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2018年8月 3日 (金)

天上界で聞いた地獄のいい話

 現在、私は境野勝梧先生の「源氏物語に学ぶ人間学」(全6回コース・主催 致知出版社)を受講している。2018年7月31日に第2回目の講座が、京王プラザホテル44階の広間で開催された。休憩時間中に眺めたホテル47階からの新宿高層ビル群の展望は素晴らしかった。酷暑の地上は地獄のようで、47階は別世界の天上界のようであった。天上界のような静かなロビーで酷暑と世間の雑事を忘れ、しばし物思いにふける贅沢をした。東京の雑踏が嘘のようである。

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 7月31日の講義で、境野先生が少し脱線をして地獄の話をされ、それが受講生の皆さんに大うけであったので、少し脚色(?)をしてお伝えしたい。下記の話は、境野先生が老人ホームから講演を依頼され、そこでお話をされた内容である。地獄の解釈は人さまざまである。下記は境野先生の解釈された地獄観である。

 

老人ホームで講話された「地獄のお話」

 地獄とは罪人が行く所である。一生で一度でも嘘を言うと、地獄行きである。それを閻魔さまが審判されるのでごまかせない。だから皆さん、全員が地獄行きだから、安心(?)して欲しい。極楽に行っても、誰もいないからつまらないし、寂しいよ。極楽にいる人は品行方正・くそ真面目で、会話もつまらない。極楽では、楽園に花が咲き、美しい音楽が流れ、フワフワしてすることがなくボケるしかない。話して楽しい人は、全員、地獄に行っている。

 昔の現代医療技術がない時代は、病気になれば針・お灸で患部を治した。だから昔の人が地獄を考えたとき、現世で心の病気が原因で悪事を働いたら、地獄での霊魂の治療には、その魂を針の山、火の山に追い込んで、突き刺し、焼いて治すとの発想になった。どうせ死んでいるから、死なないので安心だ(?)。

 皆さんは全員、地獄行きだが、安心してほしい。閻魔様は地獄に堕ちた人が全員、善人に生まれ変わり、極楽に転生するまで、最後まで地獄に留まって皆さんを見守り続ける。閻魔様の前身は地蔵菩薩様で、天事異動で地獄に転勤になった菩薩様である。そんな情け深い方が閻魔大王様である。閻魔大王様は魂治療地獄病院の院長先生なのだ。だから安心して地獄に逝ってください。(爆笑)

 

老人ホームの住人の幸せ

 この話を老人ホームですると、大絶賛、大爆笑である。施設の皆さんは感激して「こんないい話は初めて聞いた。是非、来年も来て話をして欲しい」と境野先生に懇願されるという。しかし境野先生は、この話を毎年、この老人ホームでしているとか。老人ホームのおじいちゃん、おばあちゃんは惚けており、1年前の話をすっかり忘れてしまい、毎年同じ話をしても大うけである。だから老人ホームの講演は楽で仕方がないという。(大爆笑)

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 境野勝梧先生 2018年7月31日

 

忘却の恩恵

 人は忘れるから良いのであって、苦しい辛い話をいつまでも覚えていれば、この世は地獄である。毎回、嫌なことが鮮明に思い出されては、その度に死んでしまいたいと思ってしまう。あの世の地獄どころではない。生きているからこそ、苦しみがある。生きていることを喜ばなくては、産んでくれた親に申し訳ない。

 歳をとれば仏様の恵みで忘却の能力が高まるのだ。それが幸せなのだ。定年になり諸般の雑事を忘れて、自分の世界に遊ぶのは極楽である。脳の記憶容量は決まっている。新しいことを覚えるには、昔のことは忘れること。それが自然の理である。

 私も最近は加齢のせいか物覚えが悪く、人から借りた金をすぐ忘れる。貸した金は忘れないのだが………。

 

地獄の恩恵

 人は地獄の試練を受けて成長する。痛みのない訓練・修行では成長できない。だから地獄の世界とは、人が、各人の価値観で作り出したものだ。同じ地獄の苦しみも、そこに意味を見出した人が、人生で価値を生み出す。アウシュビッツ収容所や、シベリア抑留で、そこに生きる意味を見出した人だけが、生きて帰れた。そこにその人の人生観が現れる。

 日本刀も真っ赤に燃えた炭の中で焼かれ、冷水につけて焼きを入れる。それで名刀が生まれる。それで硬さと靭性が備わる。何物も、この世に地獄がないと成長しないのだ。それが現世か来世かは関係あるまい。子供を蝶よ花よと甘やかして育てれば、子供は大人になって地獄に堕ちる。甘やかされて育つと人生の靭性がなく、すぐポキッといってしまう。人の成長に地獄は必要だ。

 

子供の地獄

 世の有名芸人には、金に飽かして子供に多大な金を与え、それが子供のためになると思っている愚人もいる。最近の芸人の子供に、不祥事が絶えないのには訳がある。子供が捕まって、母親が警察に怒鳴り込みに行き「うちの子には毎月50万円の小遣いを与えているから、うちの子に限って不良なんかになるわけがない」と。子供は親の無知で地獄に堕ちたのだ。

 

地獄が描く世界観

 地獄とは所詮、人が考え出した世界。そんなのがあるわけがない。すべて己の心が作り出す世界である。だから地獄は千差万別、人の解釈次第、その土地の文化の違いで、様々な地獄が存在する。日本の地獄と西洋の地獄とは違った様相を見せる。

 幸いなことに、日本仏教は輪廻転生の思想が根底にあるので、地獄の話も怖ろしいようで、なぜか救いがある。日本ではどんな極悪非道の人間でも、死んでしまえば仏様である。日本では地獄にも刑期があって終身刑ではないのだ。一説では、500年周期で転生するという。魂の浄化が終わると転生できるという考えに救いがある。

 ところが西洋の地獄は、最後の審判といわれるように、一度地獄に堕ちると、永久に地獄である。西洋の神の審判は絶対なのだ。東洋の仏教思想は寛容があり、どこか救いがある。しかし中国では、死者の墓をも暴いて鞭打つという怨恨の強さがある。思想の違いで、どちらが幸せか、自問されたい。

 日本の地獄は魂の治療所だが、西洋では魂の懲罰所のようだ。地獄を研究するとその国民性がわかる。同じ人間だからと、その深層心理にある地獄観をわきまえないと国際政治で失敗をする。

 

