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2017年9月

2017年9月11日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (22)寺院経営

恩師への御奉公

  2015年11月24日、吉田松陰のお墓にお参りをしていたおり、その境内で女子学生30名ほどが掃除の奉仕活動をしていた。お参りをした後、隣接の墓地を見学していたら、女子学生たちが「恩師の墓」の前に整列して校歌を静かに合唱して、引率の教師と思われる方の講話と生徒の代表のスピーチが始まった。昭和女子大学の創業者や恩師のお墓に定期的にお参りをして創業の精神と恩師への感謝を伝える教育の授業のようだ。日本の美しい伝統を守る教育を目の前で見て、少し嬉しくなりシャッターを切った。学問の神様の松陰神社に、大学の創業者のお墓があるとは羨ましい。

 

神社・寺院の経営

 神社としては珍しく、松陰神社に隣接して、墓地と葬祭場が併設されていた。世田谷区のど真ん中で、すぐ横には国士舘大学、豪徳寺がある超一等地である。きっとお墓の一聖地もド高いのだろうと推察した。そこにお墓を持てるのは、一種のステータスのように思う。松陰神社の墓地や井伊家の菩提寺の豪徳寺の墓地には、ステータスとしての付加価値がある。お墓を持つにしても、競争率が高い墓地を経営しないと、お寺もやっていけない。現在は廃寺の問題が各地で起きている。高い付加価値を出せるお寺なら、廃寺の憂き目にもあわなくてすむのだろう。

 

地域密着型の経営

 もともと、お寺は地域の役所のような役割を担っていた。地域の住民と共にあった組織である。どれだけ地域住民に融けこんで、寺院経営が出来るかが問われている。お寺での集会が価値ある内容でないと、お寺で法要を開催しても人は集まらない。それと日頃の住民との交流があるかどうかである。その交流も住職の人格によって決まる。それは、ある人の交友関係が、その人のご縁と社会交際実績を作るのに良く似ている。

 

住職の法話の魅力

 昔は住職といえば、その地区の最高の知識人であり、人格者であって人々の相談相手や指導をしていた尊敬されるべき方であった。現在は情報がマスコミを通して溢れ、一般人の方が、知識レベルが高い場合もある。住職として俗世間とは離れた面の指導や知識がないと檀家は魅力を感じない。企業でも社長を観れば、その会社のレベルが分かるように、住職を観れば、お寺の経営状況が分かる。企業でもその社長以上の部下は育たない。法事でお経を上げるだけで、法話一つしない僧侶では尊敬されまい。葬式坊主と言われては、お寺経営も衰退の一途である。組織としての寺院のトップにお寺の興亡がかかっている。そのお寺が衰退して困るのは檀家である。

 あの住職の法話を是非聞きたいと思わせるオーロラ、話術、内容が伴う法話を話せる能力が求められる。私はこの5年間に、塩沼亮潤大阿闍梨の話を聞きたくて、その講演会に東京に3回と京都に1回と計4回も行ったことがある。それだけの魅力のある人格と法話であった。今は年に10回ほど、九州の馬場恵峰先生宅を訪問しているが、その目的は先生のお話を聞くのが大きなウエイトを占める。そういう魅力を寺院のトップは持たないと、寺院経営が成り立たない。

 テレビ真理狂軍団でも、あの手この手で視聴者を洗脳させようと必死である。なにせテレビ局は拝金主義教に染まっているから。そんなコンペチータに洗脳された檀家を引きつけるためには、お寺も相応の手段が必要とされる。 

 「結局一つの団体、組織の運営がうまくいくかいかないかは、ある意味ではその指導者一人にかかっているともいえましょう。その責任はすべて指導者一人にあるといってもいいと思うんです」(松下幸之助著『指導者の条件』)

 

図1 松陰神社 掃除の御奉公をする女子学生たち

図2 松陰神社 前方の鳥居の右奥が吉田松陰の墓所

図3 昭和女子大学の恩師の墓(松陰神社内の墓地)

図4 昭和女子大学の恩師の墓の前でお勤め

図5 松陰神社内の墓地  左手の石塀内が松陰の墓所

図6 松陰神社内の墓地  奥が葬祭場

 

2017-08-11

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2017年9月10日 (日)

地蔵尊の御心

 105年間、地区の住民を見守り続けた室村四丁目地蔵菩薩尊は、現在、お役目を終えて来振寺(岐阜県揖斐郡大野町)で休まれてみえる。お寺の山側の場所に仮安置されている。2016年5月2日、確認のため来振寺を訪問したが、入山禁止で鍵がかかって再会が適わなかった。不良業者が夜間に古い墓石等を不法投棄するので、その防止のためである。

 未練を残さず時間が来たら去る、それがこの世の掟。一度お別れをすると、この世では再会が適わない。昨日の自分には、もう二度と会えない。一期一会、今を大事にすべしと心を新たにした。

 

歴史の証人

 その行動が正しいかどうか、実行する前に考えたいもの。取り返しの付かないことを善意で安易にやることはないかと。105年間、風雪に耐えた地蔵尊像は歴史の証人の文化歴史遺産として保存すべきであったと思う。植民地強奪戦争の嵐の中、有色人種の日本人を人間と認めていなかった米国が、日本にした非道の証を示す証人であったと思う。米国が日本を無差別殺戮で苦しめているのを、地蔵尊はじっと見守っていた。焼夷弾の炎にも耐えて住民を見守っていた。今も続く占領政策の一環の政教分離は、日本の国力を削ぐためである。その米国は、大統領の就任宣誓式で聖書に手を置き、「神に誓って」と宗教色丸出しで宣誓をする有様である。政教分離などあったものではない。中国が靖国神社でクレームをつけるのは、日本の一致団結したときの強さを恐れてのこと。政教分離政策のため、お地蔵様を町内の公園に移設する案もままならなかった。

 地蔵尊をクレーンで持ち上げたときに、崩れるかと危惧したがまだまだ丈夫であった。しかしその時は遅かった。この地蔵尊改建計画は、自治会の役員会と寄贈元で決まったこと。役員でも班長でもない人達には相談もなく、全て決定してから回覧連絡があった。その時では動く力のない自分を情けなく思った。それはもっと力を蓄えよとの佛様からのメッセージであろう。それも佛の差配した佛縁である。遺族の方の意向とは違い、お地蔵様はこの地に残り皆さんを見守り続けたかったはずだと思う。

 

