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2018年2月28日 (水)

佛様の顔に泥を塗らない

自分の佛とは

 自分のとっての佛様とは誰か。その佛様の顔に己の我儘で泥を塗って、幸せになれるわけがない。今まで、佛様が段取りをしてくれたご縁の多くを、自分は蹴とばしてこなかったのかを、還暦を超えてから遅まきながら反省している。

 己にとって佛様とは、両親であり、恩師であり、上司、部下であった。意図せず、己に降りかかる種々のご縁が、佛様である。過去に若気の至りで、愚かなことをして、佛様の顔を汚していたことに、今になって気が付くのだ。その仏様は何も言わず黙って見守っていてくれた。気が付いた時には、両親も恩師も上司もこの世にいない。降りかかってきたご縁も今は、浦島太郎の玉手箱の煙のように消えた。いつか「親孝行したいとき親はなし」が訪れるのだ。

 巡り逢った仕事にも佛が宿る。その佛様の顔に泥を塗らないような仕事をせねばならぬ。その仕事に己の魂を宿すのだ。仕事に泥を塗るとは、己の魂に泥を塗ること。名誉欲と権力欲だけで、市長の座の長くいることは、その職と市民の顔に泥を塗ることだ。仕事の佛の顔が汚れたかどうかは、仕事の出来栄えを見れば良い。大垣市のように経済、人口が衰退していれば、大垣市長としてやるべきことを放棄して、仏様の市民の顔に泥を塗ったのだ。

 佛様が巡らすご縁は、その時は逆縁のように見える場合も多い。それが後年に、幸いの華として咲くのだが、その時は、自分の身を嘆き、神仏を恨むこともあろう。しかし、その逆境こそが自分を成長させてくれるご縁であった。それを恨むとは、佛様の顔に泥を塗る行為なのだ。冬の時は、自分に与えられた修行として行に励めばよいのだ。

 己の心には佛も住めば鬼も住む。鬼の心が悪事に手を染める。鬼の心が支配する心で、己の佛の手を黒く汚してはなるまい。佛の手を汚すのは餓鬼道である。

 

何故、佛の顔に泥を塗るか

 佛の顔に泥を塗るのは、心身が餓鬼道に落ちているからだ。自分の我儘、強欲、身勝手でモノと見るから、佛の心が分からないのだ。餓鬼は畜生にも劣る存在である。畜生は自然界に生きている。中立である。だから畜生は自然に合わせて生きている。だから畜生には飽食もなく、権力欲もなく名誉欲もない。それに対して餓鬼は、食べても食べても飽き足らず、集めても集めても飽き足らず、権力を持てば17年経ってもその座を離さず、それでいて名誉欲も限りない。自分で自分の欲を制御できないのだ。だから、己のために身を捧げてくれる仏様の顔に泥を塗るのだ。他山の石としたい。

 

和文の般若心経と佛法僧

 2018年2月22日、馬場恵峰先生宅を写真撮影のため訪問したとき、和文の般若心経の写経軸が目に留まった。和文の般若心経の写経は初めて見た。恵峰師の和訳の般若心経で、その上に、お釈迦様の顔が金色で印刷されていた。その周りに「佛法僧」の文字が揮毫されていた。その3文字は、お釈迦様の顔と手に墨が付かないように揮毫されていて、思わず見とれてしまった。馬場恵峰師の雅号「三寶齋恵峰」の三寶とは、「佛法僧」を意味する。

 2011年10月の明徳塾で恵峰師が、亡くなられたお弟子さんためにお棺に納めた書と同じ書(控えとして揮毫)を持参され、披露されたことがあった。お弟子さんはその書をまとって旅立たれた。その書には、お釈迦様のお顔が3面印刷されており、恵峰師が「南無阿弥陀仏」と、お釈迦様のお顔を汚さないように揮毫されていた。私はその書のことを思い出して、即、この軸の入手を決めた。

1img_6348  2011年10月8日撮影

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 2018年2月22日撮影

 

2018-02-28

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月27日 (火)

閻魔様の前の待合室で

 2018年2月26日、前職の会社の同期会が、定年退職後に初めて開催されたので刈谷に出かけた。中には45年ぶりの再会の仲間もいた。昭和48年に入社した26名中、22名が出席で和気あいあいの同期会であった。

