気が引かれる。トロッコは、必要な時に必要な場所に必要な線路が引かれ、必要な物資を運んで、お役目が終れば線路が撤去される。人生の後始末が美学のように思えて、好きな乗り物である。まだ日本が高度成長期に突入する前の昭和30年頃で、私が幼少のころ、地元の建設現場に工事用の手押しトロッコがあり、夕方になって作業員達が帰った後、ガキ仲間と一緒にトロッコで遊んだ記憶がある。自分の力で押して進行できる趣が好きだ。

 

生業を楽しむ

 吾が人生路は既定の路線ではなく、自分に必要な経路に新しいトロッコ線路を敷設して己が荷物をトロッコで運ぶのが良い。それが第三の人生に分相応である。出世競争も、追い越しもなく、時刻表もなく、人生の使命を黙々と運ぶ。それが生業である。皆さんが楽しんでいる歓談の場で、場の空気も読めず出世話しを押し付けるようでは、会社の元肩書きは空しい。そんな生臭い話に興ずるよりも、黙々と自分の生業を楽しむ。それが本当の人生ではないか。周りを気にして、智に働き、情に流され、意地を通せば、人生の脱線転覆である。会社人生で、ストレスのため病気になり早死にした仲間がなんと多いことか。住みにくい現世では、定年までは世の中へのお勤めとして精進して、その年季奉公が終った後の第2、第3の人生は、世のシガラミに囚われずに、自分のトロッコ路線を進みたいと思う。

 トロッコに集めることだけ、入れて運ぶだけに忙殺された人生を送る人は、目的地に着いたとき、荷は降ろさねばならず、置いて行かねばならぬことを悟り、そこで何のために生きてきたのか覚醒して愕然とする。目の前の財に身が眩み積むことだけを考えると、虚の世界に取り付かれた亡者となる。それは集めても集めても、満足しない死鬼衆である。人は見たい物しか見ていない。美しく見える虚の世界に振り回されてはならぬ。

 

図1 馬場恵峰書(2017年入手)

 

2017-09-22

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「桜田門外ノ変」の検証 (26)文書道神様

テクニカルライティングの神様との出会い

 早稲田大学篠田義明教授のテクニカルライティング(科学工業英語)のセミナーを社内受講して、まるでダイナマイトを食らったような衝撃を受けた。それは今まで学んできた日本語の書き方とは、一線を画する文書作成の論理構成を教える講義であった。先生の講義に出合えたおかげで、会社創立50周年記念論文募集で最優秀賞を受賞でき、ご褒美で欧州に行かせていただいた(稟議費用100万円)。それをご縁に、1994年にミシガン大学夏季テクニカルライティングセミナーに自費参加し、3回目の挑戦で科学工業英語試験1級(TEP1級)に合格し、作っていただいた会社の制度で1997年に再度、ミシガン大学の夏季セミナーに出張参加ができた。

 

企業内の教育現場の姿

 篠田先生はいつも、研修担当が講義に顔を出さないことに怒っておられた。一流企業だと必ず、役員や部長が先生の講義ぶりと生徒の受講状況を視察に来るとか。多くの企業を観察をするとそういう企業は成長している。それに反して、教育に無関心なトップの企業は、衰退や消滅している例を私は身近で多く見てきた。

 それを教訓に、私が運営した新人・中堅技術講座では、必ず講師の講義振りを評価するために顔を出して、翌年度の講師依頼の可否のデータとしていた。講義姿をみれば、その人の仕事のレベルと人格は分かる。今はそんなことまで配慮する事務局がないことが哀しい現実である。またそんなことを教えてくれる先生もいないのが現実である。そんなことまでを、体で教えていただいた篠田先生とのご縁に感謝です。先生とは20年来のお付き合いをさせていただいている。先生から学んだテクニカルライティングの手法がどれだけ仕事の役に立ったか計り知れない。文書は仕事とコミュニケーションの基本である。

 この学びでの浮かび上がる問題は、文書での言い方がきつくなることである。特にメールでのやり取りでは、けんか寸前になることがよくあった。欧米の単刀直入の言い方、書き方は、日本文化にそぐわない場合が多々あり、使い分けが必要であることを、何回もの痛い経験から学んだ。言葉とはその国の文化なのである。日本語ではあまりダイレクトに言わなくても分かってくれるはずとの前提で文書が構成される。日本語では「私」という主語がない方が、当たり前の文法で、「私」を前面に出すと押しつけがましいとの印象が持たれる。ビジネス文書と私的文書のバランスの取り方が難しいと今でも感じている。

 

