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2022年1月

2022年1月31日 (月)

「リーダー候補の8つの目標」に違和感あり

 

 『Newsweek 2018.6.18号』での特集で「名門・ジョージタウン大学 世界のエリートが学ぶ”至高のリーダー論”」に目が引かれこの週刊誌を購入した。サブタイトルは「サム・ポトリッキオが説く勝ち残る指導者の条件」である。その表紙デザインに引かれて、つい衝動買いをしてしまった。 

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 しかし、内容を読んで落胆して書庫にしまい込んだ。先日、それを再度読み直して、改めて呆れた。これは西洋のリーダー養成論であるようだ。私が求めていた内容ではない。

 

 私は、世界のリーダーとはどういう教育をされるかと、この記事に飛びついたのだが、得るものがなかった。名門・ジョージタウン大学の名前と『Newsweek』の表紙デザインとキャッチコピーに騙されたわけだ。

 西洋の価値観では、この説は間違いではないが、最高のリーダー論ではないと思う。こういうリーダーが育つから、グローバル経済主義が蔓延し、貧富の格差の拡大、力による覇権、利己主義の拡大で世界経済が混乱しているとしか思えない。ここには、徳や人格などの話はない。指導力の話もない。

 世界のリーダー論などは百家争論で、多くの説があるだろうが、この「リーダー候補の8つの目標」が、その中で上位に来るとは思えない。これは下っ端のマネージャーの目標値である。これでは、世界は平和にならないと思う。リーダーとして、もっと大事なことがあるはずだと思う。

 

 

リーダー候補の8つの目標(サム・ポトリッキオ)

1 毎週、最低3冊の本を読む努力をすること。一冊は伝記もの。1冊は小説や詩など。

2 できるだけネットではなく紙に書かれた情報源を使う事。

3 スマホの使用時間を1日20分以下にする。。

4 旅行先として躊躇しがちな場所を1年に2か所訪問すること。

5 仕事上の人的ネットワークは150人規模を維持してみよう。

6 最低30人の知人を新しく出会った人に紹介し、知人たちの仕事が向上するアドバイスを与えてもらう。

7 6人のメンター(頼れる助言者)を持つこと。

8 起きている時間の10%を、苦手に感じる分野での知的活動に充てること。

               『Newsweek 2018.6.18号』より

 

  

問題点

 私はこの「リーダー候補の8つの目標」を見て、がっかりした。

 

 違和感を覚えたのは、サブタイトルの「サム・ポトリッキオが説く勝ち残る指導者の条件」である。勝ち残るとは、弱肉強食の世界の戦術である。まさに西洋式生存競争の世界である。結果として、1%のリーダーが幸せになり、99%の人が不幸になる社会のリーダの姿ではないのか。

 リーダーに必要とする心構えや志については記述がない。何のためにリーダになるのだ?、もない。りーダーとして何をやるのだ?、もない。小手先の手段だけの記述では納得出来ない。これは課長クラス、係長クラスの指導者養成のレベルである。西洋のエリートとして、金儲けに邁進するマネージャーの養成コースである。なんのためにリーダーとして働くかの?である。

 

私の指導者論

 私が、馬場恵峰師から明徳塾と松下幸之助経営塾で学んだ指導者論とは、世界が違うようだ。

 今回の記事で、東洋の指導者と西洋の指導者の違いが分かり、多少は勉強になった。

 

 リーダーが必要とされるのは、リーダーが世のためにチームをまとめて、大きな役立つ仕事をする。それが結果として自分にも良い結果となる。ジョージア大学のリーダー論は、自己だけの話に終わっているようだ。だから小手先の技術論で、そのため違和感を覚えたのだ。

 自分の中には108人の煩悩人が蠢いている。そのリーダーとして、その煩悩を抑えないと、価値観の違う組織の仲間など引っ張れないだろう。西洋のリーダー論には、そういう観点が欠如している。

   

2022-01-31  久志能幾研究所通信 2290号  小田泰仙

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2022年1月30日 (日)

暴走運転手と未知なる自分の対話

 

どんな車よりも構造が複雑で、運転が難しい車とは、「自分」という名の車である。一生の運転者は自分である。

   2006年5月28日 明徳塾で 馬場恵峰師談

 