政教分離政策の弊害

 歴史を顧みないと、国が滅びる。室村町4丁目でも、自治会として地蔵盆をやらない時代が長く続いた。地蔵盆は宗教の問題ではない。子供達の健やかな健康を願う地域の願いの場である。1300年間も続く歴史行事である。その行事を中断していた時代を情けなく思う。占領政策の洗脳教育で、日本の強さの源泉たる神道を薄める政教分離政策が進められた。それだけ米国は強い日本の復活を恐れていた。個人主義が偏向して教えられて、欧米の利己主義、個人主義が氾濫する日本にされてしまった。その影響で写真を撮れば「家が写真に入るのでやめろ」とか地蔵盆のお下がりを投げ返すような輩が生まれる世相である。

 

己を律するもの

 個人主義とは義務を果たした上で、相手の人格を認め、社会のルールの中で個人の権利を主張することである。日本では権利ばかり主張して、社会のルールを無視して、義務を放棄している輩が跋扈している。最近も(2017年9月)、民進党の東大出の山尾議員が、社会の最低限の道徳・規範を守れないノラネコのように、ギャーギャーと下品なわめき声で、首相の揚げ足を取って悦に入っていた。人を見る眼のない前原党首が、その輩を幹事長に抜擢しようとした。今回の騒動で、前原党首に人を見る眼の無いことが露見したのは良いことだ。東大出とは記憶力という知識が優れているだけで、その知恵は経験ある賢人に劣る。それが今回の検事出身のプリンセスが、フリンセツであることが露見した。フリンセツが知識と口は達者であるが、知恵と道徳のないこと明らかになったのは喜ばしい。今の子供を駄目にしているのは、そういう親や輩である。我儘で強欲な人間を律するものが宗教である。そういう輩は、それに目をむけないので、対処不能である。己を律するのは、自分の信ずる宗教であり、ご先祖である。

 彼女の顔は不思議な顔をしている。人相学的に、今後、じっくり研究していきたいと思う。貴重なサンプルである。

 

2017-09-10

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インプラント 47(解説書)

2.解説書

 私がインプラント手術を承諾したら、歯科医院から分厚いインプラント解説書を渡された。今までのテクニカルライティングで学んだ知識と過去50年間で4トン分の書籍を読んできた知識から、この解説書に違和感を覚えた。ますますこの歯科医院が信用できなくなった。

 

5.1 歯科医院のインプラント解説資料

 私がかかった歯科医院作成のインプラント解説ブックでは、メリットを前面に出して宣伝しているが、都合の悪いことは一切記載がない。

 

1)表示例

・「10年を保証します。」

  つまり10年後は分からない、との表現である。10年後のやり直しのことは一切記載がない。体に埋め込む器材がなぜ一生保証でないのか。

・「3ヶ月~6ヶ月に一度の定期的な点検が必要」 

  一度その歯科医でインプラントの手術を受けると一生離れられない、との解釈が必要である。宗教とやくざと同じで足抜けが困難である。インプラント教の信者か? 経営者仲間からのヒアリング事例では1ヶ月に1,2度の頻度で定期点検が必要な例もあった。「その歯科医で手術した場合は、他の歯科医は面倒を見ない」との医師の事前説明資料がある。その医院でないと後々の定期点検はできないようだ。ますますその歯科医から離れられない恐ろしい世界であるようだ。

・免疫の件は一切記述なし

・手術の危険性の記載なし

 安心して手術をできる環境ですとの説明はあるが、どんな危険があるか、文章では記載なし。

・インプラント周囲病の記載なし

  インプラントの最大の問題であるインプラント周囲病については簡単な記載があるだけ。

・金属アレルギーに件も記載なし

・MRIが受けられなくなる件が、全く未記載

・処置の比較表なし     

  インプラントと入れ歯、ブリッジとの優劣比較表が、別資料ではインプラント優先で記載されている。インプラント解説ブックでは比較表はなし。

 

最初にインプラントありき

 インプラント専門医は、最初にインプラントありきで説明をする。特に私の担当歯科医は、自身が米国の大学でインプラント治療の研修を受けたのを誇りに思っているのか、インプラントありきで勧めてきた。

 

2)表紙

 この医院のインプラント解説資料には、医院名、作成責任者、日付がない。こんな資料は裁判になっても何の価値もない。この医院のレベルが推して知られる。ISO9001,ISO14001、QS9000等の国際規格での審査では会社名、作成者名、日付のない書類は、書類として認められない。私は前会社でこれらの社内内部監査審査員を長く務めた。内部審査対象の部門の書類には上記項目が書かれていることが基本前提となる。本審査ではもちろんである。この医院はISO9001に適合していない。

 

3)「欠損説明確認書(医院保存)」(私のかかった病院の場合)

 この書類は医師が手術前に患者に19項目の内容を説明して、確かに説明を受けましたと署名をする用紙であるが、この手術のデメリット、危険性の説明や、今後のリスクについては説明の項目はない。

 「欠損説明確認書」での19項目中の11番目に「支払い方法」のチェック欄がある。表記の順番は重要な順に記載するのが、契約書類の常識である。テクニカルライティングの基本でもある。他の命に関する重要なことよりも、11番目のチェック項目に「支払い方法」が記載されている。下記12から19番目の事項は、支払いよりももっと大事な要件である。これがこの病院の姿勢を端的に表している。金儲け主義の馬脚が露出している。支払いの項目は、この種のインフォームドコンセプト書類に書くべきものではない。支払い能力のない人は、インプラント手術などを受けないので、患者を馬鹿にしている。他の病院の例は知らないが、多分この業界のやり方は同じではないかと思う。

 

 12番目 エムズインプラントセンターの特徴について

 13番目 保証制度について

 14番目 痛みについて

 15番目 インプラント手術における偶発症

 16番目 当日の注意事項

 17番目 術後の注意事項

 18番目 静脈内鎮静法(麻酔)について

 19番目 インプラント手術契約書兼同意書

 

4)インプラント料金表

 インプラントの解説資料に料金表があるのは、致し方ないが、問題はその扱いである。本来、患者の立場では、お金の問題よりもインプラントの信頼性の事項が最大の関心である。しかし、医院側はそんなことより、お金のことが重要であるようだ。この料金表は資料の最初の方に掲載されている。また、異様なのは、支払いでクレッジトも使えますとの表示があること。正に金儲けの根性丸出しである。

 

 著作権や訴訟の関係で、「インプラント解説書」の画像の掲載は控えます。

 

2017-09-10

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「桜田門外ノ変」の検証 (21)松陰神社

松陰神社に参拝

  2015年11月24日、PHP主催の山本七平賞受賞式と祝賀パーティが帝国ホテルで開催されたので、上京した折、そのパーティに出席する前に松陰神社と豪徳寺に参拝した。このパーティでは、生前に渡部昇一先生の姿を見る最後の機会となった。会話を交わす機会を逸して、今にして残念に思う。