人財育成を推進

 技術部門の担当部署でその長のときは、部下の文書の書き方について、こだわりを持って部下を指導してきた。企画部門に異動してからは、部品事業部全体を考える立場になったので、その事業部に配属になった新人、中堅技術者に対して、技術教育講座を開設し、日本語のテクニカルライティングの講義・添削指導を8年間することになった。人に教えることは、自分への良い勉強の機会である。その時に痛感したことの一つが、そういう教育の場に社長はおろか、直属の長さえ顔をださないことで、自分の会社の行く末を案じた。その危惧は悲しいが当たった。多くの研修講師と話をしたが、その研修会場に顔をだすトップはごく少ないとのこと。一流の会社ほど、トップがそういう教育現場に顔を出すようだ。多くの経営者は教育は大事だと、口先で言うが、それを後ろ姿で実際に示す経営者は少ないのが現実である。これも成果主義の弊害であろう。教育の成果は10年後なので、目先の成果に囚われる経営者は見向きもしない。

 

図1 名古屋キャッスルホテルにて(2000年8月24日)

   前列左から二人目が篠田先生、一人置いて後藤悦夫先生、著者は左端

 

2017-09-22

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人生道を疾走

 人生の街道を「自分の体」という乗り物で疾走するには、安全が最優先である。それは自動車の運転で問われる課題と同じである。その中でも、普通の運転者より高い技量が求められる自動車メーカのテストドライバー資格での最優先事項は安全である。試験車運転資格試験で問われるのは、3Sの能力である。3Sとは、安全 (Safety)に、素早く(speedy)、滑らかに(smooth)である。これを言い換えると、次の表現になる。

 

 自分の子供が急病になって、車で病院に連れて行かなければならない。焦って安全運転を怠れば、事故で病院にたどり着けず、子供が死んでしまう。低速で走れば、時間がかかり子供が死んでしまう。スピードを出して乱暴に運転すれば、振動や衝撃で容態が悪化して、子供は死ぬ。安全に、素早く、滑らかに運転して、我が子を病院に送り届ける。これがテストドライバーに求められる能力で、これがないと自動車部品の評価はできない。

 

仕事のやり方の象徴

 これは安全確認の心構え(危機管理)である。これは全ての仕事のやり方を象徴である。子供を仕事の置きなおすと、仕事の心得そのものである。この資格の実技試験で、急ブレーキを踏むと一発で不合格である。なぜなら危険の予想が出来ていないとの判定である。事前に危険を予測できるのに、それを怠った結果が急ブレーキである。安全確認の心構え(危機管理)ができていない。

 3秒前に方向指示をしてから車線変更をする。要するに、自分や組織は何処の方向に向うのか、周りにも部下にも、適正な時期に示せ、である。

 サイドブレーキを引く時は、カチャカチャという音を立てず、ノブを押しながら引け。車をいたわり優しく操作をせよ、である。仕事や周りへの心配りである。

 曲がる時は、右よし左よし後方よし、と呼称する。安全の自己徹底で、仕事でチェックリストを使うのと同じである。今でも私は呼称運転をしている。

 

私の運転の作法

・曲がらない。ひたすら大通りを走り、裏道は走らない

 曲がるからタイヤに余分な摩擦が生じてタイヤが磨耗し、ガソリンを無駄にする。曲がるとは無駄な変化があるから、事故を起こす。近道のため曲がって走っても、到達時間は同じ。裏道は事故が多い。人生道はひたすら真っ直ぐに表街道を走る。

・ブレーキを踏まない

 ブレーキを踏むのは予想運転をしていないため。止まるにも、エンジンブレーキをかければ、省エネにもなり、ブレーキパッドも減らない。相手にブレーキを踏ませない。無理な運転をするから、相手がブレーキを踏むという迷惑をかける。人生道は譲り合って、走る。私の車のブレーキパッドとタイヤの寿命は普通の人の2倍です。

・なるべく車を使わない

 事故は[事故確率]×[走行距離]の確率で起きる。各要素の数値を減らせば、事故の確率は減る。車とは目的地に行く手段である。走るのを目的にしてはならない。

 

後日談(2013年)

 2013年2月14日、馬場先生宅に知己塾出席のため訪問した。当日、先生の運転で市内へ食事に誘われた。その時の運転が、先生の人格らしからざる水準であった。要するに、仏の馬場恵峰先生がハンドルを握ると人が変わった。車は人を虜にする魔物である。そこに車の素晴らしさと恐ろしさがある。見るに見かねて、後日、運転の改善をお願いする手紙に、自著の運転ノウハウ資料『交通安全の科学』を添付して、おそるおそる差し上げた。なにせ私の師である。事故があれば日本の宝の損失である。諫言を書くのは一大決心であった。

 その後、三根子先生から絵葉書の礼状が届き、「心暖まる運転のご忠告ありがたくお受け致します。私も実はハラハラドキドキで乗せていただく時もあり、言うとオコルので、言えません。でも小田先生からお便りをいただき助かりました。心から感謝です」である。馬場先生は神業の筆力を持ってみえるが、やはりシャイな暖かい人間であった。安心した。