 最近、私は自分の内面との会話を毎日、1時間以上かけている。未知なる自分との対話である。過去の資料を見直し、当時の自分と対話している。それは内観である。

 「で、今のあんたならどうするのか? 今は何をしたいのか? 本当に欲しいものは何か?」と毎日自分という運転手を問い詰める。そこに未知なる自分が出現する。

 

未知学び

 一日の運転をする前に、朝は志を確認するため仏前でお勤めである。昼に写経をして生きかたを確認する。夜は無事に生きられた一日を感謝して眠りにつく。現役時代は、そんな時間的な余裕もなく、暴走運転の日々であったと反省する今日である。

 

 実際に車を運転する場合は、「三貨車」で運転するごとくに慎重に、である。少し油断をすると自分という車は暴走する。暴走を防ぐため先頭車にナビの経典(戒め)を乗せ、自分は中央車に乗り、欲望という貨車を引っ張って走る。ナビ経典の指示通りに運転すれば、暴走はしない。油断すると欲望という貨車が先頭に出て暴走する。シェイクスピア製のムスタング(じゃじゃ馬ならし)は、運転が難しい車である。

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 馬場恵峰書

2022-01-30  久志能幾研究所通信 2289号  小田泰仙

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2022年1月29日 (土)

大垣市配給のお花を辞退 土下座申請

 

 当町内には、毎年2回、大垣市公園課から公園の花壇用に、花苗が配給される。長年、町内は大垣市の慣例の押し付けを黙って受け入れていた。

 今回、住民の嘆きの声が上がってきたので、その花苗の配給を辞退(拒否)することにした。

 

背景

 町内の公園の花壇用に花苗が、大垣市から一方的に町内に送られてくる。「下々よ、殿様からのお花だ。有難く受け取れ。大事にせよ。世話にかかる費用はお前らの金でやれ」である。

 花苗がお上から送りつけられれば、当番が花苗を公園に植え、肥料をやり、毎日、水やりのお世話をせねばならぬ。強風が吹く日も、酷暑の日でも、その必要がある。町内には高齢者が多く、80歳以上の方も多い。その人が当番で毎日となると大変な肉体的負担である。近所の手前、さぼるわけにはいかない。昔の人は義理堅く、手を抜くこともない。

 だから、高齢化社会になると、お上から一方的に、各町内への花苗の「御下賜」はありがた迷惑である。花苗を手配するなら、その人工の手配かお手当を支給しないと片手落ちである。役人根性の行政にはそういう気配りはない。

 

土下座申請

 その花苗の配給停止も、お上のお城(市庁舎)に自費のガソリンを使って出向き、お上に「公共花壇の花苗配給停止届書」を出して停止をお願いしなければ、止まらない。

 曰く「大垣市長 様   公共花壇に植栽する花苗の配給を停止くださるよう、届出します」(規定文で事前印刷)とお伺いを立てるのだ。申請の規定文書には「大垣市長」に、更に「様」が付けてあり、二重の敬語表現である。これは滑稽である。この表現を使うのは市民として卑屈である。公僕であるはずの「お上」は偉いのだ。市民が下人扱いである。そうやって停止をお上に懇願しないと止まらない。大垣市の役人の潜在意識には士農工商の世界があるのだ。

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時代の変化

 昔と違い、各住宅地は高齢化が進んでいる。役人が頭だけで考えて、昔のままのやり方をしてよい状況ではない。しかし役人は何も分かっていない。そんな政治が20年も続き、結果として大垣市は没落した。市の興亡は、公示地価を見れば一目瞭然である。

 それでいて、市民に負担となる「緑の募金」を平然と要求してくる。なぜその募金額を税金の中からやりくりしないのか。住民はそれを含めて税金を払っているのだ。それでいて、大垣市の役人は金の無駄遣いばかりである。なぜ不要なことを節約する努力をしないのか。

 役人は予算を消化することが、最優先なのだ。予算は余らせてはならないのだ。大垣市の無駄遣い体質の露見である。この件を見れば、一事が万事である。

 その各町内に配布するお花も、大垣市内の全自治体500団体に配布しようとすると、膨大な数で、その経費も膨大である。一町内で仮に1万円のお花代としても、年間2万円、全市で1000万円の費用である。全て税金である。業者はウハウハのはず。一度得た利権は失うわけにはいかないと、長年、その慣習が続いているのだろう。だれが利権でうまい汁を吸っているのだ? との疑問を感じた。

