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2018年2月

2018年2月15日 (木)

今からでも遅くない

 2015年11月29日、堂島の「大村藩蔵屋敷跡の碑」と「雙松岡塾の碑」を見学した後、馬場恵峰先生ご夫妻を川添様の車で伊丹空港までお送りした。恵峰先生が19時10発の飛行機への出発ゲートと通られたのを見送って、新幹線で20時40分ごろ、自車を駐車してある彦根のお寺に戻り、大垣に22時頃帰宅をした。

 しかし最後の場面でミスをしてしまった。お寺に置いた車を出すとき、境内が暗かったためと疲れのためか、境内にある大きな石に後部バンパーをぶつけてしまった。翌日確認をすると、結構大きな傷であり、気持ちがよくないし何かの啓示だと思い、修理することにした。その費用42,000円。僅か1ヶ月に2度のバンパー修理である。

 

バックカメラを追加装備

 その原因は過労もあるが、運動神経の劣化と注意力に低下が大きな原因である。老化すればその補助として老眼鏡が必要なように、車の後ろにも目が必要であると判断して、バックカメラを追加することにした。約33,000円。

 最近の車ならバックカメラは当たり前であるが、車歴15年の老兵にも「新しい目」を導入して、若返えらせた。今からでも遅くない。気がついたときに、打てる手を打つのが私の信条である。

 

佛様からの啓示

 この物損事故を佛様からの啓示と受け止めた。すべては因果応報である。車の設備更新をして、今後の事故防止に備えることが出来るなら安いものかも知れない。バンパーをぶつけるというご縁から、新しい「目」が手に入ったと解釈した。世の中の出来事は、全て解釈のしかたで人生が変わる。

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今からでも遅くない

 2015年9月11日、墓面の字を揮毫してもらった日、恵峰先生宅で「今からでも遅くない」という題名の色紙(下書き)を見つけて写真を撮らせてもらった。2016年9月に先生宅を訪問したら、この文面の書が軸と色紙に正式に揮毫されていて、気に入り直ぐ両方とも入手した。人生で、何事でも遅すぎることはない、気が付いた時が、それを始めるのに一番よい時期なのだ。

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人生の最大の過ちとは

 何事もその第一歩を踏み出さないことが、人生最大の過ちである。まず一歩を踏み出さないと、何事も始まらない。やってダメなら引き返せばよい。己の背後に死期がせまる。明日は分からないのが、人間の人生だ。やって失敗する後悔よりも、やらないで死期を迎える方が、後悔は大きい。失敗の後悔は、人生の知恵となるが、やらない後悔は、死の床で己を鞭うつことになる。

 問題が見つかれば、まず一声上げないと、何も改善されない。声を上げるのに遅すぎることはない。行政は、市民のことではなく、自分達に都合で物事を運ぶ。声なき声では、現市政に、現状のやり方を認めていると勘違いをさせることになる。それは現状の大垣行政を見て、悟った。それでも、言えば何かが変わる。

 政治の世界でも、先の太平洋戦争の発生は、市民が疑問の声を上げるに躊躇している間に、新聞社が戦争をあおり、突撃ラッパを鳴らしたのだ。戦争の方が新聞社は儲かるからだ。

 私も64歳でグランドピアノを買い、ピアノを習い始めた。67歳で出版の事業を始めた。後悔は、もう少し早く始めればよかったという思いだけである。わが師の馬場恵峰師は現役の92歳。日々、深夜まで書を書きまくり、お呼びがかかれば、中国、ベトナム、ハワイ、日本中を駆け巡っている。中国には240回余も行かれている。それから見れば、私は、鼻たれ小僧。

 少年よ、大志を抱け。老年よ、大始を抱け。その小さな始まりの一歩が、大きな人生の始まりだ。その一歩は小さいが、我が人生には大きな一歩だ。アームストロング船長の気分で)

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2018-02-15

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月14日 (水)

障子を開けてみよ、石の世界は広いぞ

 「雙松岡塾跡の碑」の石は、庵冶石という銘石で、当時の日本では最高で高価な石である。庵冶石は硬く表面が滑らかで、文字を刻んでも400年は風化しないという(業者の言い分で、実際はこんなには持たない)。昭和18年という太平洋戦争の戦争真っ最中で、物資も欠乏してきた大変な時期に、この碑を庵冶石を使って建立した楠本著卯三郎氏(元大阪大学総長)の意気込みが感じられる。

 その碑の存在を調べ、大阪の倉庫に眠っていたこの碑を発見して、その再建に尽力された大村高校同窓会「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」の皆様に敬意を表します。

 

世界という視野

 日本の国土は、全世界の陸地面積のうち0.25%の占有率でしかない。その中で採れる最高の石であると誇っても、残りの99.75%の全世界から産出される良品の石と比較すると、確率的にも見劣りがする。我々は井の中の蛙であってはならない。世界にはもっと良い石が存在する。当時としては輸送手段や、採掘技術が未発達であった事情があるが、国産の石というブランド信仰だけで、石材を選定しては不可である。しかし日本の石材店は、国産というだけで割高の石を売っているお店が多いようだ。

 私は自家の墓の再建に当たり墓石の選定では、インド産で一番硬く、吸水率ゼロの石を選択した。日本の最高級の石材よりも固く(比重、圧縮強度)、比較的安価である。吸水率が高いと冬季では、雪や雨で石が吸った水が凍り、その水分が膨張して石を痛める。降雪が多い土地では吸水率の低い石の選定が必要である。