 その1ヵ月後の3月27日、岐阜駅じゅうろくプラザで先生の講演会があり、「平常心」の掛け軸を書かれた。先生の手にかかると数分間でうん万円の書が完成する。その背景には80年間の修行がある。

 翌日、馬場先生は「奥の細道むすびの地記念館」の見学のため大垣を訪問され、私が案内をさせて頂いた。その昼食会場で、前日の「平常心」の掛け軸を贈られた。さすが人生の達人の先生は、お礼の表現もさりげなく、超一流の芸を駆使される。感謝です。

 車の運転では平常心が必要である。自分という乗り物で、人生道を平常心で走り、走った跡を「道」にする。平気で死ねる、平気で生きられることが人生修行である。横を走る車と比較し、競争する必要はない。人と比べることは自分を失うこと。

 

後日談2(2017年9月)

 今でも夜遅く先生宅を訪問すると、先生が私をホテルまで送ると言う。91歳の先生に、深夜、車で送らせるのは、弟子として恐縮でもあり、今までは言い訳をしてタクシーを呼んでいたが、考え直して、それが先生の元気の素のようであるから、「運命に身を任せて?」車で送って頂いている。最近は以前に比べれば大分運転がおとなしくなった。やはり言うべきことは、言わないと駄目である。先日、恵峰先生が健康診断で国立病院に行ったら、担当医師から「恵峰先生の頭はまだ20歳代である。どうしたらそうなるのか?」と逆質問されたという。絶句!

 

2017-09-22

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2017年9月21日 (木)

自分とは何か、我とは何か

 「自分」とは、生かされている全体の中で、「自ら」の「分」である。己は世の中の一部として考える姿である。その反対が「利己」である。己のことだけしか考えないから、囚われの闇の世界に落ちていく。

 「我」とは稲(禾)を刃先がぎざぎざしたほこ(戈)で刈って、自分のものにしている様を表わす。「私」とは稲(禾)を腕(ム)で自分のものとして抱える姿を表している。

 

私の使い分け

 英語を筆頭にした欧米の言語では、必ず主語として「私」が書かれる。文法的に主語がない文章は成立しない。しかし、日本語では、往々にして「私」がない文が存在するし、なくても理解できる。それが日本社会の特殊性が表れている。日本では、文書で「私」を前面にだすと、押しつけがましく、謙虚さが無くいように思われる。だから手紙が論文では、私はあまり出てこず、「そう思われる」と誰が思うか曖昧な文章が多い。それも日本人だけの世界なら許されるが、現代の世界を相手にしたビジネス社会では、問題となる。ビジネス社会では、主語と主張を明確にしないと、察しの文化は通用しない。日本文化の社会と欧米式の社会の見極めをして、使い分けをして、主義主張を明確にして論理を展開すべき時代となった。

 

自分の使命

 自分とは曼荼羅という人間舞台で、一つの役割を演じる一佛なのだ。人生曼荼羅で、天から与えられた使命のため、あるお役目を演じている。その使命を知るための業が修行である。そして段々と成長(出世)して、中心の大日如来に近づいていく。せめて大日如来に王手をかけた状態でこの世を去りたいもの。投げる人生であってはならない。天に召されるまでに、いかに未完成で、より高く魂を向上させるかが大日如来(宇宙の真理)から問われている。芸術も人生も同じで完成はない。人生とは自分つくりの芸術活動なのだ。

 

「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。1日を大切に精進したい。」  奥村土牛画伯

 

2017-09-21

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「桜田門外ノ変」の検証 (25)文書道

現代に繋がる井伊直弼公との縁

 テクニカルライティグのご縁

 2004年3月11日、テクニカルライティングの世界的権威であるミシガン大学スチーズンソン教授との再開の機会があり、その席で、彦根市とミシガン大学のあるアナーバー市が姉妹都市であることを初めて知った。このアナーバーには1994年と1997年の2回、計20日程滞在したことあり、ずいぶん縁と言うのは深いもので、いかにそれに気付かず過ごしているかと感慨を新たにした。

 私のテクニカルライティングの師である早稲田大学の篠田義明名誉教授は、アナーバー市の名誉市民でもある。1994年に初めて私はアナーバー市の地を踏んだ翌年、先生は長年のテクニカルライティングの普及の功績で、アナーバー市の名誉市民の栄誉を受けた。深いご縁である。私がこの面の能力を身につけるきっかけも、篠田先生との出会いが縁である。先生の講義はまさに私にとって衝撃的なメッセージとなり、この面の勉強を始める縁となった。コミュニケーション力とは、データmと加速度αで伝える力Fが決まる。それを実感させて頂いた講義であった。その先生も2004年、古稀のお祝いを受けられた。

 