 お役人は、問題点があっても、前例踏襲、問題が起こらないように、起こらないようにと無難に進めるから、少しも社会が良くならない。それが現在の日本の停滞の真因である。変革には、市民が声をあげないと何も変わらない。

 

エピソード

 現在、別の場所にある公園の花壇では、花好きの有志が好きなお花を公園に植えて楽しんでいる。それは住民の自由である。来年度から、お花が支給されていた公園もそのようになる。自治は住民に任せればよい。役人は有名大学を出ている意識があるためか、頭が高いのだ。その分、市民が苦しむのだ。

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 馬場恵峰書

 

2022-01-29  久志能幾研究所通信 2288号  小田泰仙

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2022年1月28日 (金)

株で儲けるために 仏定歩合を上げる

 

 人生の究極の目的は、自分の株を上げることだ。自分の株価を上げれば、世間の評価が上がる。評価が上がれば儲かるのだ。評価を上げるためには、仏様からの信用度を上げればよい(仏定歩合を下げる)だけだ。

 一般に金を儲ける手段として、株、債券、外貨、土地、不動産、マンション、金、ビットコイン、絵画、ワイン、新興宗教等と多くの投資先と手段がある。その選択と己の才覚でいくらでも金が稼げる。下記の方程式に則とり実行すればよい。短期で見れば、需要と供給(市場の人気投票)に左右されて価値の乱高下があるが、長期で見れば、この方程式通りである。

 

 人の場合でも、上司の人事評価で職位が乱高下するが、長い目で見れば、相応の人は相応の評価をされる。長い人生だから、同じ能力でも抜擢人事もあれば、左遷人事もある。人事とは、鴨川の流れに浮かぶ泡沫と同じである。それは人間社会の好き嫌いから生まれた世界ある。宮仕えは所詮、上司のからの好き嫌いの評価が決まる世界である。究極の価値の査定方程式は、下記である。仏様からの人事評価こそが大事である。

 

国家の価値   =(税収÷公定歩合)   ×(需要÷供給)

会社の株価   =(安定配当÷公定歩合) ×(需要÷供給)

師の価値    =(師へ投資額÷仏定歩合)×(需要÷供給)

自分有限会社株価=(年収÷仏定歩合)   ×(需要÷供給)

 

 日本国は財政破綻する危険性が低いので、国債の金利がコンマ何%と低い。いくら日本国の借金が多くても金利が低いのは、世界が日本を信用しているからだ。それに対して、世界には、国債の金利が8%とか、10%と高い発展途上国がある。金利の高さは国の信用度の低さであり、国の財政破綻を危惧されているからだ。金を貸す相手に不安があれば、金利を高くするのは闇金融では当たり前。

 

 同じように、会社の価値(株価)は、安定配当と公定歩合から計算される。

 株価の乱高下とは、だれが美人かの人気投票のドタバタ劇である。鴨川の流れに浮かぶ泡沫と同じである。時代の流行で、だれもその行方は分からない。

 同じように、自分という有限会社の株価は、年収と仏定歩合から計算される。

 

 公定歩合とは、日本銀行が定めた金利である。

 「仏定歩合」とは、佛様から金を借りようとした場合の金利である。

 

 師の価値とは、師にどれだけの金を使って教えを受けたいかである。

 「仏定歩合」とは、目に見えない信用度である。要は、自分にどれだけ信用が世間的にあるかである。自分自身の信用度である。大企業に勤めて、手に技術があり、健康であり、前向きの生き方なれば、銀行は喜んで金を貸してくれる。無職の無気力な男に銀行は金を貸さない。貸すのは闇金融である。その金利はド高い。

 

人生最大の投資先 

 人生で最大の投資先は、自分自身である。それが一番儲かる投資先である。

 ドラッカーは、「人こそがものの価値を2倍にも10倍にもできる資源である」という。日本はその資源に対する投資を怠ってきたので、失われた30年が生まれた。誰のせいでもない、そういう政治家に投票した我々国民が悪いのだ。グローバル経済主義という流行り病にかかったのも、病状を悪化させた一因である。それを邁進させた政治家や経営者を追放するのが最大の投資術である。