AIとITが奏でる地獄狂騒曲

 近未来は、周りにサイボーグのような人間に取り囲まれ、会話はスマホ経由、用をするにも瞬時にAIで損得勘定が計算され、無駄なことは一切しない生活となる。ご縁も、瞬時に相手や事象の運勢鑑定、人相鑑定、将来の年収推定、人生履歴の鑑定、で付き合うに値する人かどうかを判定されて、失敗のない人だけとしか付き合わない人生が生まれる。

 それでいいの? 付き合ってはいけない人と付き合って、地獄の苦しみを味わい、なるほど付き合ってはダメだと体得する。やってはいけないことをやって痛い目にあって、やってはいけないことを学ぶ。

 縁とは、用があるから付き合うのではない。用を作りに出かけるからご縁が生まれる。それが極楽の始まり。何もない人生は地獄である。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」の生活は地獄である。だから私は、馬場恵峰先生の考えに共感して、用もないのに用を作るため世間を走り回っている。少なくともボケ防止にはなる。

 

「源氏物語」とのご縁

 馬場恵峰先生が、源氏物語の誕生千年遠忌で、源氏物語に登場する和歌千首を色紙に揮毫された。私はその写真集を出す計画を進めている。試刷版は完成して、最終版の校正中である。その折、境野勝梧先生の「源氏物語に学ぶ人間学」のセミナーを知り、ご縁を感じて参加した。この講座で、この本に色を添えられる話題が得られれば幸いである。下図は馬場恵峰先生の書展での原本の展示である。色紙はすべて違う絵柄である。

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 2012年12月14日撮影

 

2018-08-03  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します

2018年7月28日 (土)

0.2歩先を観て、半歩遅れて歩く

 2018年7月26日、近所のピアノの先生の勧めで、本巣市宗慶の「美術の森」で開催されている「神山恵子水墨画展」(7月21日~8月5日)を鑑賞した。犬も歩けば棒にあたる。棒こそがご縁である。縁が向こうから来るのではない、歩いて縁を作りにいくのだ。

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 右端の床の間の水墨画「心躍る忠太郎太鼓」は国際文化ガバレッジ賞を受賞

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芸術の創造に接する幸せ

 この展示会では、神山恵子さんが日本の風景を実際見て感じて写生して水墨で描いた作品30点余が展示されている。神山恵子さんは自称、年金生活の主婦として、水墨画に取り組んでおられる。世には取り組みたくても、生活上で出来ない人がいる。夫の理解のない人がいる。健康でないと取り組めない。才能がないと取り組めない。水墨画等の芸術の創作活動に取り組めるのは幸せなのだ。

 この種の趣味はほとんど持ち出しである。夫の援助がないとやっていけない。聞けば1枚の絵の制作に3日から1週間ほどかかるという。専用のアトリエでなく、台所の片隅で作品を仕上げる。そのほうが落ち着くとか。このような個展を開くには、その額縁の準備が大変だという。その資金も大変だ。それで販売価格から計算すると、額代にかなりの部分が消えてしまう。

 神山恵子さんは、二人の師について水墨画を始めて10年で、展覧会で多く入選するほどの力量となられた。これは才能だと思う。芸術の世界はいくら努力をしても、超えられない壁がある。私も還暦を過ぎてからピアノを始めて、超えられない高い壁を感じるこの頃だ。

 師が変わって、作風が変わっていく部分の変わらない部分があるという。指導しても変わらないところは、師も諦めて、それが神山さんの個性だとされている。どんな道でも師の影響は大きい。

 

神山恵子さんの略歴

 2001年  50代後半、岐阜水墨画画人会展を見て心揺さぶられ、水墨画家柴山蒼月師に師事する

 2014年 「水墨画」誌上で9点が佳作入選

 2014年 荒井克典師に師事

 2015年 第20回全国公募総合水墨画展 優秀賞

 2016年 第33回墨神会全国公募展 横浜市教育委員会賞

 2017年 第34回 同上      国際文化ガバレッジ賞

 

庵」一枚購入

 この展覧会を見て一枚の水墨画を購入した。その水墨画は、背景の樹木や葉っぱのぼかしが素晴らしく、庵の風情が際立っている。水墨画の特徴がよく出た作品である。ご縁を感じて、この絵の購入を決めた。

 水墨画の粋は、焦点の明確化とその他のものを消すことにある。描かないから、焦点を合わせた対象が浮かび上がってくる。写真の如く描き過ぎてしまうと、焦点がぼけてしまう。その兼ね合いが難しい。他の作品で、あまりにリアルに描きすぎて、焦点がぼけてしまった作品もあった。

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即身成仏

 こんな静寂な林の中の庵で、世俗の煩わしさを絶ち、食を絶って即身成仏になることを夢見るのも人生の一コマである。人の最終目標は仏になること。餓死は眠るが如く逝けるという。飽食では、病魔に襲われて苦しんでの成仏となる。

 極東戦争裁判で、唯一の文官で死刑になった廣田弘毅元首相の母は、死期が迫っているとき、オランダに駐在している息子の弘毅に一目会いたいと願うが、息子が帰国できないと分かると、自ら食を絶って眠るように亡くなったという。それが廣田弘毅のその後の生き方に影を落としたようだ。母は生きたのであって、生き永らえたのではない。強烈な生への表れである。意味もなく生き永らえたくないとの意思表示である。生きる以上は己の意思で生を全うしたい。

 

現代の生死

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。死ぬときは一人である。ほんの百年ほど前は、そういう生活が当たり前であった。今の世は、贅沢すぎるのだ。ありがたいことだとも、感じなくなるほど贅沢なのだ。飽食の挙句、病魔に侵されベッドに縛り付けられ、管を何本も体に入れられ、死なないように生かされている。贅沢から地獄への転落である。本人は不幸、家族は地獄、医療関係者だけが儲かる。国民は健康保険費高騰で不幸。何かおかしい。私の母が脳梗塞で倒れた時、約4か月間、意識なくベッドに横たわっていた。家族には地獄である。母の使われない筋肉が弛緩して、意識が戻っても、とても立ち上がれまいと分かる状態に体が衰退していた。

 

この世の地獄と光

 母は現代医療の限界を見せてくれた。母を見舞って、街にでると、何故自分達だけが地獄の苦しみを味わうのかとの思いに襲われた。地獄はあの世にはない、この世にあるのだ。それを作り出しているのは、我々の生きざまなのだ。それをお釈迦様は生老病死として、誰も避けられない苦しみとして教えられた。現代は血迷った狂人が、死刑になりたいと無関係の人を殺める事件が頻発する。地獄の様だ。

