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2017年9月21日 (木)

自分とは何か、我とは何か

 「自分」とは、生かされている全体の中で、「自ら」の「分」である。己は世の中の一部として考える姿である。その反対が「利己」である。己のことだけしか考えないから、囚われの闇の世界に落ちていく。

 「我」とは稲(禾)を刃先がぎざぎざしたほこ(戈)で刈って、自分のものにしている様を表わす。「私」とは稲(禾)を腕(ム)で自分のものとして抱える姿を表している。

 

私の使い分け

 英語を筆頭にした欧米の言語では、必ず主語として「私」が書かれる。文法的に主語がない文章は成立しない。しかし、日本語では、往々にして「私」がない文が存在するし、なくても理解できる。それが日本社会の特殊性が表れている。日本では、文書で「私」を前面にだすと、押しつけがましく、謙虚さが無くいように思われる。だから手紙が論文では、私はあまり出てこず、「そう思われる」と誰が思うか曖昧な文章が多い。それも日本人だけの世界なら許されるが、現代の世界を相手にしたビジネス社会では、問題となる。ビジネス社会では、主語と主張を明確にしないと、察しの文化は通用しない。日本文化の社会と欧米式の社会の見極めをして、使い分けをして、主義主張を明確にして論理を展開すべき時代となった。

 

自分の使命

 自分とは曼荼羅という人間舞台で、一つの役割を演じる一佛なのだ。人生曼荼羅で、天から与えられた使命のため、あるお役目を演じている。その使命を知るための業が修行である。そして段々と成長(出世)して、中心の大日如来に近づいていく。せめて大日如来に王手をかけた状態でこの世を去りたいもの。投げる人生であってはならない。天に召されるまでに、いかに未完成で、より高く魂を向上させるかが大日如来(宇宙の真理)から問われている。芸術も人生も同じで完成はない。人生とは自分つくりの芸術活動なのだ。

 

「芸術に完成はあり得ない。要はどこまで大きく未完成で終わるかである。1日を大切に精進したい。」  奥村土牛画伯

 

2017-09-21

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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