 松陰神社は豪徳寺から500mほど離れた近距離にある。2015年10月5日に豪徳寺に参拝したとき、元彦根藩家臣の末裔の方が参拝に見えており、松陰神社の存在を教えていただいたので、今回、ご縁があり参拝できた。

 吉田松陰は安政の大獄で連座してこの地で刑死したが、高杉晋作らが奔走して、その亡骸をこの地に改葬した。その後、松陰神社として祭られた。長州の萩にも松蔭神社があり日本には2つの松陰神社が存在する。

 今回、参拝する気になったのは、父の弟の小田五郎氏が、昭和19年、ビルマで戦死された。その戒名「護国院戦訓至誠居士」の「至誠」とは吉田松陰が好んで使った言葉である。また吉田松陰は、大老井伊直弼公により、刑死させられた因縁もあり、今回のご先祖探しのご縁としてお参りをした。

 

松陰神社と大垣とのご縁

 この吉田松陰先生の墓所の中央が吉田松陰先生のお墓で、その右側2つ目が幕末に思想家頼山陽の三男・頼三樹三郎の墓であることを説明看板で知って、大垣とのご縁の繋がりに驚いた。頼三樹三郎は安政6年(1859)に、安政の大獄に連座して、刑死した幕末の志士である。

 頼三樹三郎は、梁川星巌がコレラに罹り死亡する時、側にいて看取った縁がある。梁川星巌は、江戸時代後期、学問の大垣といわれた時の漢詩人で、現在の大垣の代表的文人である。

 梁川星巌(1789年~1858年)は、美濃国安八郡曽根村の郷士の子に生まれ、文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚した。紅蘭は江馬細香の妹である。星巌は紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

 梁川星巌は、梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前)にコレラにより死亡した。星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていたはずである。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

 梁川星巌の資料や経歴の書画は、「奥の細道むすびの地記念館」(大垣市船町)に展示されている。

 

図1 松陰神社

図2 松陰神社 奥が本堂

図3 吉田松陰像

図4 吉田松陰像説明パネル

図5 吉田松陰の墓所

図6 吉田松陰の墓所

   中央が吉田松陰のお墓、その右2つ隣が頼三樹三郎のお墓

   両端の2つの燈篭が、明治になり徳川家から謝罪の意味で奉納された。

図7 松下村熟の再建(オリジナルは萩にある)

図8 「洗心」と命名された手水場

図9 山本七平賞授賞式での渡部昇一先生 2013年11月27日

   この時、改めて名刺交換をさせて頂いたのは幸いであった。

図10 山本七平賞授賞式  2015年11月24日

図11 山本七平賞授賞式で乾杯の音頭をとる渡部昇一先生 2015年11月24日

   これが生前の先生の姿を見る最後となった。

 

2017-08-10

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2017年9月 9日 (土)

生きとし生けるものの教え

縁なき衆生

 私がお地蔵さんの姿を記録として撮影していたら、「うちの家が写真に入るのでやめろ」とけんか腰に喰ってかかってきた老人があった。地蔵尊のお祝いの席で、喧嘩腰の暴言を吐く愚かさに、老人の劣化と過剰な権利意識の発情が情けない。その老人には私が1年間、会うたびに朝の挨拶をするのだが、全く挨拶を返さない変人であった。縁なき衆生度し難し、と悟って、私はその老人を見たら避けることにした。君子危うきに近寄らず、である。親の劣化が子孫に影響を及ぼす。社会と共に生きるのが人間である。老人は、昔は社会を支えていても、いつかは老い、老人は社会から支えられる身となる。自分の位置づけを考えて、老いの道を歩みたい。縁なき衆生でも、己には生きざまの鏡である。反面教師として。地蔵尊は黙ってそれを見つめている。

 

異狂徒

 以前、ある班長さんが、ある西洋の宗派の家に、地蔵盆祭のお下がりを持って行ったら、ペスト菌の付いた汚らわしい品物かのように、それを投げつけられたと悲嘆にくれていた。たとえ宗派が違っても、班長として好意かつ責任感で届けたのに、である。当然、その家は町内の地蔵盆関係のお手伝いは一切拒否である。こういう排他性はカルト集団の教義のようだ。カルト集団の特徴の一つが排他性である。他は認めないのだ。子供は親の背中を見て育つ。その親ありて、子あり。子を見れば親が分かる。現在のその家の子の躾や非常識な行動を垣間見ても、それが分かる。その親は町内の付き合いを避け、町内の班長になっても義務としての公園草取り行事にも来ず、班長として満足にその勤めを果たさなかった。

 日本全国の経営者仲間の聞いても、今時、キリスト教徒でも地域の地蔵盆などの行事で協力するのは常識という。町内のキリスト教徒の役員さんでも地蔵盆の準備のお手伝いはしてくれる。旧約聖書では、キリスト教徒以外は福音が許されなかったが、新約聖書では「汝の敵を愛せよ」と寛容になり、キリスト教は世界的な宗教に変貌することになった。己の宗教的な都合を口実に、利己的に町内の行事に参加しないのは、異狂徒である。カルト集団と見なされてもおかしくない。

 欧州で移民問題、テロ問題が起こるのも、地域に溶け込まず自分達の宗教の教義に固執して、周りの社会に壁を作るから問題が起こるのだ。人殺しが起こる原因は己の利己心である。

 

非自分

 町内には自治会費さえ払わない家が存在し、町内公園の草取り等の行事にも出てこない。それでいてゴミ出しだけは堂々としている。ゴミ置き場の維持管理も町内自治会の皆さんの尽力があって成立している。子供はその情けない親の後ろ姿を見て育つ。情けない日本になった。

 

非人間

 地域で暮らしは、近隣の「人」との支えあいの生活である。「人間」とは人と人の間を生きること。それができない人は人間ではない。町内会活動は人の縁を結ぶ機会である。それをないがしろにするのは、地域社会の破壊行為で人間関係の砂漠化である。その親の後姿を子供は見て育ち、非常識で利己的な人に育つ。子供の教育は学校ではなく、家庭が真の教育の場である。

 

宗教の意味

 宗教とは人間の「宗(もとなる)」の教えである。生きとし生けるものが人間として守るべき戒律である。たかがお地蔵さんの背景に家の姿が入り込む程度のことで、また善意のお下がりのお菓子ぐらいのことでケンカ腰になる大人気ない姿に日本人の精神の劣化を感じた。価値観を受け容れない視野狭窄症の考え方は大人の幼児化である。自分の頭で考えられない。相手の価値観を認めず利己的に自分の価値観を押し付けるから、争いや戦争がなくならない。その結果が欧州のテロ頻発・難民問題である。

