0.2歩先を観て、半歩遅れて歩く
2018年7月26日、近所のピアノの先生の勧めで、本巣市宗慶の「美術の森」で開催されている「神山恵子水墨画展」(7月21日~8月5日)を鑑賞した。犬も歩けば棒にあたる。棒こそがご縁である。縁が向こうから来るのではない、歩いて縁を作りにいくのだ。
右端の床の間の水墨画「心躍る忠太郎太鼓」は国際文化ガバレッジ賞を受賞
芸術の創造に接する幸せ
この展示会では、神山恵子さんが日本の風景を実際見て感じて写生して水墨で描いた作品30点余が展示されている。神山恵子さんは自称、年金生活の主婦として、水墨画に取り組んでおられる。世には取り組みたくても、生活上で出来ない人がいる。夫の理解のない人がいる。健康でないと取り組めない。才能がないと取り組めない。水墨画等の芸術の創作活動に取り組めるのは幸せなのだ。
この種の趣味はほとんど持ち出しである。夫の援助がないとやっていけない。聞けば1枚の絵の制作に3日から1週間ほどかかるという。専用のアトリエでなく、台所の片隅で作品を仕上げる。そのほうが落ち着くとか。このような個展を開くには、その額縁の準備が大変だという。その資金も大変だ。それで販売価格から計算すると、額代にかなりの部分が消えてしまう。
神山恵子さんは、二人の師について水墨画を始めて10年で、展覧会で多く入選するほどの力量となられた。これは才能だと思う。芸術の世界はいくら努力をしても、超えられない壁がある。私も還暦を過ぎてからピアノを始めて、超えられない高い壁を感じるこの頃だ。
師が変わって、作風が変わっていく部分の変わらない部分があるという。指導しても変わらないところは、師も諦めて、それが神山さんの個性だとされている。どんな道でも師の影響は大きい。
神山恵子さんの略歴
2001年 50代後半、岐阜水墨画画人会展を見て心揺さぶられ、水墨画家柴山蒼月師に師事する
2014年 「水墨画」誌上で9点が佳作入選
2014年 荒井克典師に師事
2015年 第20回全国公募総合水墨画展 優秀賞
2016年 第33回墨神会全国公募展 横浜市教育委員会賞
2017年 第34回 同上 国際文化ガバレッジ賞
「庵」一枚購入
この展覧会を見て一枚の水墨画を購入した。その水墨画は、背景の樹木や葉っぱのぼかしが素晴らしく、庵の風情が際立っている。水墨画の特徴がよく出た作品である。ご縁を感じて、この絵の購入を決めた。
水墨画の粋は、焦点の明確化とその他のものを消すことにある。描かないから、焦点を合わせた対象が浮かび上がってくる。写真の如く描き過ぎてしまうと、焦点がぼけてしまう。その兼ね合いが難しい。他の作品で、あまりにリアルに描きすぎて、焦点がぼけてしまった作品もあった。
即身成仏
こんな静寂な林の中の庵で、世俗の煩わしさを絶ち、食を絶って即身成仏になることを夢見るのも人生の一コマである。人の最終目標は仏になること。餓死は眠るが如く逝けるという。飽食では、病魔に襲われて苦しんでの成仏となる。
極東戦争裁判で、唯一の文官で死刑になった廣田弘毅元首相の母は、死期が迫っているとき、オランダに駐在している息子の弘毅に一目会いたいと願うが、息子が帰国できないと分かると、自ら食を絶って眠るように亡くなったという。それが廣田弘毅のその後の生き方に影を落としたようだ。母は生きたのであって、生き永らえたのではない。強烈な生への表れである。意味もなく生き永らえたくないとの意思表示である。生きる以上は己の意思で生を全うしたい。
現代の生死
人は裸で生まれて、裸で死んでいく。死ぬときは一人である。ほんの百年ほど前は、そういう生活が当たり前であった。今の世は、贅沢すぎるのだ。ありがたいことだとも、感じなくなるほど贅沢なのだ。飽食の挙句、病魔に侵されベッドに縛り付けられ、管を何本も体に入れられ、死なないように生かされている。贅沢から地獄への転落である。本人は不幸、家族は地獄、医療関係者だけが儲かる。国民は健康保険費高騰で不幸。何かおかしい。私の母が脳梗塞で倒れた時、約4か月間、意識なくベッドに横たわっていた。家族には地獄である。母の使われない筋肉が弛緩して、意識が戻っても、とても立ち上がれまいと分かる状態に体が衰退していた。