 

ビジネス戦争の戦死者

 その内1名が仕事上で欠席だが、残りの3名が音信不通である。同期のネットワークで、中途退職者の大半に連絡がつき、今回、1名以外は参加なので、多分、3名は死去していると推定される。この同期会の直前に面会した現在59歳の仕事仲間が、同期生50名中で既に3名が病死しているという。だから3名が音信不通は、死去していると確信した。先年に開催された中学の同窓会では、クラス仲間の2割が亡くなっていた。67歳で11%の死亡率は、妥当な数かもしれない。

 思えば、昭和48年はオイルショックの年で、今後どうなるのかと不安を抱いて始めた会社人生であった。バブル崩壊、911、湾岸戦争、社内リストラ、リーマンショック、会社合併で会社消滅、と波乱万丈の日本経済の状況の中で、会社の振り回されながらも会社人生を無事に生き延びてきたね、と今にして感慨を新たにした。

 

人生も生老病死

 どんな人生も生老病死である。会社の人生も生老病死。生が入社で、死が退職である。長い人生で言えば、退職後の期間にも、生老病死があり、そこでの生き様が、次の界の行き先が決まる。退職して今の界に位置した時が生で、そのまま本当の死を迎える人も、身近で数多かった。私は66歳から出版業を始めて、少し誇りに思う。儲からないのが辛いが…….。何事も始めるのに遅すぎることはない。始めるに必要なのは決断だけである。退職後に、もうやることがないと、ボケーとすごしていると、閻魔様との早期面談通知が舞い込むのも故あること。

 

団塊世代のアンカー

 昔、仕事で張り合った口煩い喧嘩仲間もお人好しの爺になってしまい、構えて向かい合ったら「貴方は誰でしたか」と言われて、こちらがずっこけてしまった。同期の仲間では、突出して偉くなった人もおらず、皆さんも38年間の会社人生で、会社を支えてきた自負だけはある。会社を消滅させた責任ある役員には、誰も就任していないのが幸いであった。昭和48年組は、団塊の世代の最後の組で、過当競争でのし上がった強者どもの団塊世代には椅子取り合戦で負けて、その後にその座に座ろうとしたら、年齢的に賞味期限切れで、後の世代がその座に座った。それは能力の差ではない。この世は、全てめぐり合わせである、を実感した。人として、その時に最大の努力をすればよいのであって、成果は仏様の差配の世界である。

 

生涯現役の願い

 同期会で集まって、病気の話しや介護の話しが多いのは哀しい。今何をやっているかと聞いても、「別に何もやっていない」のと話では、話が進まない。後ろ向きの話ばかりでは、楽しくない。

 今回の同期会参加者22名中で、明確に仕事をしているのは、4名のみ。その中で、社長として仕事をしているのは3名のみであった。その仲間は外見も話し方にも精気がみなぎっている。これでは閻魔様も呼びつけるのに遠慮をするだろう。他の仲間を見ると、何時お呼びがくるのやらと心配になった。まるで閻魔様の審判の下る前に、その待合室のベンチに座って、前世の世間話しに盛り上がっているようである。そんな待合室には行くまいと心に誓った。私はまだこの世でやることがある。行くなら閻魔様の前に直行である。

 同期会で話を盛り上げるなら、未来の夢の話をして場に花を咲かせたいものだ。8年ぶりに再会して、病気や介護の話ばかりでは、哀しい。私は馬場恵峰師とご縁ができて、生涯現役という教えを師の後ろ姿で学んだ。馬場恵峰師は現在、92歳、現役である。感謝。

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2018-02-27

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2018年2月23日 (金)

連絡 馬場恵峰師の岐阜講演会の演題

 この3日間、九州へ出張のため、ブログを休載しました。

 4月、岐阜開催の講演は「自分という家をどうリフォームするか」という演題でお話をされます。下記はその紹介です。

 

自分という家のリフォーム

 家族の家のリフォームは業者にお金を出せば簡単にリフォームが完成する。しかし自分という魂が住む家のリフォームは、自分が精進しないと完成しない。そのリフォームをしないから、新しい発想が生まれないのだ。だから進歩しない。それを日々、新しい挑戦をすることで、自ら学び、後世に残す仕事をするという行動が、自分という家が成長してリフォームされる。学びもせず、後世への貢献も意識がないと、衰退の一途である。だから早くボケる。