 豊田佐吉翁の言葉「障子を開けてみよ、世界は広いぞ」とは、石碑の石材の選択にも言える。

Photo 上記のデータは石材業者のカタログ値による。公的機関の測定データではありません。

 下図は某記念碑であるが、雪の多い土地なのに予算上で安いという理由だけで、ある銘柄の御影石を使ったが、築15年で表面にヒビが入ってしまい、予算をケチった恥を多くの市民の前を晒している。後世の残る記念碑の石材の選定にはコストだけで決めてはならない。

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   築15年でヒビが入った御影石(某記念碑)

碑の拓本

 馬場恵峰先生が「雙松岡塾の碑」の拓本を取ることを川添会長さんに勧められた。そうすれば記録にも残り、後世の人の勉強の糧になるという。師も昔の名筆といわれた石碑も拓本を取って、拓本から昔の名筆を学んだという。

私も今回の墓の改建で、風化して読めなかった墓石の文字を、恵峰先生より拓本のアドバイスしていただいた。大垣拓本同好会に協力を仰ぎ、墓石から拓本を取った。そのお陰で墓に刻まれたが、風雪で読めなくなっていた「黄鶴」の文字が判定できた。それが今回のお墓の建立のご縁となった。拓本を取るという知恵を教えて頂いた恵峰先生に感謝です。

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  2015年6月1日

 

2018-02-14

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2018年2月13日 (火)

累積閲覧回数 20,000回 突破

本日の16時25分、本ブログの累積閲覧回数が20,000回を超えました。

記事総数は551件です。

閲覧ありがとうございます。執筆者には一番の励みです。

 添付ファイルにて、記事検索用にカテゴリー『大垣を良くする階』記事一覧表を添付します。

このカテゴリーの記事は91件で、A4(40文字、40行)換算で約270頁分の記事となります。

添付ファイル 『大垣を良くする階』記事一覧表 _20180213.pdfをダウンロード

2018-02-13

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「雙松岡塾の碑」に歴史を学ぶ

 2015年11月29日、大村高等学校関西同窓会の皆さんの案内で、「大村藩蔵屋敷跡」碑を見学後、100mほど離れた大阪検察局の敷地内にある「雙松岡塾の碑」を見学した。この碑は大村藩蔵屋敷跡の碑と同じく、大村高等学校関西同窓会の皆さんが「雙松岡碑と大村藩蔵屋敷跡碑を保存する会」として再建した。雙松岡塾は、文久元(1861)年に創立された漢学塾で、尊王攘夷を鼓舞して、後の明治維新の原動力の一つになった。尊王攘夷を鼓舞した塾であったので、幕府に睨まれ僅か半年で閉鎖の憂き目を見た。

 この碑は、大阪市教育委員会より大阪市顕彰史跡第194号に指定されている。史跡の紹介は大阪市のホームページ www.city.osaka.lg.jpで閲覧できる。

 

雙松岡塾の碑の文字

(正 面)雙松岡

(背 面)下記が現代語訳。原文は漢文読み下しで紙面の都合で省略

「雙松岡は松林飯山、松本奎堂、岡鹿門の塾である。三人は皆 昌平黌の秀才であった。文久元年(1861年)11月、玉江橋と田蓑橋の二橋の間にあって堂島川の川面に面して建っていた一軒家でこの塾を開き、尊王攘夷を鼓吹し名声が大いに上がった。しかし最後は幕府の役人から危険視され、圧迫を受けたため翌年五月解散し大坂の地を去った。その後模写して碑表に刻み、併せてこの文を碑裏に記すこととする。」(大村高等学校関西同窓会で現代語訳)

 

 松林飯山(22歳)は、井伊直弼大老が1860年3月3日、桜田門外で討たれたことを急脚便で知り、3月20日付の岡鹿門宛の手紙で快哉を叫び、「井伊大老の十の大罪」を列挙して糾弾している。和親条約を朝廷、列藩と議することなく結んだこと、徳川将軍家後継で多くは一橋公を望んだのに13歳の紀州公を迎えたこと、水戸老公は忠義の人なのに蟄居、幽閉したこと、などなどを挙げている。飯山は大村藩に帰り藩校の五教館で教授(校長)として正論(勤王思想・藩政改革)を説いていたが、大村上小路の自宅近くで凶刃に倒れた。享年29才。

 

 松林飯山は幕末の大村藩士、儒学者、勤王志士である。天保10年2月(1839)生れ、慶応3年1月(1867)暗殺された。29歳。父は医者で松林杏哲。飯山は筑前早良郡羽根戸村に生れ、幼名は駒次郎、後に漸之進、更に廉之助と改めた。飯山は号。

 幼少のころから神童の誉れ高く、3歳で字を書き、唐詩百首を暗誦し、4歳で『大学』を、5歳で『論語』を、6歳で『孟子』を、7歳で『詩経』を読み終えた。その原本も残されている。4歳のときの書「松梅」もあり、5歳で松、菊、桃の漢詩を詠んでいる。

 弘化4年(1847)9歳の時に父に従い大村藩領の蠣の浦に移った。

 嘉永3年(1850)12歳の時に藩の役人にその才能を見いだされ、藩主大村純煕の前で唐詩選の購読を命じられ、一字も誤りなく進講したので、一座のものは驚いた。これにより藩士に取り立てられ、俸一口を賜り、藩校・五教館で学ぶことを命じられた。