文書という武器

 昔の武士は刀で戦った。現代のビジネス戦士はペンで戦う。ペンは刀より強し。文書はときには人を切り、情報戦争の上で戦いの武器ともなる。その武器としての文書構成方法がテクニカルライティングである。その技法を学んだご縁は、その後の仕事に大きな力となった。新人教育の講師としても、この文書作成手法や文書デザインを新人に教えた。

 

事例:大垣駅前商店街の衰退研究

 多くの人に事実を伝えるのは文書の力である。その伝え方には、「道」がある。何が問題か、何が原因か、真因は何かを明確に論理的に展開して、伝えないと、相手に伝わらない。論理性がないと、声を大きくして相手にえても、相手の心にしていない。こちらの情報が、相手に伝達されないのだ。その真因が何かを明確にして追及しないと、対策もポンボケとなる。現在、大垣駅前商店街の衰退について研究している。今まで漠然と衰退を議論して、大変だ大変だと騒いでいても、具体的な現実のデータと原因と対策で示さないので、無責任な為政者が動かない。相手も責任逃れに必死である。

 

論理的な解決策

現状把握

 どれだか商店街が衰退したか、そのデータを示す。

  現在の閉店数の調査、図示

  公式データで、実際の状況を明確にする。

  産業従業員数等で、時間的な推移を示す。

 視える化

  話しだけではなく文書で視える化して、冷静に解析する。

 何が原因か、「何故なぜ?」を5回繰り返して追及する。

 真因の追及

  表面的な原因ではなく、真因を明確にする。

  対処療法ではなく、真因を明確にして、手を打つ。

 責任の明確化と対策

  曖昧に責任の所在を明確にしないから、解決ができない。責任者は多額の報酬をもらっていて、多くの人の命・生活を守る責任がある。それを個人攻撃になるかと遠慮して、曖昧にするから問題が解決しない。

 責任者とは

  責任者とは決断すること。責任者とは主座である。責任者には、報酬に見合った大きな責任が発生する。それを曖昧にするから、ますます大垣市が衰退する。責任者には、大垣市民の生活と命がかかっている。

 

大垣市の開国

 井伊直弼公が、米国のペーリ総督の黒船の大砲の武力という脅しで開国を迫られた。井伊直弼大老は開国という正しい選択としたが、桜田門外の変で、世界情勢を理解できない偏狭的な日本人に殺された。敵は本能寺、である。現代の我々ビジネスマンは、危機状態に論理的な対応しないと、身内に殺される。今は、敵は外国や県外の商人ではなく、事なかれ主義の何もしない市の役人が、我々の敵なのだ。何もしないし声も出さない、サイレント殺し屋である。業務改革では、何もしないのが最大の罪なのだ。市民が声を出さないから、大垣駅前商店街が静かに20年かけて殺される。もう商店街の61%が殺された。自分の城は自分で守れ。自分達も改革しないと生き残れない。

 図1 『武道としての情報設計』

2017-09-21

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法界定印と佛の心

 この世の所業を色づけして見るのは、自分の欲である。「欲」とは「谷」に落ちても「欠」けないものと書いて「欲」である。「慾」は、死ぬまで消えない人間の業である。慾は大事である。生きる慾まで無くしたら、生きる屍である。生きる為、魂の浄化を忘れて、刹那的に欲望のまま60年も娑婆で生きてこれば、人間は、餓鬼にも幽霊にもゾンビにも認知症にも落ちぶれる。

 

法界定印

 法界定印とは、座禅を組むとき、右手を下にして左手を上にして組む印相である。印を組むとは、心の状態を印のごとくにして、魂の姿を象徴する形である。法とはサンズイの水が去ると書く。何時でもどこでも誰にでも通用する世界で、心の平安、悟りを得たことを示す印相である。

 法界定印とは、右手(right、正しい、浄、陽)で、我儘な左手(left、誤、不浄、陰)を支え包み込んで現す座禅の印である。仏教発祥の地インドでは、左手は不浄の手であるが、左右の手に善も悪もない。己の持つ善悪の心がそれを勝手に決める。それを全て包含した形が法界定印である。なぜ右手が下か、それは開祖様がそう決めたに過ぎない。

 

真面目に殺し合いを防ぐ

 いくら佛に帰依しても、矛盾に満ちた世の中は正しいことばかりでは、生きて行けない。世には強欲に他国を侵略しようと企んでいる国がある。平和の時は友好でよいが、戦争の時は真面目に敵と殺し合いをしないと銃後の肉親が皆殺しになる。時代と状況と価値観の差で善悪の評価が180度変わる。平和時に1人を殺せば極悪非道の殺人者だが、戦争時に原爆で10万人を殺せば英雄である。1945年3月10日の米軍による東京大空襲で、10万人の女、子供の非戦闘員が米軍に焼き殺された。アウシュビッツのホロコースト以上の犯罪である。この無差別爆撃を指揮したカーチス・ルメイに対し勲一等旭日章の叙勲がされた。スミソニアン博物館でエノラ・ゲイ展を企画した館長は、在米軍人会から袋叩きの目に遇って博物館を去った(1997年)。火事場泥棒のロシアは、シベリア抑留で日本人を10万人殺した。私の父が極寒の地に抑留された。私の叔父が殺された。これが矛盾に満ちた人間社会である。