 

和文の写経軸は本邦初

 馬場恵峰師は後世に残すために、この2か月間で、15年前購入した10本の軸に、和文の写経をされた。和文の写経は日本初だという。売るためではなく、日中文化資料館の財産として、後世に残すために揮毫された。今回、この軸を写真撮影して驚嘆した。宗派に関係なく、各宗派の漢文の経典が、先生による和訳と美しい書体にて、生まれ変わった写経となっていた。

 この軸に何を書くか、それを考えていると、新しい発想がうまれて、本邦初の和文の写経軸となった。それを考えることが、自分の意識のリフォームとなるという。10本の軸を買うことで、表具屋も儲かるし、それが世にためになるし、この軸に何を書くかを考える事で自分の勉強にもなるし、後世に残れば、世のためになる。それが己のリフォームとなる。自分の事ばかり考えるから、幸せになれない。世間へに貢献が自分を磨き、やるべきことがあるので、長生きが出来るのだ。人はこの世でやることが無くなると、あの世に旅立つ。

 師は現在、92歳。現役で毎日、夜遅くまで揮毫をされている。血圧正常、薬は飲まない。間食なし。

 

50mの巻物を揮毫中

 師は現在、50mの巻物に揮毫中である。なんでも、まだ白紙の50mの巻物が3本もあり、継続して揮毫する計画である。何を書くか、それを考えためには、自分が成長しないといけないという。

 今回、10本の軸とは別に6本の和訳の写経軸をお弟子さん用に揮毫された。それを見て、私は般若心経の一本の軸を入手した。それは後日紹介します。

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P1100006_2 馬場恵峰師 50M巻物揮毫中 2018年2月22日撮影

 日中文化資料館(大村市)にて

 

お願い

 会議室の手配と配布資料準備の関係で、講演会の参加人数把握が必要です。聴講希望者は4月4日までに小田まで連絡をお願いします。準備の関係で、早めの連絡をお願いします。

 

日時  2018年4月14日(土) 13:00~17:00 

講師  馬場恵峰師

演題 「自分という家をどうリフォームするか」

場所  長良川温泉 十八楼

    〒500-8009 岐阜市湊町10番地 電話:0582-262-1551

費用  2,000円

 

2018-02-23

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2018年2月19日 (月)

佛は寿司を回さない

 時間と命を惜しむなら「回転寿司屋」には行かないこと。回転寿司屋では、食べている間に次の皿が回ってくるのに気を取られ、思考が散漫になり、落ち着いて食事が出来かねる。待っている間が時間の無駄である。思考が飛んでしまう。回っていた皿の寿司は、一定時間食べられなければ、廃棄される。食べるという他の命を頂くという行為が、金儲けと遊びに堕落している。

それより、普通のすし屋で1半の寿司を食べたほうが合理的である。その方が安いし、時間節約である。自分が惨めにならなくて済む。

 

ブロイラーの鶏の如き

 回転寿司のテーブルに座っていると、餌が回ってくるのを窓越しに待っているブロイラーの鶏のようで惨めである。それを感じない人は幸せである。

 家族で回転すしに食事に来ても、子供は回ってくる皿に目が走り、家族団らんの会話など消え失せる。ブロイラーの鶏のように食べるのに必死である。情けない飽食の日本の姿である。

 

「猿の惑星」なら

 たまたま人間が霊長類の頂点として地球上に君臨するからよいが、映画「猿の惑星」のように猿が支配する惑星だと、大変だ。人間が回転すしのネタにされて、白人か黒人か黄色人種か、どの人種が美味しいかと舌なずりされるやも知れない。猿もクマもライオンもラクダもパンダ(熊科)でさえ、人間を襲って食べる習性がある。たまたま人間に佛様が知性を与えてくれたので、人間様の支配する世界があるだけである。人と猿のDNAは大して違わない。すべて仏様のさじ加減で今の世界が出来上がっている。

 