 日本人は正月を神道で祝い、バレンタインでチョコレートを餌に愛を語り、お盆を仏式で祭り、キリスト教のクリスマスを大騒ぎし、除夜の鐘を聞いてその一年の反省を神妙にする。平和な国である。すべてを受け容れて良いコト取りをした日本宗教である。外国では考えられない不節操な宗教ではある。そのために世界で一番宗教戦争の禍の少ない国である。

 宗教は茶筒のようなもの。切り方次第で形が違う。横に切れば真円、縦に切れば長方形、斜めに切れば楕円形である。宗教はどのように切っても、見える形は違うが、その本質は同じである。どの宗教も、人間としての禁則事項、やるべき推奨事項を教えている。それを特定の宗派の教義を掲げて、末梢的なことでの争いに終始している。仏教の教えは、生きとし生けるものの命を尊び、相手を受け容れ、足るを知ることから始まる。

 

2017-08-09

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「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

大垣藩と安政の大獄

「冬夜」の碑

 大垣市立図書館前の公園内にあるこの碑文「冬夜」は、勉学に励む当時の大垣藩の藩医江馬家の家庭の雰囲気を伝えている。文面の書もなかなかに名筆である。大垣藩は多くの学者や文人を輩出した「文教のまち・大垣」として全国に知られている。下記の詩は、当時、人生50年の時代にもかかわらず、80歳の父が時代の最先端情報である欧・蘭書を精読している横で、灯火を分け合って、娘(40歳)が中国の古典を読んで勉学に励んでいる様を格調高く漢詩にしている。毎朝の散歩でここを通る時、当時の大垣藩の教育と文化に思いを馳せる。

 

冬夜

            江馬細香

爺繙欧蘭書     爺は欧蘭書の原書を精読し

児読唐宋句     児は唐宋の漢詩を読む

分此一灯光     一灯の光を分かち合い

源流各自泝     物事の根本や時代を遡る

爺読不知休     爺は休みもせず読み続ける

児倦思栗芋     児は飽きて甘物を思う

堪愧精神不及爺   爺の精神力に及ばぬ己を恥じる

爺歳八十眼無霧   齢80爺の眼に曇りなし  (訳 著者) 

 

江馬細香

 作者の江馬細香(多保)(天明7年4月4日(1787年5月20日)- 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。大垣藩主の信任厚い藩医、江場蘭斎の長女として生まれ、この時代には珍しく高度な教育を受け、芸術面で才能を発揮した。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の恋人であった。

 蘭斎は細香が18歳になった頃、婿養子を迎えて家を継がせようとした。そのとき細香が「結婚しないで芸術の道に精進したい」とその気持ちを父に伝えると、蘭斎はあっさりとその願いを聞き入れ、妹の柘植子に婿養子を迎えてしまった。分かりのよい親である。現代でも難しいのに封建時代の話である。

 

頼山陽との縁

 文化10年(1813)10月、頼山陽は大垣藩の江馬蘭斎を訪ねて大いに歓待された。頼山陽は、江戸後期の儒者・詩人で『日本外史』の著者として広く知られている。明治維新の際に、勤王方の若い青年たちに広く読まれ、彼らの士気を鼓舞したといわれる。このとき細香と出会い、お互い好意を寄せる感情を抱いた。彼女は彼を尊敬し、門人になり「細香」という号をもらった。時に彼女は27歳の才色兼備の佳人であった。その後、頼山陽は多保(細香)に、求婚をしたが、江馬蘭斎が結婚には反対し実現しなかった。しかし、彼の才能を認めて娘の入門は許している。結局、頼山陽は別の女性(梨影(りえ)17歳)と結婚した。彼女は父が縁談を断ったことを知り、塞ぎこむ日々を送ったが、気を取り直し、話を戻してもらおうと翌春に上京して頼山陽の元を訪ねたが、彼は結婚した後であった。落胆した彼女ではあったが、その現実を受け入れ、その後、頼山陽が亡くなるまで20年間に7度、従学し、漢詩を師事し続けた。また頼山陽の母に対しても、子のように接した。頼山陽の死後も、彼の妻と姉妹のような交際が続き、ついに一生を独身で終った。頼山陽のような、才能豊かで人格も高く、当代きっての人物に知遇を得ると、他の男性が見劣りするのであろう。

 

安政の大獄

 頼山陽の影響もあってか、細香女史は、早くから勤皇の大義に目覚めて、慷慨国家を憂へた女丈夫でもあったようである。安政の大獄では、頼山陽の妻も牢に入れられ、子息も幕府から追われ、捕縛され斬首されている。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていた。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在せず、「冬夜」の漢詩も存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

【江馬 蘭斎】(1747~1838)

 伝馬町で版木彫を職業としていた鶴見壮蔵の長男として生まれる。大垣藩侍医江馬元澄の養子となり、医学の道に進む。大垣藩主氏教の侍医を勤める。養父を師として漢方医として活躍したが、46歳で蘭学を志し、江戸で前野良沢や杉田玄白に学び、大阪・京都よりも早く美濃に西洋医学をもたらした。患者には慈悲深く接し、自らは倹約を第一義として、硯の水さえ井戸水を用いず、雨水を受けて用いた。優れた才知を持って学門に励むとともに、蘭学塾「好蘭堂」を創設し、多くの門人を世に送り出した。

 この時代にあって92歳までの驚異的な長寿を全うした。「冬夜」の書かれた当時、80歳でまだ現役として、西洋医学の研究に励み、若人の指導にあたり、最期まで現役として活躍された。理想とする人生の歩き方である。人生50年といわれた時代、また侍医として誰よりも保障された身分にもかかわらず、46歳から全く新しい蘭学の志ざした。だからこそ、92歳まで活躍されたのだろう。そんな名声を聞いて、頼山陽が江馬 蘭斎のもとを訪ねてきて、細香とのめぐり合いの縁が生じたのである。

 

 江馬 細香、江馬蘭斎に関する肖像画、軸、史料、現物は「奥の細道むすびの地記念館」内の「賢人館」(大垣市船町)で展示されています。そちらをご覧ください。

 

図1 「冬夜」の碑  2011年1月17日撮影

図1 「冬夜」の碑  2011年1月16日撮影

図2 奥の細道むすびの地記念館

 

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インプラント 45(知人の情報3)