 地獄との出会いもご縁である。だから平穏無事な日々が、いかに極楽に近いかを悟らせてくれる。それでこの絵で何か引き付けられるものを感じて、購入を決めた。良い額も使用している。お買い得であると思う。絵との出会いもご縁である。いくら良い絵でも、その時の自分の心が共鳴しないと、手が出せない。お金の問題ではない。

 

名画とは

 私の名画の定義は、人目が無ければ盗んで自宅に飾りたくなる気持ちを起こさせるのが名画である。私は世界の美術館の70館ほどを訪問したが、海外の美術館では、残念ながら、私の定義の「名画」にはお目にかかれなかった。幸いなことに、そのため盗む機会がなく、逮捕されなかった(?)。いくらうん億円の絵でも、その美術館ご自慢の名画でも、盗んで自宅の「ウサギ小屋」に飾るには、大きすぎ、仰々し過ぎ、ゴテゴテし過ぎている。特に昔の名画は暗い作品が多く自宅に飾りたいとは思わない。そういう点で、水墨画は、欧米の油絵とは別世界の産物で、精神的な香りがする手ごろな作品である。

 

時代の波に翻弄される愚かさ

 今日2018年7月26日、オウム真理教の死刑囚6名が刑を執行された。彼らは最先端の新興宗教の大波に乗り、溺れたのだ。生きるとは何かを、自分の頭で考えず、現世の苦しみから逃れるため、現世から隔絶した教祖の教えに盲従した。

 我々は彼らを批判できない。「グローバル経済真理教株式会社」で、品質偽装、産地偽装、会計偽装、過労死職場を社長に命令されている幹部とオウム真理教の信徒と何が違うのか。上司から指示されたら、宮仕えの身で逆らえるのか。逆らって解雇されたら家族が路頭に迷う。そういう立場になったら私も拒否できるかは自信がない。オウム真理教信徒と同じ過程で、東電、タカタ、三菱自動車、東芝、電通のように、人の命を殺める不祥事が頻発している。すべては利他少欲を忘れて餓鬼道の堕ちた衆生の末路である。集めるほど、茂るほど、人は本質から遠ざかっていく。葉っぱが茂り過ぎた状態を鬱という。「足るを知る」を忘れたのだ。

 

人より0.2歩先を観て、半歩遅れて歩く

 人はなぜ絵を描くのか。人はなぜ音楽を奏でるのか。なぜ彫刻をし、文学を作り、エッセイを書くのか。己の内なる世界から湧き出してくるものを、何かに形として表現をしたいと思うのは自然であろう。

 ゴッホも金儲けの目的で絵を描いていたのではあるまい。天才であるが故、時代よりも1歩を先走り過ぎていた。それで世間から狂人と呼ばれて、貧困のうちに死んだ。天才の芸術家の多くが、不遇のうちに死んでいる。その芸術家の死後に時代が、その芸術家の思想にやっと追いついて評価されるのだ。

 天才は世の中より1歩先を行き、狂人といわれる。偉人は半歩先を歩き、事業で成功する。凡人の私は、半歩も先を行くのは難しいので、人より0.2歩先を観るように心がけている。半歩先を見るのは至難の業だが、0.2歩先なら、勉強すれば見ることは可能だ。0.2歩でも先は先である。

 しかし歩くのは半歩後でよい。自分で考えず、人と同じように世間に引っ張られて歩くのでは、社会の波に翻弄され、挙句に溺れて沈没する。その流行が正しいかどうか確認してから、世間から半歩遅れて歩いても、何の支障もない。私はスマホもやらず、フェースブックもやらず、LINEもやらず、グルメにも走らず、テレビも見ず、本に囲まれて生活をしている。しかし情報収集とご縁の獲得にはお金をかけている。

 

2018-07-28  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月22日 (日)

親の死からの学び

 昨日の2018年7月21日、父の17回忌、母の27回忌の法要を彦根の菩提寺で行った。最近の都会では、親の法要は、7回忌迄くらいで、後の法事を行わないご時世である。それなのに親の27回忌法要を行えるは、ありがたいことだと思う。親を偲ぶ法要は、子としての義務だと思う。法要を行うことで、親のご恩を思い出し、自分のこれからの生き方に光を与えてこそ、故人が喜ぶ法要だと思う。

 

鱗介の族は水を虚と為し、水の実たるを知らず

  佐藤一斎 言志四録 後六53

 現代訳:人間という奴輩は、空気があることを意識もせず、感謝もせず、金儲けに熱中して走り回っている。今自分が有るのは、親、ご先祖があってのこと。それを忘れて大きな顔をしているのは、最大の親不孝である。

 

法要でのご利益

 日頃、疎遠になっている親せきと顔を合わせ、近況報告をしあって、自分の立ち位置を確認する。まだまだやれる自分を確認することは、うれしいことだ。

 前回の法要の時に顔を出していた親せきが、死亡や加齢で出られなくあり、一人、一人と姿を消していく様は、寂しい限りである。人生の有限を教えてくれる行事でもある。

 この酷暑の中、3時間も車を飛ばして彦根まで来てくれる親戚に感謝である。

 

ボケの目覚め

 連日の酷暑のせいでの疲れか、加齢によるボケか、認知症か、お供えをお店に取りに行くのを忘れて、高速道路に乗ってしまった。それに気が付いても高速道路上なので逆走もできず、結局、次のインタチェンジで降りて23キロもの回り道をして、40分ほど遅れてお寺に到着した。余裕をもって出たので、法要開始時刻には間に合ったが、私が法要の主催者なので、失態ではある。大きな行事を運営することは、己の事務処理能力の現状把握ができる。今日の法要は1敗1勝であった。まだまだやれる自分と己の老いの発見である。

 

親の背中の教え

 人は何のために故人の法要を行うのか。そういうことを、両親から背中で教えてもらっていないと、その意味を考えることもないようだ。私は両親から、法要をして当たり前、仏壇に手を合わせて当たり前として育ったので、法要をすることに何の疑問も感じない。

 そうでない親戚を見ると、本人は認識していないようだが、人として最大の不幸せを見る。残念ではあるが、その親戚とは距離を置かざるを得ない。さらに悲劇なのは、それに相手は気が付かないのだ。

 