 この五教館では一年年長の渡辺昇も学んでいて、飯山に何としても追いつき、追い越そうと「一十百千」と大きく書いて勉学に励んだが叶わなかったという話が残っている。

 嘉永5年(1852)14歳になると、江戸に出て勉学することを命じられ、安積艮斎の塾に入門した。やがて頭角を現し塾生の首席となった。

 安政3年(1856)18歳で幕府の学問所、昌平坂学問所(昌平黌)に入った。ここでもその才能を認められ、20歳にして異例の若さで助教(詩文掛)に任じられた。

 安政6年(1859)21歳で昌平黌を退黌、7年間の江戸での学問修行を終え、3月に大村に帰った。藩主は飯山を上士 (馬廻)に列し、祿60石を給した。更に藩校五教館の祭酒(教授、校長)に任じようとしたが、これは固辞して次席の学頭(助教授)となった。

 万延元年(1860)8月22歳の時、暇乞いをして、大阪への遊学を許された。このあと文久元年(1861)23歳、文久2年(1862)24歳の6月までは京阪の儒学者、勤王志士たちとの交流を密にした。文久元年11月から2年5月までは堂島に塾を開いた。昌平黌の時の親友、三河の松本奎堂、仙台の岡鹿門と3人の共同塾である。塾名を雙松岡(そうしょうこう)とした。3人の名字を一字ずつとって名付けたもの。この塾には多くの若者が集まり学んでいたが、勤王思想の拠点として危険視され、奉行所から閉鎖を命じられ6ヶ月で閉じて文久2年7月に飯山は大村に帰った。同年8月五教館学頭を任じられた。

 文久3年(1863)25歳、1月大阪への出張を命じられた京都の政情探索のためである。6月大村に帰った。10月には五教館祭酒(教授、校長)に任じられた。この頃から学問だけでなく、藩政へも参画するようになった。藩を勤王側にもっていこうと同志を集め勤王三十七士同盟を結成し、その中心人物となった。

 元治元年(1864)26歳、10月藩政改革のため建白書を藩主に上書。賞罰を厳にすること、賄賂を禁ずること、奢侈を禁ずること、礼節を重んずることを進言。11月 用人に。

 慶応元年(1865)27歳、鹿島藩、佐賀藩、島原藩に特使として赴き勤王を説く

 慶応2年(1866)28歳、五教館では「正気百首」「照顔録」等で勤王思想を鼓舞。

 慶応3年(1867)29歳、1月3日 夜 城での謡初式からの帰路自宅前で佐幕派の一味に襲われ暗殺された。家老も重傷を負った。藩主は激怒し、大掛かりな犯人捜索が行われ、佐幕派数十名が捕らえられ、26人が斬首された。この大事件のあと大村藩は勤王倒幕派として纏まり、戊辰戦争では官軍として大津、江戸、会津、秋田まで転戦し、新体制樹立に貢献した。大村藩は明治2年の論功行賞で薩長土に次ぐ3万石を賜った。(松林飯山の項、吉本信之氏著 2015年12月4日)

 

 松本奎堂は、彼は尊皇攘夷の強烈な信奉者であった。彼は頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていた。彼はそれを生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。

 松本の出身地三河国刈谷は、徳川家にゆかりの地で、藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であった。しかし松本は早くから尊王の志に目覚め、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾さを憎み、「志を得た暁には墓を暴き、骨を鞭打ってやる」と罵ったという話が伝わる。彼は譜代藩出身で昌平坂学問所の舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であった。それが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも過激な志士の一人であった。

 松本は文久3(1863)年、天誅組の挙兵をして弾を受け戦死した。享年33。辞世の句は「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」。法名は天誅院殿忠誉義烈奎堂居士。明治24年(1891年)、従四位が追贈された。(この項、wikipediaより編集)

 岡鹿門は、仙台に帰り、鹿門だけが天寿を全うした。享年82才。

 

明治維新を成就させた小さな波

 勝てば官軍で、明治になり松本奎堂は名誉を回復した。人柄を彷彿とさせる院殿まで付いた立派な戒名である。多くの志士達の血が、明治維新の後ろ盾になった。一つのエネルギーは小さいが、そのエネルギーが集り徳川幕府に無言の圧力をかけ、徳川慶喜の大政奉還になった。一人の力は小さく、幕府により粉砕されてしまったが、繰り返し繰り返し押し寄せる波の如く、幕府に圧力をかけたのだ。雙松岡塾の存在は決して無駄ではなかった。

 今、大垣市も愚政のため衰退の危機に直面している。手遅れになる前に、市民一人一人が、目覚めて行動を起こすべきなのだ。小さな声が集れば、政治を動かせるのだ。大垣市に平成の維新が必要である。

 

佛様の智慧

 松本奎堂の佛になった墓を暴き骨に鞭打つという思想は中国や韓国の思想である。日本の和と寛容を尊び佛の前では全て平等との思想とは相容れないがゆえ、非業の死になったようだ。中国や韓国の死んでも恨みを忘れないという思想には辟易である。彼の国とは距離を置いたほうが争いごとは避けられる。日本人同士でも、非常識な縁なき人と無理につきあうと、身に害が及ぶのを身近に見てきて、今回でその感を強くした。加齢を重ね多少は智慧がついたようだ。

 もし時代の歯車が同調すれば、松本奎堂も吉田松陰神社で吉田松陰の墓の隣に、頼三樹三郎と並んでお墓が建てられたかもしれない。そして大村藩も長州藩のように井伊直弼公を親の敵として憎んだかもしれにない。

 

十念寺を訪問

 彼は刈谷藩の出身で、刈谷市十念寺に墓があり、市内に彼の碑も建立されている。刈谷市は私も前職の会社のときに32年間も過ごした街であるが、今日までこのご縁には気がつかなかった。今回のお墓作りから展開されるご縁のつながりの広がりに驚いている。