 やるべきことは、そうならない状況に陥らないように対処すること。非道の国に、聖人の論理は通用しない。ウィーン国際条約を破ったり、不可侵条約さえ破棄して攻めてくる国が近隣周辺に存在する。それをご先祖やチベットの僧侶が命を犠牲にして教えてくれた。チベットに平和憲法がなかったから侵略されたのではない。自国を守る軍隊がなかったのだ。プロレスラーに喧嘩を売るバカはいない。守るべき武力を持っていれば、強盗もおいそれとは侵略してこない。非武装中立とは、自宅の戸締りをせず、就寝したり外出するのと同じである。鍵を掛けないのはバカである。サヨクが外出時に施錠しないとは聞いたことがない。狩猟民族の欧米がアジア諸国を植民地にしたのは、江戸時代から昭和の時代である。アジア諸国に列強欧米の侵略を防ぐ戦力がなかったためである。アジアで日本とタイ以外は、欧米の植民地にされた。その歴史を学ばない民族は亡ぶ。

 

佛の教え

 禅では人間が持つこだわりを捨てよと諭す。捨てたらそのこだわりを捨てたことも忘れろという。こだわるとは、己の心に壁を作ること。心を閉ざし、色眼鏡でモノを見ることである。

 佛像を真摯に見つめていると、自分が悲しいときは、佛像も一緒に悲しんでくれ、嬉しいときは共に喜んでくれるのを感じる。落ち込んでいると叱ってくれる。佛像に語りかけると、応えてくれる。佛像は自分の心を写す鏡である。佛像は自分の心に相応して表情を変える。自分の心の格が上がれば、佛像の心の声が聴こえる。

 釈迦如来の佛像が示す法界定印の形は、左手が下で右手が上であり、人間が座禅でする法界定印とは、鏡で写すが如く左右逆である。佛像は人間の心を鏡として表す姿の象徴として作られた。そのため、鏡に映るがごとくに左右逆に彫られたようだ。法界定印を調べたがよく分からず、本稿は私の解釈です。

 

運転における法界定印

 座禅と佛像の法界定印を調べていて、車の運転姿勢に考えが及び、ハンドルの握る形が車界定印であると思い至った。自動車メーカのテストドライバー資格の訓練では、ハンドルの操作方法が厳しく指導される。娑婆の自動車学校で指導する方法とは違うことを、この運転資格を取得するため訓練を受けたとき教えられた。

 この訓練では、ハンドルは2時と10時の位置に手を置き、ハンドルを軽く押さえつけるだけで、握り締めてはダメと教えられる。握り締めると、それに拘束されてスムースなハンドルさばきがしづらくなり、試験車評価試験で必要なスピーディなハンドル操作が出来ないからである。曲がる時は、ハンドルを送る感覚で、ハンドルに手を添えて曲がる操作をする。真っ直ぐな道では、ハンドルをそっと押さえて振れないようにするだけである。実に理にかなった説明である。

 

人生運転の操舵

 人生で、緊急事態の遭遇したとき、あるべきものを握り締めて放さないと、適切な行動が取れない。くだらないしがらみに囚われて、多大な損失を蒙ることもある。人生の曲がり角で、前の履歴を握り締めて、滑らかな方向転換に失敗した人は多い。人生の曲がり角を曲がり、新しい世界に方向展開する場合は、前の世界は捨てなければならない。それをきつく握り締めているから禍となる。ものに執着して手に入れても手放すことをしない人生とは、餓鬼道の人生。食べても食べても満足感がない。それでは人生を快走できない。

 座禅で印を崩すと痛い警策が肩に飛んでくる。車の運転で横着をすると痛い目の交通事故に遇う。人生道の王道は、法界定印を行じて走れ。平常心で人生道を歩め。法界定印を行じると、人生という自分の乗り物のコンプライアンス値が高まる。

 

図1 座禅の法界定印

図2 仏像の法界定印

図3 正しいハンドルの抑え方

図4 ハンドルを握り締めてはダメ

図5 間違ったハンドルの握り方

図5 恵峰先生の揮毫

 恵峰先生が岐阜で講演をされた時200名の聴衆の前で揮毫をされた。正に平常心での揮毫である。この書を翌日、贈って頂いた。感謝。岐阜にて。2013年3月27日

図6 恵峰先生書

 

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2017年9月20日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (24)長松院