畜生に戻る訓練

 生物は他の命を頂かないと生きていけない。人間も同じである。徳性ある人間だからその命を食べる前に「いただきます」と手を合わす。その代わり知性のないライオンは、満腹になれば、目の前にウサギが通っても手を出さない。人間様だけが、満腹でも目の前のサラに手を出して飽食を繰り返す。満腹でも食い物に手を出すのは畜生に劣る。満腹でも食い物に手を出すのは、畜生に戻る訓練をしているようだ。

 それも回転寿司のように見世物のようにして食べるのは、命への冒涜ではないか。猿が地球を支配して、白人、黒人、黄色人種の肉がネタの回転すし屋で猿が舌なずりをしている様を想像するとぞっとする。猿が地球を支配すれば、そういう世界が実現する。

 

戦前の植民地は回転すし

 太平洋戦争前のアジア・アフリカは、欧米列強にとって、美味しい回転すし如き状況で、大半の国が欧米列強の餌食になり、美味しい国から手当たり次第に植民地にされた。列強諸国は、植民地の人間を人間扱いせず、その生き血を啜り、母国で優雅な飽食の生活を送った。アジアで唯一といっていい日本だけが、刀という護身の武器と武士道と教育レベルの高さで、その毒牙から逃れることができた。その欧米列強は、今、移民の洪水という洗礼を受けている。全て先祖が撒いた悪の種が、花咲いているだけである。それを因果応報という。今の欧米の繁栄は、植民地の人々の死屍累々たる土壌の栄養を吸って咲いたあだ花である。

 当時、護身の刀と武士道で身を守った日本なのに、今は、自堕落な飽食に明け暮れて、内部から衰退・崩壊しようとしている。飽食の果てが、肥満の増加と日本の総医療費40兆円超えであり、認知症の氾濫である。

 

食の安全と懐の安全

 一皿オール100円の回転すしでは、何を食わされているか不安で行けない。安いものにはワケがある。なおかつ普通の回転すし屋では、大抵2000円くらいは食べてしまう。我慢して安い皿だけを選んで食べていても、たまに高い皿が回ってくると、一つくらいいいかと食べると、それが2つになり3つにもなる。大抵それで2000円の大台が簡単のオーバーである。また、どうしても好きなネタばかりを選んで食べるので栄養バランスも悪い。「回転寿司屋」は過剰な食欲を起こさせる細工がテンコ盛りである。普通のすし屋では、バランスよく盛り付けられている。それでも1500円も出せば十分である。過食もない。

 

2018-02-19

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2018年2月16日 (金)

案内 馬場恵峰先生の岐阜講演会

馬場恵峰先生が来る4月14日に、明徳塾の同窓会のため岐阜市に来られます。午後に先生の講演、書の実演をされます。夜は塾生同士で懇親会ですが、午後の部の講演会は一般の方も参加を歓迎します。懇親会への参加は個別にご相談ください。

講演では、人生とは、経営者とは、人生の経営者の己の生き方とは、についてユーモアも交えた含蓄ある深いお話しがあるかと思います。参加希望者はメールにて小田まで連絡下さい。

 

日時  2018年4月14日(土) 13:00~17:00 

場所  長良川温泉 十八楼

    〒500-8009 岐阜市湊町10番地 電話:0582-262-1551

費用  2,000円

 

小田泰仙   e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

 

馬場恵峰師 新潟講演会 要旨

 2017年4月8日、明徳塾同窓会として、新潟市で馬場恵峰師による講演会が開催された。その要約を記します。このレベルのお話が、今度の岐阜の講演会でされます。

 

人生の4つの目標

下記の4つの目標を定めないと人生の道に迷う。

・宗教を知る

 信が生まれる。宗教とは人を信じる勉強。仏に手を合わすことではない。

・文化を知る     

   智慧が生まれ、物事を正しく観られる。

   知識では正しく観れない。社会の流れをみて、顧客の顔を見て、商品を開発せねば、モノは売れない。それは智慧の世界で、知識だけでは商品開発も経営もできない。

・道徳を知る     

    掟を知り、命を正しくする。

・社会を知る

   定(おきて)を知り、定を正しく運用する。

 