ご先祖を軽視の世代

 しかし最近、「今後、両親の法要をする気はありません」と7回忌以降の法要なしをお寺さんに宣告する遠戚を見ると、考えてしまう。法要はおろか、お墓参りも数十年、ご無沙汰のようでは先祖を思う心は、その子供に伝わるまい。その子供の子も同じである。

 そういう輩が世にはびこるから、「誰でもよかった」という無差別殺人事件が起きるのだ。ご先祖からの脈々とした血のつながりを見れば、人殺しなどできるわけがない。人殺しを犯した人の家には、仏壇・神棚はないものだ。

 

親の歳までは生きる

 若いころは体の弱かった自分が、現在は健康で、母の歳まで生きてこられたことに感謝である。それを実感するのが法要である。同期の仲間はすでに2割が他界している。親孝行として、せめて親の歳までは生きたいと思う。できれば親の50回忌を勤めてあげたい。92歳で現役の馬場恵峰先生を模範とするとまんざら、実現性がないではない。死んでもいいから(?)、健康管理ファートで生きている。

 

酷暑

 当日の酷暑で、本堂でのお経が終わり、お墓の前でのお勤めでは、酷暑の日差しでクラクラしそうであった。お寺さんが、ここで皆さんに倒れてもらっては困ると、短時間でお経を切り上げ、無事に法要が終了した。聞けば、お墓の前でのお経上げ時、倒れる人も出ているとか。酷暑の日本で法要にも影響が出ている。異常な暑さである。

 

両親の最期の教え

 法要からの教えは、両親の死因からの生き方である。両親と同じ生活習慣を持っている己は、両親と同じ病気にかかる確率が高い。それを教えてくれるのが親の死である。それを再度、法要で認識させられる。親は、「貴方も何時かは死ぬのだよ。せめて私と同じ病気では死なないで。私の死から学んでくれ」が親の最期の教えであった。

 

父の死からの学び

 父は85歳で初期の胃ガンになり、胃の全摘手術を受けて、胃ガンは完治したが、その1年後、肝臓にガンが転移して世を去った。そのことを法事のたびに考える。父は85歳の高齢なので、本来ならガンの進行も遅く、他への転移の確率も小さかったはずだ。父はシベリア抑留を生き延びた体である。

 父は高血圧の薬と睡眠薬を常用していた。私も20年来の高血圧で、その対策を模索していた時、真島消化器クリニックの真島先生の説に出会い、機械設計者として、油圧回路設計もした経験から納得した。つまり血管内部にプラークが溜まり、必要上で血圧が上がっている。それを降圧剤で下げると、血の栄養素と免疫機能がある白血球の循環に障害となるとの説である。体の自律神経は、必要だから血圧を上げているのだ。高血圧の根本原因を放置して、現象としての高血圧を下げる対処療法をするから、別の病気が出てくるのだ。ストンと納得できる説であった。

 それから、血圧が上がる原因である血管内プラークの低減として食事療法に取り組んで、2年弱で降圧剤の服用をやめることができた。父親の死からの学んだ最大の教えである。

 

2018-07-22  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年7月10日 (火)

オウム信徒からの攻撃

 201879日、久留米の真島消化器クリニックに定期検診に出かけた。大雨で交通への影響を心配したが、無事、診察を受けて当日に帰宅できた。それでも帰宅が深夜であったのでブログはお休みにしました。

 帰りの九州新幹線の中で、恐ろしい目に会った。早朝5時起きで、6時半に自宅を出て、久留米まで出かけて、真島院長の診察も終わり、ほっとして久留米駅から九州新幹線に乗車した。九州新幹線の指定席は、4列配置で、座席もグリーン車並みの作りで広く快適であった。早朝からの移動で疲れて、新幹線の席に身を委ねてうとうととしていた。小倉を通り過ぎたあたりで、隣席に中年のおばさんが乗車してきた。

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  久留米駅にて 2018年7月9日 

 

鈴の騒音で目が覚めた

 ところが、静かな新幹線内で、私の耳元でそのオバンが鈴を付けたスマホを頻繁にいじり回し鈴の音を立て、財布に付けた鈴を鳴らしまくって車内販売のコーヒーを買い、騒音を発し出したのだ。ゆっくり寝たかった私は大迷惑である。まるで自分だけの身勝手で、新幹線殺人事件を起こした犯人と同じである。人の睡眠時間を殺したのだ。そのオバンは、人に迷惑をかけていることに全く気が付いていない。日頃の迷惑をかけまくっている行動が目に浮かぶ。

 まるで「どうぞ私だけが幸せになりますように、チリン、チリン」、「オネエさん、私の幸せのためホットコーヒーをください、チリン、チリン」、「これお代で300円、チリン、チリン」である。自分が発する音が、周りの人に迷惑になることなど、知ったことではないのだ。昔の日本人のように、人に気を使った身のこなしや気配りは消滅した。

 

オウム真理教信徒の勧誘

 オウム真理教信徒も、元は高学歴で、頭が良く、良い子で育てられた好青年ばかりである。そのオウム真理教の教祖が誘った究極のキャッチコピーが「信徒になれば、簡単に超能力が身に付き、貴方だけは下々とは違い特別扱いで、極楽浄土に行けます。未来永劫の幸せが手に入ります。貴方には尊大師の称号を与えます」である。

 要は苦労せず、超効率的に幸せになれるのだ。過酷な受験勉強を過ごした頭のいい利己主義の子は、楽をして成果を得たいのだ。それがオウムの修行をすれば、超能力が手に入る、それに飛びついたのだ。人は特別扱いというキーワードに弱い。現代子は、苦労を嫌うのだ。それでコチョコチョとされると、簡単に堕ちる。

 

鈴が鳴る鳴る鸚鵡(オウム)真理響

 それと「スマホや財布や身に鈴を付ければ、貴方だけは幸せになれる、との鈴の音の教え」と比較して、オウム真理教の洗脳教育と何が違うのか。上品であった日本婦人が、鈴を付けて下品なオバタリアンに大変身である。まるで鸚鵡の口真似である。鸚鵡真理教徒である。それはオウム真理教のヘッドギアのスマホ版である。

 最近の日本は、猫も杓子も周りは鈴だらけで、電車や静かな演奏会場でも鈴のチリンチリンの氾濫である。日本人が軽薄になり、近隣の人への気配りがなくなり、利己的になった証である。その利己的な親の後ろ姿をみて、子供が育ち、努力をしないので成果が上がらず、それで新興宗教に走る。それと阻止できない親の責任である。親が安易な道に走れば、子供も真似をする。