 2017年12月7日、刈谷市通学路の調査に行った時、この十念寺を訊ねたが、名鉄刈谷市駅前の案内看板地図にこの十念寺が表示されておらず、迷ってしまって、墓参が叶わなかった。後でお寺さんに聞けば、案内看板地図に載せるにはお金がかかるので表示していないとのこと。十念寺は刈谷藩主の菩提寺である。そんなご恩あるお寺の場所を、刈谷市駅前の観光案内看板地図に載せないことに、最近の歴史を大事にしない風潮に情けない思いがした。刈谷市の教育委員会は何をしているのか。職務怠慢である。私は、この2018年2月末に再度、訪問する予定である。

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 碑の前で雙松岡塾跡の碑を見る馬場恵峰先生

 説明者は保存会代表の川添純雄氏(左側)、吉本信之氏(右側)

      2015年11月29日

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2018-02-13

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2018年2月12日 (月)

「大村藩蔵屋敷跡」碑の見学でのご縁

 2015年10月8日、私は松本明慶師の造佛された四天王像の写真撮影のため、高野山に行った。その帰りに梅田のNTTテレパーク堂島ビルに寄って、馬場恵峰先生が揮毫した「大村藩蔵屋敷の跡」の碑を事前調査した。肝心の馬場恵峰先生がまだ完成したこの碑を見ていないので、お墓建立の開眼法要の後、九州への帰路の伊丹空港に行く途中で、寄り道をしてこの碑の見学する予定を立てた。

 2015年11月29日、彦根での墓改建の開眼法要が終り、その後の会席を彦根キャッスルホテルで終えてから、15:24米原発の新幹線で梅田の大村藩蔵屋敷跡の碑の見学に向った。新大阪駅まで代表の川添純雄様に車で迎えに来ていただき、現地に向った。前回に来たときは道に迷ってしまったので、現地への案内をお願いした。現地では大村高等学校関西同窓会の4名の方が対応して頂いた。恵峰先生もこの碑を見るのは今回が初めてで、大層喜ばれた。案内をした甲斐があった。

 同じ場所に建つ他の2つの碑と比較しても、恵峰先生揮毫の碑は、伸びやかな優雅な書体で、長く後世に残る碑となった。この建立に携った長崎県立大村高校OBの皆さんも喜んでおられるのが、碑の書体から伝わってきた。

 恵峰先生が自家の墓の字を揮毫するとき、「大きな碑文では、上に位置する字は大きく書く」と言われたのを思い出した。確かに、「大村藩蔵屋敷の跡」の字の「大」のが他の文字よりも大きく書かれている。その文字を下から仰ぎ見ると全体のバランスが良く見えるだ。

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 馬場恵峰先生、三根子先生  2015年11月29日撮影

Edsc_1903t  20151129日撮影 笠野氏撮影 

2018-02-12

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2018年2月11日 (日)

人生の譜面をめくる佛様

 2018年2月1日、ご縁があり誘われてある大学の卒業演奏発表会に行ってきた。譜面をめくる人を「譜めくり」という。この演奏発表会で「譜面めくり人養成科」の学生が、同じ仲間のピアノ演奏者の譜面をめくる人の姿を見て、人生を感じた。この卒業演奏会で、多様な「譜めくり」の姿勢を見て考えてしまった。なお「譜面めくり人養成科」などは存在しない。勝手な命名で、ジョークです。

 

譜めくりの服装

 譜めくりは、黒子である。多くの譜めくりは、黒い服装をしている。しかし今回の譜めくりでは、白の服装の人が多く、それでいて主役のピアニストが黒の服装であったので、黒子のはずの譜めくりが目だってしまって、違和感を覚えた。音楽は視覚でもメロディーが流れている。それまで気を使って、ピアニストと協議して服装を整えて欲しかった。

 

譜面のめくり方

 この最近、演奏家の写真撮影をしてきて、譜面めくりのやり方に人さまざまであることに気が付いた。一番美しい姿は、そのぺージの演奏が終わる少し前に構えて、少し次のページをめくり、そのページの演奏が終わったら一気にめくる、である。それが今回は、そうではない事例が目に付いた。ピアニストにとって、基本は暗譜である。

 人によっては、ピアニストと目で合図をしあって、お互いに、うなずいて譜面をめくっていた例もあった。そんな暇があったら、演奏に集中せよ、と言いたかった。急遽、譜めくりを仲間にお願いしたために、致し方ないのかもしれない。

 大垣での音楽堂でのチェリストTIMMと河村先生の協奏、クインテッサホテルでのドレスデントリオと河村先生の協奏では、小林朱音さんが譜めくりを担当した。二人には師弟関係で、深い信頼関係があるために、そんなお互いの合図もなく、小林さんは、しかるべき時に、スーッと横に立って構え、次のページを少しめくり、そのページの演奏が終わったら一気に音もたてずめくる。河村先生は、譜面を小林さんに任せっきりで演奏に集中である。

 今回の卒業演奏会の譜めくりでは、直前に急ぎ譜面に近づき手を伸ばし、観客席にまで頁をめくる音が聞こえるようなめくり方をする人もいた。頁をめくる甲高い紙音が、美しいピアノの演奏を興ざめにした。

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24k8a3363   2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート リハーサルで

 譜めくりは小林朱音さん

3p1020351  2017年9月29日 TIMMと河村義子コンサート

4dsc04336  2018年1月13日 ドレスデントリオと河村義子

譜めくりが舞台から去る時

 演奏が終わると、ほとんどの譜めくりは、演奏者が観客に礼をしている間に舞台から、黒子のように静かに去っていく。これが正式のマナーのようではあるが、私は違和感を覚えた。譜めくりも演奏者と共に、演奏というプロジェクトを一緒に成し遂げたのだ。去るときは、観客に少し礼をして去って欲しいと思った。西洋の考えと日本の考えの差のように思う。