人生での自己表現

 自分が長生きをすること。「あなたがいなくては困る」という人間になること。一番大事な経営とは、人としての経営である。人は裸で生まれた裸で死んでいく。 恵峰先生はよく人から「何でそげん、元気ばってん?」と聞かれるという。それは「私にはまだやることがあるから」と思うからだという。市長、議員、社長のバッチが外れた後が大切である。バッチが外れた後は、多くの人は国立病院が待っている。だから早く死ぬ。やることがないのだ。己がバッチを外して風呂の入る姿で、どれだけの人が付いてくるか。その姿で人を引っ張っていくのだ。それが本当の指導者である。市長のバッチでは、人はついてこない。

 頭で学ぶから成功しない。「無理、無理」、俺には関係ない」という人が多い。体で学ぶから、頭に入る。馬場恵峰師は230回も中国に自費で行っている。一回の旅費30万円として7千万円近い金が消えた。その金は、今はポケットにはない。しかしその経験の知恵が頭に入っている。それは誰も盗めない。

 身を殺さず、盗まず、犯さず。物真似では出はダメ、自分のものにしないから、身に付かない。規則を破るからうまくいかない。自然の法則を守ること。

 口を偽らず、飾らず、二枚舌を使わず。心をむさぼらず、そねまず、過たず。人生で自分を磨き、最善を尽くすとは、「忙中に閑あり」である。

 文学は感情の表現で、心情の輝きを表す。詞は和、詩は漢文である。工学は数値での感情表現で、技の輝きを表す。音楽は観性の物理的表現で、心の振幅を表す。政治は人の差配の技で、人々に安堵を与える。

 「身口意」を三業という。その三業を晴らすために人間に生まれたのだ、と阿含経に書いてある。

 

知恵の光

身口意が全て出来るのが知恵

 身  殺さず、盗まず、おかさず

 口  偽らず、飾らず、二枚舌を使わない

 心  貪らず、そねまず、過たず

 

 そうして身口心を、全て完遂するのが「智慧」である。体で分かったことが知恵である。それは智慧の光。本を読んだだけで料理はうまくならない。体で覚えないと料理はうまくならない。人生も同じである。

 

人生の基本姿勢

以下の3つが出来てこそ生命の責任が生まれる

1.なりきれる

 しっかりと自分を見つめる。

 男になりきる、女になりきる。 結合されたあり方。

 志、夢を持ち実現者になりきる。

2.やりきれる

3.捨てきれる

   自我没却

 

 小事を侮らず、大事を畏れず。気配り、見配り、心配り、で人生を送りたい。

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馬場恵峰師 90歳  2017年4月8日 新潟での講演会

 

予告  2018年4月14日(土)13時~17時、岐阜市観光旅館「十八楼」にて、第三回同窓会で馬場恵峰師の講演会を開催します。一般の方の聴講も可能です。別途、その案内をブログでします。

 

2018-02-15

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2018年2月11日 (日)

人生の譜面をめくる佛様

 2018年2月1日、ご縁があり誘われてある大学の卒業演奏発表会に行ってきた。譜面をめくる人を「譜めくり」という。この演奏発表会で「譜面めくり人養成科」の学生が、同じ仲間のピアノ演奏者の譜面をめくる人の姿を見て、人生を感じた。この卒業演奏会で、多様な「譜めくり」の姿勢を見て考えてしまった。なお「譜面めくり人養成科」などは存在しない。勝手な命名で、ジョークです。

 

譜めくりの服装

 譜めくりは、黒子である。多くの譜めくりは、黒い服装をしている。しかし今回の譜めくりでは、白の服装の人が多く、それでいて主役のピアニストが黒の服装であったので、黒子のはずの譜めくりが目だってしまって、違和感を覚えた。音楽は視覚でもメロディーが流れている。それまで気を使って、ピアニストと協議して服装を整えて欲しかった。

 

譜面のめくり方

 この最近、演奏家の写真撮影をしてきて、譜面めくりのやり方に人さまざまであることに気が付いた。一番美しい姿は、そのぺージの演奏が終わる少し前に構えて、少し次のページをめくり、そのページの演奏が終わったら一気にめくる、である。それが今回は、そうではない事例が目に付いた。ピアニストにとって、基本は暗譜である。

 人によっては、ピアニストと目で合図をしあって、お互いに、うなずいて譜面をめくっていた例もあった。そんな暇があったら、演奏に集中せよ、と言いたかった。急遽、譜めくりを仲間にお願いしたために、致し方ないのかもしれない。