 新幹線の座席のテーブルの前には、「携帯電話はマナーモードに切り替えてください」と表示がある。それだけ人は他人の音が迷惑なのだ。鸚鵡真理響徒には、それが分かっていない。

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 新幹線座席の注意銘板

 

キーボード狂

 久留米への行きの朝の山陽新幹線内では、無神経なオジンがパソコンのキーを叩く音で迷惑をした。静かな新幹線内で、サルが太鼓を叩くが如き様で、横の二人のオジンがキーボードを叩きまくっていたのだ。キーボードを叩く甲高い音が車両内に響き、本人は他人迷惑であることに気が付かない。キーボードを新幹線等の公共の場で叩くには、作法がある。私は、基本的にPCのキーボードを打っても音を出さないように打つ。そのように気を使って音の出ないような叩き方を訓練した。そうしないと、昔の職場である静かな研究開発部内で、頭脳労働をしている仕事仲間に迷惑なのだ。阿呆な仕事のできない人に限って、それ見よがしに、PCキーボードを大きな音を出して打っていた。それでその人の仕事のレベルと人格が分かったものだ。

 PCがネットワークで繋がり、孤独な人がのめり込んでいる。いかにも大勢の仲間ができたように錯覚している。そこに過度な個人主義が生まれ、その中で生きている人たちに見せかけの仲間が生まれている。その人たちが打つキーボードの音は、孤独を紛らわせる音なのだ。キーボードが悲鳴を上げているのだ。

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 山陽新幹線内で 2018年7月9日 10:38

 

ピアノ殺人事件

 私が社会に出た1年後、1974年8月28日朝、神奈川県平塚市でピアノのキーボードから出る騒音が理由で、騒音に悩んだ男が階下に住む母子3人を殺害した。音の問題は深刻なのだ。いつ何時、キーボードの音がうるさいと、刃物を振るう人が出るやも知れぬ。第二の新幹線殺人事件が起きるやも知れぬ。少し気に障ったと、煽り運転や口論で殺人事件が起きる世相である。

 昨日、久しぶりに新幹線に乗車して驚いたことは、警官、警備員、乗務員が頻繁に巡回していたことだ。安全な日本はどこへ行った? 日本社会に利己主義者が増えたのが原因である。他人に気を遣う人は、犯罪に手を染めない。

 

2018-07-10  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年5月13日 (日)

小学生の夢、大人の悪夢

 日本FP協会では、全国の小学生を対象に「将来の夢」をテーマにした「小学生『夢をかなえる』作文コンクール」を2007年度より毎年実施している。このコンクールの応募作品に書かれた「将来なりたい職業」の結果を男女別に発表した。その2017年度の結果を見て私は暗澹たる気分になった。悪夢を見ているようだ。

 

第11回 男子児童のなりたい職業

順位(前回)  職業          票数

1(1) サッカー選手・監督など      189

2(2) 野球選手・監督など      181

3(3) 医師             109

4(4) ゲーム制作関連      105

5(5) 建築士          62

6(14)ユーチューバー          51

7(6) バスケットボール選手・コーチ 50

8(11)大工             43

8(8) 警察官・警察関連        43

10(17)科学者・研究者          40

日本FP協会:https://www.jafp.or.jp/personal_finance/yume/syokugyo/

 

製造業の就業者数の減少

 総務省は1日、2012年12月の製造業の就業者数が前年同月比35万人減って998万人(原数値)となり、51年ぶりに1000万人を下回ったと発表した。国内では製造業が調整を進めた分の雇用を成長したサービス産業が吸収しており、産業構造は大きく変化している。

 製造業の就業者はピークだった1992年10月の1603万人からほぼ一貫して減少してきた。就業者全体に占める製造業の割合が最も高かったのは70年代前半の27%超で、これが昨年2012年12月には16%まで落ち込んだ。(2013/2/1付日本経済新聞)

 

経済産業省作成の資料では、製造業の割合が

 2000年 20.5%

 2005年 18.0%

 2010年 17.2%

 2014年で16.4%である。

 

 経済産業省が企業を対象にしたアンケート調査によると、人材が不足する分野として機械工学が最多の結果となった。それだけ技術分野に進む学生が減っている。(2018/4/25付日本経済新聞)

 

日本の未来

 未来を背負う子供たちが、製造業を避け、安易な金儲けを夢見て働くようでは、日本の未来はない。年収一億円のユーチューバーを夢見る子供が増えるのは、大人には悪夢である。ゲーム制作もユーチューバーも社会には付加価値を生まない。ゲーム制作もユーチューバーも社会のテラ銭稼ぎの商売である。陰陽の世界で言えば、陰の世界の仕事である。世界に誇れる仕事ではなかろう。それで未来の日本は支えられない。ゲームが後世に残る仕事を生むわけではない。それは時間の浪費をさせる悪の遊びである。

 モノを作り出す職業の人気が、5位の建築士、8位の大工、10位の科学者・研究者では、将来の日本は絶望である。後は大半が虚業である。

 

占いの世界での職業

 東洋の占いは、全て陰陽で分けて占う。四柱推命での職業では、正財偏財の職業に分ける。正財は、農業、職人、大工等のモノを作り出す職業である。偏財は、医師、役人、学者、商人等の間接部門の職業である。正財の人間がいて、偏財の人間の仕事がある。それが偏財の仕事ばかりに人気があって、モノを作り出す職業に就く人がいなくなれば、国は衰退する。あくまでバランスである。

 

大人の責任

 この原因が、社会の拝金主義者の跋扈の影響であることは明白だ。チャラチャラしたテレビ番組や、虚業の世界を絶賛する安易な情報操作で、それを価値があると誤解してしまう子供達である。それは洗脳教育と同じである。そのように仕向けているマスコミの責任である。それを指導できない大人たちの責任なのだ。仕事とは何かを教えていない大人の責任なのだ。

 

2018-05-13

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年4月23日 (月)

餓鬼道と人の道

儲けるは欲、儲かるは道 (田辺昇一氏の言葉)

  金を目的に動くから餓鬼道に迷い込む。金を追うのではなく、人を追えば、自然と儲かるようになる。それが人の道。

 金を目的にすると、金を集めても集めても満足できず、餓鬼道、修羅道、畜生道に迷い地獄を見る。足るを知るという世界から外れていく。グローバル経済主義の行き着く先が、1%の富裕層と99%の貧困層の分離である。