1.3 インプラント無関係派

 ・O先生 元A大学学長、元大学教授 70歳代 テニス仲間 愛知県

  今年度、国から勲章を頂かれた。

  「私自身はインプラントをしていない。情報もない。」

・K館長  某美術館館長 60歳代 京都市

  「私自身はインプラントをしていない。以前に良心的な歯科医から歯の磨き方を徹底的に教えてもらい、それ以来、歯は悪くない。常に10本の歯ブラシを旅行でも持ち歩いている。」

・元D社の社員 スケッチ仲間  70歳代  豊田市

   「昔から歯が悪かったので、ブリッジと入れ歯にしている」

・Y先生  母校の美術の元高校教師 工房を経営 70歳代 大垣市

   「現在は、入れ歯で、慣れれば特に問題なし。ご飯も美味しい」

・Kさん  元語学関係会社の事業部長  大阪  60歳前半

   「歯は被せ物だけで、インプラントはしていない」

・S社長 電気工事関係会社 岩手県 60歳代前半

  「私はインプラントをしていない」

・M事務局長  自動車技術会  60歳代前半

 「私はインプラントをしていない。私の父がインプラントをして、固いものも噛めて調子はよいようだ。妻の父がインプラントをして調子が悪い。歯科医の腕の差による影響が大きいようだ。」

・T社長  IT会社 大阪 仕事仲間 50歳前後

 氏には前の会社で考えることを前提としたCAD設計実習の研修をお願いした関係の付き合い。モノの本質をズバリと言ってくれる切れ者。

 「歯は悪くない。インプラントはしていない。情報もない。日本に医工学部がないのが、日本の不幸である。歯医者は目先の対処療法しかできない。先を見通す力がない。もっともこれは政治、経済等、日本の業種の全てに当てはまるのだが。歯医者は他の医者に比べると頭が悪い。系統立てて説明ができない人が多い。」

・N部長  J社 工作機械関係 営業 53歳 元同僚 大府市

    「インプラントのことは知らない」

・T室長 J社 自動車部品関係 技術 47歳 元部下 幸田町

  本人は若いのでインプラントはしていない。その両親もインプラントはしていない。

・I課長  J社 自動車部品関係 技術 40歳代 元同僚 高浜市

 本人は若いのでインプラントはしていない。その両親もインプラントはしていない。

 ・N課長  J社 自動車部品関係 技術  40歳代 元部下 岡崎市

 本人は若いのでインプラントはしていない。その両親もインプラントはしていない。

・Sさん J社 自動車部品関係 技術 30歳代  元部下  岡崎市

 本人は若いのでインプラントはしていない。その両親もインプラントではなく、入れ歯とのこと。

・Sさん NPOセンタ長 J社 元部長 60歳 元同僚 大阪

   「歯は悪くないので、インプラントのことは知らない」

・Iさん  課長補佐 自動車メーカ子会社 40歳前後 名古屋市

 本人は若いのでインプラントはしていない。両親もインプラントはなし。

・Xさん  毎朝、散歩中に出会った初老の紳士  大垣市

  「歯は悪くない。全て自分の歯です」と歯を剥いて見せてくれた。感謝。

・信用金庫支店長  50歳代  大垣市

 「インプラントは入れていない。まだ私は関係ないのだが、色んな問題があるようだとは認識している」

 散歩の途中の早朝、何かのキャンペーンのため支店の前で指揮を取っていた支店長さん(初対面)に質問をさせていただいた。

・XXさん  大垣駅近くのマンションの自治会長さん  68歳

 「インプラントは入れていない。この歳で、そんなことまでしたくない」

 たまたまこのマンションの横を通りかかったら、この自治会長さんがゴミ置き場でゴミ出しの見張りをされていたので、カラス対策の方策をお伺いした。その会話の途中、氏の上奥歯の欠損が眼に入ったので、インプラントの意見をお伺いした。氏は私より6歳も年上なのに、はるかに若々しく見える。それにも関わらず、この発言は意外であった。

・K理事 元教育委員長 私の恩師 77歳(2012/11/18)

   「歯は丈夫で、全て自分の歯です」

 教育者であるので、子供の手前、歯磨きをしっかりされていたのだと思った。だから77歳の高齢でも自分の歯を持たれていて、現役である。歯の健康が体の健康を作ると思う。あるご縁で、恩師に47年ぶりの再会ができて感謝です。

・Xさん  元登山家  年金生活者  75歳前後 大垣市

 「歯は悪いが、インプラントは入れていない。」

 散歩の途中で出会う名前も知らない人です。毎朝、大垣公園を走っている元気なスポーツマン。以前は5,000~7,000メール級の山を登っていた有名な人だと、知人から聞いた。今朝、氏に出会ったので、何でそんなに元気なのとの質問したあと、人生談義に話しが及び、氏の仏教の造詣の深さに感銘した。インプラントの調査のご縁で、ありがたい情報にも接することができた。 (2012年10月24日)

◆情報とは足で稼ぐ財産である。

 曰く 中国の2000年前の古典に、「法律を細かくするほど国は滅ぶ」とある。日本がISO9001などやっていていいのだろうかと感じた。定年後に、組織のしがらみがなくなって、サークルに入って自我を出す人が、殺人事件までも起こすようになる。そこで本当に人間性が出てくる。天皇制の問題で、その昔、南北朝時代があったが、楠木正成が南北朝を統一したのは、間違いであった。ある意味で、二つの勢力の切磋琢磨がなくなってしまった。企業合併とおなじではないか。

 明治になって側室を廃止したのは問題である。今の天皇家の跡継ぎ問題の原因がある。天皇家を一般と同じ範疇で見てはいけないのではないか。一休さんは、天皇にもなったかも知れない血筋の方である。法然は酷い迫害を受け四国にまで流されたが、絶対に復讐をしないとの信念で、貫き通した。法然の親は、法然が幼いときに目の前で惨殺されている。死の直前、親から絶対に復讐をしてはいけないと教えられたという。法然は当然、復讐は考えたはずであるが、その心を殺して、僧侶として信念を貫き通した。

 

2017-09-09

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年9月 8日 (金)

なぜ大垣駅前商店街が衰退したか?(改定

50年前から駅前商店街の活性化が叫ばれ,何故衰退するのか?

トヨタ生産方式 5回の何故?

 

1.なぜ、衰退したか?

  お客が寄りつかなくなった。

2.何故、寄り付かない?

 駐車場がないから。短時間の駐車でも、駐車違反で検挙されるから。

3.なぜ、有料駐車場ならあるのに、そこに止めない?