 大垣市も、未来に投資をしない無能市長が無為無策で20年も居座って、大没落した。この20年間で、大垣の公示地価が半値以下に暴落した。今から再建である。

 

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 馬場恵峰書「百尺巻頭書作選集」久志能幾研究所刊より

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2022-01-28  久志能幾研究所通信 2287号  小田泰仙

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2022年1月27日 (木)

会社のかかる死病

                                                               

  会社とは、社員を支え育成に限りない援助を与えてくれる親的な存在である。会社も長く存続すると、それ相応に成熟し安定成長に入る。どんな組織も老化現象は自然現象である。大きな会社では、大事な情報がトップに伝わらない現象である「情報の流れの道が動脈硬化病」、「組織の硬直化病」、「会社の私物化」という死病がじわりじわりと迫りくる。企業の寿命は30年といわれる。入ったときは若かった会社もいつかは老いる。

 

 生物でも、その種としての使命を終えた時に死が訪れる。多くの種は生殖を終えたあとに、すぐ死んでいる。カマキリに至っては、メスが生殖を終えた雄を頭から喰ってしまう。それが子供の栄養になるのだ。だから雄は粛々と喰われている。それがカマキリの生存の掟なのだ。

 

 人間様は他の種とは違い、生殖を終えたあとでも長く生きている。しかし、多くの人はその間に社会的存在意味を忘れて認知症になる。自分が何のために生きているか、考えよう。世に貢献できなくなったら、死がある。

 

企業の死

 会社は社会的な公器としての役目を失ったとき、経営者がその使命を忘れた時、その会社の死が訪れる。

 社会を見渡しても、2000年の雪印乳業の食中毒事件、2001年の三菱自動車のリコール隠し、2002年のみずほ銀行のシステムダウン等、この死病に起因する不祥事が続いている。

 2015年、タカタはリコール問題で死を迎えた。2017年の東芝の経営層の迷走で、東芝は破綻して死に向かっている。

 ゴーンが日産を食い物にして、ぐちゃぐちゃにした。ぐちゃぐちゃにされたのは、そうされる体質が日産の経営層にあり、それにゴーンが付け込んだのだ。

 

真因

 問題の企業の発病後のトップの発言は不思議と同じで、「そんなことは聞いてなかった」である。情報が流れない情報ルートの詰まり、組織の硬直化といった死病に罹った企業の症状である。そして倒産の危機に面する。

 病気にかかれば治療する。事前予防をする。当たり前のことを当たり前にするのが自然の理にかなった経営である。その治療が業務改革である。

 

 以上を2022年の目で見直しても、問題企業の体質は何ら変わらない。燃費偽装問題で、三菱自動車の隠ぺい体質は、20年経っても変わらない。日産や東芝の官僚体質も変わらない。真因を潰さないから、人も企業も変わらない。なぜそうなったかの真因を追求せず、表面的な対処療法で済ませるからである。よき反面教師の教えを頂いた。

 

身内という癌細胞

 名経営者と言われた人でも、企業が公器であることを忘れて、身内の人間には甘くなることが多い。その身内の人間が経営者として失格でも、身内ゆえ、切るに切れず、経営の中枢部が侵食されてゆく。そうすると本体の経営がおかしくなる。血管のプラークのように経営の中枢の障害物となって経営情報の流れを阻害する。経営の血の流れに付いた不純物は、身内というカスなのだ。身内ゆえに切るに切れない。経営情報という血が正常に流れないので、じわじわと企業の生命力を削いでいく。業病である。

 

 かの松下幸之助翁も癌細胞みたいな娘婿の経営者を切れなかった。そのため辞めさせる汚れ役を後進の社長に託したが、その娘婿に反撃され返り討ちにあってしまった。そして松下電器はおかしくなっていった。それは経営者が、企業が公器であることを忘れて起きた病状である。

 

 私の元部下は、そんな松下電器に途中入社した。しかし、その後、リストラの嵐に巻き込まれ、急性のガンを発症して半年後に、50歳半ばで世を去った。何も前の会社を辞めて、修羅場の松下電器に行かなくてもよかったのに思う。彼に魔が差したのだろう。この件があり、松下電器のリストラ騒動が記憶に生々しい。松下幸之助翁が草葉の陰で泣いている。生あるものは必ず死である。それは会社でも同じだ。

 