 大垣での音楽堂でのチェリストTIMMと河村先生の協奏、クインテッサホテルでのドレスデントリオと河村先生の協奏では、小林朱音さんが譜めくりを担当した。二人には師弟関係で、深い信頼関係があるために、そんなお互いの合図もなく、小林さんは、しかるべき時に、スーッと横に立って構え、次のページを少しめくり、そのページの演奏が終わったら一気に音もたてずめくる。河村先生は、譜面を小林さんに任せっきりで演奏に集中である。

 今回の卒業演奏会の譜めくりでは、直前に急ぎ譜面に近づき手を伸ばし、観客席にまで頁をめくる音が聞こえるようなめくり方をする人もいた。頁をめくる甲高い紙音が、美しいピアノの演奏を興ざめにした。

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24k8a3363   2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート リハーサルで

 譜めくりは小林朱音さん

3p1020351  2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート

4dsc04336  2018年1月13日 ドレスデントリオと河村義子

譜めくりが舞台から去る時

 演奏が終わると、ほとんどの譜めくりは、演奏者が観客に礼をしている間に舞台から、黒子のように静かに去っていく。これが正式のマナーのようではあるが、私は違和感を覚えた。譜めくりも演奏者と共に、演奏というプロジェクトを一緒に成し遂げたのだ。去るときは、観客に少し礼をして去って欲しいと思った。西洋の考えと日本の考えの差のように思う。

 小林さんは、二人が観客の拍手に礼をしている時、小さく拍手をして、譜面を片付けて静かに舞台を去っていった。まるで黒子の佛様のような姿であった。

 

人生の譜面をめくる佛様

 人の人生では、時が来ると人生の頁が自ずとめくれていき、その頁の内容に合わせて、両親や祖父祖母がランドセルの準備や学校への入学の手続きをしてくれた。当時は、それに対して感謝の念もお礼もあったものではない。それでも時が流れて、学校卒業までは、両親や恩師が人生の頁を黙ってめくってくれた。まるで佛様が我が人生の本の頁を捲ってくれたようだ。その佛様も、いつの間にか私の前から去っていった。「私の亡きあと、一人で人生を頑張れ」と拍手をしながら逝ってしまったのだ。合掌。

 会社生活では、必死に人生の頁を自分でめくってきたと思うが、振り返るとその歩みの頁は、佛様が事前に書いた曲を、なぞって弾いてきたように思う。自分の力ではない。周りの仲間が己の曲を演奏させてくれた。感謝。

 会社生活38年間終えて、これからは自分の意思で、新しい第二の人生の頁をめくる時なのだ。そのぺージを自分でめくれずに、一日中、テレビの前に座っているのでは、白紙の譜面を眺めて、ピアノの前で座っているが如きである。

 

人生は暗譜演奏

 人生の人生という曲を演奏する原則は、暗譜演奏である。自分で、自分の人生の曲を描いて自分で弾く。その曲は自分が作曲した楽譜に書いてある。誰に頼るのでもなく、自分で作曲して、曲を弾かねば良き人生は創れまい。そして今は、自分が黒子として、後進の譜面をめくってあげる番なのだ。

 生きている以上は、自分独自の人生の音色を出さねばならぬ。観音菩薩様がその音を観ている。そうでないと、見守ってくれている観音菩薩様やご先祖様に申訳がない。

 

最期の譜面をめくる

 一日中、テレビの前に座っているのでは、バックグランドに無伴奏葬礼行進曲が流れなか、白紙の譜面を眺めて、無為に過ごしているようなものだ。その葬礼行進曲を演奏しているのは、一日中、何もやることのない己なのだ。「おくり人」とは、自分自身である。

 日暮れて道遠し、フィナーレは近い。演奏会と違い、人生にアンコールはない。人生二度なし。全ては一期一会だ。うかうかしていると、指の下にある次のページには、葬礼の曲が書かれているやも。人生の道を急げ。

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6039a34461  馬場恵峰書

2018-02-11

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2018年2月 9日 (金)