 恵峰先生を案内して彦根の各所の碑文を見て回ったため、すっかり遅くなって2015年11月29日16時過ぎに、長松院に辿りついた。当初の予定の彦根城博物館と彦根城は見学の時間がなくなってしまったのが心残りである。清涼寺での参拝の時間が想定外であった。しかしよきご縁出合ったのが救いである。長松院では、最初に恵峰先生を改建したお墓に案内をした。やっと今回のお役目が半分かたづいたようだ。

 

日下部鳴鶴書の軸

 長松院の奥座敷にある直政公の騎馬武者姿「井伊直政公出陣之繪圖」に日下部鳴鶴の署名が記されている。その軸のところに先生を案内したら、恵峰先生が数分間じっと眺めておられた事態に驚きである。日下部鳴鶴は恵峰師の宗師にあたる。日下部東作と署名があり、それは日下部鳴鶴の若い時の雅号である。私も2年前(2013年)のお盆のとき、東京の書家からそれを教えてもらって知った。実にこの書を法事の度に見ていたが、日下部鳴鶴の書であることを知ったのは、その時である。お宝は足元に埋まっていた。

 

「井伊直政公出陣之繪圖」

 この軸は井伊直政公没後300回忌(明治34年、1901年)に合わせて描かれた。井伊直政の赤備えの凛々しい騎馬姿を描いた縦2.7×横1.65mの大きな掛け軸である。赤備えは武田家の由来で、恵峰先生のご先祖の馬場春信公にご縁がある。長松院は、井伊直政公の幼名、虎松の一文字を取って長松院となった。井伊直政公没後、300回忌には火葬した場所に供養塔が有志の手で修繕整備された。そのおり、この絵が長松院に寄贈されたという。左下に彦根藩士で明治時代の書家日下部東作(日下部鳴鶴)が記した漢詩が揮毫されている。絵は日本画家の青柳琴僊(1867~1962)の作である。

 

奥山に紅葉踏みわけ

 その後、住職さんとしばし歓談をした後、私の運転で大垣のホテルに向った。 その夜のホテルの食事会で、お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫された。私がいつも写経をしている筆ペンで、色紙の絵柄に沿った和歌をさっさと揮毫された。弘法筆を選ばず、である。

 

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」

           猿丸太夫(5番) 『古今集』秋上・215

(現代語訳:人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)

 

図1 改建したお墓の前で

図2 日下部鳴鶴書の軸の前で恵峰先生

図3 「井伊直政公出陣之繪圖」長松院

図4 長松院の喫茶室で恵峰先生の歓談 2015年11月28日17:00

    頭上の「和敬静寂」は恵峰先生書(寄進)

図5 井伊直政公の供養塔 長松院

図6 お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫される恵峰先生

   11月28日19:00 ロワジールホテル大垣 「あじさい」にて

図7 揮毫された色紙

 

2017-09-20

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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大垣駅前フェリー 61%沈没(改定)

現状把握

 大垣駅前商店街のシャッターを下ろした店舗の現状把握をした。2017年9月2日(金)のお昼過ぎ(13時)に、大垣駅前商店街を一回りして店舗の廃業状況を写真に収めた。

 

結果:廃業店舗比率

 139店舗中、シャッターが下りたお店は68軒で、46%に及ぶ。大規模小売店が閉店して、跡地がマンションになったタマコシやヤナゲンB館を含めて、50のテナントがあったと推定して計算すると、192店舗中、117店舗が店を閉めた。それは60.9%になる。それも現在、増加中である。あくまで駅前通りの話で、駅前通りの横道に多くあった小売店の数は計算に入れていない。

 計算では、夜しか開店せず昼間はシャッターを下ろしたお店は、シャッターを下りたお店とした。それでもそれは6軒ほどである。また予備校は、以前商店であったので、シャッターを下ろしたお店としてカウントした。空地も以前は商店であったので、カウントに入れた。

 

大垣市の産業解析(産業人口推移)

 大垣市の産業人口は、この5年間で1%減である。日本全体がデフレ経済下であるので、まあ妥当な数値である。大垣市の第三次産業に従事する人口占有率は69%である。5年前に比べて人員数が2%増である。第2次産業に占める割合は、31%で、5年前に比べて人員数が6%減である。つまり大垣は工業都市ではなく、商業都市として繁栄している。

 第2次産業の内、一番比率の多い卸売業、小売業は全体に占める割合が20%で、5年前に比べて人員数で4%減である。伸びているのは、医療・福祉関係で、40%増である。各分類で第3番目である。それでもその占有比率は10%ほど。

 

敵前逃亡、見殺し

 2016年の大垣市長選挙の半年前くらいの時、大垣駅前商店街を訪れた小川市長に商店街の役員が商店街活性化の件を立ち話でお願いしたら、「〇〇さん、空き店舗は、パーキングにすればよろしいがな」といったという。