 同じ商圏内に、アピタの無料駐車場があるから、駅前での買い物という気にはなれない。無人駐車場の機械操作が煩雑であるし、お店と駐車場が遠い。

4.何故、無料の駐車場ができないのか?

 日本社会が車社会に移行したのに、大垣市行政と大垣市商連理事長の頭が戦前のままで、利己的だから。

5.なぜ、無料駐車場建設の意見が集約できないのか?

 商店街の意見を集約しても、商店街組合の幹部がそれをつぶすから。

 5つ商店街の組合に、統率して全体利益を考える人がいない。

 商店街組合幹部が己の店の利益を優先して、地域の意見を封じるから。

 市長、行政が、本気で大垣市の顔である大垣駅前商店街を活性化する気がないから。行政に人がいないから。取り巻くお役人がヒラメばかりだから。商店街の組合に人がいないから。

 

大垣市の失政(何もしない

 大垣市長が「節約」という金を使わないこと(何もしないこと)が美徳だと勘違いをしているから。節約と無駄を省くとは違う。経営の原則は、無駄を省いて、その資源を未来に投資をする、である。投資をしなければ、衰退あるのみ。原状維持は衰退である。結果として、この5年間でシャッターを下した店は2倍に増え、この10年間では3倍になると言う(南側商店街の店主が観察しての話)。市の活性化が削がれ税収が減る。この17年間の長期政権に安住して、庶民の声を聴く耳が遠くなっている。大垣市の新市庁舎だけは立派になるが、大垣駅前商店街は寂れる一方である。市庁舎は栄え、商店街は貧乏になっていく。市長が頭を高くしていては、市民の声は聴こえまい。小川市長になってから、大垣駅前商店街は、今どんどんと売り上げが下がっている。なにせ活性化の取り組みを何もしないから。目の前の現実が、その結果である。市長は耳を塞ぎ見ざる聞かざるである。

 郭町の商店の話では、ヤナゲンB館(食品館)が閉鎖になって、歩いて大垣駅前商店街に来る人が激減したという。大垣市長が、平和堂が大垣駅前の活性化のため、新しい商業ビルを建てるというせっかくの計画を見殺しにした。結果として商業スペースが減り、衰退化の原因となる駅前新マンション建設になってしまった。南側の車を持たない高齢住民が、買い物難民になってしまった。、大垣市が衰退化して、買い物客が名古屋に流れ、税収が減れば、市の公共サービスの質の低下となる。市民税も高くなる。

 

親の因果が子に報い

 昭和30年代、大垣市の計画で、大垣駅と国鉄線路(当時、現JR)を立体にして駅前通りを東西に通す計画が持ち上がった。しかし、当時の駅前商店街の店主たちが大反対して、その案はつぶされた。反対理由は、お客が北側に流れ、己たちの売り上げが減るからである。その案が実施されていれば、大垣駅の東西の活性化がもっと進み、大垣が大発展したと推定される。今は、大垣駅の北側に大型店舗のアピタができ、大規模な無料駐車場のあるお店として大繁盛していて、土日は駐車が難しいほどである。それに対して南側商店街は閑散としている。半世紀が経って、当時の南側駅前商店街の親の世代の店主達の利己的な判断に、子の世代である南側商店街店主達は復讐されている。その出来の悪い店主の子供たちが、今は商店街組合の幹部になって、利己的な判断で、ますます現在の南側商店街をダメにしている。その親にしてその子ありである。市民が最大の被害者である。なんで、大垣市全体のことが考えられないのか。

 

購買客層の流れ

 購買客の多くは、同じ商圏内の無料の駐車場があるJR線路の北側の大型店舗アピタに行く。ごく自然の現象である。しかし市民はJR線路を超えて北側に買い物に行かねばならないので、時間的、経済的に大損害である。JR線路を超えていくには、渋滞の激しい林町や室町アンダーパスを通らならない。1分100円の原価計算をすると、一回の買い物当たり、1000円の経済ロス、10分の時間ロスである。大垣市の経済として大きな損害である。それも昔の駅前南側商店街店主達が反対した南北の駅前通し道路計画をつぶした因果である。

 

当面の解決策

 現在の駐車場を40分間無料にする。(大垣駅前商店街での買い物)

 現在の停車帯に、パーキングメータを設置して、駐車帯にする。

 市で無料の駐車場を建設する。

 競争相手の北側大型店舗アピタが、多くのテナントの負担で、無料の駐車場を運営している。南側大垣駅前商店街も結束して、無料の駐車場を整備しなければ、お客が来るはずがない。子供でもわかる商売の原則である。

 大垣市には、大垣駅前商店街組合、郭町商店街組合、本町商店街組合、一番街商店街組合、ブラツキ商店街組合と多くの組合があるが、まとめる「人」がいない。本来、大垣市商店街振興組合連合会の理事がリーダーシップを発揮して統率しなければならないが、自分のお店は閉店した御仁が理事長をしている。これで大垣商店街の組合がまとまるわけがない。ある組合の理事長は、組合員全員から上がってきた改善案を独断でツブしている。なにせその案を実施すると自分の店の売り上げが下がるから。理事長の選任も地域のボスが取り仕切っている。

 

駐車違反の検挙

 今時、歩いて商店街に来る人は稀である。遠くからくる客が、車で来るのは当たり前で、30分位の駐車時間で用は済んでしまう。それを厳密に取り締まるから、商店街が寂れる一方である。市が寂れれば、行政の予算も削減され、警察の人員も減らされるはず。自分で自分の首を絞めている形である。市の行政と警察行政で、調整を取ればよいだけある。昔の小倉市長時代は、市長と警察署とのコミュニケーションが多くあったという(伝聞)。今の大垣市長は、頭が高く、頭を下げるのが嫌いなのでそれがないと、商店街の店主たちが言っている(伝聞)。事実かどうかは問題でなく、そういう噂を流されること自体が、徳がない証である。現実に駐車違反の抜き打ち実施に商店街はびくびくしている。これではお客は寄り付かない。

 

商店主が駐車帯を私物化

 警察署も現在の停車帯をパーキングメータ化することを推奨している。その方が、警察署としても駐車違反の検挙の手間が減るからだ。ところが、店舗前の停車帯を私物化している商店街店主達は、自分の店の荷物の積み下ろしが面倒になるので、大反対をしている。その店の店主達は商店街組合の幹部をしているので、駐車の問題の改善の声をつぶしている。親の因果が子に報い、である。親と同じことを踏襲して、自分で自分たちの首を絞めている。ばかは死ななきゃ(己の店が閉店)わからない。改善策が明白なのに、それを50年間も実行できないのを、愚かという。