 地元の企業でも名経営者と呼ばれた方も、身内におかしな娘婿を入れたがため、経営がおかしくなった。その会社も人員整理する事態に至り、結局、人手に渡った。そんな娘婿を選ぶような娘の男を見る眼がなかったのが問題で、娘の育て方を間違えたのだ。

 

2022-01-27  久志能幾研究所通信 2286号  小田泰仙

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2022年1月26日 (水)

健康のため、人を食べよう。命をもらおう。

 

グルメ食品

 うな丼やノドグロ等の高級魚やステーキなどのグルメ食品は、栄養が偏っており、健康には悪い。それらの食材は脂分が多いため、その脂分が血管に蓄積して、万病のもとになる。

 

全身食

 一番のお勧めの食材は、人間をそのまま食うことである。しかし法律的、倫理的、物理的に課題が有るので、成分がほぼ同じで、丸ごと食べられる食材として、煮干し、小エビ、アサリ、等が勧められる。エビオスでも同じだが、錠剤より、粉末のエビオスのほうがお勧めである。

 これらの成分は、人間をすり潰して錠剤にしたのと、ほぼ同じ成分である。それには栄養素やミネラルが凝縮されており、必須成分がバランスよく構成されている。煮干しは、おかしら付で頭から尻尾まで食べられる。お勧めです。

 

 私は医師から指示された食事療法の一つとして、毎日、10グラムの煮干しを欠かさず食べている。私は、これを薬として食している。病院で出さる薬より価値があり、毒ではない。病院で処方される薬は、ある意味で、毒である。薬は患部を殺すが、同時に健康な部位をも害する。

 

人を喰う

 吉田茂元首相も「人を喰う」のが一番の健康の秘訣だと言う。人生を勝ち取るために、人に喰われてはいけません。そのためには胆力と見識がなければならぬ。そのためには人より多くの勉強をすること。経験をたくさん積む事。多くの人と会うことだ。混迷の時代は、多くの人と出会って、見識を広め、多くの縁をえることだ。会う人が元気と智慧をくれる。来る人が福の神なのだ。

 また煮ても焼いても食えぬ人になってはなりません。顔も見たくない人間に成り下がってはいけません。人を偏食をすると、人間性がおかしくなる。そのために、多くの人と交わって、人格を上げねばなりません。

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 馬場恵峰書

 この板は東日本大震災で倒壊した神社を再興した時に出た桧の端材で作られた。

 

2022-01-26  久志能幾研究所通信 2285号  小田泰仙

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2022年1月25日 (火)

法要とは、魂の人間ドック・自分の葬儀

法要の意味

 仏教では、故人の為に一周忌、三回忌、七回忌、13回忌、17回忌、23回忌、27回忌、33回忌、50回忌まで法要を行う。その意味を理解せず、最近は七回忌くらいで止めてしまう風潮のようである。情けない話だ。

 私は欠かさず年忌法要を執り行っている。私は昨年、祖父の100回忌を執り行うことが出来て良かったと思う。

 

成長の確認

 法要とは、親の教えに対する自分の成長具合の確認の機会である。親は自分のために、無償で多くの支援と教育を自分のために施してくれた。親は自分が幸せになることを望んでいた。

 多くの人は、日頃の忙しさにかまけて、自分の成長具合の確認はしにくいもの。法要とは、その成長具合を、仏前に手を合わせ、振り返り、1年、3年、7年、13年、等々と要所要所で確認していく儀式である。年を追うごとに親が亡くなった歳に、自分も近づいていく。その親を超えられたのかと自身に問う機会が年忌法要である。最低でも、親の歳までは健康で生きたい。それが親孝行。

 

 人が成人すれば、師が親代わりである。師の死後、何時、自分は師を超えることができたのか。師を追い抜いてこそ恩返しである。その確認時期が法要の時である。

 

魂の人間ドック

 親が死んで33年、自分は親と同じ歳となったが、親より幸福になり、豊かになり、長寿(健康に)に過ごせたのか。それを確認するために、静かに手を合わせて、霊前に報告する行事が法要である。

 またその法要をできる幸せを感じよう。健康でお金に余裕がなければ、その法要もできない。法要とは、魂の人間ドックである。

 