 

お金の意味

 お金は単なる数値の羅列でしかない。独居老人が亡くなって、床下から数千万円の札束が出てきたという新聞記事を良く見かける。お金の真の意味を理解していない人は多い。お金は使ってこそ価値が出る。お金は道具でしかない。その道具のために、働くのはお金の奴隷となること。手段と目的を取り違えるから起こる間違いである。下手にお金を後進に残すと、財産争いが起こる。働く意味を理解できないと、10年後に子孫を醜い相続争いで不幸にすることになる。それはお金からの復讐である。

 死ぬときに、預金通帳の残高が100万円多いか少ないかなどは、何も持たずあの世に旅立つ身には、煩わしい雑事である。人生では小さな問題である。

「人生で生きていくのに必要なのは、勇気とsome moneyである。」(チャップリンの言葉)

 

お金を稼ぐ能力と使う才覚

 人生で必要なのはお金ではなく、お金を稼ぐ能力と使う才覚である。両方が身に付けば、お金のほうから擦り寄ってくる。お金も人間が作り出した人の子である。お金にも魂があり、現金なものである。お金は経済状況が変われば消えてしまうことがある。しかし身につけたお金を稼ぐ能力は、どんな経済状況になっても消えない。その能力がお金に勝る財産である。

 母方の祖父は、銀行に預けた虎の子の退職金が戦後の新円切替(1946年2月16日)で、紙くず同然となった惨めな体験をした。私の生まれる4年前のことである。母がその話を何回もしてくれた。その時期、母と結婚前の父は、シベリア抑留の身であったが、洋裁の才能という芸があったので生きて帰国できた。

 

悪縁を切る道具

 お金は道具であるから、悪縁を切るための道具として使えばよい。札束で相手の頬をひっぱ叩いてやれば、道具としてのお金の価値が出る。それで自分の大事な時間を有効に活用できる体制がとれれば安いもの。それで相手が目を覚せば救いがあるのだが、縁なき衆生度し難し、で目を覚ましてくれないのが現実である。

 

使命感

 仕事は「使命感」をもって取り組むもの。しかし「使金感」をもって生きるとは言わない。言うのは「資金力」であり、お金が道具、手段であることは明白である。そのお金を人生の目的にするから、にわか成金が晩年を汚すのである。お金も大事に扱ってあげて、心を込めて旅出せてあげれば、お金がお友達をつれて帰ってきてくれる。可愛い子(お金)には旅をさせよ、である。人の道に反したりせず、使命感を持って仕事に取り組めば、お金の方からすり寄ってくる。

 

2018-04-23

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2018年4月19日 (木)

道の学びかた

書道の学び方

 見ながら真似して書くから上手くならない。字体を覚えて、考えながら書かないから上手くならない。真似るのではなく、先人から学ぶのだ。何時でも何処でも通用する書法を学んで、書法に則って書くのだ。(馬場恵峰師談)

 

生きる道の学び方

 人の経営を真似して、経営するから上手くいかない。経営の原則、人生道の基本を覚えて、人から学んで経営しないから、うまく経営できない。先人の経営から学んで、己の経営と比較してそれを応用するのだ。先人の生き方を学んで、自分の生き方を見つけるのだ。これは全てのことに共通する要点である。

 

学ぶとは

 今の書道は、真似るだけで学んでいないので、本物の書が書けないのだ。書法から外れた読めない字を「これが芸術だ」と誤魔化して踊りながら書くから、書道の本道から外れていく。それが外道である。

 「学び」の意味は、旧字体の形から見れば、その原則は一目瞭然である。学びの館の下で子供達(我々)が、お互いに議論をして、切磋琢磨して修行している様を表現した象形文字である。相手から学ぶから成長するのだ。真似ではダメなのだ。

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     「武道としての情報設計」小田 2006年より

 

2018-04-19

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2018年4月17日 (火)

気配りセンセーの感度ゼロ

遠回しに言って、気が付かない人に、直接言うと、恨まれる。

 これは2018年4月15日、岩村を見学中に新戸部さんから教えてもらった言葉です。

 

固定観念の訓練

 遠回しに言って気がつかない人に出会ったら、その時点でその人と縁を切らないと、禍が己に及ぶ。要は、その人とは30年間に亘って培ってきた価値観が違うのだ。そんな人にいくら言っても無駄なのだ。その人は、そういうことは感じないという訓練を、一日に10回として、30年間で109,500回も繰り返してきたのだ。その強固な感性を固定観念という。そんな固定観念は、少しくらいの助言では、変わらない。

 逆に、賢者からそう思われないように、全方向の気配りセンセーを最高感度にすべきなのだ。そうすれば良きご縁に気が付き、良きご縁が回ってくる。

 

2018-04-17

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2018年3月 7日 (水)

「佐藤一斎の街」に学ぶ

 2018年3月4日、岐阜県恵那市岩村を訪問して、言霊とは、指導者とは、それに率いられた組織の成果とは、について多くの学びがあった。

 私は岩村を明徳塾OB会二日目(4月15日)の学びの旅行先にする計画を進めている。その事前調査として訪問した。当日、11時過ぎまで、大垣市の元気ハツラツ市の状況調査をしてからの出発である。JR恵那駅で明智線に乗り換えて、現地の岩村駅に14:09に到着した。

 岩村は、幕末の大儒学者で日本の孔子とも言われる佐藤一斎の生まれた村である。佐藤一斎の書『言志四録』は、多くの志士の座右の銘として親しまれ、明治維新を成し遂げる原動力となった。『言志四録』は西郷隆盛が島流しにされたとき、この本を島流しの獄舎で熟読して、西郷の思想と人格を固めたと言われる。

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ひなまつりで街中一致団結

 電車から降りた観光客は少なかったが、着いて見ると観光バスや自家用車でこの地を訪れた人が多く、街中が観光客で賑わっていた。この日は、「いわむらの城下町ひなまつり」として、美術館や町屋の殆どの玄関にお雛様の飾りが設置されて、町中で雛祭を祝っていた。その雛壇の数は53店舗中に約71セットの多さである。殆どのお店がお雛様を飾って、城下町ひなまつりを盛り上げていた。街の古くは江戸時代のひな人形から昭和初期までの作があり、歴史を感じた展示である。観光客をもてなす街の熱意が伝わってきた。

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江戸末期から明治時代までの街並みを保存

 岩村駅から約1キロの道なりが江戸末期から明治時代までの町家や武士屋敷が連なり、「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。商家や武士屋敷が無料で美術館の記念館として開放されている。当時のかまどや生活の道具、機織り機、蔵内部などが展示されており興味深い。

 街の中央の広場では、若い衆が雛祭として一斗樽で無料の振る舞い酒があった。私が到着した時に、何故かちょうど樽が空になり、「最後の一杯ですよ」と若い衆が声を上げていた。私も手を出したかったが、禁酒中の身のため遠慮したが、なにか損をした気になるのは、卑しい根性なのか?