この世の地獄と光
母は現代医療の限界を見せてくれた。母を見舞って、街にでると、何故自分達だけが地獄の苦しみを味わうのかとの思いに襲われた。地獄はあの世にはない、この世にあるのだ。それを作り出しているのは、我々の生きざまなのだ。それをお釈迦様は生老病死として、誰も避けられない苦しみとして教えられた。現代は血迷った狂人が、死刑になりたいと無関係の人を殺める事件が頻発する。地獄の様だ。
地獄との出会いもご縁である。だから平穏無事な日々が、いかに極楽に近いかを悟らせてくれる。それでこの絵で何か引き付けられるものを感じて、購入を決めた。良い額も使用している。お買い得であると思う。絵との出会いもご縁である。いくら良い絵でも、その時の自分の心が共鳴しないと、手が出せない。お金の問題ではない。
名画とは
私の名画の定義は、人目が無ければ盗んで自宅に飾りたくなる気持ちを起こさせるのが名画である。私は世界の美術館の70館ほどを訪問したが、海外の美術館では、残念ながら、私の定義の「名画」にはお目にかかれなかった。幸いなことに、そのため盗む機会がなく、逮捕されなかった(?)。いくらうん億円の絵でも、その美術館ご自慢の名画でも、盗んで自宅の「ウサギ小屋」に飾るには、大きすぎ、仰々し過ぎ、ゴテゴテし過ぎている。特に昔の名画は暗い作品が多く自宅に飾りたいとは思わない。そういう点で、水墨画は、欧米の油絵とは別世界の産物で、精神的な香りがする手ごろな作品である。
時代の波に翻弄される愚かさ
今日2018年7月26日、オウム真理教の死刑囚6名が刑を執行された。彼らは最先端の新興宗教の大波に乗り、溺れたのだ。生きるとは何かを、自分の頭で考えず、現世の苦しみから逃れるため、現世から隔絶した教祖の教えに盲従した。
我々は彼らを批判できない。「グローバル経済真理教株式会社」で、品質偽装、産地偽装、会計偽装、過労死職場を社長に命令されている幹部とオウム真理教の信徒と何が違うのか。上司から指示されたら、宮仕えの身で逆らえるのか。逆らって解雇されたら家族が路頭に迷う。そういう立場になったら私も拒否できるかは自信がない。オウム真理教信徒と同じ過程で、東電、タカタ、三菱自動車、東芝、電通のように、人の命を殺める不祥事が頻発している。すべては利他少欲を忘れて餓鬼道の堕ちた衆生の末路である。集めるほど、茂るほど、人は本質から遠ざかっていく。葉っぱが茂り過ぎた状態を鬱という。「足るを知る」を忘れたのだ。
人より0.2歩先を観て、半歩遅れて歩く
人はなぜ絵を描くのか。人はなぜ音楽を奏でるのか。なぜ彫刻をし、文学を作り、エッセイを書くのか。己の内なる世界から湧き出してくるものを、何かに形として表現をしたいと思うのは自然であろう。
ゴッホも金儲けの目的で絵を描いていたのではあるまい。天才であるが故、時代よりも1歩を先走り過ぎていた。それで世間から狂人と呼ばれて、貧困のうちに死んだ。天才の芸術家の多くが、不遇のうちに死んでいる。その芸術家の死後に時代が、その芸術家の思想にやっと追いついて評価されるのだ。
天才は世の中より1歩先を行き、狂人といわれる。偉人は半歩先を歩き、事業で成功する。凡人の私は、半歩も先を行くのは難しいので、人より0.2歩先を観るように心がけている。半歩先を見るのは至難の業だが、0.2歩先なら、勉強すれば見ることは可能だ。0.2歩でも先は先である。
しかし歩くのは半歩後でよい。自分で考えず、人と同じように世間に引っ張られて歩くのでは、社会の波に翻弄され、挙句に溺れて沈没する。その流行が正しいかどうか確認してから、世間から半歩遅れて歩いても、何の支障もない。私はスマホもやらず、フェースブックもやらず、LINEもやらず、グルメにも走らず、テレビも見ず、本に囲まれて生活をしている。しかし情報収集とご縁の獲得にはお金をかけている。
2018-07-28 久志能幾研究所 小田泰仙
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