自分の葬儀

 親や師の法要とは、過去の未熟な自分を見送る葬儀である。親や師の教えに対して、過去の未熟な自分に別れを告げ、新たな決意の元、新しく生まれた自分が、今後の生き方を霊前で誓う儀式である。親や師の教えに報恩感謝する厳かな儀式である。

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 馬場恵峰書

2022-01-25  久志能幾研究所通信 2284号  小田泰仙

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2022年1月24日 (月)

朝起きて、生きていることを喜ぶ

 

朝起きて、生きているとは、何と素晴らしいことか。

     2006年5月28日 明徳塾で 馬場恵峰師談

 

 朝、目が覚めて息をしていれば、この世でまだやることがあるとの仏様からのメッセージである。それに喜びを感じなければ認知症である。そうなっては生きている価値がない。

 朝になり、息をしていない場合が一生に一回だけ訪れる。それが死。

 

 元気で現役であった馬場恵峰先生も94歳の直前に倒れられ、ベッドから起きられなくなり、1ケ月ほど寝込まれて、2021年1月1日に亡くなられた。

 昨日(2022年1月23日)に先生宅で、一回忌と三根子先生の三回忌が執り行われた。40名ほどのお弟子さんが参列された。別途10名ほどがお参りに来られたようだ。新型コロナウイルス蔓延の関係で、規模を縮小して行われ、その後の会食も中止になったとのこと。

 私の腰痛の持病再発のためと長崎県と岐阜県が新型コロナウイルスの蔓延防止県指定となり、今回は長崎に行けなかった。

 

 この1年間で、恵峰先生が遺された多くの書や資料を振り返り、先生から学んだことを思いだしている。その教えから、多くの実践ができたことを喜びたい。それだけ成長したのだ。一回忌の法要とは、師の教えに対して、一年後の自分の成長を確認するための機会である。

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 馬場恵峰書

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 49日の法要 2021年2月27日 日中文化資料館にて

2022-01-24  久志能幾研究所通信 2283号  小田泰仙

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2022年1月23日 (日)

水を治める者は国を治める(改定)

 国の治水

 水を治める者は国を治める。昔から政治を預かるものの務めとして、河川の整備が最大の仕事である。それができなければ、国は洪水に悩まされ、干ばつに苦しめられ、飢饉になり、年貢は徴収できず、民衆が領土から逃げ出し、国が亡びる。

 現代の国の殿様(市長)にも、水を納める仕事が最大の責務である。市民が安心して暮らすためにも、現代の経済の血である道路を守るためにも治水は絶対に必要な仕事である。治水こそ、市長としての政治家に必要な最大の危機管理項目である。大垣市の前市長はそれを疎かにしたから怒りが沸き起こる。それは2017年10月の台風時にその怠慢が露見した。

 もっと恐ろしいことは、当時は大騒ぎしたが、あれから時が経っても何も対策を打っていないことだ。自分達の居場所(新・大垣市庁舎)だけ、豪華に防災対策をして、市民のための防災はなおざりにしていること。治水を放棄する政治家は無能無策である。だから大垣市はこの20年間で没落した。

 

人生の流れ

 人生は水の中を流れている泡沫のようなもの。その水は縁の流れである。その流れを治めないと、悪縁にまみれて地獄の谷に墜ちる。その流れを制するのが魂の清らかさである。魂が汚れていると、流れてくるご縁も見えなくなる。人生がうまく行かないのは、ご縁の流れという治水をしていないためだ。

 

人体の治水

 人は自分の体内の水の道(血管)を管理しないと、自分の人生を治められない。血管には、動脈、静脈、毛細血管3種類があり、これらの血管の全長は約10万km(地球2周半)の長さにも及ぶ。血液が全身を一巡りする時間は、およそ1分で、地球を2周半している。心臓から送られた血液が、体全身を巡り、血液は、酸素、栄養、水分などを細胞に運ぶ。

 その大事な水路が己の食の貪りで、存亡の危機に瀕している。体に悪い食品を多量に取ることで、水路の壁に汚染物(コレステロールの糟、プラーク)が付着し、その血管の内径が細くなり、血流の流れを阻害する。その結果が、血を流すために血圧を上げる自己防衛機能が働くが、血管が詰まってしまっては、それも限度がある。酸素、栄養や免疫酵素が末端まで届かないと、ガンや痛風、認知症、脳梗塞、心筋梗塞、各種の障害が発生する。