 小林さんは、二人が観客の拍手に礼をしている時、小さく拍手をして、譜面を片付けて静かに舞台を去っていった。まるで黒子の佛様のような姿であった。

 

人生の譜面をめくる佛様

 人の人生では、時が来ると人生の頁が自ずとめくれていき、その頁の内容に合わせて、両親や祖父祖母がランドセルの準備や学校への入学の手続きをしてくれた。当時は、それに対して感謝の念もお礼もあったものではない。それでも時が流れて、学校卒業までは、両親や恩師が人生の頁を黙ってめくってくれた。まるで佛様が我が人生の本の頁を捲ってくれたようだ。その佛様も、いつの間にか私の前から去っていった。「私の亡きあと、一人で人生を頑張れ」と拍手をしながら逝ってしまったのだ。合掌。

 会社生活では、必死に人生の頁を自分でめくってきたと思うが、振り返るとその歩みの頁は、佛様が事前に書いた曲を、なぞって弾いてきたように思う。自分の力ではない。周りの仲間が己の曲を演奏させてくれた。感謝。

 会社生活38年間終えて、これからは自分の意思で、新しい第二の人生の頁をめくる時なのだ。そのぺージを自分でめくれずに、一日中、テレビの前に座っているのでは、白紙の譜面を眺めて、ピアノの前で座っているが如きである。

 

人生は暗譜演奏

 人生の人生という曲を演奏する原則は、暗譜演奏である。自分で、自分の人生の曲を描いて自分で弾く。その曲は自分が作曲した楽譜に書いてある。誰に頼るのでもなく、自分で作曲して、曲を弾かねば良き人生は創れまい。そして今は、自分が黒子として、後進の譜面をめくってあげる番なのだ。

 生きている以上は、自分独自の人生の音色を出さねばならぬ。観音菩薩様がその音を観ている。そうでないと、見守ってくれている観音菩薩様やご先祖様に申訳がない。

 

最期の譜面をめくる

 一日中、テレビの前に座っているのでは、バックグランドに無伴奏葬礼行進曲が流れなか、白紙の譜面を眺めて、無為に過ごしているようなものだ。その葬礼行進曲を演奏しているのは、一日中、何もやることのない己なのだ。「おくり人」とは、自分自身である。

 日暮れて道遠し、フィナーレは近い。演奏会と違い、人生にアンコールはない。人生二度なし。全ては一期一会だ。うかうかしていると、指の下にある次のページには、葬礼の曲が書かれているやも。人生の道を急げ。

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6039a34461  馬場恵峰書

2018-02-11

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2018年2月10日 (土)

ブログの記事総覧リストを添付

 皆様のお陰様で、現在、ブログ記事数が545通になりました。累積閲覧回数が19,713回です。一日平均閲覧数は75.8回です。

 記事数が多いので過去分の記事検索用に、記事総覧リストを添付します。タイトル名で興味の湧きました記事は、カテゴリーから探してみて頂ければ幸いです。

 添付ファイル__201802101.pdfをダウンロード  記事一覧_久志能幾研究所通信-2018-0210.pdf

 

2018-02-10

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2018年2月 9日 (金)

去り際の美学

 人生の舞台は、舞台に上がって、演技をして、舞台の階段を下りるまでが、人生である。演技が終わったからと気を抜いて舞台を後にしてはならない。

 2018年2月1日、先生からお誘いがあり、ある大学の音楽科の卒業演奏会に出かけた。卒業生の皆さんは素晴らしい演奏をされたが、演奏が終った後に舞台を去る時の姿が、ぎこちなかった人が多かった。やっと緊張の演奏舞台が終わったと、安心してバタバタと舞台の袖に引っ込むので、その姿が美しくないのだ。舞台の袖から消える最後の一歩まで、演奏の一部として演技をして欲しかった。

 

会社人生の生老病死

 どんな舞台でも生老病死である。会社に入れば、会社人生の「生」で、定年退職で、会社人生の「死」を迎える。定年後の嘱託扱いで、延命工作をしても、せいぜい5年である。それが人によっては地獄の場合もある。嘱託扱いでの上司が元部下で、人格的、能力的にも格下の人間に卑屈になることは、私の自尊心が許さない。会社を去る際に、パタパタ、へいこらするようでは、会社という舞台を去る直前まで、美しくありたいと思っていたのに、違和感があった。定年後は、往々に扱いは派遣社員と同じある。給与は、正規社員よりも大幅に下がって三分の一程度である。私は定年延長せず、辞めるというので、引き留められたが、それを振り切って辞めた。今でも良き決断であったと思う。

 

界の任期

 定年後の嘱託の仕事で、年下の能力の低い部下にへいこらするのが、気にならない人は幸せである。自然界の法則で、組織の新陳代謝として時期が来れば去るのが、一番理にかなった行動である。会社も若い人に、リーダーとしてチャレンジの機会を与えないと、衰退する。それに老人が出しゃばると、迷惑である。

 任期という時期が来たら会社という「界」からに身を引く。次の新しい「界」で自分の場を探す。それが自然である。定年という「死」が、入社した時に分かっていたはず。嘱託で働くとは、それに向けて準備をしてこなかったのだ。

 常識として、市長や知事の任期は2期8年で、それを5期20年も居座ると、様々な弊害が出てくる。それが癒着と腐敗の原因となるのは世の常識である。それが大垣市の衰退の原因の一つと思う。