 

駐車と停車の違い

 ある自治会長さんが、駅前ヤナゲン横でATMからお金を下そうとちょっと車を止めたら駐車違反の切符を切られそうになった。駐車と停車の違いに質問をしたら、「そんな話は交番に来て欲しい。つべこべいうと公務執行妨害で検挙しますと」と言われとか。私もネットで慌てて調べて、その違いを知った。車社会で、5分10分の駐車が出来なければ、日本経済は終わっている。交通インフラの整備が国際競争力の強化である。駐車場整備もその一環である。現在の車社会の何たるかが理解できないのでは、大垣市の衰退も故あること。大垣の課題は、新市庁舎の建設ではなく、市の交通整備で、車社会に適応した街づくりである。新市庁舎が出来ても、交通のインフラが未整備では、その機能は発揮できない。それが50年間放置されいる。車社会への適応で問題があれば、法律を変更すればよい。それが行政の責任である。駐車場を整備せず、駐車違反検挙数の点数稼ぎのためのシステムであれば、法律の役目として本末転倒である。

 

駐車とは、客待ち、荷待ちによる停止、5分を超える荷物の積みおろしのための停止など、運転者が車から離れて、すぐに運転できない状態での停止。

停車とは、人の乗り降りのための停止、5分以内の荷物の積みおろしのための停止、運転者がすぐに運転できる状態での短時間の停止。

 

参考事例

 彦根市のJR彦根駅前の大型商業施設平和堂の立体駐車場では2時間まで無料で市民に開放している。買い物客でなくても、無料である。

 

私の苦い経験

 2001年頃、私の父が入院して親戚が見舞いに来た時、地元の人に案内され食事のため駅前のすし屋に案内したことがある。当時、私は三河に住んでいたので、停車帯に知らずに止めて、駐車違反の切符を切られた。本来、駐車違反検挙に回っているときは、お店の人が知らせてくれるようだが、それがなかった。それ以来、二度とそのお店に行かない。同じようなことを別の商店街のお店に人から聞いた。来た客が車違反で検挙されると、そのお店に恨みをもって二度と来ないという。逆恨みではあるが、私も同感できる。その真因は、大垣市と大垣市商店街連合組合が、駐車場問題を50年間も放置したためである。

 

図1 大垣市駅前通りの停車帯(買い物はするな、との表示である)

図2 大垣市駅前通りの停車帯

図3 金曜日の大垣市駅前通り 2017年9月8日13:59

 南側駅前通りは花の金曜日に誰も歩いていない。駅の北側のアピタ内は大混雑!

図4 シャッタ―の惨めな店の顔(大垣駅のすぐ近く)

 駅近直の場所で、こんな不細工な恥さらしな姿を、世界遺産の登録された大垣まつりや元気ハツラツ市に来市する多くの人の目に晒すのは、大垣市民として情けない。芸術的な絵を描いたりするなど、その気があれば、色んな手が打てるはず。行政にその気がない。 

   

2017-09-08

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戦友の墓標

 祖父・祖母・母の戒名の修正と追善供養の段取りとが終った2015年1月30日、昔の仕事仲間Oさんが玄関・トイレのリフォームを見学に来た。その後ロワジールホテルのレストランで会食をした。その場の昔話で、当時の部下のY君が2年前に亡くなったという話があり愕然とした。彼とは25年前の開発業務での付き合いである。その後、彼は技術部に異動して私も別の部署に異動をして、その後、事情があり退職して故郷の奈良に帰ったという。それ以来彼とは縁が切れていた。それがお墓と玄関・トイレのリフォームが一段落して飛び込んできた訃報である。

 慌てて彼の奥さんの住所に電話をしたが、既に転居したようで連絡がつかない。その後、彼の昔の仲間に連絡をして、2014年4月、55歳で胃がんのため亡くなったことが分かった。1年毎の健康診断の人間ドックで胃がんが発見されたが、その時は第三ステージで手遅れであった。その友人も慌てて見舞いに行った時は既に意識が無く、帰宅後の翌日に訃報に接したという。

 彼は当時の会社の処遇に不満で退職したのだが、その転職先がかの松下電器(現パナソニック)であった。その後、ニュースでも何度となく報道された松下電器大リストラの嵐に巻き込まれたようだ。その心労でガンになったようだ。彼は繊細な神経の子であった。体調不良でも無理をして働いていたのだろう。彼は死に場所を求めて奈良の松下電器に転職をしたようなものだ。ガンは食事とストレスからくる自己細胞の増殖暴走である。

 

松下電器権力争いの呪い

 松下電器の権力争いが松下電器の業績の迷走に拍車をかけた。業績不振は経営層の責任であるが、だれも責任をとらない。松下電器の経営層は権力争いの結果、経営が傾き、その失敗の挽回に社員の首切りで対処した。プラズマに過剰投資をして会社を傾けた社長は、天皇として院政をしいて君臨している。その陰で数万の社員と家族が泣いている。墓の下で創業者の松下幸之助翁が泣いている。松下幸之助翁ならこんな対応を許さなかったはずだ。

 

対処療法としてのリストラ

 企業がリストラをする状況とは、100人乗った船が沈没しそうになったとき、20人が下船しないと、船が沈没する状況である。20人の下船は応急的な対処療法である。航路を導きそれに沿って必死に働いた船員に責任を負わせるには非合理である。それに到った根源の船頭に責任を問わないと、船はまた沈没の危機に遭遇する。沈没の危機のとき20人のリストラは不可避ではあるが、そのリストラ名簿の最後に社長の名前を入れるのが筋である。それが責任者の姿である。船長は船員の幸せのために働くべきで、それに反した結果となったのだから責任を取るのが筋である。最近のマスコミを賑わすリストラ劇で、社長が責任を取った例は少ないのが嘆かわしい。だれがこんなに日本人の精神を荒廃させたのか。すべて欧米の拝金主義の影響だと思う。

 1990年代、グローバル競争の荒波が電機業界を襲い、多くの家電メーカが沈んだ。そのため多くの企業がグルーバル主義、成果主義、拝金主義に舵を切っていった。

 

親の因果が子に報い

 そのグルーバル主義は昔の植民地政策、覇権主義、帝国主義の落とし子である。その植民地政策のツケが、現在の欧州難民問題として欧州に降りかかっている。200年、300年前の先祖の悪行のツケが回って来たわけだ。アジア・アフリカに比べて繁栄している欧米は、その昔の殖民地からのアガリで潤ってきたに過ぎない。中東・アフリカ・アジアの民の富を強奪し、植民地住民として虐げてきたので今の欧米の繁栄がある。欧州に押かける難民問題の解決は、その根本原因に遡らなければ対処は難しい。「親の因果が子に報い」である。