 

 現代医学は、対処療法で、その部分だけを治療する方策をとるが、根本原因の対応はしないので、治療はしても病気は治らない。結果として患部は治りました、患者は死にました、となるのが現代西洋医学である。

 いわば圧政(薬)で不満分子(患部)を押さえつけるだけである。まるで独裁共産国家のやり方と同じである。インフラの道路(血管)が細くなって、必要な生活資材(栄養素、免疫酵素)が回って来ないので、暴動(病気)という形で、民衆(体)は警告を発しているだけである。

 

人生の治水

 己は、自身の体の政治を取り仕切る殿様として、名君と呼ばれてその一生を過ごしたい。その土台が自分という王国の治水(治血)である。飽食・淫食では、その国が乱れ、国家存亡の危機となる。

 自制心を無くして、食を貪ると、人生第4コーナでフェンスの激突である。

 

楽其生 保其寿  その生を楽しみ その寿を保つ   『忠経』

淫其食 乱其命  その食を淫し その命を乱す     百舌鳥

 

 人生最大の目的は、生を楽しみ、幸せになり、天寿を全うすること。己の生業に励む事こと。生業に勤しめば、世の中に貢献できる。食におぼれては、命が危ない。足るを知り、血の道を大事にすれば、長生きができる。親から頂いた命の天寿を全うすべし。

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  馬場恵峰書 日中文化資料館蔵

2022-01-23  久志能幾研究所通信 2282号  小田泰仙

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2022年1月22日 (土)

人生の見直し、超ミニ内観

 

 私は過去の雑誌の記事、新聞記事、パンフレット、等をボックスにファイルして、何度も見直している。過去のイベントの記録ファイルを見直しもしている。その資料や雑誌等は50年分が在庫としてあり、書棚にファイルしている。大体、一日に1時間ほど内容を見直して、新しい発想を得ている。

 

 その記事は、過去の50年分の日経ビジネス、週刊ダイヤモンド、東洋経済、文芸春秋、週刊誌等から抜き出した記事である。どんな雑誌でも、読むべきか所は精々数ページである。残りは廃棄である。僅か数百円の雑誌で、隅から隅まで価値ある情報が掲載されているわけがない。ゴミのような記事を読んでいては、時間ロス、人生ロスである。時間という強敵は、待ってはくれない。

 一度読んだ雑誌等を、大事な分だけ取り出してファイルしている。

 昔の記事を今の目で見直すと、その都度、新しい発想が生まれている。それを新たな知見としている。

 

後ろ向きの人生

 人生は小さなボートの櫂をこいでいるようなものだ。うしろ向きに座っているので、進む方向の視野は見えない。見えるのは、今まで進んできた過去の航路だけである。

 人生では、その航路(過去)を振り返って、新たな発見があれば、こぐ方向を変えればよい。当時思ったことと、今思う事の差を見れば、自分の成長が分かる。人の成長とは、ものを見る視点を上げること。そうすれば今まで見えていなかった点が見えてくる。たんなる肉体の成長なら犬畜生でも成長する。人間だから魂の成長が求められる。

 

日日好日

 日々新たに、人生は無常、昨日の自分と今日の自分が同じであるはずがない。日々成長しなければ、霊長類として恥ずかしい。魂の成長がなけなければ、犬畜生と同じである。

 エアレースパイロット室屋義秀さんは、それと同じような手法をとっていた。その記事を最近読み、感銘を受けた。これは内観の手法である。それと比較すると、私の手法は超ミニ内観である。小さな内観の継続である。

 

人生に思いを巡らせて

 高校野球の夏の甲子園大会をはじめ、全国規模のスポーツ大会や音楽コンクールが中止となり、多くの人たちがモチベーションの維持に苦しんでいるでしょう。

(中略)

 実は大会中止より、つらかったのはスランプに陥り、人生の方向が分からなくなったことです。

 そんなとき自分に課したのは毎日16時間、8日間部屋にこもって自分の人生に思いを巡らせることでした。自分のことは自分で分かっているようでいて、実は親や社会など外部からのイメージや期待と混同し、見えにくくなっている場合もあります。(エアレースパイロット室屋義秀さん)

           2020年6月4日 岐阜新聞

 

 

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2022-01-22  久志能幾研究所通信 2281号  小田泰仙

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