 その大垣市長選の前に、大垣駅前商店街が意見交換会を提案したら、小川市長から断りの回答があり、「今はその時期ではない」という。それは敵前逃亡、見殺しの言葉である。それなら、その時期は何時か、である。それが17年間も無為無策に過ごして、117店の店主が、店をたたんだ。商店主が店をたたむとは、倒産である。それは商人として人生の死を意味する。117店の店主の後ろに多くの従業員と家族がいた。

 小川市長が、駅前商店街の活性化をこの17年間、全く考えていないし、やる気がないので、市長の顔色しか見ていない取り巻きのヒラメ役人は、絶対に手を打たない。下手に手を打つと市長の意向と違うことになり、左遷させられてしまう。事なかれ主義、保身主義が身に付いた役人が何もしないのは、当然の理である。現在の商店街の哀れな姿は、大垣市長が全てを作り出している。この世では最高のことしか起こらない。

 

死屍累々

 近い将来、大垣駅前商店街が駐車場に整備されても、その時は、車を駐車しても周りに買い物をするお店は消滅している。なんのために駐車しに来たのか、お笑いである。ブラックユーモアである。丸暗記で受験戦争を戦って勝ち残ったエリートの老戦士は、創造性が求められるビジネス社会の現代戦では無力であるどころか、害毒を流す老害の存在である。家族、従業員を含め1,000人を超える生活を支えていた大垣駅前商店街の169店舗中、117店舗が「戦死」、「討ち死に」をして、残りも店も、泥舟から逃れるように脱兎のごとく店をたたんでいる。既に撤去されたヤナゲンB館、タマコシの大型店舗のテナント数を含めると、店をたたんだ数は、60.6%に及ぶ。これは人災、政災である。

 

市長の使命

 政治家として、行政の長の最大の役目は、市民の命と財産と生活を守ること。過去には、日頃、口で偉そうなことを言って、大事件の時、右往左往したリーダが日本の政界には多くいた。

 社会党の村山富市首相(当時)は、1995年の阪神・淡路大震災の時、初期出動を妨害して、結果として助かるべき命を多く殺すことになった。社会党の狭義な主義で、米軍がすぐ援助をするというのに、それを拒否した。当初は、自衛隊の出動さえ、躊躇して、自衛隊が動けなかった。首相の指示がないと自衛隊は動けないのだ。

 民主党の菅直人首相(当時)は、2011年の東日本大震災の時、トンチンカンな対応で、救援の初期出動に躓いて、なおかつ己の我儘で福島原発を危機状態に陥れた。人の命より、己のプライドが大事だったのだ。民主党の某高官は、自衛隊を人殺し暴力集団と呼んでいて、自衛隊を侮辱して士気を落とした。左翼の政治家には、そんなレベルの政治家しかいない。それが日本国民の命を守るべき政治家が演じた戯劇である。

 韓国の朴大統領は、2014年韓国フェリー転覆事故では、セウォル号が沈没するというのに、8時間も姿を現さなかった。陣頭指揮をすれば、多くの高校生の命が助かったのに。

 大垣市長は「大垣駅前フリー」が沈没中なのに、17年間も無為無策である。大垣の産業の第一は第三次産業であるが、比率が少ない第二次産業の恩恵に目をむけて、本筋の現在の第三次産業を無視している。それは市長として背任行為である。大垣駅前商店街の117名(実際はもっと数が多い)の店主の生活を守れなかった政治家に、大垣に大災害が起きたとき、市民を守れるとはとても思えない。今できないことが、次の事件で、できるわけがない。今の対応の姿が、未来のリトマス試験紙である。それは過去の歴史を見ればよい。大垣市長も取り巻きヒラメ役員も、市民の命は眼中にないであろう。今の姿勢を見れば、自明である。今の大垣の姿に、大垣市長の考えの全てが投影されている。

 

大垣の元気ハツラツ市

 活性化といって月1で実施している大垣の元気ハツラツ市でも、飲食店は2割の売上増であるが、一般商店は売上半減であり、全体として大垣商店街は売り上げが落ちている。潤っているのは他市や他県から出店で来ている商人だけである。元気ハツラツ市の当日は、商売にならないので、大垣商店街の多くが当日は店を閉めている。それで、大垣活性化をしていますと豪語しているのはピエロである。他県から来た客も、駅前遊歩道では多くの出店は賑わっているが、地元の多くの店がシャッターを下ろしているのを見て、他の日に来ようとは思うまい。大垣の衰退を晒しているのが、元気ハツラツ市である。名前が皮肉である。他県の業者がハツラツとする政策である。

 

図1 大垣駅前通り シャッターを下ろしたお店の地図(赤で表示)

図2 産業大分類別事業所数及び従業員の推移(大垣市HPより編集)

図3~8 大垣駅前商店街の姿(2017年9月8日金曜日 13時)

 