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『言志四録』の木板に学ぶ

 街中の7割ほど家の軒先に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げられていて、街中で佐藤一斎の遺徳を偲び観光客にその教えを伝えている。『言志四録』の言葉が軒を連ねていると、何か厳かな気分になる。街中で佐藤一斎の言葉を学んで崇めている雰囲気である。毎日、この板を眺める大人も子供も、良き教育環境であると思う。人は言霊から霊感を受け、人格向上の糧となる。

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 街中のあちこちに『言志四録』の句の碑文も建立されている。岩村駅前にも、佐藤一斎の言葉の碑が建立されており、街中で佐藤一斎の業績を顕彰している。

 明徳塾OB会で訪問予定の415日には、今春スタートするNHK朝の連続テレビ小説「半分、青い。」のロケ状況のパネル展示と花の展示がされる。この岩村は、ヒロインの鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さん故郷という舞台設定である。鈴愛(すずめ)役の永野芽郁さんは「岐阜弁は、関西弁や標準語とも違っていてとても難しい。」という。岐阜県人の私としては、岐阜弁は標準語に近いと思っていたのが意外である。大垣弁とは少し違うのかもしれない。

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岩村歴史資料館

 岩村駅から徒歩で1.7kmの坂の上に位置する岩村歴史資料館は、佐藤一斎を顕彰するために建てられた資料館である。この土地には、岩村藩主の館があったが、明治14年に失火により焼失してしまった。その跡地に岩村歴史資料館が建築されている。佐藤一斎に関する展示物は少ないのが残念ではあるが、佐藤一斎の肖像画に直筆の書が書かれた軸、著書等がガラスケース内の一面に展示されている。管内は撮影禁止である。門の前には佐藤一斎の像と顕彰の碑が建立されている。

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伝鴨長明塚

 岩村駅の横に鴨長明の塚が建立されている。何事かと説明看板を見ると、『方丈記』の作者、鴨長明(11551216)は、鎌倉を追われ遠山景簾の好意で岩村の両家に逃れて半年を過ごした後、病を得て入寂したとある。

 この地に、後に岩村藩の家老丹羽瀬清左衛門が石碑を立てたとされる。長明作といわれる木像があり、昔から夜泣き子供に添い寝をさせると丈夫になるとされ、お礼に小さなちゃんこを奉納する慣習が明治時代まで続けられた。(恵那市教育員会作成の看板より)

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空き家の少なさに驚き

 「重要伝統的建造物群保存地区」の53店舗中で、「売物件」の看板がかかった空き家は1件だけあった。大垣市のようにシャッターを降ろした店が192店舗中、117店舗(61%)も連なるのとは、大違いである。同じ観光地で大垣市と岩村は何が違うのか。明智線は単線で、一日に2両連結のジーゼルカーが、15本しか走らない超ローカル線であり、岩村は過疎地の観光地である。それでも観光地として栄えている。

 

観光政策における大垣市と岩村の格差

 岩村は街中で統一した方針で、観光地として街興しをしている。ほぼ全家屋に『言志四録』から抜粋した一句を刻んだ木板が掲げている。ほぼ全家屋が、ひままつりとして玄関に雛壇のおひなさまを飾っている。53店舗中で、その数71セット。村長のビジョンで、村中で一致団結して観光客を招く段取りをしている。

 これと比較して、大垣市の観光政策を情けなく思った。大垣市は、市長のビジョンが曖昧で、元気ハツラツ市で大垣市をどうしたいのかが分からない。観光都市としての明確なビジョンが分からない。だから大垣市の外部団体の大垣観光協会もお役所仕事で熱意がなく、業者に仕事を丸投げをしている。そのため大垣駅前商店街が、元気ハツラツ市にそっぽを向き、当日に敢えて店を閉めている店主が多い。それ自体が恥さらしである。なにせ観光客は露店に行ってしまい、店を開いても儲からないから。大垣市が、市民税を使って大垣駅前商店街の営業妨害をしている。

 元気ハツラツ市で盛り上がっているのは、大垣市の外からきた業者、露店商たちである。それでどうして大垣商店街の活性化ができるのか。儲けのカネは全て市外や県外に行ってしまう。ますます大垣駅前商店街が寂れる。

 

ビジョンなき航海で沈没寸前の大垣市

 大垣市長の観光方針が曖昧のため、大垣駅前商店街を歩いても、芭蕉の句の一つもない。店も何もない水門川沿いに芭蕉の句碑があるだけである。岩村と大違いである。奥の細道を歴史遺産として登録するという大垣市の方針があるが、大垣駅前商店街と市民はそっぽを向いている。この原因は大垣市長に、明確なビジョンと実績がないためである。市長の座に座り続けるのが目的で、市長として何をやるかが全く見えない。だから商店街がそっぽを向き、大垣市は衰退の一途である。

 組織は、一人の優秀な長によって発展もするし、ビジョン無きリーダーで衰退もする。組織の興亡は、すべてリーダーの手腕にかっている。その現実の差を岩村と大垣市で発見した。

 現在、「大垣中心市街地活性化計画書」が提示されているが、これは大垣市がハコモノを作って業者を潤わすためのお役人が書いた「お作文」の言い訳書である。住民不在の計画書である。これに沿って実施しているから大垣は寂れてきた。大垣駅前商店街の店主達は、誰もその内容を知らない。この計画書は、冗長な文体で冗長にデータをこね回し、曲げた結論を出している。これでは読んでくれ訳がない。

 ビジョンには夢と希望と志がなければ意味がない。この計画書にあるのは新市庁舎の建設というハコモノだけである。大垣市長に欠けているのは「志」である。大垣に「平成の維新」が必要である。幕末に大垣藩を建て直した家老小原鉄心の再来が望まれる。