去り際の美学

 人生の舞台は、舞台に上がって、演技をして、舞台の階段を下りるまでが、人生である。演技が終わったからと気を抜いて舞台を後にしてはならない。

 2018年2月1日、先生からお誘いがあり、ある大学の音楽科の卒業演奏会に出かけた。卒業生の皆さんは素晴らしい演奏をされたが、演奏が終った後に舞台を去る時の姿が、ぎこちなかった人が多かった。やっと緊張の演奏舞台が終わったと、安心してバタバタと舞台の袖に引っ込むので、その姿が美しくないのだ。舞台の袖から消える最後の一歩まで、演奏の一部として演技をして欲しかった。

 

会社人生の生老病死

 どんな舞台でも生老病死である。会社に入れば、会社人生の「生」で、定年退職で、会社人生の「死」を迎える。定年後の嘱託扱いで、延命工作をしても、せいぜい5年である。それが人によっては地獄の場合もある。嘱託扱いでの上司が元部下で、人格的、能力的にも格下の人間に卑屈になることは、私の自尊心が許さない。会社を去る際に、パタパタ、へいこらするようでは、会社という舞台を去る直前まで、美しくありたいと思っていたのに、違和感があった。定年後は、往々に扱いは派遣社員と同じある。給与は、正規社員よりも大幅に下がって三分の一程度である。私は定年延長せず、辞めるというので、引き留められたが、それを振り切って辞めた。今でも良き決断であったと思う。

 

界の任期

 定年後の嘱託の仕事で、年下の能力の低い部下にへいこらするのが、気にならない人は幸せである。自然界の法則で、組織の新陳代謝として時期が来れば去るのが、一番理にかなった行動である。会社も若い人に、リーダーとしてチャレンジの機会を与えないと、衰退する。それに老人が出しゃばると、迷惑である。

 任期という時期が来たら会社という「界」からに身を引く。次の新しい「界」で自分の場を探す。それが自然である。定年という「死」が、入社した時に分かっていたはず。嘱託で働くとは、それに向けて準備をしてこなかったのだ。

 常識として、市長や知事の任期は2期8年で、それを5期20年も居座ると、様々な弊害が出てくる。それが癒着と腐敗の原因となるのは世の常識である。それが大垣市の衰退の原因の一つと思う。

 

去り際の美しくない人の末路

 2018年2月初旬、スーパーで買い物をしていたら総菜売り場の横で,初老の女性二人が話し込んでいた声が耳に入ってきた。聞くともなく、その会話が聞こえてきた「うちも(亭主が)一日中おるの....」の声で、2人の家庭の状況と奥さんの嘆きが全て分かってしまった。そんな亭主は、きっと会社の去り際が美しくなかったのだと確信をした。会社を辞めた後、やることもなく一日中、家のテレビの前に鎮座して、奥さんに三度の飯を作らせ、やれお茶だ、新聞だと言っていれば、奥さんにとっては地獄である。去り際の醜い亭主には、その奥さんの苦しみを分るまい。奥さんにも、亭主が38年間、会社に行っている間の培った仲間同士の世界がある。それを一日中家にいる亭主が邪魔をする。奥さんが少し外出するだけで、やれ、「何処さ、行くべえか? 何時、帰ってくるべえか?」では奥さんも幻滅である。これでは熟年離婚も多くなるはず。

 

美しく去って、新しい「界」で全力投球

 私は60歳でスパッと会社を辞めて、自分の道に進んで正解であった。会社の上司の縛られず、自分で毎日新しい取り組みにチャレンジしている。何かする度に上にお伺いを立てなくてもよいのが快感である。その快感は38年間の宮仕えでは味わえなかったことだ。会社を離れたことで、それに起因するお陰で多くのご縁に出会った。昨年、よもや67歳で出版業とプロの写真家を始めるとは想定外であった。それも、多くのご縁の巡り逢いと、体力のあるうちの60歳で新しい道に進んだからだ。これが定年延長後の65歳からの再出発では、辛いものがある。

 人生は、日々好日なのだ。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」という人生を送ってはなるまい。

1p10004021  馬場恵峰書

2018-02-09

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2018年2月 6日 (火)

人生の土台とは、大垣市の土台とは

土台を考えないでいて、家の構造ばかり考えたって、その家は住むに耐えられない家になっちまうでしょう。人生もまたしかり、であります。 

 中村天風著『心が強くなる言葉』イースト・プレス p48

 