 

白人による領土強奪狂騒

 グルーバル経済主義、成果主義、拝金主義は、白人のみが神から祝福された民として略奪・君臨が許されたと思い込みから来ている。15世紀半ばから、白人たちは他人の領土の分捕り競争を進めた。欧米の視点では大航海時代といわれるが、実際は殺略・強奪の領土泥棒犯罪である。そこには、人は平等、利他、足るを知る、という思想は無い。白人にとって有色人種は人間ではない。優秀人種と思い込んでいる白人が、富を独り占めするのは神の意志であると思い込んでの行動である。それのなれの果てが、現在の欧米の富の格差である。1%の支配者が99%の富を独占する格差社会となっている。それが社会不安の原因となっている。そんな不幸な社会を目指して、国民は戦ってきたのだろうか。どこかでボタンを掛け違っている。

 「桜田門外の変」に始まる明治維新までの幕末の争乱は、日本の知識層がアヘン戦争で中国が英国に負け、侵略された情報に接し、日本の将来に危機感を抱き、幕府側・倒幕側ともに植民地化を狙う欧米列強からの危機を防ぐために起きた行動である。その行動が取れなかったアジア諸国は、ビルマを除いて欧米の列強に植民地にされた。ハルノートを突きつけ、目ざわりな黄色人種の日本人を兵糧攻めにしようとした米国に、自衛のために立ち上がったのが日米対戦である。そのお陰で、アジア諸国は列強の植民地から独立ができた。そのために美味しい利権を奪われた欧米諸国の日本への恨みは強い。それが戦後の日本への強い風当たりとなった。

 その欧米の覇権争いの陰で、私の親族が多くの国民と同じように先の大戦で戦死やシベリア抑留の憂き目をみた。その前の時代には、井伊大老が桜田門外の変で暗殺され、その行列に随行したご先祖は酷い目にあった。その根本原因は、欧米の有色人種から略奪しようとする覇権主義・利己主義からきている。そのグルーバル主義、拝金主義が、昔の私の部下を病死に追いやった。和、利他、足るを知る、という考え方に欧米の個人主義が変わらない限り、世界の戦争や企業の横暴はなくならない。その思想を発信していくのが日本人の務めであると思う。

 

2017-09-08

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新地蔵菩薩尊の開眼法要

 快晴に恵まれた2016年4月30日9時、大倉家、山田家の両家、丸順の今川順夫名誉会長、石寅の4代目藤井社長も参列され、総勢50名ほどの参列者の中、室村町四丁目新地蔵菩薩像の開眼法要が執り行われた。読経の前に藤井社長が巻いたさらしの紐を取り、大倉家、山田家の方がさらしを取り(除幕)、新お地蔵様が姿を現された。最後に、藤井社長が6尺の杓丈を左手に挿して、完成である。杓丈は教義的には煩悩を除去し智慧を得る効果があるとされる。

 

地蔵尊の思い出

 今川名誉会長は幼年期、この近くに住んでみえて毎日、お地蔵様に「行ってきます」と挨拶をして出かけ、帰ってきたら「ただ今」と挨拶をして親しんでいたという。現在93歳で足が少し悪いがお元気で現役である。「地獄のシベリアに抑留されても生きて帰ってこられた。現在も93歳で元気なのは、このお地蔵様が守っていただいたご利益ではないか思う」と挨拶をされた。木村自治会長が、「この地区の77歳以上の老人は52人で、住民の18.1%を占め、この興文学区では断トツの比率である。全国平均で75歳以上の比率が12.3%(平成25年)(77歳以上比率は推定10%)を考えると、これは延命地蔵菩薩尊が105年間もこの地区を見守り続けていただいたお陰ではないか」と披露された。

 

住職からの歴史の説明

 妙永寺の竹中住職様が、開眼法要の読経の後にお寺とこのお地蔵尊の歴史のお話をされた。明治43年当時、鐘紡(前身の鐘淵紡績、その後の鐘紡、カネボー)の社員やこの地区の住民で亡くなる人が多いので、鐘紡が妙永寺の現在の住職の曽祖父の住職に相談をして延命地蔵菩薩尊として建立したという。土地は大倉家が提供し、石寅(創業明治15年)の初代の藤井寅吉氏(寅年生れ)がお地蔵様を彫りあげた。当時は現在より南に10mほどに位置していて、その前に同志館という地区の公民館があったという。妙永寺は大垣城が築城される(伝・明応9(1500)年)前からある歴史ある浄土真宗のお寺である。昔は仏教を信ずることは敷居が高くて、地位が高い人やお金持ちしか仏教に帰依できなかった。浄土真宗では阿弥陀佛に帰依する本来であるが、延命地蔵菩薩像を身近にして拝む人が増え、民衆にも仏教が広まったという。

 

大垣の繊維産業の興亡

 鐘紡は当時の花形の一流企業であった。赤レンガの鐘紡の工場倉庫(図1)が、現在は大垣市産業遺産として室村町3丁目の六甲テキスタイル(株)の敷地内に保存されている。時代の変遷で、大垣の繊維産業は壊滅した。父は近江絹糸紡績大垣工場が出来た時、第一陣として彦根工場から転勤になって大垣に来た。私は満1歳になってから、大垣に転居した。時に地蔵尊は生誕41歳の働き盛り(?)である。地蔵尊の働き盛りの時は、大垣を始め日本の繊維産業は大盛況になりつうある時であった。大垣は水が豊富で、九州や遠方の各地から集団就職で多くの女子が大垣の繊維産業に就職をした。しかし繊維産業にも生老病死がありその衰退に合わせて、父が勤めていた近江絹糸紡績大垣工場も消え、現在は工場跡が駐車場、新興住宅地に変貌している。お地蔵様の明治、大正、昭和、平成の105年間の時代が終った。私はその歴史の半分の64年間を共有できたのは幸せである。

 

図1 鐘紡の工場倉庫 2016年5月4日撮影

図2 藤井社長がさらしの紐を解く

図3 大倉家と山田家で除幕

図4 姿を現した地蔵尊。手前は石寅の藤井社長

図5 今川名誉会長の挨拶

図6 開眼法要の読経

図7 妙永寺の竹中住職様から地蔵尊の歴史解説

   住職様が地蔵菩薩尊建立の経緯をお話しされた。

   前列 山田様、大倉様、今川名誉会長

 

2017-09-08

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