 

去り際の美しくない人の末路

 2018年2月初旬、スーパーで買い物をしていたら総菜売り場の横で,初老の女性二人が話し込んでいた声が耳に入ってきた。聞くともなく、その会話が聞こえてきた「うちも(亭主が)一日中おるの....」の声で、2人の家庭の状況と奥さんの嘆きが全て分かってしまった。そんな亭主は、きっと会社の去り際が美しくなかったのだと確信をした。会社を辞めた後、やることもなく一日中、家のテレビの前に鎮座して、奥さんに三度の飯を作らせ、やれお茶だ、新聞だと言っていれば、奥さんにとっては地獄である。去り際の醜い亭主には、その奥さんの苦しみを分るまい。奥さんにも、亭主が38年間、会社に行っている間の培った仲間同士の世界がある。それを一日中家にいる亭主が邪魔をする。奥さんが少し外出するだけで、やれ、「何処さ、行くべえか? 何時、帰ってくるべえか?」では奥さんも幻滅である。これでは熟年離婚も多くなるはず。

 

美しく去って、新しい「界」で全力投球

 私は60歳でスパッと会社を辞めて、自分の道に進んで正解であった。会社の上司の縛られず、自分で毎日新しい取り組みにチャレンジしている。何かする度に上にお伺いを立てなくてもよいのが快感である。その快感は38年間の宮仕えでは味わえなかったことだ。会社を離れたことで、それに起因するお陰で多くのご縁に出会った。昨年、よもや67歳で出版業とプロの写真家を始めるとは想定外であった。それも、多くのご縁の巡り逢いと、体力のあるうちの60歳で新しい道に進んだからだ。これが定年延長後の65歳からの再出発では、辛いものがある。

 人生は、日々好日なのだ。「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」という人生を送ってはなるまい。

1p10004021  馬場恵峰書

2018-02-09

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

 

5S無視で観光拠点を目指す大垣市

「大垣市中心市街地活性化基本計画」検証8

 ある由緒正しい商家を訊ねたら、営業はしているが、お店の正面のシャッターが半分降ろしてあった。お店は閑散としていた。商家の案内看板が鳥の糞で汚れていた。お店の街路灯もペンキが剥げており、電灯も切れていた。お店の周りが汚い。お店の立派な時計も文字盤が錆びだらけであった。トイレを借りたら、これが汚いといったらありゃしない。お店は昭和38年に建てたようで、見た目がボロボロである。聞けば、別の場所に新しいピカピカの本宅を建築中とのこと。それも隣の商家よりも見栄を張って1.5倍も立派なお屋敷とか。 

 こんなお店に来たいと思いますか。たとえ話で言えば、これが大垣市の状況である。ピカピカの本宅とは大垣新市庁舎である。

大垣市の目標1

 大垣は「大垣市中心市街地活性化基本計画」で、観光都市を目指して3つの目標を定めている。その第一が、「(1)目標1 観光・交流拠点の整備や商業機能の再生による「にぎわいの創出」」(P67)と謳っている。

 ところが、目標の第1番目で観光都市を目指し賑わいを作ると計画書ではぶち上げているが、現実の大垣市は、5S無視で観光客の笑いものになっている。この計画書が絵にかいた餅で、あくまで新市庁舎建設の言い訳書であることが明白である。

 トヨタは5Sを徹底したことで、業務の効率を上げて発展した。5Sとは整理・整頓・清掃・清潔・躾である。企業経営・組織経営・人生経営の基本である。それで生産性と人間性を上げて、トヨタを世界一にした。

 現在の大垣市長は、この17年間で、非整理・非整頓・非掃除・不潔・否躾と不義理の5Sを徹底して、大垣経済を非効率な状態にして、大垣市を衰退させた。市役所職員の人間性を下品にして大垣を没落させた。大垣市は不祥事のオンパレードである。

 

5Sの第一「整理」

 整理とは、「理」を「整える」である。いつでも使えるように、道具や設備を整備することである。

 

「武道館」を放置

 大垣市は、観光資源である大垣城内の「武道館」を放置して、埃だらけにして、市の教育担当部署の物置にしている。税金の無駄遣いである。節約以前の問題である。

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 2017‎年‎12‎月‎12‎日撮影

 

新大橋の照明装置

 新大橋の下側には照明装置が配置され、夜になると点灯して水門川を照らしていたが、数年前から、全く灯が消えている。

 新大橋の上に設置された時計台は、照明のランプに消えたままである。もう数年間も点灯しない。数年前に時計も数日間も止まったままになっていたので、私が市に連絡して、やっと復旧した。しかしランプは復旧しないままである。風情ある街路灯は錆が浮かび上がり、見っともない。なぜ大垣市には設備の保全部隊がいないのか。行政の怠慢である。

 

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 2017‎年‎12‎月‎12‎日撮影

 

英文観光パンフレットの不在

 大垣市は、「大垣市中心市街地活性化基本計画」で観光都市を目指すと言いながら、駅前のクインテッサホテルには、英文の大垣観光案内パンフレットが置いていない。ホテルのフロントマンがその存在を知らないのだ。大垣観光課の市内の宿泊施設に対する広報業務の怠慢である。観光客に対する情報提供が整理されていない。縄張り意識の高い役人ばかりがはびこるのが原因である。それでどうして観光都市を目指すのか。

 

5Sの整頓

 大垣市長は、現代の車社会の適応するように市の中心部の駐車場を整理せず、商店街前道路上の駐車違反車を摘発して「整頓」した。そのため大垣駅前商店街の経済がマヒして大垣駅前商店街が衰退した。