 人生の土台とは、経済基盤に支えられた己の人間観、職業観、人生観、宗教観、死生観、である。その考え方如何で人生が変わる。

 大垣市の土台とは、大垣を支える経済基盤、人財基盤、交通基盤、治水基盤、文化基盤、歴史基盤である。土台がしっかりしていないと、発展しない。チャラチャラした祭りばかり開催しても、大垣市は発展しない。人生で遊び惚けて疲れ果てると同じである。大垣市経営の基軸がないと、市政がぐらつくばかり。

 経済基盤とは、大垣の商業、工業、金融業、文化事業でそれを支える交通基盤、治水基盤、文化基盤、人財基盤である。大垣市は、その面に金をケチり、経済基盤の整備を疎かにして、過分な自宅(新市庁舎)の建設に精力を注ぎ、大垣市政百年の宴に酔い痴れようとしている。天罰として、交通の血路である室村町アンダーパスで水没の不祥事が起きた。こんなことでいいのだろうか。

 「大垣市中心市街地活性化基本計画」には、この土台の考え方が欠けている。

 

2018-02-06

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2018年1月30日 (火)

ビンゴゲームは、人生を貧誤にする

 2017年11月10日、霊山顕彰会の研修旅行として、京都霊山墓地、霊山歴史館を訪れるバスツアーに行ってきた。私が霊山顕彰会に入会して、初めての研修旅行であった。ツアーの帰りのバスの中でビンゴゲームを体験して、腹が立ってきた。最後までいってもビンゴにならないのだ。ビンゴにならなかった人には、残念賞が配られた。それなら最初からその残念賞の景品を貰った方がよい。強制的ビンゴゲームで、考える時間も、風景を楽しむ時間も、隣の人と会話の時間が全て奪われた。それでビンゴゲームの問題点に目が覚めた。

 

ビンゴゲームの問題点

 ビンゴゲームはまず時間の無駄である。幹事が楽をして会員を痴呆状態にして時間を潰させる手管である。ランダムの巡り合わせで景品を配るなら、一度でくじを決めればよい。それを勿体付けて、番号窓を開けていくのは、無駄な時間稼ぎである。何の意味もない。配られる方は努力も細工も、何もできない。ただ次の番号がアナウンスされるのを待つだけである。首に縄をつながれた囚人や餌を与えられる飼い羊のように、ビンゴゲームの結果を待つだけだ。

 ビンゴにならなければ、「ビンゴ」、「ビンゴ」とナンバーの連呼で会話も思考も外の風景を楽しむこともままならぬ。音でのゲーム暴力である。思考の強制痴呆化である。

 

安易な幹事の手管

 前職での職場の宴会でも、多くの場合、ビンゴゲームで時間を潰していたのを思い出した。当時は、早い時期にビンゴになり、よき景品を貰っていたのであまり気にならなかったが、今にして、なんと安易な親睦会の余興であると感じた。ビンゴゲームに費やしていると仲間との会話は途切れ、本来の親睦会の趣旨が破壊される。ビンゴを企画した幹事の顔を思い出すと、その行動が納得できる思いである。

 

ビンゴ対策

 次回、ビンゴゲームに出くわしたら、ゲームに参加せず、他のことを考えて過ごそうと思う。千円、二千円ほどの景品に目の色を変えるより、自分の命の時間がもったいないと気が付いた。自分の人生課題を考えて過ごし、ビンゴゲームでは残念賞を貰えばよい。それよりそんな発想をする幹事が運営する行事には参加しないことだ。

 自分の人生は、一秒1円、一分百円、十分千円の価値である。本来、お金には換算できない二度と取り返しのつかない時間である。時間は命なのだ。命とは、自分が一生の間に使える時間である。ビンゴゲームでは、その命が奪われる。ビンゴゲーム30分で、時間の出入りまでを考えると6,000円の人生ロスである。人生時間は残り少ないのだ。

 今回、霊山顕彰会の研修旅行で京都霊山墓地に参拝して、智者の霊が人生の大事さに啓示を与えてくれた。感謝。やはり墓地の参拝はご利益がある。

1p1090955

2018-01-30

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