 

2018-03-07

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2018年3月 1日 (木)

般若心経を英訳と和訳で理解する

 般若心経とは、「般若の心髄についての経典」である。ここでいう般若とは簡単に言うと「悟り」である。唐の玄奘(三蔵法師)が国禁を冒してまでして西域(インド)に行き、持ち帰った多数の仏教経典を漢訳し、600巻余に編纂した「大般若波羅蜜多経(大般若経)」。そのうち、大般若経の心髄(空に関する経文)のみを要約したお経が般若心経である。

 三蔵法師は重罪の国禁を犯してまでしてインドに行き、多数の経を持ち帰った。しかし帰国時は玄宗皇帝が、三蔵法師を国賓として出迎えたと言われる。

 

般若心経の和訳

 漢文の般若心経は、サンスクリット語を漢文に翻訳しているため、日本人には難解であるし、数多くの翻訳が出ていて、混乱を招いている。サンスクリット語を漢文に翻訳して、それをまた日本語に翻訳しているので、一部には間違った解釈をしているのもある。私もおぼろげには理解していたが、その真意はつかみかねていた。

 竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』(みやび出版 2013年)は、サンスクリット語から英語に訳しているので、却ってその源意が良くわかる。

 2018年新春に、馬場恵峰師が10本の軸に各宗派の和訳の写経をされた。私は、2018年2月22日の写真撮影の折、その美しい和文で揮毫された般若心経の写経軸を見て、私の心にストんと落ちてきた。漢文の般若心経は難しいが、和文の美しい書で読むとよく理解できる。その和訳を文末に記します。

 

僧侶の堕落

 般若という言葉は、能面の「般若の面」の形相とは関係ない。お寺で、お酒を「般若湯」というのは、お坊さんの言い訳(?)である。僧侶は原則、精進に務め禁酒・禁煙のはずである。それが最近の風潮で、飲酒、喫煙、飽食で、肥満体の僧侶が目に付くのは、堕落の象徴である。ある地方で松本明慶仏像彫刻展を開催して、その会場に訪れた僧侶の過半が肥満体であったのは、日本仏教の堕落の象徴かもしれない。京都には各宗派の総本山があるので、全国から僧侶が研修の名目で集まるが、祇園で羽目を外す僧侶も多いと聞く。地方の地元では目立つので、僧侶もおとなしくしているが、檀家の目の届かない京都で羽目を外すようだ。檀家の目は逃れても仏様の目は逃れられない。日本で仏教が衰退するのも故あること。上に立つものが範を示さないと、その組織を衰退させる。どの世界にもあてはまることだ。今の僧侶は、お経読みのお経知らずになっている。難解な漢文でなく、せめて和文での般若心経を味わって学んで欲しい。

 菩提寺の住職が、私の先祖の戒名を間違って伝え、位牌と墓誌を作り直す顛末になったが、それは現代の僧侶の生き様の乱れを象徴していたようだ。仏様はよくお見通しである。僧侶が絶対だと思っていた私の目を覚まさせてくれた。その因縁で、恵峰先生に墓誌の文字を揮毫して頂けるご縁となった。この4月に、馬場恵峰師が岐阜に講演に来られるので、その折に、完成した墓誌を見て頂く計画である。

 

馬場恵峰師の和訳の般若心経

 ずっとー昔、観音さまが深い智慧を完成するという「深般若波羅蜜多」を修行していた時、物質や精神は皆、実態が、空の状態だということを悟り、すべての苦しみから抜け出すことが出来ました。

 舎利弗よ、この世における物質は実体のないもの空であり、実体がないということは、また物質(色)を離れてはありません。即ち物質は実体のないものであり、実体のないものが物質なのです。又それは感受作用(受)、知覚作用(想)、意志作用(行)、判断作用(識)といった精神も同じことです。

 舎利弗よ、この世におけるすべての現象は実体のない状態(空)ですから、生じたり消滅したりすることはなく、汚いとか、きれいということもありません。また増したり減ったりすることもないのです。

 空という立場においては、物質という規定もなく、精神もなく感覚器官や、その対象となるものもありません。視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、触覚(身)、意識(意)も存在しなければ、それぞれの対象となる形あるもの声、香り、味覚、触観念もありません。視覚の世界から意識の世界に至るまで感覚の世界はないのです。道理に暗いということはなく、道理に暗いことが尽きることもありません。

 また老と死もなく、老と死が尽きることもないのです。苦しみや苦しみの原因(集)苦を滅することも、苦を滅する道もありません。智慧のなければ、悟りに達することもないのです。

 このように悟りに達する事を否定される境地に住むからこそ、仏の道を極めようとする者は、智慧の完成をよりどころにし、心を曇らせることがありません。曇りがないから恐怖もない。迷い、妄想からも遠く離れ、究極の悟りの境地に到達出来るのです。過去現在未来にわたる諸仏もすべて智慧の完成により悟りを得たのです。だからこれを知るべきです。

 般若波羅蜜多は大いなる真実の言葉、この上ない真の言葉比較するものもない真の言葉。すべての苦悩を除くもの。真実で虚しくない。だから般若波羅蜜多の真の言葉を説きましょう。

 行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、彼岸に共に行ける者よ、悟りよ、幸いあれ、ここに完全なる智慧の心が完成する。

  平成30年初春10日午後5時 斎戒沐浴 三寶齋恵峰 馬場英男敬書

 

補足説明

 ここでいう「般若」とは「言葉にならない智慧」という意味である。だから我々も言葉では説明できない。維摩経には、維摩居士と釈迦の弟子の中で一番智慧があるとされる文殊菩薩が、知恵比べをする場面がある。その時、文殊菩薩が「般若は、言葉では語ることができない」と説明してしまう。維摩居士はひたすら沈黙である。文殊菩薩が言葉で説明してしまったので、文殊菩薩の負けである。

 

それでも敢えて説明すると、

 智慧とはPrajna(梵語)で、英語ではwisdom. The mental function which enable one to perceive without error and to distinguish what is true and what is false.( 誤りを犯さないように認知して、真実と虚偽を区別させる精神の働き)である。波羅蜜多とはParasite(梵語)の音訳で、「真理を知る力」である。現代訳では「完成」と訳し、「智慧の完成」となる。

 竹村日出夫著『般若心経は英語で読むとよくわかる』より

14k8a9318   馬場恵峰書 般若心経 和文(部分)

2018-03-01

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