 大垣市長は、道路行政でも、見栄えはよい街路樹の「整頓」に金を使い、交通の流れを整理する「理」にあった政策は何もしない。道路を整理もせず、狭い大垣駅北地区に多くの大規模小売店を整頓させて誘致して、さらに交通の大渋滞を招いている。

 大垣市長は、駅前にマンションと予備校を整頓させて、美しいビルは林立したが、大垣駅前商店街が消滅した。駅前にマンションと予備校が林立すれば、その街は終わっている。その「理」に気がつかない大垣市長は、市の経営・経済の「理論」を理解する能力がない。

 

亀の池の愚

 大垣市は平成30年に大垣駅前広場にカメの噴水公園を整備して見栄えの「整頓」をする計画である。その前の大垣駅前の交差点道路で2車線が1車線に減少する超変則道路を長年、無為無策で放置して交通の大渋滞を起こさせている。大垣経済活動の重要な道路行政は無為無策である。大垣市長には、交通の流れを整理するよりも、見栄えだけのカメの池の整頓を大事にすれば、大垣市は益々寂れていく。

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5Sの清潔

 大垣市の観光の目玉の「四季の路」の案内看板が、鳥の糞で汚れている。それが数か月間も放置されたままになっている。何人の市外の観光客がこれを見て、嘲り笑っていることやら。大垣市の恥さらしである。

 「緑の賞」までもらった「四季の路」の芭蕉の句の看板がかすれて、読めないし、貧乏くさい。大垣市の恥である。これでは、鳥の糞にまみれた「奥のクソ道」である。「奥の細道」に申し訳がない。

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 2017‎年‎11‎月‎30‎日撮影。2018年2月現在でも同じ状況

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幽霊街のような大垣市街地マップ

 新大橋上にある観光看板が薄汚れて、案内文字が消えそうな状態である。見るだけ汚らわしいような雰囲気である。まるで幽霊街の案内板である。その前に設置された花壇も、以前は業者が花を植えていたようだが、いつの間にか、その手入れが無くなってしまった。

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錆びだらけのモニュメント

 錆びだらけの街頭ランプ、錆びだらけにモニュメントは、新大橋という大垣駅前商店街の中心地に建つハコモノとして、恥さらしである。多くの観光客がこれを見て嘲り笑っている。

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大垣市のハコモノ作りは過剰

 大垣市はハコモノ作りでは、全国の他市よりも御熱心で、全国704都市中でワースト205位にランクされる金遣いの荒い街である(『週刊ダイヤモンド2013年3月2日号』「ハコモノが地方を潰す」)。このデータによると大垣市は43.8%も過剰なハコモノに溢れている。これは5年前のデータであるが、今はそれより悪化しているはずだ。それなのに大垣市長は大垣新市庁舎建設に暴走である。

 しかし、もっと大きな問題点は、大垣市はハコモノを作りっぱなしであることだ。保守、点検、5Sという観念がないのだ。大垣市はハコモノを作る業者には熱心に金をばらまくが、保守点検清掃には金をケチる。だから大垣市は寂れていった。ハコモノ業者との癒着も考えてしまう。

 

シベリア抑留戦没者慰霊碑を冒涜

 ㈱丸順の今川順夫会長は、「恒久平和祈念の碑」(大垣公園内に設置)を「シベリア抑留を風化させないための後世への遺産」として、小川敏市長に管理をお願いした。小川敏市長が「大垣市が守ります」と約束した。その「恒久平和祈念の碑」は落書きだらけで、歴史を守れない大垣の恥をさらしている。大垣市長は、これを修繕、保守する気が全くないようだ。この碑の建立式典の時(1991年8月)、小倉満前市長は、今川順夫氏の話を聞いて涙を流された。小倉前市長は、墓の下で、慰霊碑の状態と大垣市の惨状を見て泣いている。

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 中央が大垣前市長の小倉満氏、その隣が今川順夫氏。

 

大垣城ホール設置の時計

 多くの人が集まる大垣公園前の大垣城ホール壁面設置の時計が、錆びだらけで市民として恥ずかしい。小さな時計のサビ落とし一つ整備できず、何が新市庁舎建設なのか。何が大垣市商店街再開発なのか。なにが観光・交流拠点の整備や商業機能の再生なのか。計画自体が間違っている。その前にやるべきことがある。

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5Sの清掃

 大垣市長は、節約の大号令で、市役所の部下は大垣市公共トイレの清掃費をケチり、日本一汚いという風評を作り、観光案内看板の掃除費をケチり、時計の錆の汚れを放置して、消えた電灯を交換せず、大垣を不潔な街にした。すべて節約を大上段に構えた方針のためである。人として、大垣市として、出すべき金をケチったためである。それを吝嗇という。5Sの実施は、経営への基本的な投資である。投資と節約の区別がつかない大垣市長である。だから大垣市は寂れた。

 

5Sの躾

 街並みが汚い環境で育つ子供たちの未来が心配である。これでは学校のテストばかり良い成績でも、不潔に不感症な子供になってしまう。それは「修身」や道徳とは正反対の世界である。大垣の子供たちが発展途上国の子供並みになってしまう。小さな子は、一番多く見て接した環境に染まる。清潔の場所で育てば、清潔好きな子供に育つ。汚い場所で育てば、不潔に不感症な子供に育つ。大垣市長は、北校、東大で、そんな躾を受けたのだろうか。大垣市長が現在の大垣の街並みをみて何も感じなければ、大垣市は終わっている。市長の資格はない。

 神は細部に宿る。大垣はちり紙なのか。それならチリ紙交換に出すべきだ。

 

2018-02-08

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年2月 7日 (水)

(8) 曲がったことは嫌い?