2017-09-20

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年9月19日 (火)

予告 「100m巻物」の出版

 来る10月11日に100m巻物の馬場恵峰書『百尺巻頭書作選集』を出版します。本日、ユタカコピー㈱との印刷の詳細打ち合わせが終り、明日から印刷の工程に入ります。10月中旬より販売いたします。

 A4横サイズ、全144頁、価格7,000円です。

 

 本ブログは、下記のブログ内容と一部ダブりますが、総まとめとしてご参照ください。

 下記はブログは、詳細情報として、ご参照ください。

   「100mの巻物」という人生(1/2) 2017年8月20日掲載分

 「100mの巻物」という人生(2/2) 2017年8月21日掲載分

           カテゴリ「詞天王が詠う老計・死計 」

『百尺巻頭書作選集』の内容

 本書は、書を学ぶ人のため、書芸の流派を超えて、書は心の鏡、文章は心の声なるものを紙面に分かりやすく多用化して揮毫された。後世に残すために書のお手本として、全種類の書体を揮毫されたのが、本書である。詩仙李白から始め「十首」、「六首」、「60」二字、「50」三字、「40」四字、「52」五字、「35」文、六字「八句」七字「七」、八字「十句」計262課題、唐詩16種、恵峰随筆、絆他9課題、知己塾講話26講(この分だけで15m)、恵峰詩文44、歌詞加古川旅情他恵峰作歌詞24、扇額「30」、扇面かな「21」、古典5、子供のしつけ方10条他名文「10」、一休いろは歌「48」、各種型状かな文42、訓言「10」等々550課題大文字、中字、細字、かな古典、現代かな調和体等の集大成である。

 師の気力自己挑戦の巻を手に取って見て頂きたい。実物を見るのは4人がかりで大変だが、本の形で皆さんに見て頂けるようにしたのが本書である。師は上手でなくとも、真似していただけるような書を残したいとして揮毫された。素人の私からみて3カ所のミスがあるが、きちんと修正はされている。100mの巻物でたった3カ所のミスしかないことに驚嘆である。それも明治の三大名筆、近代書道の父と呼ばれた日下部鳴鶴の書を上回る名筆である(私の感想)。まさに神業で、それでミスがなければバケモノである。師が生身の人間であることの証明ともなる。

 

撮影の経緯

 本書は、日本人も中国人も書いたことの無い100mの巻物に馬場恵峰師が挑戦され、2年がかりで2014年初春に完成された。この話を先生から聞き、こういう御縁は生涯でも滅多にないと感じ、また弟子としても記録に残さねばと思い、2014年4月10日、写真を撮らせて頂くために長崎に飛んだ。写真撮影で百mの巻物を扱うのに、一人では無理なので助っ人として福田琢磨様に応援を頼んで出かけた。

 なにせ百mの巻物なので、まだ誰もこの作品を全部鑑賞した人はいない。たまたま写真撮影の前日に、知己塾の日程を一日間違えてお弟子さんが先生宅を訪れるという御縁があり、私の写真撮影の話を聞いて、それなら、私もお手伝いをさせてもらうと三名の書友の方が写真撮影の応援を頂いた。撮影を開始するととても2人では無理で、応援の書友の方に感謝と、日程を間違えてこの写真撮影の御縁に巡り逢うありがたさを感じた。

 当日200枚ほどの撮影をしたが、帰宅後詳細に確認するとピントがあまく、不出来な写真があったので、再度、取り直す決断をして、一週間後に再度、長崎の飛ぶという御縁ができた。当日は4時半起床、6時32分発の電車に乗り7時50分発の飛行機でセントレアから長崎に飛び、3時間ほどかけて400枚前後の写真撮影(各2回撮影)をして19時50分発の飛行機でトンボ帰りをして22時30分に帰宅した。さすがに疲れが二、三日残ってしまったが、心地よい疲労感のある経験であった。

 その後2年余が経過して、恵峰先生の書の写真集を作成していく過程で、カメラが世代交代し、今の目で見ると当時の撮影の拙さが目についてきたため、カメラを最新型に更新して、2016年11月28日に再度撮影する決断をして、完成したのが今回の書である。

 前回からカメラ、三脚、照明装置、水準器が変わり、撮影技術、編集技術が回数を重ねることで向上して、現時点ではほぼ満足で来る仕上がりとなった。やはり経験を積まないと何事も向上しない。また良い機材は良い結果をもたらしてくれることを再確認した。高いものにはわけがある。

 2017年5月に、初めて馬場恵峰書『報恩道書写行集』を出版して、その過程で多くの学びがあり、その反省を2冊目のこの「百尺巻頭書作選集」に反映できた。何事もやってみなければ分からないことばかりである。初めてこの100mの巻物を撮影して3年目してこの出版が完成する。感慨無量である。感謝。

 

2017-09-19

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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