 私は車の運転では、極力、で曲がらない運転を心がけている。人生道の運転でも同じである。物理の法則に「慣性の法則」がある。動いている物はいつまでも動いていて、止まっている物はいつまでも止まっている。もう一つの運動法則に F=m・α で表される運動方程式がある。これを車の運転に適応すると効果的だ。車線変更等の現状からの変化するための運転は、余分にガソリンのエネルギーが必要で、さらにその分のストレスが発生し、節約上で無駄である。また車の運動の変化には、事故の要因が入り込む。

 

交通事故死の44%は交差点で

 現状からの変更は、とかく大きなエネルギーがいるのは世の常である。同じことが車にも言える。現状維持が一番の省エネである。だから「曲がったことの嫌いな?」私は、目的地に行く場合でも、最短距離で選定した経路でなく、曲がる回数の一番少ない経路を選んで走っている。「曲がったこと」をするには、それ相応のエネルギーが必要で、これが交通事故の確率を増やすことになる。いくら近道でも、小さな道を曲がりくねっての走行は避けたいもの。曲がる行為は、交差点で発生する。交通事故死の44%は、交差点で起きた事故である。(1993年) 

 

サイドフォースで無駄30%

 またタイヤにかかる摩擦円の力学的にも、曲がるときには駆動力以外に、サイドフォース(駆動力の約30%)がかかるので、エネルギー的に損失が生じる。当然曲がるためには、ブレーキを踏まねばならない。ブレーキはエネルギーロスの最たるもの。無駄なエネルギー(お金)を使わないためにも、曲がらずに走るべし。

 

事故件数

 林洋著『自動車事故の科学』で、氏は交通事故を下記で定義している。この遭遇数とは変化の数である。この式からも「変化ある」運転が事故の確率を増やす。

  〔交通事故件数〕=〔遭遇数〕×〔遭遇が事故になる確率〕 

 人生では「変化はチャンス」と言われる。しかし、車の運転では「変化はピンチ」 との認識が必要だ。ピンチとチャンスは表裏一体である。「曲がる」、「ブレーキをかける」、「アクセルを踏む」の3つの「現状からの変化」の動作には、常に危険が付いて回る。だからこの3つの変化をする時は、無条反射の下記動作で、回りの状況を確認する習性を身につけると良い。これが事故への出費を無くしてくれる。なにせ、これを守らないと、テストドライバー検定試験では減点される。

 

 確認の基本動作

 ・バックミラーを見る

 ・ドアミラーを見る

 ・首を振って横を見る

 

 人生の曲がり角での基本動作

  ・自分の過去を振り返り、その人生経路変更に耐えられるか?

  ・現状の周りの状況を見て大丈夫か?

  ・首を回して、足元に隠れた落とし穴はないか?

 

(9) ブレーキを踏まない運転を 

 (8)項で述べたように現状からの変更は、エネルギーが必要である。同じ理由で、極力ブレーキを踏まない予想運転をすれば、事故とタイヤの磨耗を防げる。それは前とその前を走るの車の状態、回りの状況を考えて運転すればよい。慌ててブレーキを踏むとは、考えて運転していない証拠である。事前に相手の状況、次の信号を予想できれば、エンジンブレーキで車の速度は制御できる。急ブレーキは、起こるべき状況を予想できなかったためである。テストドライバー検定試験で、急ブレーキを踏めば、一発で不合格である。

 

タイヤの70,000km走行実績

 以上の述べた手法の集大成の結果として、私の前のクレスタ(1999年まで使用)のタイヤは、70,000kmの走行実績を記録した。この走行距離でも、まだ、然るべき規定タイヤ溝深さを保持した状態で、けっしてツルツルの状態まで乗ったわけではない。

 人生は一本道。フラフラとあちこちの道に曲がると、人生時間の無駄である。ひたすら我が一本道を走るべし。

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  馬場恵峰書  2012年

 

追い越し車線 

 本来、追い越し車線は急ぐ人や(思想の)貧乏人のために空けておくべきで、安全運転と生活VAを心掛ける人は走るべきでない。そのかわり、急ぐ時には必死に飛ばして走るべきである。不真面目に?とろとろと走っていると、気の短い輩に煽られるし、「気違い」に、走行車線からの変則の追い越しをかけられ、逆に事故に巻き込まれる可能性が増す。だから私がたまに追い越し車線を走るときは、目的意識を持ち「真面目に」飛ばしている。前の車が遅いと「グズ! そこを退け!」と、ペルソナを変えて臨機応変に性格を変える。

 

銀行強盗の勧め?

 某大学の教授室で、車の論議に花が咲いていた。大手自動車会社から天下ってきたお偉い御方曰く、「とことこ走りたい人はそれでよろしいが、世には親の死に目に間に合わせるため、命がけの法規無視で駆け抜けたい人もいる。その人のためにこそ、追い越し車線を空けて欲しい・・・」と。

 それを受けて、敬愛する茶目っ気のある先生が、「さすれば金のない人のために、いつでも銀行強盗ができるように、金庫を開けておけと言うか・・・」とスマートに言ったら、気まずい雰囲気になったとか。とかく偉いお方はユーモアのセンスが無い。住専問題(1995年頃)を考えると、一人の人間ができる銀行強盗の額は高が知れている。でも今回のビットコイン560億円かっさらい事件(2018年)を考えると、銀行の金庫は、開放されているようだ。

 

2018-02-07

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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